【依存】から始まるヒーローアカデミア   作:さかなのねごと

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名無しの迷子たち

▽注意書

・これは弊hrakss【依存】から始まるヒーローアカデミアのif√です。

・公安ビルから飛び降りたオリ主愛依がホークスに救われる前に黒霧に浚われAFOの元で育って“おねむり君”と出会う話。

・ほぼ三人称視点。

・倫理観に乏しい描写や残酷な表現、原作生存キャラの死亡があるかもしれません。

・どう頑張ってもメリーバッドエンドです。

 

───

 

 酷い火傷を負っていた。皮膚はもちろん内臓まで深刻な怪我を刻み、疲れ果てたその目蓋は固く閉じられていた。ひきつった肌。ツンツンと跳ねた髪。白い睫毛はまるで凍りついたように動かなくて──

 そんな“おねむり君”をずっと、それこそ何年も見続けていたから、少女は目の前の光景がやけに眩しく感じられた。だって彼が、目覚めた。その目の色が美しい青をしていることを、今この瞬間初めて知ることができたのだ。

 

「……よかった。よかった、本当に……」

 

 安堵でふやけた頬が笑みのかたちになる。張り詰め続けていた心がほどけていく。まるで全てがうまくいったと、全てが救われた(・・・・・・・)のだと、そんな風に少女は思った。

 ──そんな風に、勘違いした。

 

「……ねえ、」

「えっ……」

 

 力強く手首を掴まれて、少女はその青い目を見張った。折れそうに細い手首に赤い痕が刻まれる。けれど今はそんなことどうでもいいぐらい、彼女はおねむり君から視線が外せなかった。

 ぶるぶると震える手。その先を辿ると、愕然と瞳孔を開く彼の顔が見えた。

 

「ここは、どこ。……俺は、どうして、何が、」

 

 ──何が、起きたんだ?

 少年は、少女より随分年上であるようなのに、ひどく脆い声色でそう言った。

 

 

 

 

 

 ここはどこなのか。何が起きたんだ。

 矢継ぎ早に尋ねられて答えに窮した少女は、とにかくと与えられたカンテラを手に職員の部屋を目指した。深い夜の底を泳ぐように、冷えきった廊下を進む。

 

「……2年半も、眠っていた?」

「は、い」

「……なんで、……俺は、俺はあの日、瀬古杜岳で、燃えて……」

「……、」

 

 虚ろに俯きながら呟く少年に掛ける言葉を、少女は知らなかった。けれど自分ではなくても、いつも自分を教え導いてくれた先生たちならば、きっとおねむり君の望む答えを返せる。幼い少女はそう信じていた。──信じていた。

 

「ダメなのさン」

「え……?」

「どうして!?」

 

 サンサン晴明という男性職員は、深夜だというのに疲れた顔ひとつ見せずに2人をにこやかに出迎えた。そうしてそのにこやかな(・・・・・)笑顔のまま、「家に帰りたい」と訴えるおねむり君に“ダメだ”と言い放つ。

 

「君はこれからここでみんなと暮らすのさン! ここで新しい家族になるのさン、きっとすぐに気に入るさン!」

 

 少女にとっては、それは優しい言葉のように思えた。他の道なんて必要ないよと、ここを家にしていいんだよと、行き着く場所を失った子どもたちにとってはまさしく太陽のような言葉。

 けれど、少女の表情は晴れない。

 隣に佇む彼の目がずっと暗いからだ。光が降り注げば降り注ぐほど、濃く地に落ちる影のように。

 

「は……そんな待ってよ。帰らなきゃ!」

「お父さんは、」

「仕事が入って来られなくなっただけかもしれない」

 

 いびつな呼吸と共に、掠れた声がざらざらと溢れる。彼は震える唇を持ち上げて、笑った。

 

「きっと……! 心配してる……!! ひどいことをしたし……言ったし……お母さんたちに謝って、」

 

 そんなおねむり君の顔を見上げながら、少女は胸元を握り締めた。細める目に憧憬が滲む。

 

「──お父さんにまた、見てもらわなきゃ」

 

 ──ああ、おねむり君は、

 まだ(・・)帰る家と、“ただいま”と言える家族がいるんだ。

 胸にぽっかり空いたような心地を、なんと名付けるべきだろうか。喜びがないではないし、安堵がないわけではない。それでも何より大きいのは寂しさだろう。劣等感や嫉妬心もあったかもしれない。その全てをひっくるめて、少女は固唾と共に飲み込んだ。

 

「……わ……わたし、は、この2年と少し、1日もかかさず治癒をかけつづけてきました」

 

 ぐるん、とサンサン晴明とおねむり君の視線がこちらを向く。片や変わらぬ笑みを、片や焦燥に千切れそうな眼差しを一心に受け、少女は緊張にぬかるむ両手を握り締めた。

 

「もう、だいぶ、体はもとどおりになったはず、です。だからおねむり君は、もとのおうちに帰ったって──」

 

《──残念だが、》

 

 懸命に言葉を紡ぎ、たどたどしくも訴えようとした少女を遮って、その声は室内に響き渡った。

 

《それはもう……叶わないだろう》

「……オールフォーワン、先生……?」

 

 さも残念そうな、沈鬱な響きに、少女は“どうして”と小さく呟いた。それに答えるかのように、暗いモニター越しに声は続く。

 

《焼け落ちた身体の修復は、彼女の【治癒】を以てしても困難を極めた。それだけ君の【蒼炎】は強力で、君の身体を焼き尽くす。

 たとえどれほど時間を掛けて治しても、【蒼炎】をひとたび使えば、一瞬で各器官は損傷……痛覚なども鈍化する》

 

 ──君は、その身体では、ヒーローにはなれない。

 ──失敗だ。

 

 その言葉が夜のしじまに落ちた。小さく息を飲む音は引きつれていた。少年は青い目を見開いたまま顔を覆い、背を丸めて俯く。少女はそんな彼に、ただ背に手を添えて撫でることしかできないでいた。

 

「……お、おねむり、君……」

 

 少女は何も知らなかった。何もわからなかった。

 彼が望む言葉も。何を言えばよかったのかも。何も。

 

《辛いね、可哀想に……。

 ──でも、僕なら君の“個性”の弱点を克服できるかもしれない!》

 

 何もわからず、何も話せず、黙り込んでいた。

 そんな少女の手のひらに、じわりと()が伝わる。

 

「!? おねむ……、」

 

《どうだい?

