少し考え込んだ後、そろそろ教室へ戻ろうと思い、振り向きざま一歩踏み出した瞬間、見覚えのある顔がこちらを向いていた。
肩かそれよりも少し上くらいまで伸びているショートヘアー。
な、七咲……。
さっきまで森島先輩と話していた場所から、ほぼ隣ほどの距離だ。
七咲……さっきの話、聞いてたんじゃ……。
僕に真っ直ぐ向けられた目はクールで落ち着いた雰囲気を滲ませているが、目尻はまだ数か月前までは中学生だったということもあり、幼さを残している。
その視線からは何の感情も読み取れない。
僕は七咲の方へ歩み寄った。
い、一応聞いとこう。
「よ、七咲」
「先輩。こんにちは」
「ずっと僕のこと見てたけど、どうしたの?」
「……先輩と森島先輩って仲が良いんですね」
やっぱりだ! これは聞かれてるパターンだ!
めちゃくちゃ恥ずかしい!
しかし、相変わらず七咲は何事も意に介していないという表情のままで「すっごく意外です」と、表情と裏腹なことを言った。
あくまでさっきのことには触れないつもりか。
それとも遠回しに言ってるのか。
「い、意外かな?」
「はい。だって先輩と森島先輩って普通に生活してたらどこにも接点なさそうじゃないですか」
「ま、まぁ……、いろいろあったんだよ」
もうこうなったらこちらから釘を刺しておくしかないと思い「……あの、七咲、頼むからさっき先輩と話したことは誰にも言わないでくれないか」とできるだけ声のトーンを落として、目の前の後輩に対して言った。
「え? 何のことですか?」
んん?
これはまさかの反応だ。
僕の思い過ごしだったか?
そうか、それなら……よし。
「い、いや、聞いてなかったならいいんだ。もしかしたらさっきの話が聞こえてたかなと思って」
「そうですか」
ふぅ、良かった。危うく森島先輩へ勇気を振り絞って放った、告白じみたセリフを言いふらされるところだった。もし七咲が聞いていてそれを一年の生徒たちに、そしてその生徒たちが二年の生徒たちに広めていたらと考えるとぞっとした。もし美也に伝わっていたらと考えると違う意味で恐ろしかった。
森島先輩にまだオーケーをもらってないんだ。先輩と付き合ってからなら、むしろどんどん噂を広めてもらって、下校の度に生徒という生徒に指を指されたいと思うけど、まだこの一世一代の恋は成就していないんだ。それまでは誰にも邪魔されたくない。今度こそ、上手くやるんだから。
七咲逢(あい)の胸はまだ騒いでいた。トレイに乗った目の前の昼食にもはや手を付けられなくなっていた。彼女の目は食器に描かれた装飾に一心に注がれている。
普段はどちらかと言えば真面目で現実的な彼女がこんな風に放心してしまったのは、さっき彼女に話し掛けてきた男子生徒のせいだ。それと、彼と話していた女子生徒の。
水泳と家の手伝いで日々の生活が埋め尽くされている彼女にとっては、先ほど彼女のほぼ隣で起こったことは、一旦自分の現実を疑うほどに、彼女の日常からかけ離れた世界だった。
二人とも、七咲とよく顔を合わせる知る知り合いだった。それが余計に彼女の心に衝撃の余韻の尾を伸ばしている。
彼ら二人の間で交わされたのは、紛れもなく恋についてだった。
恋。
その言葉は、彼女にとってはっきりしない色々なものを心の中に響かせた。
温かくて、どこかむず痒くて、少し心地いい……。
こんな気持ちは久しく味わっていなかった、彼女はそんな気がした。
というより、これまで自分が歩んできた人生の中ではっきりと「これが恋だ」というものを味わったことがあったろうかと、この不思議な気持ちの足跡を心の中に探し求めた。
予鈴のチャイムが鳴った。
彼女ははじめて我に返って、トレイを返却口に返しに行った。
教室へ戻っている時も彼女の体は火照(ほて)ったままだった。その体の中で、先ほど薄っすら聞こえてきた言葉が、延々と終わらない反響のように繰り返されていた。それに彼女は為す術がなかった。
「じゃあ橘君はどういう人がタイプ?」
「私も教えて欲しいなぁ」
「ねえねえ」
「ほら、やっぱり言えないじゃない」
「先輩です」
「ああ、年上がタイプってこと?」
「違います。森島先輩がタイプです」
「え?」
「森島先輩が好みの……いえ、理想のタイプです」
「ふ、ふぅ~ん、そうなんだ」
教室に戻った後、今彼女の心を悩ませている男子生徒の妹が様子を窺って心配そうに話し掛けて来ても、言葉少なに返すしかなかった。