はるかは子供のようなはしゃぎ様で、予約していた部屋の隅々を見回していた。夜景が一望できる大きな一枚窓から外の景色を見ては歓声を上げ、トイレが立派なのを見て歓声を上げ、風呂場の広さを見てさらに歓声を上げていた。その様子には一切、純一が今抱いているようなぎこちなさと、体が縮こまってしまいそうな緊張感は微塵も感じられなかった。
それどころか、はるかはこんなことまで言い出した。
「せっかくだから、私、お風呂入っちゃおうかな」
本日何度目か分からないが、純一は再びはるかの言葉に意表を突かれた。
さらに立て続けで、風呂場のドアを閉める間際に顔だけ出してこう言った。
「覗いちゃだめだよ?」
純一はほとんど条件反射的に「覗きません!」と答えた。この場において、もとより彼には「覗く」という行動上の選択肢はなかった。彼の本心としてはもちろん、健康的な一人の少年として、女性の裸を ―― ましてや好きな女の子の裸を ―― 見たいという欲求はあった。しかし、この時は、彼がはるかを本当に好きであればこそ、うかつに覗きなどして嫌われたくないという気持ちがまず第一に言葉として表われたのだ。
はるかが風呂から上がるのを待っているこの時間。彼は普段の平凡な日常から全く逸脱しているような、ある種の浮遊感を抱いていた。一人になり、彼はようやく落ち着いて今自分が置かれている状況について考えることができた。
ついにこの時が来たんだ。ずっとずっと憧れていたこの時が。本当に森島先輩とクリスマスイブを過ごせるなんて。少し前は考えられなかった。一度フラれた時はつらかったけど、くじけないでもう一度アタックして本当に良かった。こうしてイブを先輩と一緒に過ごせるんだから。
自分が今置かれている状況は、まさに心から求めていた願望の成就なのだと悟った。
窓から冬の夜空を眺めながらゆっくりとそれを噛み締めた。
また、それだけでなく、こんな高級なホテルで先輩と二人きりになれているという、全く思いもよらない幸運も今自分は手にしているという確かな幸福感もじっくりと味わっていた。
風呂場のドアの隙間から、はるかの鼻歌が漏れてきた。純一はそれを多少心地よく聞いたが、同時に、これから自分はどうすべきかという考えが彼の中を急速に支配し始め、心の平穏は破られた。
これからどう過ごしたらいいんだ? 先輩がお風呂から出たら、僕もお風呂に入るのか? ……まぁ確かに入らないとまずいよな。いや、なんでまずいんだよ! どっちを選べば先輩を失望させずに、このせっかくのムードを壊さずに済むんだ……? 考えろ!
その時、部屋の明かりが消えた。
突然のことで、純一は思わず「停電か?」と声に出して言った。
すると即座に、彼が今座っている椅子の後ろから、
「違うよ」
と、不気味なほど落ち着き払った声が聞こえた。
「恥ずかしいから、私が消したの」
つい先ほどまで風呂に入っていたはずのはるかがすぐそこにいた。バスタオル一枚で胸から下を隠した状態で、きらびやかに聖夜を演出する街灯の光を招き入れている大きな窓の前に立っている純一に、ゆっくりと歩み寄った。この部屋をほとんど支配している影よりもずっと黒い髪、そしてバスタオルから覗いている、色気の立ち込める白い肌。それらの上に残ったまだ温もりのある水滴が外からの灯りを反射して、彼女を、息を吞むほどに美しく見せていた。
純一はなぜ自分がこのような状況にいるのか、瞬時には理解できなかった。
「……どうして覗きに来てくれないの?」
「え?」
「どうして覗きに来ないのよ! 私のこと、好きじゃないの……?」
「好きですけど……」
「好きなら思わず覗いちゃうもんじゃないの?」
彼が彼女のために完全に正しいと思って選んだ選択肢の逆が、まさか彼女にとっての本当の正解だったということを知って、ただあっけにとられるしかなかった。