 僕たちと家族(・・)になって、教育を受けてみないか?》

 

 何を言えば、よかったのか。

 異変に気づいた時にはもう遅かったのか。それとも、

 

「……うるさい……」

《ん?》

 

 自分が正解(・・)を口にできていれば、何か変わっていたのか。

 少女はずっと、この瞬間を忘れることができなかった。

 

 

「──俺は、他の人間から教えを乞う気はない」

 

 

 その途端、目の前の少年の身体が蒼く光った(・・・・・)。思わず閉じた目蓋越しに、息苦しいほどの熱が広がる。

 

「ッ、おねむり君!?」

 

 少女が慌てて目を開くと、そこは蒼い火の海だった。は、と漏れる呼吸さえ奪い、炎は全てを嘗め尽くす。立て掛けていた写真立ても、数多のファイルも、窓を覆っていたカーテンも、瞬く間に瓦礫と化した。

 この一瞬で、一体何が起きたのか。あまりのことに呆然と見開かれた目に、部屋を飛び出して行くおねむり君の背中が映る。

 

「おねむり君!! 待っ……!」

 

 危ないよ、待って、お願い、どこへ行くの、

 そんな言葉は届かなかった。万が一届いたとしても、少女の拙い言葉では少年の疾走を止められはしなかっただろう。彼は燃える床板にも構わず裸足で駆け抜けた。どんなに身体が傷付こうと、無心で。……だってそれよりずっと、心の方が痛いのだから。

 

「……ッどう、しよう、どうした、ら、 わ、わたし、」

 

 少女の蟀谷に伝う汗が、吹き荒れる熱風によって散らされる。浅い呼吸で喉が焼ける。穏やかで、静かで、寂しかった少女の夜は、ほんの一瞬で炎に呑まれた。走り去るおねむり君、呆気なく熔けて崩れる家、迫りくる蒼く輝く炎──いつの間にか当たり前になっていた少女の日常が、呆気なく死んでいく。

 

《ねぇ、君》

 

 どうしよう、どうしたらいい、どうすれば、

 パニックになりつつある少女の鼓膜を、ひとつの声が揺るがす。

 

《また彼ら(・・)を、救けてくれるかい?》

 

 かひゅ、と、少女の細い喉が小さく鳴く。身体は未だ戸惑い硬直していたが、その脳はひとつの思考に満たされた。こんな時でさえ甘やかなバリトンボイスが、少女の心を突き動かすのだ。

 

 

 ──救けて、くれるかい?

 

 

「……ッ」

 

 少女は踞るサンサン晴明の肩を支え、治癒のエネルギーを注ぎ込みながらその身体を立たせた。そうして更に部屋の外へ向かって駆け出す。細い手足を炎が嘗めるように焦がすが、火傷の痛みに顔をしかめながらも少女は止まらない。【自己再生】で無理やり治した足で廊下に出る。

 火災報知器が作動したのだろう、けたたましい非常ベルの音が鳴り響く。廊下はそれに跳び起きた子どもたちで溢れていた。ある少年は脇目も振らず逃げ出し、ある少女は炎の壁の前に立ち竦み──慌て取り乱す子どもたちを見、白の少女は眦を決した。廊下に飾られていた花瓶を倒し、その水で僅かに炎が弱まった時を突いて少女の腕を引く。

 

「え、……だ、だれ、」

「いいから早くにげて……!」

 

 そのまま火の手が弱い方へ押しやり、少女は更に部屋に踏み入る。そこには幼い女児がぽかん、と、何が起きたか理解しきれない顔で立ち尽くしていた。

 

「だ、いじょうぶ? ここはあぶないからいっしょに、……!」

 

 膝を屈め、手を差し出したその時だった。隣の部屋から伝ってきた炎が本棚に燃え移る。上段の棚が崩れ、女児の頭上に雪崩れ込んでくるのが見えて──少女は咄嗟にその身体を抱き締めた。女児を腕の中に庇い、丸めた背中で炙られた瓦礫を受け止めようと、そう覚悟していたが。

 

「……え、」

 

 覚悟していた衝撃も痛みもやって来ず、少女は瞬きを繰り返す。そうしてその青い目が頭上を振り仰ぎ、大きく見開かれた。

 

「……羽根……が、」

 

 自身の背中に生えた白い羽根が数枚宙を飛び、本棚の残骸を受け止めていた。ビリビリと震える羽根は、落下の軌道をずらし、そのまま燃え移った炎によって灰と化す。ざらり、と床に落ち、熱風に拐われていく。その様を見つめて少女は息を飲んだ。

 

「……っ」

 

 ──あの人の羽根だ。あの人の羽根が、救けてくれた。

 

 いつかの雪の夜を思い出し、少女は込み上げてくる涙を奥歯を噛み締めることで堪えた。彼の、自分を抱えてくれた腕のあたたかさを、与えてくれた言葉の優しさを、思い出してはいけないのだ。

 

「……ごめんなさい、ごめんな、さい、ごめんなさい……」

 

 だって少女は、自分の命や心を救ってくれた恩人であるあの少年の、強くて優しい赤い翼を奪ってしまった。少女はそう思い込んでいて──事実を知る術はない。

 だから少女は、いつかの思い出の優しさに浸りたくなった自分を恥じた。縋りたくなった手を引っ込めて、強く握り締めた。柔い手のひらに爪が食い込む。この程度の痛みで自分の狡さが許されるわけがないとわかってはいても、止められなかった。

 

「今だけ。……今だけあなたの力を、使わせて……」

 

 奪った“個性”を我が物顔で使うなんて、と少女は自分で自分を苛めた。AFO(オールフォーワン)先生に頼まれた【自己再生】や【譲渡】ならまだしも、特に言及されていない【翼】を使うなんて、なんて狡い奴だと自己嫌悪で顔が歪む。

 それでも“みんなを救ける”ためには、この両手足だけでは足りない。それは少女にもわかっていた。だから彼女は祈るように目を閉じて背中の【翼】に意識を集中させる。飛び立つ羽根が立ち竦む女児を、逃げ遅れて立ち止まっている足音を捉えて、外へと運んでいく。

 それを何度か繰り返しながら、自身も廊下に出て逃げ遅れがいないか確認していき、暫く。炎にまかれる家の中に誰の気配も感じ取れなくなった頃、少女は窓から身を踊らせた。窓辺に植えられた木にしがみつこうとして、手を滑らせて落下するも、植え込みに飛び込むことで何とか脱出に成功した。火傷や落下の痛みに声にならない声で呻きながらも、【自己再生】で治していく。

