87.少女、踏み出す。
ワイシャツの替えを数枚、寝る時用のTシャツとショートパンツ、下着にタオル、歯ブラシなどのトラベルキット──クローゼットや棚から取り出したそれらを鞄に詰めていく。留め具の革細工がレトロでかわいい、林檎のような赤色のキャリーケース。それは夏休みに入る直前、来たる林間合宿に備えて目良さんが買ってくれたものだった。
「……なんだか、不思議」
あの買い物は一ヶ月半前のことだというのに、ずいぶん昔のことのようにも、つい先日のことのようにも感じる。
あの夏の日。まばゆいディスプレイの中で一際目を引いた赤いキャリーケース。“派手で、綺麗で、わたしには似合わない”と視線を逸らしたわたしの背を、目良さんはとんと促すように叩いてくれた。
『、目良さん?』
『こういう買い物はね、一目惚れしたものを買うのが一番なんです』
多分ね、なんて言ってふっと浮かべた笑顔も。そんなやり取りをしたことも。キャリーケースを手にした時のそわそわした気持ちと、胸に溢れた嬉しさも。まだ色褪せることなく思い出せる。
懐かしいなあ、と目を細めそうになって、いけない、と気を取り直した。両手で頬を軽く叩いて、深呼吸をひとつ。
「……うん、よし」
今は、あたたかな思い出に浸る時じゃない。
ちゃんと前に進まなきゃ──進もうと、決めたんだ。
その気持ちを新たに支度を終えたわたしは、キャリーケースを手に部屋を出た。エレベーターに乗り込み、1階へ。扉が開いた途端に、ざわざわと賑やかな声が飛び込んできた。
「ケンカして」
「謹慎〜〜〜!?」
「……え?」
“ケンカ”、“謹慎”……朝から聞くには穏やかじゃない単語に、わたしは足早に声の方へと向かった。いつもならみんなの楽しげな声が弾む食堂には今、驚きや疑問、呆れのざわめきが広がっている。
「馬鹿じゃん!!」
「ナンセンス!」
「馬鹿かよ」
「骨頂──」
「ぐぬぬ……」
みんなの視線の先にいたのは爆豪くんと緑谷くんだった。爆豪くんはギリギリと歯軋りをしながら、緑谷くんは渋面を浮かべながら、どちらも掃除機を掛けている。……その顔や腕には幾つもの湿布や絆創膏、包帯が巻かれていた。
「謹慎って、いったい何が……?」
「何でも昨日の夜中、2人で寮抜け出して喧嘩したんだってよ」
「え、」
「しかも“個性”使ってバトったってよ!」
「いやどんだけ血気盛んなん?」
砂藤くんが説明してくれた経緯に、峰田くんが青褪めた顔で付け足し、瀬呂くんが苦笑しながら肩をすくめる。彼らの話を聞いて改めて爆豪くんたちを見れば、あんなにも怪我だらけなのにも納得がいった。
……それにしても、“喧嘩”か。
「えええ、それ仲直りしたの?」
「仲直り……っていうのでも……うーん……言語化がムズい……」
「よく謹慎で済んだものだ!!」
お茶子ちゃんや飯田くんと話す緑谷くんは、何とも言えない顔で眉を下げている。きっと彼の言う通り、上手く言葉になりきらないんだろう。
思い出すのは、雄英入学当初の戦闘訓練。対峙する爆豪くんと緑谷くん。訓練の域を超えるほどの攻撃。ぶつかり合い。焦燥に焼け切れそうな顔をする爆豪くんと、それを真っ向から受け止めようとする緑谷くん。
ただの“幼馴染み”というにはあまりにも、2人の間に行き交う眼差しは苛烈だった。
(……それに、)
わたしの心に引っ掛かるのは、それだけじゃない。
『……オールマイトが静岡県に来てからしばらくして、デクは“個性”を発現させた。
オールマイトに似た、【超パワー】の“個性”だ』
暗がりに沈む赤色の目を思い出す。その声は低く、静かで。わたしにオールマイトについて問い掛けながらも、そのくせ確信を得ているような声だった。
“個性”が衰えたと言われるオールマイト。彼と入れ替わるように【超パワー】の“個性”を発現させた緑谷くん。きっと誰よりこの2人を見続けていた爆豪くんだから気づいた。気づいて、思い悩んで、そして──わたしは踏み込めなかった場所に、彼は踏み込んだのだろう。
「……あの、爆豪くん、もしかして、」
「うるせェ」
1人で掃除機を掛け続ける彼に問いかけるも、返答は短く切って捨てられた。視線を寄越しもしない。けれどその声の響きに感じるのは、拒絶とか怒りとか、そんなのじゃなくて。
「……話すことなんざ何もねー」
話せることは何もない──言い換えればそれは、否定することもないということ。
「……そっか、」
きっと彼は、確信を得たのだろう。傷だらけで不貞腐れた横顔は、けれどどこか憑き物が落ちたように穏やかに見えたから。だからわたしもそれ以上踏み込まずに、頷いて笑った。
「じゃあ掃除、よろしくね。頑張ってぴかぴかにしてね」
「んっとにうるせェなてめェはよ、──」
ようやく顔を上げた爆豪くんのこめかみに青筋が走る。けれどそれも束の間、彼はわたしの姿を──荷物を見て、訝しげに眉を顰めた。
「……ンだその荷物。どっか行くんか」
「ああ、うん。3日間ほど校外に」
「ムム!?
