小説版アマガミ ~森島先輩はそこにいる~   作:橘美夜

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フッカツ

 保健室に先生はいないようだった。室内はしんと静まり返っていて、見渡しても彼の他には誰も姿は見えなかった。先生が不在なので勝手にベッド借りようと思い、のろのろとカーテンに囲まれたベッドに近寄った。するとそのカーテンの合間から、白い脚を垣間見た。その白さは下の純白のシーツにも劣らないほど優美だった。おそらく女子生徒だろう。しばらくその脚に見惚(みと)れていると、にわかにもぞもぞと動き出した。起きたようだ。彼女が起き抜けのまどろみを未だはらみながらゆっくりと体を起こした時、その美しい脚の持ち主が彼には分った。

 寝起きにおいてさえも気品を保ちながら目をこすっている彼女を見ると、すぐさま彼の頭の中は昨日のあの夕方へと引き戻された。彼にとってこの目の前の光景は、ほぼ昨日の出来事と連続しているように感じた。だから、緊張で一気に体が強張った。

「あ、橘くん」

 彼女は立ち尽くしながら眺めていた彼に気づいた。

 彼はその声を聞くと一瞬で、否応なしに彼女の中の官能の世界に引き込まれた。彼はそれが好きだった。その世界そのものが。手を強く引っ張って連れ込まれる感じが。もはや虜になっていたと言ってもいいだろう。

 しかし、今ここにおいてその声の響きは相応(ふさわ)しくない軽さを持っていると感じた。

「どうしたの? どこか具合悪いの?」

「ちょっと調子が……」

「う~ん。顔色悪いね。大丈夫?」

「あ……はい、大丈夫です」

「本当に? なんかいつもと違うけど……」

 彼は彼女がいつも通りの会話をしようとしているのに違和感を持った。昨日のオレンジ色を帯びたあの出来事を少しも反映していない話し方が、彼にとっては不思議だった。

 彼女が少し天然で、恋愛がもはやいつもの日常の中にある百戦錬磨の人だということは知っていたが。

「橘くん? どうかした?」

「あ、ちょっと驚いちゃって」

「何が?」

「いや、それは、その、先輩にふられたのに」

「うん?」

 彼はいよいよ困惑を表情に表し始めた。その言葉の軽さが、尻上がりの言葉の調子が、彼にとっては今二人が置かれている状況に似つかわしくなさ過ぎると思った。

 そして彼は同時に自分の身を傷つけることになるとは知りながらも、思い切って「驚いた」訳を彼女に説明した。

「えっと、その、僕はきっぱりふられたので先輩とこうしてていいのかなぁって、急に思ったんです」

「ええっ? そうなの? なんで? 人付き合いって彼氏彼女だけじゃないと思うんだけど?」

 彼は自分が何を聞いているのかが分からなかった。

「私、実は結構、橘くんのこと気に入ってるんだけど、迷惑?」

 今にも眩暈(めまい)がしそうだった。森島先輩がこの学校の男子生徒を“振り回している”という噂を何度も聞いたことがあるが、こういうことなのかと改めて彼は実感した。

 昨日、彼女にはっきりと断られたことによって、彼がもはや彼女の内部どころか周辺の世界にすら近づくことが出来なくなったのだと考えたので、彼女のこの反応は彼の居場所を危うくし、足元をふらつかせた。

「そっか……そうだよね。ごめんね。私は良くても橘君は嫌だったよね」

 彼女は言葉を切った。 

「ひびきにいっつも怒られるんだ。もっと人の気持ちを思いやれって。ごめんね橘くん。無神経に話し掛けて迷惑だったよね」

 この時、彼は確かに一瞬だけ、閃光のきらめきを見た。

「そ、そんなことはないです!」

「え? あ、うん……」

「逆に僕から話し掛けたら迷惑かと思ってたくらいですから」

「あ、そうだったんだ」

「はい、まったく問題ないです」

「そ、そう? それじゃこれからもよろしくね。橘くん」

「はい。僕こそよろしくお願いいたします」

 そう言いながらも彼は今まさに自分が言った言葉とこの状況が信じられなかった。さっきまではあれほど地中深くに沈んで何の光も彼の心には差し入らなかったのに、こんな思いもよらない、喜ばしい手のひら返しがあるだろうかと彼は考えた。

 一方、彼女は「ふふっ」といかにも年相応の乙女といった、可憐な短い笑い声を漏らし、スカートの下からのぞかせているあの滑らかな脚を動かして、薄雪が風にゆらめくようにして歩き始めた。

「またね。あっ、お大事に~」

 と彼女は言い、保健室を出て行った。

 ベッドの横で彼はしばらく呆然と立ち尽くした。

 彼は先ほどの先輩との会話を頭の中で反芻(はんすう)しては噛み締めていた。道は消えてなどいなかった。彼女に相応しい恋人になるための道は、再び彼の目の前で燦然(さんぜん)と輝き始めたのだ。その光は次第に彼の心へも希望の光を灯し始め、にわかに彼の体内を温め始めた。血は鮮やかに力強く流れ始め、肉に張りをもたらし、今にも踊り出しそうな衝動を堪えているようだ。目には活力が蘇り、その奥に潜む輝きを反映して、彼には目の前にあるものが生き生きとしているように見える。

 もはや彼は今、自分が保健室にいる理由を忘れてしまっていた。

 未だベッドが視界の内にあったが、このまま横になって授業をさぼりたいなどという思考になるわけもなく、彼はこの瞬間、静止することを忌み嫌った。

 だから彼は、意気揚々と駆け出したい衝動を抑えながら、通る廊下を一つひとつ踏みしめるようにして教室へ戻った。

 

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