 

「~~ッ、げほ、っ、ごほ、……っ」

 

 咳き込みながら身体を起こした少女は、ゆらりと疲労した顔を上げて燃え盛る施設を見やった。……もう施設内に人はいない。取り残された人はおらず、全員が外へ避難できた。AFO(オールフォーワン)先生の言いつけ通り“救けることができた”のだ。

 少女は安堵にほころぶ口許を、けれどきつく結んだ。浅い呼吸で、脳裏に浮かぶ彼を呼ぶ。

 

「──おねむり、君……」

 

 職員によって宥められている子どもたちの中に、あの白い髪はどこにも見当たらない。……きっとここを出て彼の言う“家”に帰ったのだろうと予想できたが、まだ心には不安の雲が垂れ込めていた。

 火傷はしなかっただろうか。怪我をして困ってはいないだろうか。病み上がりの身体を酷使して、倒れてはいないだろうか。

 あの“個性”でヒーローは難しいと先生は言っていた。──家に帰ったところで、ヒーローである彼の父は、あたたかく彼を迎え入れてくれるだろうか?

 

「……、……わたし、は……」

 

 どうしよう、どうしたらいい、どうすれば、

 不安と焦燥に迷う彼女は逡巡の中に立ち尽くしていた。自分で自分を肯定できない少女の足場は非常に脆い。どうすればいいのか、何を選べばいいのかわからない。取るに足らない自分など、間違った選択をすればたちまち奈落の底に落ちていきそうな心地だった。──いつかビルから飛び降りた時のように、落ちて、落ちて、落ちて。そうして終わってしまうような恐怖が、小さな少女の心にこびりついている。

 だから。

 

 

 ──救けて、くれるかい?

 

 

「……はい」

 

 だから少女は、そう答えた。そうしてゆらりと立ち上がる。青い目で燃え盛る家とざわめく子どもたちや職員たちを少しだけ見つめた。目蓋の裏に、かつての日常を焼き付けてから、目を閉じる。そうして誰にもバレないように、息を潜めてその場を後にした。

 

(おねむり君を、救けなきゃ)

 

 託された使命を果たさなければと、少女の胸はその思いで満たされた。決意は疲れ果てたはずの少女の足に力を込める。ふらつく足を気力で黙らせて、彼女は夜の街へ駆けていく。

 

 

 

 

 

「……よかったのか? AFO(オールフォーワン)よ」

「まぁね。少しお転婆すぎるのは考えものだけれど」

 

 ドクターの問いに肩を竦めながら、AFO(オールフォーワン)は笑う。その目は密かに設置されたカメラ越しに、施設を走り去る白の少女を見つめていた。笑う、──嗤う。喉を低く鳴らして、可笑しげに。

 

「しかし可愛いものじゃあないか! あんなに必死になってまで、僕の言いつけを守ろうとしているんだぜ?」

「ほほ、君にかかればまるで健気な子犬といったところか」

「そうだね。……だから、少しの放し飼いはよしとしよう」

 

 AFO(オールフォーワン)は何事かをスマホに打ち込み、送信する。友達(・・)頼み事(・・・)をするためだ。白い子犬が行き倒れない程度に手助けしてやってほしいと。警察やヒーローの目から庇ってやってほしいと。たまにでいいから見てあげて(・・・・・)ほしいと──。

 

「どうせまた、僕の元に帰ってきてくれるからね」

 

 頬杖をつき、ほくそ笑む。その目は三日月のようにゆるりと、暗い光を帯びて弧を描いた。

 

 

 

 

 

「っあの、白いかみの、男の子、見ませんでしたか……!」

「え……?」

「え、と、……わたしのお兄ちゃんなんです、お父さんとけんかして、家をとび出しちゃって、さがしてて……っ」

「ああそうか、それなら……」

 

 何も持たずに──元より持っているものなど何も無かったが──飛び出した少女に残された手掛かりは、ふたつ。ひとつはおねむり君の容姿。そしてもうひとつは、彼が目覚めた時に言っていた地名。

 

(せことたけって、言ってた……!)

 

 深夜の住宅街では人通りは少ない。だから少女は息を切らして走りながら、出会う僅かな人から人へと尋ねて回った。何故か偶然(・・・・・)“せことたけ”──瀬古杜岳を知る親切な男性に地図を貰った少女は、お礼を言ってより速く駆け出した。速く、早く、救けなきゃと、そればかりを思って。

 

「ねえ……でもあなた、その格好はどうしたの」

 

 そうして幾つも走り、歩き、度重なる歩みに裸足をぼろぼろにしながら。それでも瀬古杜岳を目指して進み続けた少女であったが、時に道を尋ねた通行人に眉を下げられることもあった。五十路に差し掛かろうほどのその婦人は、少女の怪我や汚れの目立つ服装を見過ごせなかったのだろう、気遣わしげに声を和らげる。

 

「ちょっと待ってね、今ヒーローを……」

「っ……!」

「あ、え!?」

「待って、どうしたの!?」

 

 “ヒーロー”。少女はその単語に息を飲み、弾かれるようにその場を逃げ出した。華奢な背中に掛かる狼狽の声。……きっと婦人たちはただ真っ当に幼い少女を心配してくれているのだろう。それは少女にもわかったけれど、足を止めることはできなかった。

 

 ヒーローに救われず、家族がいなくなった男の子がいた。

 ヒーローの親に罵倒され、救われなかった女の子がいた。

 しんと静まり返った夜の中、何かから逃れるべく手足を縮め、身体を丸めて眠る子どもたち。その目元には涙の痕が幾つもあった。4年もの間少女はそれを何度も拭い、けれど同時に拭えぬ疑問を心に刻んできたのだ。

 

 ──ヒーローはどうして、あの子たちを救ってくれないのだろう。

 ──ヒーローに救われなかった子どもたちは、誰に救われればいいの?