「だ、大丈夫だよ飯田くん。学校側から公休の許可も出てるし」
「公休!? えーどったの急に」
「何をしに行くの? 愛依ちゃん」
首を傾げた梅雨ちゃんの緑がかった黒髪がさらりと揺れる。それに頷き返して、わたしは笑って、手にしたキャリーケースを握り締めた。
「うん、──ちょっとリカバリーガールの、お手伝いに」
“リカバリーガールのお手伝い”、というのは間違いではないけれど、丸ごと正しくはない。より正確に言うならばわたしは“リカバリーガールと共にオールマイトの治癒に当たる”ため、雄英を出てここセントラル病院に来ていた。セントラル病院は日本トップレベルの医療機関。わたしも神野後にお世話になったけれど、勤める医療スタッフの方々の腕も、医療器具を始めとする環境も申し分ない。
ここでなら、より安全に、確実に──オールマイトの失われた臓器を、再生できる。
「空中」
「! はい、リカバリーガール」
深い青の術衣に袖を通し、同じく術衣を身に纏うリカバリーガールに向き直る。彼女はマスクから覗く目を、静かに細めた。
「施術の手順は頭に入ってるね? 復唱してみな」
「はい、オールマ……患者に全身麻酔を施した後、医師の方々に開腹手術を行っていただきます。そして現在ルーワイ法で繋いでいる食道と空腸を切り離し──その空白部分に本来あった胃をわたしの“個性”で再生します」
そしてその後は呼吸器官も同様に。
先日リカバリーガールたちと共に検討した術式は、セントラルにも確認してもらっている。本来ヒトが持つ細胞では胃の再生は不可能だ。けれどその不可能を、わたしの【自己再生】と【譲渡】で超えていく。これまでのわたしの治癒を分析・検討してきた医師会でも“再生可能”と判断された。万が一のことがあればすぐに対応できるよう、歴戦の医療スタッフに最高の環境、そしてリカバリーガールもいてくれる。
だから後は、実践するのみ──そう意気込むわたしの肩を、ぽん、とリカバリーガールが叩いた。その小さな手は柔らかく、ひどくあたたかくて、……それだけ自分の身体が強張っていることに気付かされた。
「空中。緊張するのは、何もおかしいことじゃゃないよ」
「……リカバリーガール、」
「人の身体に、命に、人生に関わることなんだ。身構えるのも当たり前さね」
むしろその気持ちを忘れてはいけないんだよ。
そう、リカバリーガールが諭すように口にする。わたしなんかより何十年も長く、広く、深く、人々の生き死にに触れ続けてきた人が、穏やかに目を伏せる。
「“患者に何かあったら”……その恐怖があるからこそ、私たちはこう思えるのさ。──“患者を救けるため、全力を尽くしたい”と」
彼女は続けて説く。
命を預かる者としての責任、使命感、……それは自分を揺らがせないための重石にも、自分を丸ごと押し潰さんとする重圧にも成り得るのだと。
「良くも悪くも、重いだろう?」
「……はい」
「怖いかい?」
「…………、は い」
「いいんだよ、それが自然さね。……だがね空中、これだけは覚えておいで」
【治癒】の“個性”を持つヒーロー、だけじゃない。
現場で
「他にも数えきれないくらい、沢山の人々が命に関わっている。あんたも知っているだろう?」
「は、はい」
「……こんな“個性”を持っているとね、“自分がひとりで何とかしなきゃ”って、傲慢にも思ってしまうことがある」
