“個性”に依らない社会。
そんなものが本当に実現可能であると、頭から信じきることはできなかった。だが目の前の男は、最上博士は至極真面目にそう宣言し、深く深く頭を下げた。そこに嘘や虚勢の気配は感じられない。
(……“個性”に、自分の人生を左右されない……)
それが真に、可能であるならば。
俺は脳裏に浮かんだ白い翼に、目を伏せた。
稀少な【治癒】“個性”を持つということで、早い段階からリカバリーガールが目を付けていた受験生。リカバリーガールが奨励する【治癒個性教育プログラム】に参加できるか否か判断するべく、教職員間で会議が行われていた。
『……“個性”使用による虚弱体質?』
空中が在籍する中学校から送られてきた資料には、空中の基本情報とともに彼女が持つ“個性”の詳細──発動条件やデメリットが記載されていた。そこに目を通した面々の表情が俄に曇る。
『自身の治癒のエネルギーを他者に譲渡、ね。つまりリカバリーガールの【治癒】とは違ェってこったな』
『そうね、自分自身のエネルギーを使わなきゃならない……誰かを治癒する度に自分のエネルギーを削らなきゃいけないのだもの』
『“個性”の制御が上手くいかず常時微弱に発動してしまっていたことから、虚弱体質で小中学校にはほとんど登校できなかった……と、ここには書かれていますね』
『……その体質で、【治癒】ヒーローとして本当に活動できるんでしょうか』
甚だ疑問だ、と呟いた俺に、反論する声は返らない。
実際に、多くの被災者を前にして輝くのはリカバリーガールの【治癒】だろう。エネルギーの出所が術者ひとりではなく複数なのだから、エネルギーの枯渇により“個性”が使用できなくなる恐れも少ない。
『そうさね、イレイザーヘッドの言うことには一理ある』
しかし、当のリカバリーガールは首を横に振った。
『けれどね、それはつまり……私に治せない患者を、この子は治せる可能性があるということさ』
【治癒】に必要なエネルギーが患者依存でないのならば、体力を失った重傷患者の治癒も夢ではない。そう語るリカバリーガールの目は思案に沈んでいた。治癒保持者としての期待と、治癒保持者としての憂慮を、天秤の両皿に載せるような。
『……フム、みんなの心配は尤もだね。ならばこうしようじゃないか!』
『根津校長、』
『空中さんにも他の受験生と同じく、ヒーロー科の演習試験を受けてもらおう。そこで彼女のヒーロー適性及び、“個性”を使用する様子を見て判断するのさ!』
彼女が、ヒーローとして動くに値する能力を備えているのか。ヒーローとして難局に立ち向かう志を持っているか。
『…………。』
結果として、空中愛依は合格した。【翼】を用いた機動力。羽根を器用に操りロボットの継ぎ目を攻撃する速さ、精密性。
《……っそこの女の子、こっち!》
──巨大な0ポイントロボを前に、誰かを救うべく飛び込み、ポイントとは関係ないと知っていながらも、怪我した受験者を治癒するヒーロー適性。
『……充分なんじゃねーの?』
『……そうだな』
充分。……そう、充分だった。
“個性”のデメリットのせいで学校に通えなかったハンデなど感じさせず、空中は真面目に学業に取り組んだ。成績もトップ程とは言えんが優秀で、リカバリーガールからの特別授業にも食らいついていると聞く。ヒーロー基礎学においても、【翼】を用いた立ち回りは入学当初とみれば充分なものだった。
『オールマイトの授業はもう受けた?」
『No.1ヒーローが教壇に立ってるってどんな感じ?』
『え、と、』
『先生としてのオールマイト、どう思う?』
『あの、すみませんわたし、そろそろ行かなくちゃ、』
『ちょっとだけ! 一言でいいからコメントください!』
……おどおどとした言動は目立つが、それも対人経験に乏しい故と考えれば納得がいった。“オールマイト雄英高校の教員に就任!!”という報に沸き立つ記者たちを上手くあしらえずにいる空中に、溜め息をひとつ。
『空中、……遅刻するぞ。早く来い』
『はっ、はい!』
あからさまに安堵した空色の目が、きらりと光る。そのまま俺の傍に駆け寄ってくる空中の顔色を横目に窺ったが、調子が悪いわけではなさそうだ。
(……骨折程度の【治癒】ならば、問題はないということか)
