『ん……私……死んだのかな……?』
霞の掛かったような思考とおぼろげな意識の中で、壱岐あかりはぼんやりとそう思った。
『ああ……昔からツイてなかったけど、まさか交通事故で死ぬなんてね……』
思えば昔から彼女の周りには不幸が一杯だった。渋滞や事故で約束の時間に遅れる事は数知れず、欲しかった品はいつも売り切れで、勿論懸賞の類などには一度として当たった事が無い。妹や友達をして「運に見放されてるんじゃない?」とからかわれるような悲喜劇。
この先もずっと不幸と付き合っていくのかな……と、思っていたが、まさか命を全うする前に車に撥ねられて死ぬなんて……病気なんてした事が無くて、怪我を負っても治りが早い健康な体は、数少ない自慢だったのに。
やりたい事はあった。成りたいものも、行きたい場所も。数限りなく。
未練はあるが、それでも……
『それでも、ひよりを助けられたんだから……まぁ、良いかな?』
命を分かち合って生まれてきた、双子の妹。彼女が無事なら……そう、思った時だった。
「あかり……あかり!!」
自分を呼ぶ声に引き寄せられるようにして、その身を包んでいた闇は急速に薄れていく。瞼を開いて入ってきた光が沁みて、少し眼を細める。そうしてクリアになった視界には、母と友達の顔が見えた。
「あかり、大丈夫? どこか痛まない? 今、お父様を呼ぶからね!!」
「さっき、ひよりも目が醒めたんだよ!! 良かった、二人とも助かって!!」
「ふあぁ……」
今一つ状況が分からないが、あかりは取り敢えずすくっと身を起こす。周囲を見渡せば友達と、対面のベッドに横になっているひよりの姿が見えた。目が合って笑いかけてくる妹に、彼女も微笑して返す。大丈夫だとは思っていたが、こうして自分の目で妹の無事が確かめられて一安心だ。
そうしてほっと胸を撫で下ろして……
全裸の少年が、自分のベッドのすぐ脇に立っているのに気付いた。
「~~~~~~~~~っ!!!?」
思わず飛び退って、目を手で覆う。
ひよりも少し頭を起こして、同じものが見えたのだろう。顔を真っ赤にしていた。
「なななな……!?」
もう少しで刑事が殉職する時のように「なんじゃこりゃあ」と叫ぶ所だったが、辛うじて堪える。あるいは目の前の少年がもう少し年を重ねていればそうしていたかも知れぬが、見る限り彼の年格好は10歳になるかならないかという幼さ。それがあかりの口から飛び出す悲鳴を、ギリギリの所で押し留めていた。
「どうしたの? あかり」
「ど、どうしたって……」
見れば分かるだろうと少年の方を指差すが、友人二人はその指し示す先を追って少年をまともに前にしても、狐につままれたような顔だ。”まるで彼の事など、目に入っていない”かのように。
ひよりを見れば、彼女は怪訝な顔をあかりへと向けている。どうやら妹には少年の事が見えているようだ。
「あかり、ひより」
その時、母に連れられてこの病院の院長である父が入ってくる。二人にも、少年の事は目に入っていないらしい。この異常に、双子の姉妹は顔を見合わせる。
「ひよりの方はCTも問題無かったし、脳波も正常……かすり傷だけだよ。あかりのお手柄だね。後でお礼を言っておきなさい」
娘の頭を撫でて、父が言う。
「しかしもっと驚いたのは、あかりの方だよ。まさかまともにバスに撥ねられたのに、傷一つ負っていないなんて……奇跡としか、言い様がないね」
「えっ……!?」
傷一つ負っていないと聞かされて、あかりは「そんな!?」と自分の体を見回す。確かに見る限り絹のような肌には一条の傷も刻まれてはいないが……いやしかし、そんな筈はない。まだ記憶がはっきりとはしていないが、バスとぶつかって道路に転がって意識が消える直前のその一瞬、凄まじい痛みが襲ってきたのは確かに覚えている。あれで怪我していないなど、そんな馬鹿な。
……とも思うが、実際に自分の体は無傷である。
「あかりはいつも運が悪い分、こういう時に凄い強運が憑いたんだよ、きっと」
いつも不幸な分、幸運がストックされていたのだと友人が言って、何となくその言葉に頷いてしまうあかり。
「えっと……お父様……」
一つの疑問は取り敢えず棚上げし、ちらりと目だけを動かして、少年の方を見るあかり。彼は心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「この子は一体誰なのですか?」
喉の奥まで出かかったその言葉を、呑み込む。見る限り自分とひより以外にはこの少年の姿は見えていないようだし、ひょっとしたら事故のショックで一時的に脳が混乱しているせいで見える幻覚かも知れないし……だがそれにしてはひよりにも見えているようだし……?
