昼休みになって学食で昼食を済ませた後、熱を帯びた頭を冷やすために再び屋上へ上がった。
校内が一望できる欄干に手をかけて、いつも以上に遠く感じる薄い青空を眺めた。
寒風が勢いよく吹き過ぎて僕の背筋を震わせたが、ほとんど経験したことがないほどの精神の集中と高揚のために、寒さは感覚の外にあった。
――また告白する。
僕はまた森島先輩に告白するんだ。
それはもう決まったことだ。この気持ちはもはや止めることはできない。
方法は? 手紙、電話、人づて……。
いや、ないな。やはり前回のように面と向かって直接、誠心誠意、伝えるのが真っ当だろう。
場所は? これは迷うな……。この学校の定番スポットみたいな所を知っているわけでもないし。人が多い所はダメだろうな。出来るだけ静かで、他に誰も来ないような所がいいだろう。
校舎裏や体育館裏はどうだろうか? いや、でもこの二か所は意外と人がいるし、体育館裏はヘタしたらまた七咲と遭遇してしまいかねない。
じゃあ、この屋上はどうだろうか。開放的で、雰囲気はバッチリじゃないか。
即座に、ここで僕が放課後に森島先輩を呼び出して、二度目の告白している場面を想像してみた。
なんかしっくりこないな。
噂で聞いた、これまで先輩にアタックしてきた数々の男子生徒たちのやり方をなぞっているだけだからだろう。他の生徒に使い古されているやり方で告白しているようじゃ、僕は不特定多数の「彼ら」と一緒だ。
如何にして、告白されるということが日常化している先輩が抱いているはずのマンネリを打ち壊し、少しでもハッとさせる効果を与えられるか……。
僕はしばらくそこに立ち尽くして考えた。
借りていた本を返そうと思い、放課後、図書室へ寄った。
カウンターで返却を終え、次に読む本で何か面白そうなものはないかと本棚を見てまわっていた時に、突如、磁石で床に引きつけられたようにそこを動けなくなった。
森島先輩だ。
うたた寝してる。
先輩は窓際の机に座っており、腕を前に組んでそこに頬を乗せた状態で眠っていた。
こういう風に先輩を校内で見つけて、唐突に信じられない気持ちになるのは何回目だろう。何度経験しても慣れない。
先輩の寝顔……。初めて見た。
寝ている時も綺麗なんだな。
この時間、今のこの一瞬に、安らぎが揺蕩(たゆた)うていた。
だから僕は、ずっとこのままここで見つめていたかった。
でもあえて僕は先輩へと向かって一歩踏み出した。
もう遠くから見ているだけの今までの僕とは違うんだ。
制服の上着を脱ぎ、先輩を起こさないように出来るだけそっと先輩の肩にその制服をかけた。
――先輩のかすかな寝息を聞きながら、窓の外の景色と隣に積まれた子犬の写真が載った本と先輩のカチューシャを交互に見つめている内に、どれくらい時間が経ったろう。目の前の、普段は感じられない“景色”と“音”に恍惚としていたからだろうか、次第にここが図書室であること、果ては学校であることという意識は薄れていった。この机を中心として半径一、二メートルほどの空間が、そこだけくり抜かれた、甘さを感じる、何か特別な場所なような気がした。
「ん……あ、あれ……?」
あ、起きた。
先輩はすぐに僕の存在に気づいた。
「おや、どうしてここに?」
「あ、偶然です」
先輩は眠そうにあくびをし、またさっきの姿勢に戻った。
「橘君の匂いがするね……」
「え? あ、上着のせいかも」
先輩は僕の言葉が聞こえたのか聞こえていないのか「ふぅ~ん」と、消え入りそうな声で答えた。
ね、寝ぼけてるのか?