 

「……っ、わ、たし、が……っ」

 

 “ヒーローはきっと、救ってくれないから。”

 少女のこの思いは一方的かつ傲慢な決めつけである。今この時も、もしもヒーローが彼女を無理矢理にでも救おうと手を差しのべたのなら、きっと違う未来が開けていたのだろう。違う世界に、歩んでいけたのだろう。

 

 けれどもう、その“もしも”はない。

 

「……っ、……ぁ……!」

 

 “自分が理由もなく生きてていいんだ”という、人によっては当たり前の肯定を、少女はこの4年間で入念に磨り潰されてきた。“彼らを救う”という使命感は少女の脆い心を支えたが、それは同時に“それ以外の道”を絶っていた。

 

 

 もしも、ヒーローに出会えていたら。

 もしも、ヒーローでなくとも、誰かが少女の足を止めていたら。

 もしも、あの夜、赤い翼が届いていたら──。

 

 けれどもう、そんな“もしも”は掻き消えて。

 そうして白の少女と少年は、再び出会った。

 

 

「……見つ、けた……」

 

 静岡県某所に聳え立つ瀬古杜岳は、2年と少し前に大規模な山火事に見舞われたのだという。当時はあまりに強い炎の勢いに草が、幹が、枝が、葉が、呑まれるように燃えてしまったのだと報道されていた──いつか新聞で読んだ記事を思い返しながら、少女は白い息を吐いた。小川を遡るように歩く足元には丈の短い草が覆っている。新たな緑が芽生えているが、……しかしまだ塞がり切らない傷痕のように、所々焼け焦げた木が立ち並んでいて。

 

「……おねむり、君」

 

 少女が特に火の傷痕が深い場所を辿って行くと、そこに彼がいた。黒く煤けた木の根本に、足と手を投げ出して座っていた“おねむり君”。彼は虚ろな青い目で、ぼうっと自身の爪先を見つめている。その足裏の皮膚はずたずたに傷つき、赤く腫れていた。

 

「……あの、……」

 

 少女は再度呼び掛けて、彼の目の前に膝をついた。おずおずと伸ばされた小さな手は、しかし少年の足に届くことなく叩かれる。

 

「……何だよ、おまえ。触るな」

「っ……で、も、ケガが……いたそう、だよ」

 

 冷えきった眼差しと声に射られて、少女は声を震わせた。泣きそうな目でくしゃりと顔を歪ませる。

 何故なら少女にはわかった。わかってしまった。

 ……少年の手が、眼差しより声よりもっと、氷のように冷えきっていることに。

 

「おねがい、だから……なおさせて……」

 

 緊張と悲しみと、あと何か。さまざまな感情を綯交ぜにしながら、少女はもう一度手を伸ばした。震える指先が少年の爪先に触れる。傷痕に触れる──塞ぐように、労るように。そうして青い目を閉じ、少女は心の中で呪文を唱えた。

 

 ──いたいのいたいの、とんでいけ。

 

「……、」

 

 ふわり、あたたかなエネルギーが注がれて、少年の細胞が歓喜する。瞬く間に傷痕が塞がっていく様を感じ取り、おねむり君は僅かに目をすがめた。治癒を終え、顔を上げた少女を見据える。

 

「……おまえ、何なわけ」

「なにっ、て……?」

「何のために俺に着いてきたの」

 

 つっけんどんな口調で問われて、少女はゆっくりと瞬きをした。それは、その、と口ごもる彼女に、少年は無言で圧を掛ける。そんな苛立ちの気配に急かされるようにして、少女は答えた。

 

「……おねむり君が、いたいかなって、」

「あそ。じゃあもう帰れば。痛いのはおまえのお蔭で治ったからさ」

「えっ、……で、でも、」

「何。……あァお礼がほしかった? ごめんごめん、」

 

 そうして彼はわらった。へら、と片頬を吊り上げて。

 

「ありがとね、助かったよ」

 

 

 “ありがとね、”

 その言葉を耳にした途端、少女の脳裏にいつかの夜が甦った。保護されたビルの片隅。閉じ籠ったひとりぼっちの部屋。固く閉ざした扉越しに、いつも少女の元に来てくれた赤い翼の男の子。

 

『本当に、大丈夫だよ。……ありがとね』

 

 少女は今も、覚えている。

 

『……そうして心配してくれて、俺は、嬉しいから』

 

 少年の言葉を、声の響きを、その温度を、

 胸の奥底から溢れるぐらいの、歓喜の()を。

 

(……、ああ、そっか……)

 

 少女は今も、覚えているから。

 2人の少年がそれぞれに口にした“ありがとね”の違いも、はっきりとわかった。そこに込められた感情も温度も、何もかも違うこと。……何もかも、違うのだと。

 

(この人、は、)

 

 

「……おねむり君は、あなたのおうちに帰れたの?」

「……いや。もう(・・)帰らない」

「……、わたしといっしょに、しせつに、」

「行くわけないだろ。そもそもあそこは俺の家じゃない」

「……これから、どうするの」

「さァ。……とりあえず生きて、もっと炎を強くする」

「強く……?」

 

 少年の端的すぎる説明では、少女は彼の身に何が起きたかわからない。わからないでも、しかし、その感情の一端に触れることはできた。

 

「お父さんに、もう一度……俺を、見てもらうんだ」

 

 “お父さん”と呼ぶその声に、虚空を──()を睨み据えるその目にだけ、青い炎が燃えている。少年のこれまでの思い出、そこから生まれた感情の揺らぎやうねり。それら全てを根こそぎかき集めて薪としたような炎は、息を飲むほどに熱く、同時に冷たい。

 燃え盛るような執着と、冷えきった無関心。

 彼の中にはもう、きっと、“お父さん”しか残っていないのだと、少女は言葉なく理解した。熱くても冷たくても火傷してしまうように、真に彼の心に触れることはできない。明確な隔たりを突きつけられて、少女は胸元を握り締めた。

 

 心に、触れられない。明確な隔たり。

 だってそれは、少女にとって──

 

 

「……わたしも、いっしょに行く」

 

「……は?」

 

 

 予想外の言葉が飛んできて、流石のおねむり君も顔を上げた。“夢見がちの馬鹿な女が英雄気取りのつもりか”と、皮肉のひとつでも飛ばしてやろうと開いた口が、中途半端に固まる。

 

「……馬鹿か? そんなことしたって何にもならない」

「でもおねむり君、炎を使えば使うほどいたい、でしょう? わたしならそれを、なおせるよ」

「恩を売るつもり?」

「おん……?」

「……、……“ありがとう”って、言ってもらいたいわけ?」

 

「……ちがう」

 

 “ありがとう”の言葉に少しだけ目を伏せながらも、少女はまた真っ直ぐにおねむり君を見つめ返した。その青い目に年相応な、幼く甘やかな光はない。

 