だからこそ、忘れてはいけないよ、と。リカバリーガールは切に言葉を継ぐ。
「重圧を共に背負おうとする人が、必ずいる。
だから空中、あんたはひとりじゃない。ひとりには、絶対にならない」
「……ひとりには、ならない……」
「そう。
手術室の扉が開く。先に手術に取り掛かっていた看護士さんが、患者の全身麻酔が完了したと、わたしたちの出番だと告げる。
わたしはそれに頷いて、リカバリーガールを見た。厳しくもあたたかい、優しい眼差しに、背中を押してもらえた気がした。
「──リカバリーガール、よろしく、お願いします」
自分ひとりで命を背負うのではなく。
みんなと一緒に戦うのだと。
教えてもらったことを胸に足を踏み出す。手術室はひやりとした冷気と緊張感で満ちていた。無影灯が照らす部屋の中央には、手術台に寝かされた患者──オールマイトがいる。そしてその周囲に立つ医療スタッフは、誰もが真剣な眼差しをしていた。
(……皆さんが、オールマイトを救いたいと考え、思って、この場に臨んでいる)
長年この国のトップヒーローとして立ち続けたオールマイトは、その力と笑顔と志を以て【平和の象徴】と謳われた。その影響力は日本に留まらず広く海外にも及び、数多の人々の道を照し、救った。
──そんな彼が救われないなんて、あってはならない。
それはわたしだけじゃない、……ここにいるみんなが、そう思っているんだ。
『
脳裏に響くリカバリーガールの言葉に、拳を握り締める。目の前では澱みなく開胸手術が行われ、縦割りされた胸骨を開胸器で開くのが見えた。
カルテで見た凄惨な傷痕が──それでも必死に英雄の命を救おうとした人々による手術痕が、見えた。
「空中」
「、はい」
足を、踏み出す。まだ少し震えてはいるけれど、それでもいいのだと先ほど言ってもらえた。
緊張するのも恐怖するのも、おかしくない。
それをひとりで背負うことはないと──その言葉が、わたしの歩みを進めてくれる。震える手を、それでも伸ばそうと思える。
傷口に、命に、触れられる。
「“個性”を、使用します」
細く長い呼吸をひとつ。それからわたしは指先に意識を集中させた。切断された食道、その断面部分の細胞を脱分化させ──本来あった形をなぞるように再生させていく。左手も空調の辺りに触れて、食道・胃・腸が繋がるように、少しずつ、少しずつ。
「……は、ッ……」
新たに生まれては形を変えていく細胞が、空白を埋めて、やがて繋がる。疲労と安堵に溢した息と、わたしの背後で小さくさざめいたざわめきが共に手術室の空気を揺らした。
「空中、一度お下がり」
「……っ、リカバリーガール」
「よくやったね。胃の再生はできた。これから引き続き呼吸器官の治癒に移るが、いけるかい?」
手術台から距離を取ったわたしと入れ替わりに、医療スタッフさんたちが次の行程を進めている。その頼もしい後ろ姿を見て、背中を支えてくれるリカバリーガールの手のあたたかさを感じて。
「……はい!」
わたしは震える声で、それでも強く、頷いた。
───
「……あれ……」
ふ、と意識が浮上した時には、わたしは見知らぬ部屋の中で寝かせられていた。清潔かつ簡素な調度品や、丁寧にベッドメイクされたシーツ、……セントラルの仮眠室だろうかと当たりをつけたところで、脳裏にこれまでの記憶が甦ってくる。
……そうだ、わたしはさっきまでセントラル病院の手術室で、オールマイトの失われた臓器の再生を──!
