小説版アマガミ ~森島先輩はそこにいる~   作:橘美夜

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キントレ

 こんな風に自宅の床で這いつくばってどんどん重くなっていく両腕を曲げたり伸ばしたりして何の意味があるのかと聞かれたら、たぶん答えられないかもしれない。突然、何かに駆られたように腕立て伏せを始めてみたが、自分の身体のあまりの貧弱さに驚いた。

 確かに僕は高校に入学してからというもののずっと帰宅部で、これまで運動する習慣は体育の時間以外はほとんどなく、学校から家に帰ってきてやることといったら漫画を読むか、ゲームをするかくらいだった。そんな自分が急にとってつけたように運動習慣なんて付くわけがない。それは仕方のないことだ……とは思うが、それでもその生活習慣をさっぱりと変えたいと思うだけの理由が今の僕にはある。

 床に敷かれたカーペットが目の前に迫(せま)って来ては離れる。腕を曲げたり伸ばしたりする回数を重ねる度に、床が迫ってくる速度は遅くなる。視線を利き腕の方へ向けると、腕の筋肉が限界を訴えるように小刻みに震えている。

 僕はもうこれ以上はダメだと思い、一気に脱力して荒々しく倒れた。仰向けになりながら冬の凍てついた部屋の空気を吸っては暖かい空気に換えて吐き出した。

 僕の身体は、ここ数年の間で味わったことがないほどに疲れ切っていた。

 風呂に入ってこの体中に纏(まと)わりついている汗を流そうと立ち上がり、自分の部屋を出ようとした。

 するとドアを開けた瞬間、ちょうど美也が階段を上がり終わって自分の部屋へ入ろうとするところだった。

 美也は僕の姿を見るなり、

「うわぁっ、汗びっしょりじゃん!」

 と高い声で言った。

「部屋で何してたの? ……まさか……っ! にぃに、いくらお宝本が好きだからって……」

 そんなわけないだろ。

 僕は軽く美也をあしらって風呂に入りに行った。

 

 

 今日のシャワーは格別に気持ちがいい気がした。身体の奥に溜まっていた余計なものが下へと流されていくような、そんな爽快な心地だった。そんな気持ちになったとほぼ同時に、やっぱりこの努力は無駄ではないと思った。

 湯船に首まで浸かる。風呂に入るときは、まず腰を前にずらして一気に体を温めるのがいつもの僕の入り方だ。

 最近、こうして風呂に入っているとほとんど必ず、ある一点へと向かって思考が収斂(しゅうれん)される。日常の様々な雑念だけを綺麗に取り除いて、今の僕に必要なものだけが浮かび上がってくるように。

 ――初めてだ。

 今日、初めて森島先輩と一緒に帰った。

 今のこの気持ちをどう言葉にすればいいのか分からない。しかし、これまで遠くから眺めることしかできなかった非日常がすぐそばまで近づいてきているということは、何となく分かる。そしてその非日常を恵みのように与えてくれた先輩は、その代償なのか僕の思考を奪っている。

 ああして先輩と一緒に話していると楽しくて……一緒に帰っているこの時間がずっと続いてくれればいいのにと思った。このまま迷路にでも迷い込んで散々時間を浪費した後、二人で夜道を帰る羽目になればいいのにとさえ思った。

 濡れた手で濡れた髪をかき上げて背中を後ろにもたれながら、天井の端に目をやった。

 僕は先輩のどこに惹かれているんだろう。

 その自分への問いに、すぐさま「美人だから」という答えが反射のように返ってきた。それは納得のできる答えだった。しかし、それだけでは問いに対して満足な回答ができたという感じがしなかった。まさに今日、まさに夕方、先輩の歩く道を追いかけては付いて行きを繰り返して、ようやくのタイミングで話しをすることが出来たあの時、僕は森島先輩という人のどこが好きなのかが初めてはっきりと分かったような気がしたからだ。

 なぜ今まではっきりと頭に浮かんでこなかったのか自分でも不思議なくらいだ。少し考えれば、あれだけたくさんの生徒に好かれているのだから先輩の魅力は外見が良いからというだけではないと分かったはずだ。

 

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