「わたしはあなたを、たすけたい」

 

 暗い夜にひとりきりで燃える星のような、輝き。

 

「それがわたしの、生きていていい、いみだから。……それに、」

 

 噛み締めるようにそう口にした少女は、言葉を区切ってふと微笑んだ。嬉しそうな、けれど同じくらい寂しそうな、掠れた笑顔。

 

「どれだけいっしょにいても、きっとあなたは、わたしをすきにならないから」

「……は、?」

 

 心に、触れられない。明確な隔たり。

 だってそれは、少女にとって、この上ない救いだった。

 “彼らを救う”という自分の存在意義と、関われば関わるほど【依存】で彼らの“個性”(未来)を奪う危険性を秤に掛けて、揺らぎ迷ってきた少女にとって、おねむり君の存在はそれだけ大きかったのだ。

 

「……気持ち悪。理解できないんだけど」

「……、うん」

「おまえに何のリターン……いいことなんてないだろ」

「うん、それで、いいの」

 

 擦りきれた心は、それでもまだ生きている。優しい言葉に頬を和らげるし、投げつけられた罵倒に痛みを覚える。しかしそれこそが、少女の唇に笑みを咲かせた。

 

「それが、ほっとするの」

 

 

 

 意味がわからない。理解できない。気味が悪い。

 おねむり君にとって少女はそうとしか形容できなかった。何の利点も無いのに、暴言を吐かれているのに、それでも下手くそに笑って着いて来る。歩幅を合わせようともしない少年に追い付こうと小走りで瀬古杜岳を下り、転んではまたすぐ立ち上がる。泣き喚かれても迷惑だが、瞳が潤む素振りも見せない少女もまた不気味だった。

 

(普通、泣くもんじゃねぇのか)

 

 痛みがあれば怯むものだ。失望されれば顔を歪ませるものだ。感情が昂れば、涙が出るものだろうに。

 少年の知る普通(・・)が一般家庭的なそれとは違うことを差し引いても──幾ら突き放しても懲りずに着いてくる少女はやはり不気味だった。少年が一般人の目を掻い潜り【蒼炎】の訓練をすれば心配そうに見守ったり、火傷をしたら駆け寄って治癒を使ったり、ふと姿を見せないと思ったらどこからか見つけてきたのか、比較的食べられそうな残飯やパンの耳を差し出してきたり。初めは鬱陶しそうに手を払っていた少年だったが、次第に拒否する気も起きなくなった。

 相も変わらず、何故こんなことをするのかわからない少女は理解しがたい。けれど邪魔はしないのならと、彼は少女を“どうでもいい”のカテゴリに入れた。どうでもいい。いてもいなくても変わらない、路傍の石。時に鬱陶しくはあるけれど、蹴飛ばすほどには幅を取らない。だからただ傍にいただけ。

 そうした、“傍にいただけ”の時間を積み重ねて暫く。雪の日を越え、春を見送り、迎えた夏のある夜のことだった。

 

 

 

 

 

「ほらよ」

「……、え」

 

 ぽいっと投げられた菓子パンは、軽い物音を立てて少女の手に渡った。驚きに少女の青い目が見開かれるのを横目で見やって、少年は包装を解く。ほんの、気まぐれだ。たまたま臨時収入(・・・・)が入ったから自分のついでに買っただけ。少年にとってはそんな軽い気持ちだったのだが、少女が浮かべる表情は重苦しかった。

 

「……このお金、どこで、」

「は? どうだっていいだろ」

 

 痩せこけた頬を固くする少女に、少年は苛立ちに目を細める。“個性”の訓練をしていた自分に絡んできたチンピラを正当防衛でのして、ほんの慰謝料を貰っただけ。責められる謂れはないと冷たく言い放つのに対し、少女は何かを言い掛けて、止めて。暫く黙考に目を伏せたと思えば、決意とともに顔を上げた。

 

「……わたし、お金、かせいでくる」

「どうやって」

「だれかのケガを、なおすの」

 

 満足に食べていない身体は細く、手足も枯れ木のよう。それでも少女は背筋を伸ばして歩いていく。ぎゅっと胸元を握り締めた手は微かに震えていた。

 

「おいしゃさんだって、お金をもらってちりょうしてるもの。だからきっと、お金はらってもらえる、はず」

 

 そんなことを宣って、少女は少年の手に菓子パンを握らせた。封は空いていない。それを何とも言えない眼差しで見下ろして、

 

「……ごめんなさい、ありがとう」

「……うるせぇな。好きにすれば?」

 

 小さな声が、うん、と応えて。

 そうして少女は裏路地を進んだ。少年に豪語したは良いものの、どこに行くべきかはわからない。それでも正規の病院に行けるような人たちに治癒を持ち掛けたところで、上手くいくとは思えなかった。正規の手続きで治療が受けられる人は、自分のような怪しい娘に頼まない。

 ならば、と。少女はより深い暗がりに足を向けた。正しくあれる人に自分は必要ない。もっともっと、暗いところにいる人ならばと、人通りの絶えた裏路地に歩みを進める。そうして少女は、とある喧騒を耳にした。

 

「なァ兄さん、人として借りたモンは返さなくちゃ駄目だよなァ」

「すみません! すみま、ぜッ……」

「礼儀ってのは形で示してほしいんだわ」

「てめェの土下座が幾らになるっつーんだよ、なァ?」

「ごォ、げェェ……ッ」

「はは、何言ってんのかわかんねーすよ。ね? もうちょっと頑張って話してくださいってば」

 

 殴打の音。嗤う声。悲鳴。嘔吐したものがアスファルトにぶちまかれ、肉が、ずりずりと引き摺られるような鈍い音。白い羽根がビリビリと震えて、その惨状を少女に届ける。

 

「がひゅッ、ひゅーっ、ひッ、……」

「あらら? 呼吸やべーかも?」

「こんな目に遭う前に、もうちょっとでもまともに働いてりゃあな」

 

 何故、こんなことが起きているのか。閉ざされた環境で生きてきた8歳の少女には何もわからない。ただすぐ傍に凄まじい暴力があり、そんな状況にも関わらず嗤う人たちがいる。どうしてこんなことができるのか。どうして嗤っているのか。未知の恐怖は少女の身を竦ませて、呼吸を浅くし、視界をぼうっと白ませる──