「……!」
わたしはがばりとベッドから跳ね起き、部屋の隅に置かれていた靴を履いて部屋を飛び出した。廊下を進み、ナースステーションに呼び掛ける。
「あ、あの、すみません、オールマイトの病室はどちらですか……!?」
「え? あっ、空中さん!」
「まだ休養していなくては……! “個性”を使った反動なのでしょう?」
「いえ、わたしはもう平気なので……それより彼の容態は……!」
彼の細胞を元に再生させた臓器だから問題ないだろうとは聞いているけれど、万が一拒否反応が起きてしまったら──その考えがわたしの声を焦らせる。そんなわたしを見て戸惑う看護師さんたちが、どうしたものかと互いに視線を通わせる、その時だった。
「ちょいと落ち着きな、嬢ちゃんよ」
背後から聞こえてきた声に振り返れば、こちらを見上げる鋭い目と目が合った。白と黄色を基調としたヒーロースーツに身を包む、そのお爺さんには見覚えがある。
「グラントリノ、さん……」
「おう、久しぶりだな。で……あいつを心配してくれるのは有難いが、看護師さんたちを困らせちゃあいけねぇ」
「あ……すみません、取り乱しました……」
そうしてわたしが頭を下げると、ふ、と微かに笑う声がした。再び振り返れば、先ほどよりうんと柔らかく、グラントリノさんの目が弧を描く。
「俊典の病室なら俺が知ってる。一緒に行くか」
「は、はい! お願いします」
頷いたわたしに頷き返し、グラントリノさんは「こっちだ」と踵を返す。鮮やかな黄色のマントが揺れるのを追いかけながら、わたしは彼に問い掛けた。
「あの、オールマイトの病室をご存知だということは、お見舞いに行かれたんですか?」
「ああ、まだグースカ寝こけてやがったがな」
「! じゃあ……!」
「拒否反応もなく、無事に手術は成功した。そう聞いてる」
「……! よかっ、た……」
“無事に手術は成功”、……その言葉に安堵の息を漏らした。自ずと頬がふやけて、緩むのを止められない。
「……ありがとよ」
そんなだらしない顔をしているわたしに、それでもグラントリノさんは笑わず、ただ呟くように言った。静かに落ちた声が、無人の廊下に響く。
「……グラントリノさん?」
「あいつが幾つもの臓器を持って行かれちまった時、俺ァ何もできなかった」
──弱り、痩せ、衰える身体を引き摺ってなお、平和の象徴として戦い続けようとするあいつを、引き留めることさえ、何も。
「空中、……おまえさんが治してくれて、ようやくあいつの身体は癒えた。それが……ああ、思いのほか、ほっとしてなァ」
見下ろした横顔は、微笑んでいた。それはあたたかく、安堵にほころび、……けれどどこか、苦しそうに見えた。
わたしはグラントリノさんのことを何も知らない。彼とオールマイトがどういう関係なのかも知らない。けれど、先ほど彼が零した“何もできなかった”に、深い時間と重ねた悔恨を感じて。
「……あの、少しだけいいですか」
「何だ?」
「わたし、今回のことでリカバリーガールに教わったんです。“命を背負うのはひとりではない”って」
その悔恨を、少しでもほどけたら。
わたしはそう思い、小さく微笑んだ。
「わたしが治癒に臨んだ時、たくさんの人たちが一緒に戦ってくれました。
それと同じに、オールマイトが戦い続けた傍らに、あなたがいてくれたのだと思います」
グラントリノさんの目が少しだけ丸く、大きくなって。それからくしゃりと細められた。
「……生意気言いやがって」
「あっ、ご、ごめんなさい……?」
「謝るこたァねェ。……なんだ、堂々としてんのかビクビクしてんのか、どっちかわからん嬢ちゃんだな」
おかしそうに呵呵と笑うグラントリノさんに、わたしもつられて笑った。廊下を進む足音と共に、軽やかに声は風に溶けていく。
───
グラントリノさんと共にオールマイトを見舞った初日、彼はまだ病室のベッドで深く眠っていた。けれどその顔色は良く、再生した臓器の調子も良好なのだとわかって、改めて安堵したのも記憶に新しい。