それでもこいつが、自身のエネルギーを削って他者を癒していることには変わりない。それを、見てやらなきゃ、いけない。
『……っ、……』
ぜい、と掠れた息をつくその頬は青白い。苦しげに眉を寄せる空中を、俺はただ、見下ろすことしかできないでいた。
『リカバリーガール、空中さんは……』
『13号。空中のこれは、あたしの【治癒】でどうにかなるものじゃないよ』
努めて淡々とそう口にして、リカバリーガールは緩く首を横に振った。細めた目に、如何ともしがたい表情が浮かぶ。
『……自分の身体を健康に、正常に保つためのエネルギーが源なのだから、使いすぎれば発動者である空中が体調を崩す。仕組みとしては、シンプルさね』
冷静に物事を推し量る言葉とは裏腹に、その声に苦渋が滲んでいた。それは俺も、13号もわかっているから、ただ黙るしかなかった。
USJでのヒーロー基礎学。初めての救助訓練ということで俺と13号、オールマイトの三人体制で臨む筈だった。……そこに
『先生ーーー!!!』
一部を除き、生徒のほとんどは初めて
空中もまた、常闇と口田と共に襲い来る
『……先輩、僕は、人を救うために“個性”を正しく使ってほしいと、A組のみんなに話しました』
ぽつりと、夕暮れの保健室に13号の呟きが落ちる。
『“人を救うために“個性”を使ってくれて、ありがとう”……僕は空中さんに、そう言ったんです』
『13号』
『その言葉が間違っていたとは、今も思いません。空中さんは、彼女の行動は、正しい。……それでも、』
ぽつぽつと紡がれていた言葉尻が、小さくなる。横目に見下ろした土星の目が、ゆらり揺らいだ。
『それでも……彼女に、自分の身を削ってほしくないとも、思ってしまう』
“酷い我が儘ですね”、と小さく零れた声は、掠れていた。やりきれなさが滲んだ苦笑に、俺は何も言えずに頷くしかできなかった。……俺も13号と、同じ思いを抱えていたから。
空中の熱が引いたのは、USJ襲撃から数時間後のことだった。
『あの、本当にすみません……』
『謝るな』
『はい……』
落ち着きなく視線を移ろわせ、申し訳なさげに肩を落とす。……空中がそんな風になる必要はないのに、こんな時にまで遠慮しきって縮こまっている。思わず溜め息をつきそうだったのを飲み込んだ。これ以上こいつを、恐縮させたいわけじゃない。
『……謝るのはこちらの方なんだがな』
声をできる限り和らげてそう言えば、空中が顔を上げる気配がした。左頬に視線を感じて、俺は続ける。
『俺らの負傷を治癒したせいで、エネルギー不足になったんだろ』
『……でも、それはわたしがそうすべきだって、そうしたいって選んだからです。先生の“せい”って、そんなことは全然なくて……』
空中はゆっくりと、けれど迷いなく言葉を返す。
“選択には責任が伴う”と、まだ幼いはずのその青い目に、やけに大人びた光を灯して。
『責任があるとするなら、それは、わたし自身に他ならない』
穏やかな口調。揺るぎない眼差し。意志。……そうして空中は俺に“気にしないで”と柔らかに告げる。
“自分のことは気にしないで”と、ただ静かに。
『……生意気言うな、空中』
『な、生意気って、』
『おまえは生徒だし、俺は担任。……守られるべきなんだよ、おまえは。そういう立場にある』
それがどうにも、やりきれなくて、俺は今度は繕わずに声を低くする。不機嫌さを隠さない俺に空中は声を詰まらせた。
『……守られる、立場……』
それにただ、頷いてくれたら。
“そうですね”と納得してくれたらいいものの、空中は与えられた言葉を上手く飲み下せず、舌の上で転がした。何かを考え込むように白い睫毛が伏せられる。それを盗み見ながら、俺はハンドルを少しだけ強く握った。
──自己犠牲と命を捨てることは、同義じゃない。
──死んじまったら、全部終わりなんだから。
(……それをもっと上手く伝えられていたら、何か変えられていたのか)
結局はこのザマか、と吐き捨てたくも、喉元まで留められたボタンと、折り目正しく締められたネクタイがそれを許さない。そして、
『おい、イレイザー』
『なんだブラド』
『……短気を、起こすなよ』
じっと、ありとあらゆる感情を押し込めた仏頂面でブラドが言うものだから、俺も口を閉ざす他なかった。やたらと熱血漢で感情的になりがちなこの男が、しかし今は努めて冷静であろうとしている。
