この輝日東高校に一年と半年以上通って気づいた、この学校の良いところ。校舎の広さと綺麗さ、屋上からの見晴らしの良さ、創設祭の盛り上がり……いろいろあるけれど、忘れちゃいけないのが学食だ。ここの学食のクオリティは胸を張っておすすめできる。値段はリーズナブルで、生徒のことをよく考えてくれている良心的価格設定だ。そして何よりすごいのがその味。良い意味で値段に似合っていない。さっき食べた塩ラーメンにしてもダシをないがしろにしておらず、スープの味にしっかりと深みがある。麺もコシがあって、ちゃんとちぢれてる。この学食があるがゆえに、あえて偏差値の照準を下げてここに入学してくる生徒もいるという噂を聞いたことがあるが、納得。
今日は朝からあまりに空きっ腹だったので、その塩ラーメンとプラスアルファでおにぎりを二つも頼んだ。そのせいで腹がパンパンだ。天気も良いんで腹ごなしにちょっと中庭を歩いているが、腹が重い。これじゃあ、午後の授業の居眠りはほぼ確定だな。
すると、その眠気や満腹感は、まるで邪霊が祓われて元の清らかな体を一瞬にして取り戻したように突如として打ち払われた。前方より訪れた、晴天の朝の清々しさを引き連れて薄暗い階段を下りてくる存在を認めたからだ。重苦しさが支配して何かの流れが鈍くなっていた僕の体の中心部分は、再び気持ちいいほどにころころと動き出し、順調さを取り戻した。
後ろからはその人を祝福するように朧(おぼろ)げな日差しが後光を作り、それによって陰った前面はあえて全てをすぐ明らかにしないことによって美を出し惜しみしているようだった。和服から垣間見せる項(うなじ)、なまめかしく欠けた不完全な月、そういったものと同列だった。
その人は微笑しながら隣の友達(この人も有名な人だ)と話している。朝を奏でるような音楽的感動を頭から足までそして指先にまで纏(まと)いつつ。僕の憧れの人が目の前から歩いて来る。学年が違うからこっちから出向かわない限りそうそう会えるもんじゃない。かと言って三年の教室まで行く理由なんて普段は起こり得ない。この二人の会話が終われば分かれて別々の方向に歩き出すような雰囲気だからその瞬間を狙って話し掛けに行くか。いや、いきなり僕みたいなほとんど何の関係もない奴が声を掛けたら不審に思われるかも。このまま目の前の人を見て見ぬふりして右に曲がって教室に帰ろうか。それをするのは容易だろう。でも、僕は誓ったはずだ。絶望的な体験を乗り越えて。無理とも思われるようなことを成し遂げるんだ。このチャンスを千載一遇だと思って掴み取るんだ。逃げるな、純一!
僕は右折せずにその人のいる方へ真っ直ぐに歩いた。見る。立ち止まってその人をさらに真っ直ぐに見る。まだだ。目をそらすな。
するとその人は目の端で僕の存在に気づいたようだった。しばらく隣の人と会話を続けた後、僕と話をしに行くために ― と僕は思った ― 相手に手を振っていよいよ別れた。近づいて来る。あの人が僕に気づいて近づいて来るぞ。そして口開き、喋るぞ――。
僕は瞬時に謎の男気を絞り出し、男の自分から先に口火を切らなければ、という思いに駆られた。
「あ、森島先輩! こんにちは」
「ワンちゃんに見られてるみたいな視線を感じるなと思ったら、やっぱり」
「え、僕は犬ですか?」
「うん、そうだと思うわ。うーん、言葉にするのはちょっと難しいんだけど、なんか“ワンちゃんオーラ”が出てるっていう感じがするの」
「な、なるほど」
「あ、ごめんね。私が個人的にそう感じただけなの。嫌だったら言ってね」
「いえ、嫌なんてことはありません! むしろその方が先輩に覚えてもらいやすいんで嬉しいです!」
「そう? ありがと」
そう言って微笑した顔をこちらに向ける先輩の顔はいかにも嬉しさが滲み出た表情だった。表情を見れば感情が読み取れるのは当たり前だけれど、それがあまりに濃く滲み出ていたのでそう思った。それとも、相手が森島先輩だから誇張してそう思い込んだだけなのかは分からない。どちらにしろ今は冷静沈着な思考ができるとは思えない。
一瞬、連綿と続く会話に空白ができ、それによってこの瞬間までの数秒間の会話を噛み締める時間を得た。短い間に圧縮された森島先輩の美しさと僕のこの高揚感を。
今の僕は誰よりも幸せだという自信がある!
「あ、そういえば私に何か用事だったの?」
と森島先輩が思い出したように訊(き)いた。
「いえ、特に用事はないです……」
自分でそう言って本当に用事がなかったことにがっかりしたが、力づくで前の自分の言葉を蘇生させるようにすぐさまこう付け加えた。
「先輩を見かけてどうしても話し掛けたかったので……」
「わお、すいぶん正直に言ってくれるのね」
「すいません」
「ううん、謝らなくていいの」
と、先輩は一旦間を開けた後、
「う~ん、橘君って本当に素直でいい子だねぇ~」
と言い、続けて次の言葉を事もなげに言い放った。
「あ、ねぇ、頭なでなでしていい?」
「え!?」
「橘君があんまりいい子だからよしよししてあげたくなっちゃった」
僕は先輩の言葉にそのまま服従するように腰をかがめて先輩の手が自分の頭に届くようにした。
柔らかいものが優しく動いている。髪の毛を介してでも心なしか先輩の温かさが伝わってくるような気がした。
静寂。二人とも何も言わずにいる間(ま)。
僕は先輩に触ってもらっているのか? あの、森島先輩が……?
信じられない気持ちを表に出すまいとあくまで従順で神妙な顔をした。
顔を上げた時、先輩の顔はどこか恥ずかしそうだった。“マドンナ”や“女王”として数々の男を手玉に取ってきた人でもこういう顔をするのかというさらなる驚きがあった。
「それじゃあね」
ふと夢のまどろみから覚めたときには、ただ足早に歩いていく先輩の後ろ姿だけが認められた。僕もそっちの方向に行かなきゃいけなかったが、この幸せの余韻を何ものにもひびを入れさせたくないと思い、あえて踵(きびす)を返して、遠回りして行くことにした。