 

「オイオイ兄さん頑張ってくれや、死んじまったら困るんだって!」

 

 ──真っ白になった頭で、少女は声のする方へ駆けた。恐らく酷い怪我をして、蹲っているだろう人の元へ、飛び込んだ。

 

「あ、あの……!」

「あァ?」

 

 突如やって来た乱入者に──それがまだ年端もいかない少女だったこともあり──3人の男たちは胡乱げな目を向けた。内1人が立ち上がり、倒れ伏した男を視界から遮るように、少女の前に立つ。

 

「……こんな夜更けにこんな場所でどうした? ガキは早く帰、」

「っあの! ……わたしがその人のケガ、なおします」

「あ? 何言って……」

「しんだらこまるって、聞こえまし、た。わたしならなおせます、……そしたらわたし、に……お金を、もらえませんか」

 

 早くなおさなきゃ、しんじゃう、わたしなら、お金、わたしは、

 そんな思考が断片的に駆け巡るだけで、ちっとも纏まりきらない。それでも少女は辿々しくも懸命に訴えた。その人が死んだら困るのなら、わたしが治すから、そしたらお金をください──唐突かつ頓珍漢な少女の言に、1人は目をすがめて、1人は首をかしげる。そうして残る1人はアスファルトにうつ伏せになる男の髪から手を放し、少女の前に片膝をついた。

 

「お嬢ちゃん、お金に困ってるの?」

「は、はい。お金、なくて……」

「そうかそうか。お金あげたら癒してくれるんだ?」

「いやし、……はい、できます」

 

 確か治癒のことを癒しともいうんだっけ、と、そんな的はずれの回想を思い浮かべていたから、少女は気づかない。いやににこやかに少女に相対したその男の目に滲む、暗い光に。

 

「そうかぁ、じゃあ頼んじゃおうかな」

「! はいっ」

「素直ないい子だね」

 

 男は、ぱあっと表情を輝かせた少女の頭を撫でた。うん、うん、と優しげに頷き、髪を梳いて──

 

「じゃあこっちへおいで」

「……っえ、」

 

 ──それと同じ手で白い髪を鷲掴み、アスファルトに引き摺り倒す。栄養不足の髪がぶちぶちと悲鳴を上げ、引っ張られるままに打ち付けた左頬が擦りむけて赤くなった。突然の衝撃に泣くこともできない少女をいとも簡単に仰向けにさせ、その細い身体に馬乗りになった男が嗤う。

 

「!? あ、の、あの人は、ッ」

 

 べちっ、と鈍い音が路地裏に響く。頬を叩かれて硬直する少女に、男は笑みを深めた。

 

「あのゴミがなんだって?」

「っ、ひ……!?」

 

 着古した服が木の葉のように破られ、夏のじわりとした夜気に少女の肌が晒される。骨の浮いた白い肌を見下ろし、男は手を伸ばした。

 

「じゃあ早速癒してもらおうかね」

「や、いやっ!? なに……!?」

「あれ、わかってない感じ?」

「いやそりゃそうっしょこんな小さい子。てかそういう趣味なんすかこの人? 前々からサドだなーとは思ってたけど」

「……幼児が泣きわめくのが一番クるんだとよ」

「うーわ、えげつな」

 

 呆れたように目を逸らす男。引きながらも喉を鳴らして嗤う若い男。そして少女に手を伸ばした男は暴れる細い両手を地に縫い付け、その首筋に噛みついた。犬歯が柔肌に食い込み、ぶちりと破り、血を滲ませる。

 

「ゃ、あ……!? い、たいっ、なに……っ!?」

「怖がらんでもいいよー。楽しいことだからさ」

「いや一方的に楽しいだけっしょそれ」

 

 少女の首元から顔を離さない男の言葉に、若い男は苦笑する。しかし彼はその場から離れず少女の傍にしゃがみこんだ。パニックで暴れる少女の髪を宥めるように撫で、にっこり笑いかける。

 

「頑張れー、これ頑張ったらお金もらえるからねー」

「いや、もういや、はなして……っ」

「あそうだお金握らせてあげましょ。気分アガるっしょ」

「おまえもえげつないんだよ」

 

 少女の手に無理やり万札を数枚握らせて、その様に男2人はゲラゲラ嗤う。少女が助けを求めて忙しなく視線を動かしても、うつ伏せに倒れたままの男は動かないし、呆れたように目を逸らした男はこちらに背を向けて紫煙を燻らせていた。その他には誰も、いない。

 呆然と目を見開く少女だったがそれも束の間、乱暴に身体をひっくり返されてうつ伏せにされる。こんな闇夜にも鮮明な白い羽根が、小さく震えた。

 

「綺麗な羽根だなァ」

「い゛……ッ!?」

 

 羽根の流れに沿って梳かしていたその手が、左翼の根本を握って思い切り引き抜く。ぶちち、と鈍い音を掻き消すように少女の悲鳴が響いたが、それも“うるさい”と側頭部を殴られることで途切れた。は、と見開かれる少女の目に、その脳裏に、いつかの記憶がよぎる。

 

『近所迷惑でしょう。大きな声で泣かないで』

 

 申し訳なくて、辛くて、悲しくて、どうしようもないほど心寒くて。けれど“おまえは悪い子だから”と泣き声を上げることも許されなかった日々。かつて母だった人からの言いつけに、少女の舌の根が凍る。酷く寒くて、身体が震える。青い目からほたりと、ただ静かに涙が滴った。

 

「あーあ、痛そ。可哀想だねェ」

「……あんま傷付けない方が値段つくだろ」

「いーんだよ。“片羽根を捥がれた天使”とか、好きそうな奴は幾らでもいる」

 

 “おまえは悪いことしたんだから当然だよね”

 “おまえが悪い子だから、躾をしているだけ”

 

 “お母さん、何か間違ったこと言ってる?”──そう尋ねられて、かつて少女は答えた。“間違ってない”と。

 

(……わたしが、わるい子、だから……)

 

 だから、こんな風に痛いことをされても仕方ないのだろうか。痛くて悲しくて、苦しくて、それをゲラゲラ見下ろされて嗤われて。それを静かに、受け入れなくてはならない?