何にしても後回しにしようと結論。ひよりにもアイコンタクトでサインを送る。頷く妹。この辺りは双子の役得である。
ならばもう一つの疑問を。
「私達と一緒に轢かれた男の人は?」
「……ああ、居た!! ……居たような?」
「えー? そんな人居なかったよ? 気付いたらひよりとあかりが倒れてて……」
「バスの運転手も猫が飛び出してきて二人に気付くのが遅れたって言っていたけど、男の人の事は言っていなかったね。二人とも、まだ意識がはっきりしないのかな?」
疑問が解決するどころか、増えてしまった。
あの時、確かにジャージ姿の男の人が居たのだ。……って言うか、ひよりも自分も、その男の人を助けようとして車道に飛び出したのだ。なのに彼を誰も見ていないような物言い。これではまるで……
ちらりと、横目で少年を見る。
まるでこの少年のように、あの時の彼が、自分達以外には見えていなかったような……
「まぁ、兎に角二人とも今日は安静にしていた方が良いね、もう、休みなさい。ひよりも眠いようだし……」
父にそう言われて、分からない事は色々あるが取り敢えず全て保留という事にしようとあかりは結論する。
『私も寝よ……』
思考を全て放棄して、ベッドに身を横たえるあかり。取り敢えず一眠りしよう。そうして目が醒めたら、少年の姿もすっかり見えなくなっているかも知れないし。
「……なんて事には、都合良くならないわよねぇ……」
夜半に目を覚まして、あかりはむくりと上体を起こした。ひよりはまだ眠っている。横を見れば、相変わらず少年がすっぽんぽんのままそこに立っていた。いい加減この格好のままも目に毒である。取り敢えず自分の体に掛かっていたシーツを投げ渡してやる。
「ほら、せめてそれを羽織りなさい」
「……?」
そう言っても、少年はシーツを見て不思議そうな顔を浮かべるだけだ。じっとシーツを凝視したり、匂いを嗅いだりしている。まるでこんなものを見るのが、初めてであるかのように。
「……分からないの?」
この反応にあかりも毒気を抜かれた。やれやれとベッドから降りると、シーツの端を結んでマントのように少年の体に纏わせてやる。これで、漸く落ち着いて彼を見れるようになった。
「さて……それじゃあ教えてもらえるかしら? あなたは、誰なの?」
しかしその問いに、少年は首を横に振るだけだ。この反応を受けてあかりは「ふむ」と顎に手をやり一考すると、質問を変える。
「じゃあ、お名前は?」
この質問にも首を振られたら正直どうしようかと思っていたが、流石にこれにはすぐに答えが返ってきた。
「ヒノカグツチ。そう、直人という人から教えられました……それしか、分かりません」
「!! あなた、記憶が……!?」
記憶が無いの? と、そう言い掛けて。だがあかりの言葉は途切れる。
『嫌だ……まだ生きていたい』
『あいつに遺産はやらんぞ……』
『あの子はどこ……? あの子に会いたい……』
「っ!?」
声が、聞こえてきた。自分のものでもヒノカグツチのものでもない、慚愧のような、悔恨のような、悲しい声が。思わず、耳を塞いでしまう。見ればすぐ隣で、ひよりがバネ仕掛けのように上体を跳ね起きさせていた。
「何……この声……?」
妹のその反応から、彼女にもこの声が聞こえていたのだと、あかりは悟る。
「この声は……」
「なンだと思う……?」
声が響く。あかりのものでもひよりのものでもない、ヒノカグツチのものとも違う、男の声が。その声は、ひよりの布団の中から出ていて……
「!!!???」
それに気付いた瞬間、ひよりはシーツを跳ね上げてベッドから飛び起きて、露骨に警戒の姿勢を見せる。そうして彼女のシーツの下から現れたのは、ジャージでマフラーをした少年。今朝の事故であかりとひよりが庇おうとした男だった。
「あ……」
ひょっとして、と、あかりは尋ねる。
「あなたが……直人さん、ですか?」
「残念だがそれはそいつじゃねぇよ。直人は俺だ」
あらぬ方向から声が掛かって、病室の全ての目がその声が聞こえてきた方向、入り口の扉へと集中する。そこに立っていたのはよれよれのシャツに緩めたネクタイ、くたびれた白衣に無精ヒゲといった冴えない姿の、中年の男だった。
「あなたが……」
「そ、俺が直人。天津(あまつ)直人(なおと)だ。よろしくな」
気さくにそう言ってくる直人であったが、ヒノカグツチの時とは違って相手が中年男であるせいかあかりは警戒を解いていないようだった。いつでもベッドから飛び出せるように身構えたままである。
「じゃあ、直人さん。あなたに聞きたい事があります」
あかりは一度視線を、妹と交わし合う。これは二人共の、共通の疑問だ。
最初にひよりのベッドに腰掛けたままのジャージの人に視線が動いて、
「この人と」