「……分からない。どうして、もう一度告白してくれないの? 何度でも告白するって言ってくれたのに……」
純一は今、彼女の感性の豊かさを象徴する、大きく外に見開かれた瞳が涙を浮かべているのが見て取れた。彼女の左肩のすぐ隣は部屋の闇だが、二つの目はそれをすんでのところで免れて、美しく光を照り返していた。
「私は君が好きなのっ! 大好きなの! 私……ずっと待ってたのに。ずっとずっと待ってたのに。もう嫌われちゃったかと思って。諦められちゃったのかと思って。寂しくて。不安で……」
はるかは頬に伝った涙を手で拭った。
純一は知る由もなかった。彼女が一回目と二回目の告白を何度も思い出してしばらく受験勉強もまともに手につかなかったこと、最初のデートの時、笑顔で振る舞いながらも、どのタイミングでもう一度告白されるのか気が気じゃなかったこと、そして、純一と二人きりのクリスマスイブを過ごすために両親に頼み込んでいたことを。彼女の大好きな家族団らんの場に今年はいられないということを母親と父親に話す直前は、どうしようもなく足がすくんだ。純一の知らないところで、はるかは苦しんでいた。
はるかの潤む目を真っ直ぐに見据えて、純一は安心させるように力強く言った。
「そんなことないです」
「でも分からないの。私、こんなに人を好きになったことなんてないんだもん。誰にも渡したくない人なんて初めてなんだもん。私、どうしたらいいのか分からなくて……」
年上として気丈に振る舞わなければという思いや、“周りの目”があるが故についに見つけた初恋を軽々しく人に話せなかったという思い、それらが積み重なって、溢れそうになって、まさにここで激流のように迸(ほとばし)った。
「すみません、僕がもっとちゃんとできたらよかったのに。ちゃんと告白できないような僕で、先輩はいいんですか?」
「ううん。君の告白はとっても素敵だった。二回目の告白の時、あんなにドキドキしたのは生まれて初めてだった。でも、だから、自分の気持ちを君にちゃんと伝えるには、どうしたらいいのか分からなくって……私の方こそちゃんと告白もできなくって、橘君にあきれられちゃうんじゃないかって……心配で……不安で……」
語尾はほとんど途切れ途切れになって、こらえても溢れる涙のために消え入りそうだった。
はるかは濡れた顔を純一の胸の上で伏せた。その弱々しい肩は小刻みに震えていた。
「いいんですよ」
と言いながら純一は、はるかの肩を両手で優しく押さえた。
「え?」
「先輩はそのままでいいんですよ。僕が好きになった森島先輩は、そういう人だと思います。今度から僕がちゃんとしますから。……だから、もう泣かないでください」
柔らかな日差しを受けてたわむ海を遠くに見るような広く深い瞳を、純一はしばらく見つめていた。はるかも、この身体の奥深く、魂の底から捧げ求めるような目でそれを見返していた。
お互いが、この人となら間違いないと思った。
この人となら、やっていける。
「はるかって呼んで。いつまでも先輩じゃ嫌。……呼んでくれたら、もう泣かないから」
「……はるか」
純一は彼女の背中に手をまわした。同時にはるかも彼の胸に寄り添うた。
はるかはその温もりの中で安堵のため息を漏らした。はじめて心が安らいだ。そんな風な幸せに満ちたため息だった。
「よくできました」
「好きだよ。ずっとずっと一緒にいたい」
「私も好きよ。大好き。……キスして。そのまま離さないで」
三度目の告白を終えて初めて唇を重ねた若い男女がいる温かい部屋から空を見上げると、白く冷たい粒がぽつりぽつりと落ちはじめていた。純一がこの清らかな景色を見て二年前と同じホワイトクリスマスになったとはるかの隣で気づいたのは、この時から少し経ってからの事だった。 (完)