とはいえ初めて他人の臓器を“個性”で再生したのだ。容態が急変するかもわからないし、まだ経過観察は必要との判断で、わたしは数日セントラル病院に滞在することになった。オールマイトの容態を看るのと並行して、今回の手術についてのレポートを書いたり、リカバリーガールとセントラル病院の許可を得て患者さんを治癒したり、オペの見学をさせていただいたり、雄英高校の課題や予習をしたり。
そんな風に過ごした、3日目のことだった。
「オールマイト先生、こんにちは。お加減はいかがですか?」
「ああ空中少女! いらっしゃい」
“だいぶいいよ”、と答えてくれた言葉通り、オールマイトの容態はここ数日で着実に快方に向かっている。それに“よかった”と微笑んで、ベッドサイドに椅子を引き寄せ、腰掛けた。
「消化器官の調子も良いって、看護士さんに伺いました。もうお粥も卒業ですね」
「それは嬉しいね……! そろそろ焼き立てのパンが恋しくなって、夢に見そうなところだったんだ」
この調子で回復したなら、再生した胃も呼吸器官も問題なく動く。そしたらもう、身体への負担を考えることなく、彼は好きなものが食べられるはずだ。
そのことが嬉しくて、わたしの声が自ずと弾む。
「ふふ、はい! ぜひ、いっぱい食べてくださいね」
少し涼しくなってきた9月の風が、病室の白いカーテンをはためかせる。その風はわたしの羽根を、オールマイトの金髪を揺らした。
「……空中少女、」
その金髪の隙間から、落ち窪んだ眼窩から、透き通った碧眼が覗く。その目は真っ直ぐわたしを捉えて、それから深く頭を下げた。
「!? オールっ、」
「本当に、本当に、ありがとう。空中少女」
「いえ、わたしは……」
慌てて言い募ろうとするわたしを視線で制して、オールマイトはゆったりと口を開いた。
「失われた臓器を再生するほどの治癒は、これまでの例にない。その領域に踏み込むことは、恐れもあったことだろう」
ゆったりと、ゆっくりと紡がれる言葉。それは優しい雨粒のようにひとつひとつ心の湖面に落ちて、波紋を散らす。
「私は、君の勇気に敬意を表する。そして同時に、心からの感謝と──約束を」
「……約束?」
「……空中少女、君はこれから、数多の人々の願いに直面することだろう。それは君を後押しすることもあるだろうが、決して、それだけに終わらない」
──いつか誰かの願いが、君を、押し潰してしまうかもしれない。
「オールマイト、先生……」
「……その時に私は、必ず君の力になると誓おう。君の願いが、歩きたい道が、誰かによって捻じ曲げられることのないように。私の持ち得る全てを尽くそう」
「、でも」
それでは、オールマイトに負担が掛かってしまう。ここまで命を燃やして戦い続けてきた彼を治したのは、決して無理をさせたいからじゃない。
「オールマイト、あなたはもう、充分すぎるほどに戦ってきました。みんなを救って、守ってきました。あなたの姿に憧れて、数多のヒーローが生まれました。だから──」
だから、もう、
そう続けようとしたわたしに、オールマイトは口許に人差し指を立てた。“Shhh……”と、茶目っ気を帯びた青い目が笑う。
「空中少女、……少しだけ、ナイショ話をしよう」
にやりと口角を上げて笑ってみせたオールマイトは、次いで穏やかに目を細める。
「君の治癒は傷や病を癒すが、それだけじゃあない。癒しと共に、活力をも与えるものだ」
「活力? 体力のことですか?」
「そうだけど、それだけに留まらない。雄英の期末試験と、I・アイランドで事件と、神野と、今回。これまで4度君は私に治癒を施してきた。
その度に、私は君に力を貰っていたんだよ。──まるで、
「火継……? それは、どういう……」
オールマイトの言葉は抽象的で、わたしにはよくわからない。彼も詳しく伝える気はないようで、ただ微笑みに続く言葉を隠した。
けれどその笑顔は、瞳の輝きは、どこまでも強い。
「……フカフカのベッドで安眠を取るのは、もう少し先ってハナシさ」