次に、シーツ一枚を纏っただけのヒノカグツチに。
「この子と」
最後に、入り口の前でどっしり構えている白衣の男を見据える。
「あなたは何者なんですか?」
「何って、神様?」
返答は即座で、簡潔だった。
「尤も、この中でまともな神はそこの夜卜だけで、俺やカグツチは、色々と面倒な身の上だけどな……」
「もしもし警察ですか? 今、私達の病室に自分の事を神だと名乗る妙な男達が……」
説明もそこそこにひよりは110番していた。
「ああっ、待って!! 当然の反応だけどちょっと待って!! ドマイナーの夜卜は兎も角、ヒノカグツチの名前ぐらい、君らも聞いた事あるんじゃない!?」
慌てて駆け寄ってくる直人に、ひよりは警戒色はありありと浮かべたままであったが一応話を聞く気にはなったらしい。通話を切った。ちなみに今の会話の”ドマイナー”という部分に反応して、がっくりと落ち込んだ神が約一柱居たのはご愛敬。
「それは、まあ……カグツチっていったら日本神話でもメジャーな神様ですし……」
と、ひより。
ヒノカグツチ。この国の神話に於いて最初の夫婦であるイザナギとイザナミの間に生まれた最後の子であり、生まれながらに体が炎に包まれていた為に母たるイザナミを焼き殺してしまい、その咎によりイザナギの手によって殺されてしまった、この国で最初に母殺しと神殺しを為した神。
「そう、だがそれで終わりじゃあなかったんだよ。たった一度殺したぐらいでは、イザナギは母殺しの罪を許さなかった」
神は信仰によって生まれ、創られる。だから名のある神は仮に死しても人々の信仰がある限り再生し、存在し続ける。それ故の不死。だが父によって殺された後、カグツチの神格は剥奪され、貶められ、罰を与えられた。定命の人の中に封じられ、永劫の時間の中を生きては死に、死んでは生き続けるという罰を。
「ンで、この時代でカグツチの魂が封じられていたのが……君だって事さぁ、あかりちゃん。本来眠り続ける筈だったカグツチの魂が実体を持って体の外に飛び出したのは永い刻の中で封印が緩んでたのと、プラス事故のショックだと思うが……」
「……私が……?」
これも当然の反応だが呆然として呟くあかりに直人は頷いて返すと、カグツチとあかりのちょうど中程の空間へと手をかざす。するとじゃらりと金属のぶつかり合うような音がして、今までは見えなかった鎖が、彼の手に握られていた。この鎖はちょうどあかりの胸からカグツチの胸へと、繋がっている。
「それは……」
「この鎖は神であるカグツチを人のあかりちゃんへと繋ぎ止める楔。イザナギの封印。これがある限りカグツチは完全な神に戻れないし、あかりちゃんからあまり遠くへ離れる事も出来ない」
「そんな……」
「どうにかならないんですか?」
ひよりが尋ねる。肉親とは言え自分以外の者の為に動ける彼女を見て、夜卜と直人は眩しいものを見るように眼を細める。一方でカグツチは、話の内容が分かっていないのかぼんやりとあかりの傍で突っ立ったままだ。
「んー、俺には無理だけどよ……夜卜、お前ならこの鎖、ぶった斬れるんじゃね?」
じゃらじゃらと封印の鎖を弄びつつ、直人が尋ねる。これを受けて、夜卜は難しい顔だ。
「出来なくはないと思うが、今の俺には神器が無いし。野良も今は仕事中だしな」
「ンじゃぁ、取り敢えず依頼受諾だな。ただし相応の準備期間をもらうという事で……その間に神器を探せば良いだろ。あかりちゃん、君今、お金持ってる?」
「……具体的にどれぐらいでしょうか?」
「これで手を打ってやる」
ずいと進み出た夜卜が、広げた五指を示す。五万円? 五十万円? そんな大金、とてもじゃないけど払えない。ひよりもあかりも、一瞬目の前が真っ暗になった気がしたが……
「愚か者、俺は神だぞ? 賽銭は5円と、決まってんだろーがぁ!!」
と、まぁ、このようにして依頼料の前金5円が支払われ、夜卜とあかりの間で依頼が成立した。
「あなたに、ご縁があらんことを」
今夜はここまでと、夜卜は窓から、直人は出入り口からそれぞれ退室していったが……やがてひよりがはっと気付く。
「ちょっと、依頼が完了するまでの間、カグちゃんの事はどうするんですか!? ねぇ、ちょっと!?」
「…………」
唯一柱だけ病室に残ったヒノカグツチは未だ状況が呑み込めていないのか、当惑したようにそこに在るだけだった。
「さぁて、面白くなってきたなぁ。いくら神代からの経年劣化が生じているとは言え、果たしてクソ親父の封印が夜卜の奴に断ち斬れるものなのかどうか……こいつは良い予行演習になるぜ?」
病院から出た直人が、楽しそうにそう独りごちる。
「あいつにはいずれ俺の封印も、ブッた斬ってもらわにゃあだし。その時の為に、精々良い神器を手にしてもらわねば……だなぁ」