 

「お、いい顔」

 

 背中の羽根が血でぐじゅりと濡れた頃、肩を蹴られて再び仰向けにされた少女は、疲れきって声もなく泣いていた。ぼうっとした青い目からは幾重にも涙の筋が残り、半開きになった口からはひゅ、とか細い息の音が聞こえる。今度はその呼吸を乱してやろうと、片頬を吊り上げた男は少女の首に両手を掛けた。ゆっくり、じわじわと、気道を押し潰していく。

 

「もっと泣いて、いいからなァ」

「ひぐ、ゥ、」

 

 酸素が薄れ、命の火が弱まっていく。本能的な恐怖と“黙って受け入れなくてはならない”とする強迫観念に板挟みにされた少女は、ただ僅かに指に力を込めるに留まった。くしゃりと、握らされた紙幣が薄っぺらく泣く。

 

 ──ここで、終わるのかな。

 終わってしまった方が、いいのかな。

 

 少女がそんな思いを霞む意識の中に浮かべた、その時。

 

 

 

「──ほんとクソ共は、どこまでもクソだな」

 

 

 刹那、暗い視界が鮮烈な()に染められる。少女が目を丸くする中、馬乗りになっていた男が横薙ぎの()に吹き飛ばされた。アスファルトを達磨のように転がった彼は、完全燃焼の蒼い炎(・・・)に呑まれる。

 

「ぅぐぁあああッ!!?」

「ひぎ、ぎゃああ!!」

「あーあーうるせェな。ちょっと炙られただけで泣き喚くなよ」

 

 ぺたり、と裸足の音がして、少女はゆらりと身体を起こす。かひゅ、げほっ、といびつな呼吸を繰り返すのを聞きながら、おねむり君は足を進めた。火達磨になって転がる男たちを踏みつけ、首を傾げる。

 

「しっかりしろよ、大人だろ?」

 

 ごうッ、と立ち上る火柱の中に、身を捩らせる黒い影が浮き上がる。救いを求めるように伸ばされた手。その手の影がじゅうと熔けていくのが見えて、少女は息も整わぬまま走った。覚束ない足取りで転びながらもまた走り、何とかおねむり君の足にすがりつき、ぶんぶんと首を横に振る。

 

「……おまえさ、本当に何なわけ」

 

 そんな少女を見下ろして、深くついた溜め息が空気を揺らす。人が焼け焦げる臭いが漂う中、少年はつと目を細めた。不理解、侮蔑、……あと何か。そうした感情が色濃く滲む。

 

「おまえ、今さっき、こいつらに全部全部取られるとこだったんだぞ? 人としての尊厳とか人権とか、奪われ尽くしてモノとして売られるとこだったんだけど」

「……っわか、わかって、る、」

「わかってないだろ」

 

 少年が“個性”を収めると、ごどんと男たちの身体がアスファルトに落ちた。その肌は重度の熱傷に侵され痛々しく水脹れが浮き上がっており、場所によってはより深く、炭のように黒く変色している。Ⅱ度、あるいはⅢ度と見られる火傷は、早く処置しなければ身体に深刻な後遺症を残すだろう。少女は自身の冷静な部分でそう診断し、同時に浅く息を吐いた。

 ……嫌だった。怖かった。痛かった。悲鳴を上げてもうるさいと殴られて、もっと痛みを与えようと伸ばしてくる大きな手が目蓋の裏に焼き付いている。じくじくと身体を苛む痛みとは別に、心まで軋んでいるような。

 

「おまえ、こいつらに生きててほしいわけ?」

 

 少女は、頷けなかった。けれど首を横に振ることもできなかった。

 嵐の海のようにうねる心の波に呑まれ、言葉も、呼吸すら奪われて。ただ黙り込む少女はあることに気づいた。重い目蓋を閉じ、抉じ開ける。ぱちりと瞬いた青い目に、ふるりと涙が揺らいだ。

 

「……っ」

 

 ただ、気づいた。【蒼炎】を繰り出した少年の手足から立ち上る煙に。その焦げ臭い臭いに、……べろりと剥けた皮の向こうに覗く、生々しい赤色に。

 だから少女は、手を伸ばした。震える幼い指先が少年に触れる。それは何故か、酷く熱くて冷たくて。少女は痛みを堪えるように唇を結んで【自己再生】のエネルギーを注ぎ込んだ。

 

「……ハ、ほんっとおまえ、気持ち悪」

 

 自身の皮膚が再生され、瞬く間に塞がっていくのを見下ろして、少年は吐き捨てるように言った。それに少女は目を伏せる。……悪口に痛む心もあるだろうに、ただ当然のように──或いは安堵したように──受け入れる少女はやはり彼にとって“気持ち悪い”ものだったが、同時に“どうでもいい”ものだったから。

 

「まァいいや。殺さないでやるよ、どうでもいいしな」

 

 何故かささくれだった心を殺して、少年は少女の緩んだ手を振り払う。そして、半ば炭と化した男の1人に近づき、その傍にしゃがみこんだ。

 

「なァおっさん、金持ってる?」

「ひッ、ぃ゛……!?」

「ちゃーんと治療費払ってくれんなら、こいつが火傷治してくれるんだって」

 

 少年が一瞥すると、少女ははっとその意を汲んで【自己再生】を発動させた。むしられた羽根が、裂かれた背中が、ぶたれた頬が元通りに再生されていくのを見て、男たちが驚愕に呻く。まさか本当にこんな少女が稀少な治癒の“個性”を持っているとは思わなかったのだろう。彼らは瞠目し、それから痛みから逃れるべく焼け熔けた指を必死に動かし始めた。這いずりながら、先ほど少女に握らせた紙幣をかき集め、少年の足元に差し出す。

 

「……ハァ、あのさァ、わかってる?」

 

 その僅かばかりの万札をつまみ上げ、少年は嘲笑った。もはや虫の息である男たちの額にぺちぺちと紙幣を打ち付け、わざとらしく声を作る。

 

「命は掛け替えないものだよなァ? それを救うってんだから、それ相応の誠意を見せるべきだって俺は思うんだよ」

「は、ひ゛……ッ」

「違うか?」

「ちがッ、いま゛せん!!」

 

 男は震える手で懐を探り、そこから財布を取り出し差し出した。へェ、と小さく呟いた少年が中身を改め、頷く。

 

「まァこんなもんか。治していいぞ」

「……う、ん」

 