決して強い口調でも、台詞でもない。むしろジョークじみた柔らかい言葉だ。……それなのにどうしてこうも、気圧されてしまうのか。わたしは息を飲んで、オールマイトを見つめ返した。
痩せこけた頬。身体。落ち窪んだ眼窩。
──瞳の奥にはまだ、炎が燃えている。
「……いい加減、休んでくれたっていいんだけどなぁ」
苦笑じみた声が入り口から聞こえて、わたしは我に返って後ろを振り返った。そこにはトントン、とドアをノックしながら立つ、塚内刑事の姿が。
「何を言うんだい塚内くん! 私はまだまだ現役だぜ!?」
「ちょっと前まで血を吐いてた奴に言われると説得力が違うね」
軽快に会話を交わす様子から察するに、彼らはヒーローと警察の垣根を超えた友人なのだろう。そう判断してわたしは慌てて席を立った。
「すみません、長居してしまい……わたしはそろそろ失礼しますね」
「ああ、すまない空中さん、少しいいかい?」
「、はい?」
呼び止められて塚内さんを見上げると、彼は丸い目を柔らかく微笑ませていた。
「……彼は偉大なヒーローだけど、大切な友人でもあるんだ。……救けてくれて、ありがとう」
……きっとこれまで重ねてきた日々や思い出、心配や安堵や喜びの気持ちが、綯い交ぜになって込み上げているのだろう。そんな瞳と声をしていたから、わたしは何と言ったらいいかわからず、深く深く頭を下げた。そんなわたしの頭上に、ふ、と優しい微笑の声が降ってくる。
「よければ外にいる
「
「ああ。みんな君のことを心配していたし、感謝していたから」
「? はい」
塚内さんとオールマイトに再び頭を下げて、病室を後にする。
「猫の手手助けやって来る!」
「どこからともなくやって来る……」
「キュートにキャットにスティンガー!」
その声は病院の中だからか、以前よりずっと小さかった。けれど聞き間違うことなんてない。個性溢れる3人の声も、口上も、確かに聞いたことがある!
「「「ワイルド・ワイルド・プッシーキャッツ!」」」
「ラグドール、虎、ピクシーボブ……!」
びし!といつものポーズを決めてみせた彼らに駆け寄ると、3人はそれぞれの笑顔を浮かべて出迎えてくれた。虎の大きな手がわたしの肩を叩き、ピクシーボブが頭を撫でて、……
「、……ラグドール」
「……ごめんね、空中さん」
ラグドールが、そっとわたしの手を両手で握り、額に押し当てた。快活な彼女らしくない静かな声の底に、苦しげな響き。わたしは夏の日を思い出す。
林間合宿の肝試し中に起こった
「私はあなたのおかげで無事だった。けど──」
「……大丈夫です。ラグドール」
ちゃんと、今、わたしは生きてここにいる。
無事に戻ってきて、また歩き出している。
そのことを改めて言葉にすると、ラグドールは小さく息を飲んだ後、顔を上げてくしゃりと笑った。下がった眉には不甲斐なさも込められていたのかもしれない。けれど彼女はそれ以上俯かず、さまざまな感情を飲み込んで笑ってくれた。
「……そういうことなら、さっそく快気祝いだにゃん!」
「えっ? ええと、でも、」
「そんなに固くならないでいいわよ。ちょっとしたものだもの」
「遠慮はご無用ー!」
「わっ! ……ふふ、はい」
遠慮しようとしたわたしにピクシーボブが笑い、廊下の先の自販機を指差す。続けてにぱっと笑ったラグドールが跳ねるような足取りでわたしの背を押した。目を瞬かせるわたしに、虎がふっと微笑む。
「空中、何がいい? 奢らせてくれ」
「え、と……ありがとうございます。じゃあ、コンポタで」
「コンポタ? 熱いやつしかないわよ?」
「はい。でも好きなので」
別の飲み物が嫌いってわけじゃないけれど、どうしても自販機といえばコンポタが結び付いてしまう。わたしが昔を思い出して笑えば、ピクシーボブはふうんと相槌を打った後、“まぁ夏のコンポタもオツなものよね”と笑った。
そうしてわたしは虎から買ってもらったコンポタを受け取り、プッシーキャッツたちと共に自販機近くのソファーへ腰を下ろす。虎は豆乳、ピクシーボブはレモンティー、ラグドールはカフェオレ、……とそれぞれに視線を巡らせて、わたしはひとつ息をつく。