──
(
ぐ、と力が籠りそうだった手を何とかほどき、ジャケットを羽織る。
『……わかってる』
わかっている。今優先すべきは被害に遭った生徒たち並びに保護者への責任説明。俺個人の感情など二の次だ。冷静に努めを果たさねばならない。
わかっている。……わかっていた。
『体育祭で空中さんが見せた“個性”は【治癒】。大変稀少かつ貴重な“個性”です。……
謝罪会見にて、記者の一人が苦々しく言い放った。先ほど俺に爆豪に関する揺さぶりを掛けたが、思うような発言が獲れなかったことへの腹いせか。“生徒を守れないばかりか開き直る教師”への義憤か。彼はきつくきつく、眉間に皺を寄せていた。
『もし彼女が、
“その時はどうするつもりなのか”。
“そういう想定をした上で動いていたのか”。
恐らくそういった詰問が続いたんだろうが、そうはならなかった。緊張感でしんと静まり返った記者会見場。そこに僅かなノイズが走り、空気を揺らしたその時。
《──どうなるのだろうね、空中くん。君は、君がどう思うかは関係なく、
会場の音響設備から流れてきたのは男の声だった。上品そうに聞こえるバリトンは、そのくせ歪な笑みを滲ませていた。──誰かを踏みにじり、嗤う声。
《……随分、饒舌、なんですね》
《おや、そうかな》
《まるで、楽しくて仕方ない、みたい》
男の話に対する、ひとつの声。それはざわめく会場の中にあってやけに大きく響いた。さほど大きくもない。怒鳴っているわけでもない。……疲労か苦痛か、掠れてか細い声が、それでも強い意志を以て響き渡る。
《あなた方
『……空中!』
椅子を蹴倒して立ち上がり呼び掛けるも、こちらの声は向こうに届いていないようだった。空中はたったひとりで、
《おかしい、ですよね。だってわたしがあなたの元にいるのは、
《君を救えないのは、ヒーローの責任だろう?》
《もし仮に、ヒーローに責任を追求できる誰かがいるとしたら、わたしの件に関しては、わたしだけです》
《……他の誰にも、とやかく言われたく、ありません》
視界の端で、先程の記者が口を閉ざすのがわかった。ここにいる誰もが黙り込む中、空中の声は続く。
《ヒーローは、守ってくれてる。もう、十分過ぎるほどに》
声は続く。それは今、あいつの前にいる
《それで足りないというのなら、わたしの努力と献身が、足りないということ》
今回の事件で厳しい風に晒された雄英のため。
……いや、きっとそれ以上に、
《もうこれ以上、ヒーローに、……背負わせないでほしい》
遠くにいる
そのために空中は、苦しげに息をつく。振り絞る声は、掠れて震えていた。
《……相澤、先生……爆豪くんはここにはいません》
『……!』
《わたしがここに来て数日経ちますが、一度も見ていません。他の
俺の名前を呼び掛けたということは、向こうはこの声が記者会見場に届いていることを知っている。
“救けて”と、言えたはずだ。
それなのに、
《わたしは、……わたしは、もう、喋りません》
『──ッ、空中!!』
それなのに空中は、爆豪のことばかり気にして、話して、それきり口をつぐんだ。何かを飲み込むような吐息を残して、声が途絶える。
《お喋りをやめてしまうのかい? それはちょっとつれないじゃあないか》
その代わりにスピーカーから流れたのは悪辣な笑い声。“はは、”と嗤う男の声だけが、騒然とした記者会見場に響き渡る。
《君は何をしたら、悲鳴を上げてくれるのかな。
その意志を、心を、どうやったら壊せるんだろう?》
知らず知らずのうちに握られていた拳に、力がこもる。
《だって君は、もう、たくさん失ったろう? 痛みに堪えるために床を掻いていた爪も、握り締める指すら。
……ああそうだ、翼だけは、嫌がっていたね。むしりとる僕に、『やめて』って言い掛けていただろう。またあの声を聞きたいけれど、どうしたものかな。もう全部、無くなってしまったし》
強く握られた手のひらに爪が食い込み、骨が軋む音がした。だがこんな痛みなど些事。
《次は何を失えば、君は泣いてくれる?》
こんな痛みよりもっと大きく、深い痛みを、ずっと、ずっと──空中は、
『──我々も手をこまねいているワケではありません。現在警察と共に調査を進めております。我が校の生徒は必ず取り戻します』