 少女は促されるまま、土下座する男たちの頭部に触れた。膨大すぎる熱に炙られ、身体の芯まで焼かれた肌が、次第に元の色を取り戻す。じゅくじゅく膿んだ水脹れまでもが平べったくなる頃、少女はおねむり君によってその腕を掴まれた。黙って腕を引かれるまま、その場を後にする。少女が後ろ髪を引かれて振り返ると、そこには気を失った男たちが3人、ぐったりと路地の奥に横たわっていた。

 

「こんなもんでいいだろ。下手に全快させて後をつけられても面倒だ」

「……う、ん」

 

 ほんの少し、納得しきれない声色を滲ませつつも、少女は頷いた。残してきた男たちはこれからどうなるのか、初めに暴行を受けていた男性はちゃんと逃げられたのか。気にならないと言えば嘘になるが、少年の言葉に反論することもできない。苦しげに眉を寄せる少女を知ってか知らずか、少年はふと思いついたように話題を変えた。

 

「怪我人を治す……確かにこれ、金になりそうだな」

「……お金に、なる?」

「あァ。役に立つよ、おまえ」

 

 ハ、と放った笑みが心からの笑みではなかったにしろ、少女は僅かにその表情を緩めた。暗く落ち込んだ青の目に淡く光が灯ったが、しかしそれも束の間。

 

「けどこんなやり方じゃいつかまた痛い目に遭う。ちゃんと名を出して、然るべきとこに話を通して、依頼を募るようにしなきゃな」

「……名まえ……」

 

 ぼうっと、遠い何かを思い出したように呟き、少女は足を止めた。“さっさと歩けよ”と文句のひとつでも言おうと振り返ったが、少年は口をつぐむ。

 少女の伽藍堂の目が、自分ではない別の誰かを見ている。

 それに何故か酷く腹が立ち、少年は少女の腕を掴んだままの手に力を込めた。無意識に熱を放っていたのか、じわりと滲むような痛みに少女はやっと顔を上げる。そうして彼は口を開いた。

 

「荼毘」

「……?」

「いつまでも“おねむり君”じゃうざってェからな。今後は荼毘で通すことにした」

 

 荼毘。遺体を火葬にして弔うこと。その意味を、その名を名乗るに至った少年の経緯を、想いの全てを、少女は知るよしもない。

 

「おまえの名前は?」

 

 そうして少女の名前も、少年は知るよしもない。

 

「……わたし、名まえ、ない」

「あ? ンなわけないだろ」

「わたしは名まえ、ないほうがいいって……」

 

 名前とは記号。その人がその人であると認識するために呼ぶもの。少女が持つ“個性”の発動条件を探るため、かつて保護された公安ではさまざまな“個性”調査が行われていた。少女に自分自身の名前を名乗らせない、他の誰の名前も知らせない、というのもその一環だ。“個性”発動のトリガーが名前による認識が必要かどうか探るため、少女は名前から遠ざけられたのだ。それからもう、何年も、彼女は自分の名前を耳にしていない。

 

『……ッ愛依(あい)!!』

 

 いつかそんな風に、あの人に呼ばれたような気もしたけれど、きっと空耳だったのだ。少女は朧気な願望を振り払い、そっと息をついた。

 

「わたしの、“こせい”はね。……【いぞん】っていうんだって、オールフォーワン先生に教わったの」

 

 自分と心を通わせた相手の“個性”を奪い、我が物とする。自分の【自己再生】も【譲渡】も【翼】も、全てだいすきな人たちから奪ってしまったものなのだと、そう少女は訥々と口にした。悔恨と罪悪感が彼女の声を暗くする。

 

「わたし、空っぽだから、……名まえもないほうが、いいの」

 

 ほの暗く呟いて、口許に諦めたような笑みを乗せる。そんな少女を見下ろして荼毘はふーんと目を細めた。

 荼毘は少女の名前を知らない。名前を押し隠すに至った経緯も、その時の慟哭も、想いの全てを、彼は知るよしもない。特に関心もないから知らなくてもよかった。

 “どうでもいい”から、言ったのだ。

 

「別に、おまえに名前があったっていいだろ」

 

「……え」

 

 驚いて呆ける青い目が、大きく見開かれる。その目に自分が映っているのが、何故か酷く愉快だなァと、荼毘は口角を吊り上げた。

 

「……で、でも、」

「要は【依存】が発動しなけりゃいいんだろ? 安心しろよ」

 

 少女の細い肩を掴んで、俯きそうになる視線を無理やり上げさせた。空を閉じ込めた瞳と、夏の日の海のような瞳が交錯する。2つの青が、違う想いを燃やして、ぶつかる。

 

 

「俺はおまえのことなんか、“どうでもいい”としか思えないから」

 

 

 そうして荼毘となった少年が告げると、少女の瞳は瞬いた。失望と、悲嘆と、それと同じくらいの歓喜と安堵に輝いた。その光があまりに滑稽に見えたから、だから荼毘はその言葉を口にする。

 

「……(くう)

 

「……くう?」

「おまえの名前。次からそれを名乗れよ。名前がないのもないで面倒だ」

「……空、わたし、空……?」

 

 まるで与えられた飴玉を舌先で転がすように、少女は何度もその単語を口にした。確かめるように、何度も、何度も。……その様を見やって荼毘は少女の肩から手を離した。突き放すように、言葉を重ねる。

 

「自分のこと“空っぽだ”って言うんだから、お似合いだろ」

「……、うん」

 

 突きつけられた言葉の切っ先を静かに受け入れて、少女は、空は微笑んだ。年相応の幼さや甘やかさはどこにもない。諦めに凪いだ、静かな湖面のような笑みだった。

 

「うん……、……あの、荼毘」

「何」

「……ありが、とう」

 

 荼毘はそれに、返す言葉を持たない。だから黙って暗い夜の底を歩いた。空となった少女もまた、一緒になって着いていく。行く先もわからず、ただ、此処ではない何処かへと。

 

 そうして辿り着く未来がどうなるのかなんて、まだ、何も知らずに。

 

 

if√ 02.名無しの迷子たち

 

 


 

 おねむり君→荼毘への口調の変化がわからず頭抱えていました。でも書きたいところをいっぱい書けて個人的には満足です。ただもうちょっと凄惨な描写ができたらよかったんですがメンタル的にも技術的にもクソザコ作者にはこれが精いっぱいでした。ご容赦ください……。

 めちゃくちゃ個人的な解釈では荼毘はオリ主に対して塩&塩&形容しがたい何かみたいな感情を抱いてるのでそれが今後も表現できたらと思っています。また読んでいただければ嬉しいです!

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