いててて……。サッカーで張り切って転んでしまうとは、ついてないなぁ……。
手に思いきりついた運動場の土を洗い流すため、三時間目の授業終了のチャイムが鳴ってすぐさま水道へと向かった。ちょっと手のひらも擦りむいてヒリヒリするし。今日は微妙についてないな。
うわっ! 冷たい!
さすがにこの時期の水道の水は冷たくて心臓が飛び上がりそうだ。それでも何とか堪えながら手をこすり合わせる。洗い終えた後、ポケットに手を突っ込んだが、その瞬間にハンカチを持っていないことに気づいた。
あ、ハンカチは制服の中だ……。なんだかなぁ……。
すると、突然右側から、
「お困りのようね、橘君」
と、僕の行動の一部始終を常に見ているのかというほどのタイミングの良さで森島先輩が現れた。
「え? あ、森島先輩」
完全に気を抜いていたところにあの森島先輩が現れて今度は別の意味で心臓が飛び上がりそうになった。しかも今日の先輩はいつもより刺激的だ。上半身は今僕が着ているような冬用ジャージだが、下半身は、太腿が完全露出しているブルマだ。誰がこれを発明したのかは知らないけれど、たぶんかなり筋金入りの脚フェチなんだろうなと思う。そう思ってしまうのは、僕も熱心な脚フェチ信仰をしている一人だからだろうか。先輩が上に着ている青色のジャージは、空の濃い青を融かし込んだような色に見えて、毎日のように見ているはずなのに何故か瑞々(みずみず)しい新鮮さがあった。ブルマは、背景にある運動場の砂の色と、そこから伸びる太腿の匂いやかな白さとにより、その黒に近い紺色で覆われた部分の神秘と奥深さをより際立たせていた。
「はーい、これ使って」
と先輩がタオルを差し出してくれた。あ、これ、タネウマクンタオルだ。
「え? で、でも……」
「いいからいいから」
「あ、ありがとうございます」
先輩からもらったタオルを使うのはなんとも畏(おそ)れ多かったが、せっかくの好意を無下(むげ)にすることはできなかったので受け取って手を拭いた。
「助かりました先輩。このタオルは洗ってから返しますね」
「いいわよ」
「え? でも洗わないと……」
「そうじゃなくて、そのタオルはあげる。ダッ君好きの仲間の証としてね」
あ、なるほど。先輩は前に僕が美也のハンカチを借りて登校したときに運悪くそれを廊下で落としてしまい、先輩が拾って渡してくれた時のことをまだ覚えてくれていたんだ。ダッ君ハンカチは僕のじゃなくて美也の趣味なんだけど、同じダッ君好きだと知って嬉しそうな先輩に僕のだって言い出せなかったんだよな。
「い、いいんですか?」
「うん。もっちろん。実はね、もともと橘君にあげるつもりで持ってきたの」
その話し方は小さな企みを嬉々として打ち明けるように、口元に笑みが浮かべながらだった。
え? そ、それってもしかして……。
「ほら! 男の子でダッ君好きな人に会ったことがなかったから嬉しくてね」
そりゃそうだ……。
自分でも自意識過剰過ぎたなと思い心の中で苦笑した。
「私の持ってない柄のハンカチを持ってるところも中々やるなぁって感じだしね」
あー。この流れはまずい。先輩の中で完全に僕がダッ君好きとして定着してしまっている。そして趣味友達としてのニュアンスで「同類」として嬉しく思ってくれてるみたいだ。このまま先輩に嘘を信じ込ませたままだと、今後、事あるごとに嘘の上塗りをして先輩の話に合わせていかなくちゃいけなくなる。それじゃまずい。これからどんどん先輩と仲良くなりたいのに、今の内からヒビを入れてしまっては……。
うん、正直に本当のことを言おう。
意を決して顔を上げた。先輩はいきなり黙りこくって考え込んだ僕を不思議そうな目で見ている。
「先輩。すみません。実はあのハンカチは僕のではないんです……。あれは妹のなんです、あの日はたまたまハンカチを借りていたので……」
「そうなんだ……」
先輩の声はいつも通り透き通っていたが落胆の色のために少し曇っていた。ああ、ちょっとした誤解で始まったことだけど、先輩の口からこんな残念そうな声は聞きたくない。
「もちろんダッ君のことは好きです。でも、ハンカチは妹ので……自分で色々とグッズを買うほどでは……。本当にすみませんでした。なんとなく言い出せなくて……それで……」
僕の眉毛は知らず知らずのうちに、謝りの気持ちを表したい一心でハの字になっていた。
うぅ……。
先輩とはこれからだっていうのに。もう嫌われちゃうのか。
「……もうなんていい子なの! ベリーグーね。このこの~」
先輩がグーをつくった手で軽く僕の肩を小突いた。
何故かすごく嬉しそうだ。
「え? せ、先輩」
一体どういうことだ?
「本当に正直でいい子だね。私が好き―って言うから言い辛くなったんだよね?」
「はい……」
「ふふっ、改めてそれを言い出すだなんてすごいね」
まだ先輩の急転換な反応に驚きつつも、内心は先輩が気分を害していなかったということと、思い切って本当のことを伝えたことに対して褒めてくれたことに素直に喜んでいた。
「いい子いい子」
と言いながら先輩はまた前みたいに僕の頭をなでなでしてくれた。嘘だろ。
頭皮に伝わる感触が現実のものとは思えず、とにかく信じられなかった。撫でられたところから幸せな温かさで溶けていってもおかしくなかった。
「あ、ありがとうございます……」
「ふふっ、何だか橘君って、小動物系だよね。申し訳なさそうに私を見る仕草とか、怒られるかなぁってちら見するところが」
「そ、そうですかね……」
なんだろうこの感じ。変な気分だけど、照れる。
「可愛いなぁ」
先輩はそう言ってくれた後、「やっぱりそのタオルは貰って」と言って僕が手に持っていたタネウマクンタオルをくれた。僕が素直だからそのご褒美にってことらしい。
森島先輩がさっきまで持っていた、森島先輩のタオル。
鼻を近づけなくても分かった。
タオルから、爽やかな匂い。
ちょっとドキドキする。
それに、これまで自分が使ってきたどのタオルよりもふわふわなんじゃないかというほど優しい手触り。
洗うのがもったいないかも……。
ってなんか危ない人みたいかな……。