騒然とした場を収めるべく、根津校長が冷静に告げて頭を下げた。続いて顔を上げたブラドが、立ち尽くしたままの俺の腕を掴む。
『行くぞ、イレイザー』
『ブラド、……だが、』
『ここでこうしていても、何もならんだろう……!!』
ブラドの声に、目に、憤怒の炎が燃えている。しかしそれを必死の形相で押さえ込もうとするブラドに、俺は、それ以上何も言えなかった。
『……、……お前の、言う通りだ』
わかっている。今優先すべきは被害に遭った生徒たち並びに保護者への責任説明。俺個人の感情など二の次だ。冷静に努めを果たさねばならない。
わかっている。
わかって、いる。
……わかっている、けれど、
《あなたは、わたしの何も、奪うことはできません》
《……そうかい》
会見場を辞した後の、静まり返った廊下に、その声が落ちた。何もかもを覚悟しきった、……覚悟
《じゃあ改めて、今度は、その綺麗な碧眼を削ごうか》
『……ッ』
ギリ、と歯を食い縛る。
神野事件。神野の悪夢。
一つの街と、幾つもの生活と、何人もの人々の命が一夜にして崩れ落ちた。爆豪の救出、逃げおおせた
『……ッ』
空中、とこぼれた呼び掛けに、返る声はない。通された真白の病室、その奥に置かれたベッドに横たわる空中は固く目を閉じたままだった。シーツの上には白い髪と翼が力なく散らばる。枝のように細い腕は点滴に繋がれていた。“この回復状況ならもうじき人工呼吸器は外せるだろう”──そんな声が遠く聞こえた。
『……彼女が
病室に集った人々の中、塚内さんが目を伏せた。病床に伏す空中を見下ろし、声が暗く、低くなる。
『もしも
『だから、拷問に耐え切ったこの現状が正解だと?』
『……イレイザー』
『……すみません。わかっては、います』
空中は、正しいことをした。
出来得る限りの、最良の選択をした。
苦しげに顔を歪めつつも、否定をしない塚内さん。糾弾しかけた俺を嗜めたグラントリノ。悔しげに奥歯を噛み締めるオールマイト。……この場にいる誰もが空中を案じながら、同時に、大局を見ている。
──空中が
『こいつは、ヒーローとして正しいことをした。……だが、俺は──』
血の気の失せた白い顔。固く閉ざされた目蓋。開かない青空の瞳。……今の空中の姿が、いつかの
いつかの
(……白雲、)
──自己犠牲と命を捨てることは、同義じゃない。
──死んじまったら、全部終わりなんだから。
『今日の行動を是としてしまえば、こいつは、空中は繰り返すでしょう。きっと何度でも、他人のために命を投げ出す』
だから俺は、言い続ける。“素晴らしい自己犠牲心だ”と宣う声に、横槍を入れ続ける。
ヒーロー仮免取得試験。その二次試験中に起きたトガヒミコ乱入事件──士傑生に扮したトガヒミコがHUCの一員を刺し、彼を救おうとした空中をも刺し、逃亡した。その際に行動した空中を公安はえらく高く評価し、“
賞賛とはつまり、推奨。“次回もこの行動を期待している”と告げること。
そんな言葉を無責任に投げ掛けた公安に、受け止めようとする空中に、俺は語調を強めた。
『ヒーローとして他人のために立派に死ねば、100点満点っていうのもおかしいでしょう』
空中は俺の言葉に、はっと目を見開いた。何事かを言おうとして、言えなくて、そのまま飲み込んだ息ごと噛み締めるように口をつぐむ。そうして俯いていたから、きっと空中は気づかない。
『そうですね』
目良善見と名乗った公安職員は、さらりと頷いてみせた。その声色も態度も平静そのもので、何をいけしゃあしゃあとと、俺が片眉を跳ね上げたその時。
『……、』
目良は、そのぼんやりとした目を一瞬だけきつく細める。それは苦しさやもどかしさを堪えるようにも、溢れる笑みを堪えるようにも見えた。相反するふたつの感情、……いや、よりもっと複雑な感情を綯交ぜにしたようなその眼差しが、印象的だった。
目良善見。公安職員の一人。さんざん“ヒラでこき使われているんです”といった雰囲気を醸し出しているが、少なくとも仮免取得試験の一会場を取り仕切れるぐらいには地位のある男。飄々と、しかし淡々と的確に、事態の収拾に際し指示を飛ばしていたところを俺も見ていた。
……そんな男が空中に対して垣間見せた感情の揺らぎが、どうにも気にかかる。
(難儀な状況にある空中への同情か? ……それとも、また別の……?)
