「こうやって橘君の方から帰り道にどこかに誘ってもらうのって初めてかも」
「そ、そうですか?」
純一とはるかは学校の帰りに、町が見下ろせる公園に来ていた。夜の前に町全体がしばらくの間、透き通るような黄色に染まるこの時間。純一は欄干に手をかけて遠くの景色を眺めていた。たくさんの家が輝く豆粒のように見える。一方では輝き過ぎて空との境界が見えなくなっている黄色い海も見える。ここから見下ろすと、いつもたくさんの人々が日々生活しているこの町は、何かをじっと待っているように動かない、生きた一つの大地のように思われる。そう思うと、同時に遠くに見える沖の表面の、柔らかな波の凹凸は、その大地にまつわろうとしている清らかな一つの生命のように思いなされる。捉えきれないほどにどこまでも広くて、自由な。
彼がはるかをここへ連れてきたのには理由があった。最初に廊下で偶然出会った時から、それを伝えたい思いは心のどこかでだんだんと存在感を増してきていた。
「先輩、去年のクリスマスにここで僕と会ったことって、覚えてますか?」
純一が輝日東高校に入学して最初の年。はるかは高校二年生だった。その年のクリスマスに起きた出来事を、見えるはずのないほど遠くにある山を眺めながら、淡々と語り出した。彼は過去に戻った。
――僕はちょうど今座っているベンチに腰掛けながら、皮肉に思えるほど眩しい青さを放っている海と空を眺めていた。当時から数えてちょうど一年前のこと。忘れかけていた、というより忘れようと努力して記憶の片隅に追いやっていた、クリスマスのトラウマを一人で思い出していた。
デートの約束をしていたのに、初めてのデートだったのに、心の底から嬉しかったのに、裏切られた。その公園に訪れるのは僕とは関係のない、見知らぬ女の子たちばかり。空から静かに降る雪は何も祝福していなかった。その日に限って降ってほしくなかった。何度も考えた。僕の何が悪かったのだろう。僕のどこが彼女の気に食わなかったのだろう。思い当たる節がなかったからこそ辛かった。それ以来、恋は常に僕からはるか遠くにあった。
そんな次から次へと溢れ出る辛い感情を、その時、有無も言わさず断ち切ってくれたのが森島先輩だった。全く会ったこともなかったのに、その時の僕は、自然と引き込まれるように彼女の話を聞いていた。そして彼女が去った後、僕は別の人間だった。意識を半強制的に別の方へと向けられていた。それは、その時遠くに見えた晴れやかな山の景色へだったのか、それとも彼女へだったのかは分からない。でも確かに言えることは、その日の聖夜は嘘みたいに楽しく過ごせたってことだ。
――そうして純一が話を続けている途中、突然、はるかが「あ、待って!」と驚いた声を上げた。
「そっか! そうだっ! 君が“公園君”だったのね!」
どうやら先輩が言うには、この話は先輩にとっても印象的な出来事だったらしく、それを人に話す時は、僕に“公園君”という名前を付けて話していたらしい。あの時はお互いに名前を教え合わなかったからとは言え、密かにそんな名前を付けられていたなんて。でも、先輩らしい。
話が一段落し、二人の間に少しの沈黙が流れた。そこで次ははるかが口を開いた。あの日に公園に来てこのベンチの所へやって来た理由を説明し始めた。
彼女は三歳の頃から、ジョンという名前の犬を飼っていた。毎日一緒に散歩するほど大好きだった。ジョンはこの公園が好きで、彼女とここによく散歩に来ていた。しかし、二年前のクリスマスに ―― 純一がデートをすっぽかされたあの悲劇の日と全く同じ日に ―― ジョンは死んでしまった。彼女は深く悲しみ、それからしばらく一年間は落ち込んでばかりだった。
しかし、次第に彼女も天国にいるジョンに心配を掛けたくないという思いで何とか立ち直ろうとしていた。その思いで一年前、彼女はこの公園に来ていた。
公園での、数えきれないほどのジョンとの楽しい思い出。それを一番思い出させてくれるとあるベンチに、その時、純一が座っていたのだ。
はるかは彼の背中を見た時、引き寄せられて一歩踏み出していた。愛らしい背中をしたジョンへ歩み寄って行く時と同じ気持ちで。
彼女の歌うような美しい声を聞きながら、純一は今知らされた奇跡に驚いていた。ほとんど奇跡と言う他はないほどの運命的な巡り合わせだと感じた。紆余曲折はあったが、今こうして彼女と隣り合わせでこのベンチに座っている。この二年間で二人が経験してきた悲しいことや辛いことは、まるで事前に書かれた台本を演じてきたにすぎないのではないか。
そうすると、今年のクリスマスはどうなる? ……その本にはどう書かれている?
にわかに純一はそれまで聞いていたはるかの言葉が、連なった一個の力となって、外から自分を突き動かすのを感じた。
「先輩、今週の日曜日、空いてますか?」