「そういえば、マンダレイはご一緒じゃないんですね」
プルタブを開けて、コンポタをちびちび飲みながらわたしは問い掛けた。四位一体といっても過言じゃないプッシーキャッツの一角が欠けているのはやはり気になる。わたしが首を傾げると、同じ向きに首を傾げながらラグドールが答えた。
「マンダレイはね、しばらく洸汰と一緒に雄英に滞在するんだにゃん」
「今頃向こうに着いてるはずよ」
「え、……」
“どうして”と疑問が浮かぶと同時に、思い当たることもあって。わたしは小さく息を飲んで呼吸と思考を整えた。
「……先日相澤先生に聞きました。プッシーキャッツも
「ああ」
そうだ、と虎が頷く。虎曰く神野事件の頃から既に塚内さんから打診があったそうで、相談と検討を重ねた結果、明日から正式にプッシーキャッツとグラントリノたちがチームアップして捜索を始めるのだという。
「あちきの“個性”【サーチ】は、一度見た人の弱点や居場所がわかる。一度でも連合の姿を捉えたなら、いくら【ワープ】で逃げようったって丸裸にしてやるにゃん!」
「捜査にヘリを使わせてもらえるらしいからね。ラグドールの“個性”は捜索にうってつけってわけ」
「しかし相手は
「……だから、マンダレイが一緒にいることになったんですね」
両親のことがあって、ヒーローや超常社会そのものを毛嫌いしていた洸汰くんと、ヒーローであるマンダレイ。林間合宿で何があったかは知らないけれど、どこかぎこちなかった2人も向き合えるようになったのかもしれない。
そのことが嬉しくてわたしは頬をほころばせた。……それと同じくらい、思うことがあって。
「ありがとうございます、プッシーキャッツ。……どうか、お気をつけて」
「まっかせてにゃん!」
睫毛を伏せて、目を細める。それはきっと微笑みに似ていたから、ラグドールも笑って胸を叩いた。
「ま、そういうワケだから。あんたたちは安心して高校生を謳歌しときなさい」
──“高校生を謳歌”できるかは、わからないけれど。
それでもそれを口にはできなかったし、何よりピクシーボブたちの優しさが嬉しかった。だからわたしも“はい”って応えて、明るく笑って頷いた。
───
神野事件──
あの日、わたしたちはひとつの大きな終わりを迎えたのだと思っていたけれど、そうじゃなかったんだ。
緑谷くんとオールマイト。2人を繋ぐ大きな謎に踏み込んだ爆豪くん。
数多の追跡をくらませ、まだ逃げおおせている
連合を追う塚内さんやグラントリノ、プッシーキャッツ。
オールマイトもまた、まだ眠らないと瞳を燃やした。
それぞれの人が、陣営が、それぞれの思いを胸に行動を始めている。動き出している。
《今からあなたに、インターン中に課す任務について伝えます》
動き出す──それは、公安も同じ。
《これは公安からの秘匿命令になるわ。人払いは済んでいる?》
「っはい」
《ならば以後、返事はしなくてもいいわ。あなたに望むのは了承のみ。質問も不要よ》
セントラルに滞在する最後の夜。宛てがわれた部屋の中には既に探知用の羽根を舞わせていた。羽根は震えてない、わたし以外誰もいない、誰も近付いてこない──そのことを確認しながらピアスから流れる声に耳を傾けた。
《
この混乱の中、各地で数多の
固唾を飲むわたしに、公安会長の声は続く。
神野からたった1、2週間。その僅かな間で違法スーツ・アイテムの闇市場が需要の増加と共に活性化していると。
そうしたサポートアイテムを得て、計画を立て、徒党を組み、集団で社会に仇なす
《今や
彼女の瞳のアイスブルーを思わせる、氷のような声だった。凛として冷ややか、淡々と冷厳。
その声が、氷柱のようにわたしの鼓膜に突き刺さる。
《だからあなたに命じます。
ホークスの元でインターンを行いながら、
“はい”と応えることは望まれていなかったから、わたしは沈黙し続けた。けれど気持ちは既に決まっている。
わたしは神野事件に続いて仮免試験でも
(今のわたしはもう、