──こいつの真意は、どこにある?
「どうかしましたか、イレイザーヘッド」
「……、いえ。すみませんが目良さん、今は高校での職務中なので」
「おっと。失礼しました、相澤先生」
軽く頭を下げた目良は、以前見せたぼんやりとした表情を崩さない。そのまま冷茶を口に運び、舌を湿らせ、硝子の茶器をローテーブルに置く。静まり返った応接室の空気を、硬質な音が微かに揺らした。
「改めて、公安委員会所属の目良善見と申します。この度はお忙しい中お時間を作ってくださり感謝致します」
「いいや、お礼を言われるまでもないのさ!」
この応接室はつい先日、最上博士を招いた。根津校長はその時と同じように明るく受け答えしているが──そのつぶらな黒い目で、より注意深く目良の言動を窺っている。
「多忙は君たち公安こそさ! ……そんな君がわざわざこの雄英高校に出向いたということは、よっぽどの理由があるんじゃないかい?」
「ええ、まあ。……ではお言葉に甘えて、早速本題に入らせていただきましょうか」
一見にこやかな校長の視線と、眠たげな目良の視線が交錯する。目良はそれを瞬きで遮り、鞄から書類を数名取り出した。ローテーブルに広げられたそれには、一人の女生徒の顔写真が載っている──
「空中愛依さん──彼女の身柄を、公安で預かりたいのです」
驚きは、然程無かった。“そう来るだろう”という予感があったからだ。……予感が的中した爽快感も何もあったものじゃないが。
自ずと眉間に皺が寄る。そんな俺を小さな手で制して、根津校長は首を傾げた。その仕草だけはやたら可愛らしいが、先ほどよりずっと、纏う雰囲気は冷ややかだ。
「それは、何故だい?」
「あなた方が御察しの通り、彼女の【治癒】の“個性”ですよ」
そんな校長の圧にも構わず、目良は至って平淡な様子で言葉を継ぐ。
「セントラルから報告は届いています。欠損した指、翼、眼球……失われたものまで元通りに回復させるほどの凄まじい治癒能力。
非常に有益だ。ヒーローにとっても、……
……目良の言うことはわかる。“個性”を悪用する
ヒーローからも、
「彼女はこの先、否が応でもその力を狙われる。それは避けようのない事実です」
「……だから公安で、国で囲おうと?」
「それが彼女の安全に繋がります」
「檻に入れて管理することの、何が“安全”だと言うんです」
──フ、と、張り詰めた空気が僅かに揺れた。それが男の唇から零れた微笑だとわかり、俺は目をすがめる。
「何を笑って、」
「では雄英は、どのようになさるおつもりで?」
そこではじめて、目良の無表情が崩れた。ほんの僅かに目が見開かれ、口の端が歪む。
「雄英体育祭では、大々的に彼女の【治癒】を報道していましたね。そして今回の神野を経て、大衆の目は彼女に注がれている。……神野で重傷を負った人々やその家族は、特にね」
目良の冷静な声の奥に、棘が覗いた。それははじめ俺たち雄英に向けられたものだと感じたが、……どうにも様子がおかしい。こちらを糾弾するにしては、纏う雰囲気が酷く静かだ。
「【治癒】を求めて殺到する人々の願い。……その手綱を、あなた方はどうやって取るのでしょう」
こちらを見つめる目が、きつく細められている。それがいつかと同じに、苦しさやもどかしさを堪えているようにも、微笑みを堪えるようにも見えた。
俺がその真意を探る間に、目良はいつも通りの無表情に戻ってしまった。さて、と一言置いて、ゆるりと顔を上げて校長を見る。
「……というワケで、こちらの要望は以上です。現状、彼女の保護についての話は急いでいませんが、心に留め置いてくださると有難いです」
「なるほど。ではそのようにしておこう」
「校長……!」
「ただし、」
校長の長い髭が、丸い耳が、ぴんと立つ。
「空中くんは、我が校の生徒。合格通知を出した以上は、
