小説版アマガミ ~森島先輩はそこにいる~   作:橘美夜

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ニカイメ

 特に何がどうこう、って訳ではないんだけれども、先輩との会話がすごく楽しくて、このまま、ずっとこうしていられればって、そんな風に思う。

 今の関係……悪くないかもしれない。これ以上発展しなくてもただ楽しくこうして話すことが出来るのならいいんじゃないか。

 でも、もし先輩にあの二文字を伝えずにこれからの学校生活を続けて行ったとすると、どうなるだろう。

 僕は想像してみた。

 相変わらず朝の通学路で先輩を見つけては、密かに憧れを抱くのだろうか。毎年クリスマスには先輩の顔がチラついたりするのだろうか。先輩がもし恋愛相談を僕に持ち掛けて来たとしたら、心は平静でいられるのだろうか。先輩にもし彼氏ができたら……。

 そこで僕は耐えきれなくなった。今にも胸の内側から何かが溢れ出て来そうな感じ、これをもう押さえていられるとは思えない。

 だけど僕は一度、先輩に振られている。

 もしかしたら迷惑かもしれない。

 それでも、諦めたくない。

 いや、とても諦められそうにない。

 先輩はもうすぐ卒業してしまうんだ。

 今。今しかない。

 もう一度……、もう一度伝えよう……。

 その時の僕は、頭の中で繰り返し映像化して綿密に企てていたはずの、“二回目”のためのシチュエーションやタイミングといった計画が、この決断のために一瞬にしてご破算になったのに気が付かなかった。

 先ほどまでの他愛のない話も一段落ついて、先輩は傍らに置いてあった写真集を開いて、僕に「ねぇ、このワンちゃん可愛くない?」と自慢げに話しているところだった。

 僕はもう先輩の指さす方へ目を向けてはいなかった。

 視線を感じた先輩は顔を上げて、驚いた様子で僕と目を合わせた。

「ど、どうしたの? じっとこっちを見て……」

「あ、いえ」

「もしかして私に見惚れちゃってたとか?」

「あ、そうです」

「え?」

 先輩は困った顔になり一瞬、言葉に詰まった。

「も、もう。橘君は時々変なことを言うんだから……」

 僕は腿のところに置いていた手で、ズボンをギュッとつかんだ。その手は汗に濡れて湿っていた。

「ど、どうしたの?」

「森島先輩が好きです」

「え……」  

 その後に聞いたのは、遠くから空耳のように聞こえる運動部の快活な掛け声だけだった。

 先輩は返事をする代わりにただ俯(うつむ)いていた。その顔を小さく下に傾ける瞬間、先輩の瞳が一瞬だけ潤んで見えた。

 太陽が沈む前の、もっとも明るい、瞬きの間の輝きを映していた。

 真紅の塊が静かに燃えながら街に溶けて行くその姿が、この校舎に熟した果実のような瑞々(みずみず)しい光を投げかけており、その光を受けて今、この少女の瞳の内にも同じく太陽を宿したように見せていた。

 僕は森島先輩を真っ直ぐに見据えながらハッとした。今見ているこの光景こそ、昨夜見た朧(おぼろ)げな夢の再現だということに気づいた。

 僕の幸福感は確実だった。

「も、もう……またなの?」

「すみません。迷惑なら、もう二度とこんなこと言いません」

「迷惑じゃないけど……、な、なんで」

 その語尾は戸惑いと恥じらいのために弱々しく、消え入りそうだった。しかし、その声の裏で確かに喜びが息をしていた。

「先輩と一緒にいると楽しくて。もっと色々話をしたいというか……それで……」

「も、もう……急にそんなこと言って」

「すみません。でも……」

「……でも?」

 僕はここで息を吸った。

「えっと、ちゃんと答えてくれたので」

 先輩はすぐには何のことか分からず「え?」と返した。

「前回、先輩がちゃんとふってくれたじゃないですか」

「う、うん」

「だから……今回も……。駄目なら駄目でもいいんです。今日は駄目でも……。明日なら……。明日は駄目でも……来週ならOKかもしれない……そう思ったんです」

 日常によって内に溜め込まれていた僕の情熱は今ここで解き放たれていた。一つひとつの言葉に乗せて。

「先輩が迷惑じゃなくて……。まだチャンスをもらえるなら、諦めたくない。僕が一番怖いのは……返事をもらえないことなので……」

「そ、そんなことしないわ!」

 先輩は僕の顔を見てはっきりと否定した。力強い否定だった。これほど心地よい響きの返事はないのではないかとすら思えた。それとともに、逸らされていた先輩の視線はここで帰ってきた。しかし、次の僕の言葉を受けて、また机の上に麗しく落ちた。