そういうことも含めて、ひたすら合理的だった。そうすればいい、そうするべきだと理解も納得もしている。
……わかっているのに、どうして。
(どうしてこんなに、喉が渇く)
羽根は震えない。わたし以外誰もいない。安心するべきこの場所が、何故か、暗く重いものに満ちているような錯覚を覚えた。
《……あなたが今思っていることを、当ててあげましょう》
押し潰されて、胸が苦しくて。カラカラになった喉で浅く息をしていたその時、そんなわたしを見透かすように、会長が言う。
《──“このことを、ホークスは知っているんですか”》
「……!」
息を飲む。それはきっと下手な言葉より雄弁だったのだろう。会長のつく溜め息には、わたしへの呆れや叱責が色濃く滲んでいる。
《相変わらずね。“感情に絆されてはいけない”と、何度言い聞かせればいいのかしらね》
「……すみません」
《謝罪は結構。……いえ、この際話してしまいましょう》
羽根は震えない。わたし以外誰もいない。
だというのに背中の翼が、ぶわりと毛羽立つ。
《今回の件についてだけど、ホークスも知っているわ。こちらで既に話は通してある》
「……そう、なんですね」
《意外かしら》
「い、え。そういうわけでは、」
《彼ならあなたにそんなことをさせないとでも思った?》
ひゅ、と喉の奥でいびつな音が鳴る。わたしは返すべき言葉を見つけられないで、ただ胸元を握りしめた。
《……彼の真意が聞きたいなら聞いてみなさい。
もっとも、
会長のその言葉を最後に、ピアスからブツッと通信が切れる音がした。それがやけに、夜のしじまを揺るがす。
「…………、」
掠れた吐息が、薄く開いた口から漏れる。平静を取り戻したくて何度も深呼吸を繰り返すけれど、上手く息が吸えた気がしなかった。どうしようもなく、息苦しい。
ぼうっとした頭で、わたしはスマホを取り出していた。指先で連絡帳を開けば、そこに【ホークス】の名前が載っている。
この名前に触れれば、電話が繋がる。
「……っ」
トップヒーローとして常日頃忙しくしているホークスに、わたしから電話を掛けたことはほとんどない。迷惑を掛けるのは嫌だったし、優しい彼に無理をさせるのも嫌だったから。
現時刻は22時。こんな夜遅くに、こんな急に、彼の時間を貰うなんて。
「……啓悟、くん……」
でも、それでも。たった一言でいい。“啓悟くん”って呼んだら、“そんな声してどうしたの”ってしょうがないなあと言いたげに笑って。
『愛依』
そうしていつものように名前を呼んでくれさえすれば、どんなことだって頑張れる気がしたの。
ぎゅっとスマホを額に押し当てて、目を瞑る。幾つもの葛藤に動けずにいたけれど、結局、わたしは震える指先で彼の名前に触れた。
わたしの弱さが、そうさせた。
じわじわと忍び寄る後悔や緊張、……ほのかな期待に、こくりと唾を飲みながらコール音が開けるのを待った。ホークスの声を待った、けれど。
《──おかけになった電話をお呼びしましたが、お出になりません》
端的な機械音と途切れたコール音に、わたしはゆっくりとスマホを下ろした。は、と吐息が溢れる。それは安堵でもあり落胆でもあった。
真っ暗になったスマホの画面を見下ろすわたしの脳裏に、氷の声が静かに響く。
『……彼の真意が聞きたいなら聞いてみなさい。
もっとも、
ああ、と声もなく呟く。まるで冬みたいだなあとぼんやり思った。凍えそうに寒くて、震えて、そのくせかじかむ指先は火傷したように熱い。
ようやく秋を迎えようとする9月の夜が、何故かこんなにも寒い。
「啓悟くん、」
この声に返る声を、待ち望んでいたけれど。
その夜も、朝が来ても。それから数日経っても、ずっと。彼からの電話が届くことはなかった。
87.少女、踏み出す。
ようやっとインターン編突入です。しぬほど時間掛かってしまった……
今回はそれほど話は動いていないのですが、オールマイトの治癒と決意、動き出す塚内刑事とグラントリノとプッシーキャッツ、そして公安という感じで書きました。ここに本筋の