柔らかく、優しげな口調の中に、揺るぎのなさがある。それを感じ取ったのか、目良の眠たげな目が微かに揺れて、伏せられた。
「そのことは、
「ええ、……そうですね、」
“私もそう願います”と、小さくそう呟いて、目良は深く頭を下げて応接室を辞した。その場に残ることにしたらしい校長とアイコンタクトを交わし、俺は立ち上がり目良の後を追う。
「おや、……見送りは不要ですよ」
「そういうわけにもいかんでしょう」
「はァ、まぁ……ではそのように」
“大変ですねぇ”、とぼやくように言う目良に、“そちらこそ”と返す。ぼうっとしているように見える目良だが、そのくせ俺の意図に気づいているんだろう。目良を空中に接触させまいとする、俺の意図に。
「……そんなつもりは、ありませんよ」
だからか、そんなことを呟く。その寝ぼけ眼はぼんやりしていて、相変わらず真意は読み取れない。隣り合って歩きながら、その横顔を盗み見る。
「……どうだか。あなた方公安の目的を知った今、空中に接触しようとするのは十分考えられることです」
「彼女は情に厚そうというか、弱そうですものねぇ。面と向かって“救けてくれ”と訴えられては、絆されてしまうかもしれない」
「…………」
「あなたも難儀な立場ですね、相澤先生」
「あなたに言われたくはないですね」
廊下を進み校舎を出ると、みんみんと喧しく騒ぎ立てる蝉の声が出迎えた。八月も終わりだというが、まだ残暑厳しい午前の陽射しに、思わず目を細める。広大な敷地面積を誇る雄英高校の出口まではまだ遠い。なるべく陽射しを避けるべきかと、林道に続く道を選んで歩き出した。
蝉の歌に、緑輝く木々のさざめき。それに紛れるように訓練しているのだろう生徒たちの明るい声が聞こえてきた。
「……、」
木漏れ日の、向こうで。その姿があった。
紫色の逆立った髪の男子生徒が、戸惑うような、照れたような表情で立っている。彼に向き合う尾の生えた男子生徒は、慌てたように汗をかいており、その隣でぴょんぴょん跳び跳ねている女子生徒は、透明な顔で笑っている。そして彼らを見つめて、嬉しそうに微笑む白い羽根の、女子生徒──
「……目良さん」
「ええ、……わかっていますよ」
彼らを、……彼らと共にいる空中を見つめて、目良は眩しそうに目を細めた。それからふっと、疲れたように笑みをこぼす。
「会うわけにはいきません。……水を差したいわけでは、ないのだから」
その言葉に、嘘はなかったのだろう。目良はそのままこちらに背を向けて歩き去った。その背広が小さくなっていくのを見送って、俺は踵を返す。わいわいがやがやとはしゃいでいる面々に向かった。
「……なんだお前たち、一緒にいたのか」
「……、イレイザー」
「あっ相澤先生だ! あのですね、」
「、すみません、相澤先生」
ばつが悪そうにする心操とは裏腹に、嬉しそうに声を跳ねさせる葉隠を、けれど空中は遮った。“ごめんね”と断りを入れつつも、俺に向き合う。
「今さっき、どなたかとご一緒でしたか?」
「……いや? 俺ひとりだが」
「……そう、ですか。……すみません、見間違えでした」
俺の返答に頷きながらも、心からの納得は得ていない。そんな表情で空中は俯いた。それは公安委員会を警戒しているからか、公安委員会からの接触を待ち望んでいたか、……どちらにせよ今は判断できかねる。
だから俺は何も追及せず、「一緒に組み手しようって考えてたんです!」と笑う葉隠ら言葉に頷いた。“いい試みじゃないか”と口角を吊り上げて、捕縛布を空中へ差し向ける。
「こんな風にな」
「いっ、いきなりはびっくりします……!」
「実践に“待った”は存在しない」
空に浮かんで捕縛布から逃れた空中は、不服そうにしながらもそれははじめだけで、身構えた心操や尾白、葉隠を見て眦を決した。ばさりと翼をはためかせ、攻撃や防御用の羽根を数枚辺りに漂わせる。