「……上着か……ん? あれ? 橘君?」
「は、はい?」
「あ……上着ありがと。もう大丈夫。返すね」
先輩は何かを誤魔化すように、少々早口にそう言いながら僕に上着を返した。
僕がそれを受け取って腕を通す、このほんの数秒の間、二人とも無口だった。
静謐(せいひつ)の時が流れた。
先ほど勇気をもって一歩踏み出したことが、森島先輩との物語を新たに紡ぐきっかけとなり、僕はこの瞬きの静けさの中にたしかにその物語のページがめくられる音を聞いた。
「かけてくれたんだね」
先輩の目は正面に座っている僕ではなく、机に重ねてある数冊の本へと向けられていた。その頬は夕刻の橙(だいだい)に染められていたが、その下に紅さをひっそりと潜めているのが分かった。
「あ、すみません。風邪引いちゃうかと思ったので」
「ふ、ふうん……そっか」と先輩は曖昧な返事をすると、思いもよらない疑いを僕にかけてきた。
「ほ、本当は寝てる間にいたずらでもしてたんでしょう?」
「変なことなんかしてないですよ!」
「へ~変なことってどんなこと~?」
「え……どんなことって」
僕が答えに戸惑っていると、先輩はその表情をいかにも楽しそうな顔つきでまじまじと眺めた。そして、くすくすと笑いながら「例えば~?」と、どうしても僕が答えなければいけない状況へ誘い込む質問をした。
どうせ先輩も、僕がそれを言うだろうと思ってあえていたずらっぽく追い込んでいるのだから嫌われるなんてことはないだろうと、この一瞬で自分なりに都合のいい推理をした上で、決心をした。
「Hなこととか、ですかね?」
「わお、大胆発言」
「あ、あくまで例え話ですよ! 僕はそんなことしません!」
「え? そうなの?」
「も、もちろんです!」
「ふぅ~ん……そっか。橘君なら触っても良かったのになぁ」
しおらしく答えた先輩のその言葉を聞いた瞬間「ほ、本当ですかっ!?」と身を乗り出さんばかりになり、食いつくように言った。
その興奮に対して先輩は「やっぱりだめ」などと言って否定するわけでもなく、再びただ僕に笑いかけるだけだった。僕はこの曖昧さのために、さらに興奮を増した。黙認されたような気がして。
しかし、先輩は次にこう言った。
「でも、どこをどの順番で、どのくらい触られたか美也ちゃんに報告するけどね」
「ええっ? そ、そんなぁ」
それを聞いて僕はなりふり構わず落胆し、先輩はまた笑った。
「本当はHなことしようとしていたんじゃないの?」
「し、してません!」
「したくないの?」
「あ、したいですけど……」
思わず本音が反射的に漏れてしまった。拒否できない強い力が奥底から昇ってきて僕はそれにされるがままだった。
「あはははは! 橘君って可愛い~」
「か、からかわないでくださいよ」
年上の女性としてのフェロモンを滲ませたその笑い方と台詞に、脳がクラっとするほど惹かれるものを感じたが、実際に僕の口から出た言葉はその感情とは裏腹なものだった。
しかし、目はその人の全てを語るとはよく言ったもので、すでに僕の目は先輩から外れて、先輩の背後にある机を見ていた。僕の動揺は身体にはっきりと表れていた。
「あ、駄目駄目、その照れたお顔でちゃんとこっちを見てね」
そう言って先輩は横にずれながら座りなおして、僕の視界の中央に入ってきた。僕が焦点を合わせた視線の直線上に無理やり先輩が入ってきたせいで、先輩の顔をまともに見ることになった。これまでにないくらいはっきりと。
その見目麗しさは例えようがなかった。どの部分よりも光を多く反射している大きな目をダイヤモンドのようだと例えたとして、それで例えきれただろうか。白く滑らかな肌を月のようだと例えたとして、それで例えきれただろうか。そういったどんな比喩も彼女の前では十分ではなく、精密さを著しく欠いたものになり、諸々の言葉は美貌の上で即座に撥(は)ねつけられた。
今、僕の焦点が捉えているのは肉体として美しさだけではない。この二人だけの時間に放たれた言葉の、余韻の漂い。その単語、その抑揚、その緩急、そして息を潜めている感情が、先輩の周りに美貌の一部として同化している。まるでそれは、先輩の内側からの魅力が抑えきれず外へ溢れ出てきたようだ。
――こうして、森島先輩と他愛のない話を続けた。