湯上りの、芯まで火照った上にしっとりと水気を含んだ体で、階段を登り、自分の部屋に戻った。
その間「僕は森島先輩のどこに惹かれているのか」という先ほどの問いへの答えが、僕の頭の中で写真のように次から次へと過去の瞬間が浮き上がっては去って行きを繰り返していた。しかしそれは本当の写真のように視覚に訴えかけるだけでなく、声が聞こえ、息遣いや雰囲気、匂いを感じさせるものだった。
僕が先輩の背中をストーカーのように必死に追って来たということに、最初から少しも疑念を抱こうとしないその表情。
先輩がこれまでたくさんの部活に入っては辞めを繰り返してきたという話から香って来る、その清々しい自由の匂い。
「年上をからかうもんじゃないぞ」と先輩が言った時の、その露骨に年上ぶったしたり顔。
そして僕が誘うよりも先に「途中まで一緒に帰ろっか」と先輩が誘ってくれた時の、そのいかにも簡単そうに聞こえる、その軽々しさ。
ベッドに座った僕は、これ以上目を開けているには肉体的疲労のためにあまりに眠く、精神的充足のためにあまりに満ち足りていたので、灯りを消して早々に眠った。
その日の夜、僕は夢を見た。
目の前に、女の人。
その人は立っているかもしれないし、座っているかもしれない。
僕は彼女と何か言葉を交わしている。
しばらくして、その人は森島先輩なのだと分かった。
見た目で先輩だと分かったというよりも、心でそうだと知った。
繋がっている目と目。
それによって僕と先輩、確かに心が通じ合っているのが分かる。
僕が何か言葉を発する。
それを聞いた先輩は視線を逸らす。
しかし、それは拒絶ではないと瞬時に分かった。
恥じらいと動揺。
先輩が目を逸らしていても、言葉を発しなくとも、僕の存在は受け入れられているのを感じる。
この高揚感。
この満たされている感覚。
今、僕と森島先輩は融け合って、一寸の隙もないほど交じり合っている。
凍てついた空気の中で目を覚ます冬の朝は、正直、憂鬱だ。
しかし、今朝だけは違った。
覆っている布団がいつもより柔らかく感じた。抱きつきたくなるほどに。
歯を磨いたり、朝食を食べたりする日常的な動作の中で、ちらつくように何度か自分の今の心の状態が透けて見える。その時に自分で驚くほど、いつもとは違っていた。
今日の僕は幸福に包まれていた。幸せな液体が体の中を一杯に満たしている、そんな感覚に僕は朝から酔った。そしてその感覚の源は、紛れもなく、夜通し見たあの夢に端を発しているという確信があった。
目を覚ましてしばらくは僕の心の中であの物語が続いているような気がして、さらに幸福感が滾(たぎ)った。
学校へ登校しても、夢の物語はたびたび反芻(はんすう)された。その都度、こうして目を覚ましてしまったことが惜しく思われた。あれほどはっきりとした、精神的な、濃密な、人と心を通わす喜びを噛み締めたことはこれまでなかったと如実に感じられたからだ。
外の世界へ目を向けた時が、もっとも今の僕の内部に訪れた神秘を分かりやすくしたかもしれない。
見渡す限りの人、制服を着た生徒たちがとても美しく見える。容貌の美醜ではない。存在自体が、無条件に認められるべき美しさだと感じられたのだ。
その明らかな例は薫だ。いつもであれば出来るだけ余計なエネルギーを使わないように、薫が襲撃してくる度、ぞんざいに取り合うのだが、今日の僕は自分のこれまでのそんな扱いを恥じた。
これほど美しく、可愛らしく、周りに元気を与えるような女の子はそうそういるもんじゃない。そして薫がいなかったら今頃、僕のこのクラスでの学校生活はもっともっと無味乾燥なものになっていたに違いないと悟った。
「今日のあんたもなんか変」
休み時間に薫にそう言われて、相変わらずの謎の直感力の鋭さに驚いたが、今度こそこの胸の内を悟られてはいけないと思った。何故なら、その時の僕は、彼女の魅力に魅せられて、好きになってしまう一歩手前のところまで来ていたからだ。
これはさすがに危ないと思い、薫が去った後、冷静になるために屋上へ向かった。
国語の授業中。
今の自分の心情をそのまま表す言葉を知りたいという欲求が起こって来、気づけば僕は机の上に乗った国語辞典を手に取ってページをめくっていた。
『愛(いと)しい……かわいい。恋しい。慕(した)わしい。』
うん。良い言葉だ。
僕は咀嚼して、飲み込み、さらに良い言葉を欲して『慕(した)わしい』の語を調べた。
『し』のページをぺらぺらとめくる。
『慕わしい……心がひかれて、そばに近づきたくなる気持ち』
これだと思った。
一言一句を味わいながら再びその文を読んだ。
これこそ、今の僕のどうしようもない心情を言い得ていると思った。
今朝起きた時の、あの、誰かに手を伸ばして抱きしめたいと思うような気持ちは森島先輩への『慕わしい』気持ちが溢れたものだったのだと納得した。
僕は満足して国語辞典を閉じた。
子供の頃に、親から誕生日プレゼントにゲームソフトを買ってもらった時や、親戚からお年玉をもらった時を思い起こすような、得した気分が残った。