「──“できることは全て、やっていきたい”。……そうだったな」
不意に、そう直談判しに来た時のことが脳裏に浮かんだ。あの日。どこから聞き付けたのかインターンの制度を知って、それに参加したいと空中は必死に訴えた。
『この治癒と【翼】を以て、もっと速く、誰の元へも駆けつけられるヒーローになりたい。もっともっと、早く、……みんなの傷を癒すことのできるヒーローに、なりたいんです』
あの神野で手酷く傷つけられ、同時に傷つけられた人々を目にした空中は、俺に向かってそう宣言した。
『仮免の時も、【前に進みたい】とわたしは言いました。
今も変わらず、同じ気持ちです』
──自分のせいでA組の友達が除籍処分になりかけた。そのことを気に病み、涙を流したのと同じ瞳で、真っ直ぐに前を見つめた。
『できることは全て、やっていきたい。わたしの出来得る全てで強くなっていきたいんです。
だから、どうか。──どうか、』
自分の負った傷など二の次で、誰かの為に心を痛め、誰かの為に強くなろうとする。そんな空中の姿はヒーローとしてこの上なく“正しい”のだろうと頭では理解したが、心は納得しなかった。
(……こいつは、危うい)
自分の身や心を顧みず、誰かを救けるために飛び立って。そうしてそのまま、空の中に消えていく。
そんな予感が、ずっと俺の内側に蟠っていた。
このままインターンに行かせたら、もう戻って来なくなるような、そんな──
(だから俺は、あいつらにインターンに行かせるつもりはなかった)
まだ時期尚早だと、インターンの報せを伏せて。
生徒の“もっと強くなりたい”という意志に待ったを掛けて。
そうして事が済むまで雄英で守るべきだと、そう判断した。そうするべきだと、思っていたが。
『檻に入れて管理することの、何が“安全”だと言うんです』
──嗚呼、と声にならない息をつく。俺が目良に放ったのは、そのまま自分に充てた言葉だった。
「……? 先生?」
空中が不思議そうに目を瞬かせた。俺を真っ直ぐに見上げている。……“こっちの気も知らないで”と溜め息を吐きたくなるほど真っ直ぐなその目は、いつか見た空と同じ色をしていた。
檻に入れて庇護すれば、確かにその身を守れるだろう。
だがそれは雄英の教師である俺がすべきことじゃない。
“救えるヒーローになるため”と、努力を惜しまない生徒にすべきことじゃない。
「……そうだな、お前たちの出来得る全てで強くなってみせろ」
俺がするべきは、生徒が学ぶ場を保障すること。強くなるための糧を用意すること。乗り越えるための壁を打ち立てること。生徒が勉学と訓練に励み、さまざまな経験を積む、その過程を守ること──
まだ考えるべきことはある。
それを思えば、何故だか口の端に笑みが滲む。
目の前の景色に光が差す気がした。
「
高層ビル郡のひとつ。その最上階フロアーに歩を進めるその人物は、仕立ての良いハイブランドスーツに身を包んでいた。縫い目まで美しく施された革靴が、緋絨毯を踏み締めていく。
それは酷く上背の男だった。鋭く尖った鼻。尖った耳。やや後退の目立つ額が眩しく輝いている。彼が廊下奥の重厚な扉前に辿り着くと、控えていた給仕役が恭しく彼の荷物を預かった。それに“ありがとう”と微笑む男の顔は、やけに穏やかだった。
「やあ、キュリオス」
「ようこそリ・デストロ。お待ちしていました」
そうして通された貴賓室には、一人の女性が待ち構えていた。透き通るような青い肌に、黒い強膜の中心には蠱惑的な緑の瞳が輝いている。彼女は艶やかに微笑み、リ・デストロに椅子を勧めた。
「呼び立てた上に遅れてしまって申し訳ない」
「構いませんよ、ご多忙なのは存じてますもの。……何でも会社の方で、ヒーロー事業に参入するとか」
「相変わらず耳が早い」
「優秀な耳も目もたくさんあるもの」
その微笑も眼差しも誇らしげに、キュリオスは唇を開く。
