まだ森島先輩の手の感触が残っている。机の上に置いた自分の手がとても大切に思われて、いつまでも撫でていたい。たまにじっと見つめたり、近くに引き寄せて匂いを嗅いでみたりした。どこからどう見てもいつも通りの自分の手だが、何だか細胞の一つひとつから生まれ変わって、皮膚や指紋、爪もこれまでとは全く別物になってしまったような感じがする。
足からじんわり伝わってくるこたつの温かさが今日一日起きたことをゆっくり思い返す時間を作ってくれた。目の前のかごに盛られたみかんを眺めながら、湧き上がってくる幸福感に口角を上げずにはいられなかった。
ついに森島先輩と手をつないだ……!
「にぃに、さっきから何ニヤニヤしてるの? 気持ち悪いよ?」
横に座っている美也がみかんをぱくぱく食べながら、僕の幸せな世界に水を差した。しかし、僕の今大切に抱いている世界はそんな横やりにもビクともしない鉄壁な厚みを持っていた。
「美也も早く彼氏を作ってデートに連れて行ってもらえよ~」
僕は夢と現(うつつ)のはざまで喋っているような声でそう言った。すっかり彼女ができた気分になって、まだ彼氏のいない妹に見栄を張ってみた。
「もう、にぃにはすぐ調子に乗るんだから……。っていうか最近、学校で『森島先輩に彼氏ができたかもしれない』って噂が立ってるけど、まさかあれ、にぃになの? なーんでうちのにぃにみたいな人に、あんな美人な人が……」
と、美也が長々と語り出したが、僕は途中から聞いていなかった。
意識は数時間前に戻っていた。
今まで僕は「森島先輩は天然だ」ということは知っていたはずなのに、今日、初めて先輩のことをそうはっきりと認識したような気がする。もちろん、良い意味で。
まず、最初の待ち合わせの時から可愛かった。デートの場所は伏せておいて当日サプライズとして先輩を驚かすっていう予定を先輩自身もちゃんと知っていたはずなのに、年上としてリードしなきゃと思ったのか、待ち合わせてすぐに「早速行きましょ~!」と言いながらスキップする勢いで全く違う方向に一人で歩き出した。まだ目的地を教えていないのに。
他にも、僕が努力して先輩が喜びそうなデートスポットを色々と考え練ったというのが伝わったみたいで、その頑張りを褒めてくれて「もう……参っちゃう……」なんていう、ベタすぎてまず普通の人は日常生活で使わないような意外な言葉を、顔を少し赤らめながら言ってくれたのが良かった。語尾にハートマークでも付きそうなほど尻上がりで温かみのある言い方が僕には刺さった。
そして遊覧船に乗った時は、カモメに餌をあげる時の先輩のはしゃぎ様が印象的だった。快晴の大空に羽ばたくカモメに向かって振り上げられる腕から、時折、先輩の嬉しそうな顔が見え隠れした。目や口や鼻の先にまで濁りを感じさせない清らかな笑顔。その時にちらと見える上の白い歯。その顔の眩しさは輝いていながら同時に透き通って見えた。
この人は本当に動物が好きなんだろうなと思った。カモメたちに対してまるで友達かのように親しく話し掛けている様、引き締まった青い大きな風の中に向かって餌を放り投げている時に高く跳ね上がるような歓声。その声は確かにまだ十代だという年相応の幼さは感じさせるけれども、間近に控えた大人としての抑制のきいた上品さも併せている。
その時は、「抜けている」、「意外な言動をする」と言う意味での天然というより、何か透明で、そのままで、純粋な感じという意味の、すごく気持ちの良い印象だった。
遊覧船の後は近くのレストランで飲み物を飲んだりケーキを食べたりした。派手なことをしているわけではないのに、この時もすごく楽しかった。普段、学校では見られないはずの森島先輩の私服姿が常に目の前にあったからだろうか。
おなかも心も満たされた後での、砂浜の散歩。すでに12月に入って寒さも本格的になり、渚の風が運んでくる開放的な冷たさは、満足感で鈍った感覚を呼び戻した。
先輩は「昼間の海も好きだけど、夕方に来る海もなかなかいいわね」と僕の隣で海を眺めながらそう言った。
黄昏(たそがれ)の海は確かにそこで息をしていた。引いた後は必ず押し返し、潮は止まることなく僕たちのすぐ足元まで届けられ、透明な海の水が砂浜の細かい砂を撫でた時には、必ずささやかな吐息を聞いた。
何でもない、ただありのままの自然を見ていた。いつもの僕ならここで何も特別な感情は浮かべなかったかもしれない。しかしこの時は、目の前の景色を見てふしぎな情動が湧いた。ここまで確かに一歩ずつ大地の上を歩いて来てたどり着いたはずであるのに、その果てにこうした全く異質の、全く反対の世界が遥か彼方まで広がっており、うねったり、ふくらんだりしている自由の世界の魅力に呆然と旅の足を止めなければいけなかった。広く深いその未知の世界の手間に立って、僕は新しい旅の予感を抱いた。
お互いが一歩ずつ速さを合わせるようにしてゆっくり歩いた。肩が触れそうな距離にいる先輩は僕と同じで海と陸の境目を見ていた。
この時、僕と先輩はたまに会話がぎこちなくなりはしたが、たしかに楽しい時間を過ごしていた。しかし何故かいきなり、先輩は珍しく言い淀んだ。
何かを言いかけていた。
言葉は、――というより思いは先輩の口の中で今にも漏れ出しそうになっていたが、
「……あ、あの今日は楽しかったよね」
と言ってごまかされた。
こうして冷静に思い返している今でこそ、先輩の感情は何かを僕に伝えたい一心で迷い揺蕩(たゆた)うていたのだということが分かるが、その時の僕は緊張で目の前で繰り広げられている映像が非現実的にさえ思われていたので、先輩はなぜ突然口をつぐみ始めたのかが分からなかった。
先輩は僕に何を伝えようとしたのだろう。
白い肌の上に眩しい光を染め、長いまつげから落ちた影は気品ただよわせる演出をしていた。唇は一瞬の間、戸惑いと恥じらいのためか内側に巻き込んで隠れた。その時に見た美しい顔は、はっきりと僕の脳裏に残っている。その顔は黄金にきらめく海のイメージと重なって思い出された。
寒風吹きすさぶ浜辺から帰ろうとして行きに通ってきた広場の方へ戻ろうとした先輩は、すれ違おうとする間際に髪のいい香りをふわっと漂わせながら、
「ほら、おいで!」
と言って僕の手を取った。否応なしに僕の手を引っ張って歩かせたが、その力には無理強いするような感じはなくむしろ心が温かくなる感じがあった。先輩の黒くてしなやかな手袋越しにでもぬくもりが感じられるような気がしてなおさらだった。