「ありがとうございます」

「な、何お礼言ってるの……変なの……」

 先輩は何かを理解していた。そのために言葉は恥じらいの色を帯びずにはいられなかった。

「先輩のこと、好きでいていいですか? うっとうしかったら諦めますんで」

「う、うっとうしくなんかない……」

「じゃ、じゃあいいんですか?」

「……う、うん」

 その一言は、まるできらめきながらこぼれ落ちた甘露の水のように聞こえた。嘘偽りのない、本当の先輩の思いがたっぷりと満たされているような気がした。

「やった! ありがとうございます!」

「……も、もう」

「え?」

「もう! 何でそんなに一生懸命かな!」

「え? だ、だって」

「そんなに頑張られたら……ほっとけないじゃない……」

「せ、先輩……」

「……もう! これでもくらえっ!!」

 次に目を瞬(またた)いた時には、椅子と床の擦れる音が聞こえたと同時に、先輩の手は僕の左の頬にあり、顔は目の前にあった。ほとんど触れ合っている近さだった。

 キスをされたと思った。

 しかし、唇は何の感触もなく、左の眉に何かが触れたのが分かった。

 撫でるよりも優しい、微(かす)かな感触だった。

 味わったことのない柔らかさ。

「ふぅ……」

「……せ、先輩」

「何?」

 先輩は驚くほど平然と、そして爽やかにそう返した。

 一方僕は、先輩が身を乗り出した勢いで漂ってきた、生々しい先輩の存在感、甘い雰囲気や香りに放心しながら、身体の底からじんわりと気持ちよくなって来ていた。

「今僕に何をしたんですか?」

「必死でハの字になってる橘君の困り眉毛が可愛いからキスしたの」

「困り眉毛?」

「そう、すごくハの字になってるんだもん。可愛らしくて」

 僕はまだ何が起こったかうまく飲み込めず、ただ、見ていた。

 先輩が長い髪を耳にかけながら、高ぶる気持ちをどうにか抑えようとしている様子を、文字通り夢心地の中で読み取った。先輩も同じなんだと思った。どうしようもなく鼓動が早まっているのは、僕も先輩も同じだった。この瞬間、二人の間で何かと何かが一本の線を通じて繋がったような気がした。

 ぼーっとしながら僕は噛み締めるように言った。

「キスを……したんですか?」

「うん……そう」

 お互いの視線はもはや合っていなかった。

 二人とも耳まで紅潮していたが、夕暮れ時のためにそれは優しく隠された。

「あれ? もしかして……OKなんですか?」

「え? あ、う、う~ん」

 先輩からの返事は今まさに行動で示されたと思っただけに、この甘い逡巡は一体何なのか分からなかった。

 しかし、その漏れ出ている悩ましい音色はいかにも恋をしている乙女といった風(ふう)の透き通るような愛くるしい声だったので、このように言葉を濁していたとしても、よく味わって聞けば、先輩と僕との心の距離感を察することができただろう。

「駄目なんですか?」

「だ、駄目じゃない! 駄目じゃないけど」

「けど?」

「今の自分の気持ちを、どう言っていいのか……」

 かつてないほどに高まった心拍数の上で、イエスかノーかはっきりと答えをもらえないもどかしさと、限りなくイエスに近いリアクションが返ってきたことの嬉しさという二つの感情が激流のように渦巻いていた。

「ん~! まだそういう感じじゃないの」

「え? そういう感じ?」

「も、もう……こういう時だけ攻めるのね」

「すみません、でも気になって」

「まだ……橘君に伝える勇気が出ない」

 先輩のその言葉は、自分自身の心の中を見つめながら言っているようにたどたどしかった。まだ「言葉」と「時」が熟していないのを、そこに読み取ったかのように。

「だ、だってびっくりしちゃったから……だからお預け!ステイ!」

「そんな……」

「がっつかないの! もう!」

 

 その後、先輩は「眉毛が乱れちゃったね」と言いながら、人差し指で僕の左眉毛を優しく整えてくれた。その指の感触はとても柔らかくて、なんだかとても気持ちが良かった。

 

 告白の返事はもらえてないけど、これってすごく良い感じじゃないか?

だって……眉毛にだけど、キスを……。森島先輩からキスをしてもらったんだぞ?

 

 

 その帰り、僕はいつもの道を走って帰った。

 僕の内部が中心から順に塗り替えられるように生まれ変わっていく、その清々しい喜びに身体を預けた瞬間から、足は動き、手は動いていた。

 黒い制服は夕陽の光を一面に浴び、色は互いに染め合っていた。

 幸運なことに、全力疾走したせいか、辺りが闇に包まれる前に玄関のドアを開けて帰途につくことが出来た。

 

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