「私を含めた数多の戦士たちは、あなたの想う未来のため、命を尽くす覚悟を決めているわ」
「解放にその身を捧げると?」
「勿論」
そこに嘘の気配は微塵もない。絶望を感じているわけでも、無気力になっているわけでもない。“自分の心身すべてを捧げる”──そんな破滅的な使命感と陶酔が、キュリオスの声と瞳を輝かせる。
「あなたの御所望の通り、手は打っておきました」
キュリオスが手元のデバイスを操作すると、壁面いっぱいに彼女が集めたデータが映し出された。“個性”サポートアイテム会社の重役、その秘書、とある街のヒーロー、“個性”人権運動の主導者、……さまざまな要人の名前が並ぶ中、キュリオスの細い指先がひとつの名前に触れる。
映し出された白い髪と白い肌、白い翼が、照明の落とされた部屋を僅かに照らした。
「空中愛依。“個性”は【翼】、そして【治癒】──彼女を
キュリオスの歌うような口ぶりに、リ・デストロはひとつ優しく頷いた。細く鋭い目が、やけに柔らかに弧を描く。
「空中くんは必ず、今後の社会の在り方に絶望する」
無垢な青い目は、人の浅ましさを見るだろう。多様性を謳いながら少数を排斥する社会の矛盾を知るだろう。
ヒーローという職業。誰もが憧れる輝き。
──その裏側に潜む影に、触れることだろう。
「そうして彼女が傷つき、疲れた時に、我らが翼を休める止まり木になれれば──私はただ、そう思うんだよ」
リ・デストロは微笑む。どこまでも穏やかに慈悲深く、ひとりの少女の挫折と絶望を願って。
86.大人たち、水面下にて。
「あァそうだ、キュリオス。先程君は“手は打っておいた”と言っていたね?」
「ええ、リ・デストロ」
運ばれてきた前菜をナイフとフォークで切り分けながら、リ・デストロはキュリオスに水を向ける。
「戦士たちの配備は勿論、打ち合わせも済ませているわ。……あと、予備の準備も」
「予備? 随分と慎重だね」
「それは勿論。万に一つもあなたの言葉を遂行できなくなってはいけませんから」
まるでウインクのひとつでもしそうなぐらい、軽やかにキュリオスは続ける。
「駒が増えたの。元ヒーロー志望の現
「おや、それはまた」
“空中くんへの良い刺激となりそうだ”。
そう言って目を細めるリ・デストロに、“そうでしょう”とキュリオスは嬉しそうに頷く。
「彼らは自分の犯罪行為を動画サイトに投稿しているの。やっていることは大義とは言いがたいけれど──そのちっぽけな自己顕示欲を満たすのは簡単だったわ」
同じ志を持つ“同士”として迎えられずとも、こちらの思惑通り動いてくれればそれでいい。
「リ・デストロ。あなたのお言葉を聞いて私は目が覚めたんです。“記録や伝聞だけでは人の心は動かない”って」
「だから彼らを、空中くんに直接ぶつけると?」
「ええ!」
キュリオスは上機嫌に、けれど手元は上品にカトラリーを動かした。美しく彩られたテリーヌを切り分けて口に運び、静かに咀嚼し、飲み込む。
「あんな稚拙な動画なんかより、もっとずっと人の心を揺らすわ」
作られた料理を口にして楽しむこと。
人の人生を切り分けて晒し、利用すること。
どちらもキュリオスにとっては同じことで。だから彼女は美しく、酷薄に笑ってみせたのだった。
お久しぶりです(白目)どう書いたらいいものか悩みながらのたうち回りながら書いたので稚拙なところもあるかもですがふわっとご覧いただければ幸いです。
今回は①裏で相澤先生がどんな風に思っていたのか、②目良さんとの接触、③異能解放軍が動き出す様子などを書きたいと予め考えていたので、書けて楽しかったです(作文)。
また次章のインターン編では今回ほのめかした人々の行動や思いを書いていきたいと思います。ほぼオリジナル展開で「原作沿いとは???」という感じになると思いますがまた読んでいただければ嬉しいです。ありがとうございました!