暖炉の火が揺らめく中、二つの影は僅か離れる。壁に背を預け直した少年は、瞳を閉じて過去を振り返る。
何処から語るべきか。僅か悩んだ問いに出したのは、女と同じで良いだろうと言う結論。己が知った、己の出生から語るとしよう。瞳を開いて、ニコルは小さく息を吐いた。
「私は、帝政ロシアの首都、サンクト=ペテルブルグで生を受けました」
ロシアの首都がペトログラードと呼ばれるようになるのは、ドイツとの関係性が悪化した1914年以降の事。
今はまだ原作と違って、サンクト=ペテルブルグと呼ばれている時代だ。その片隅で、ニコラス・コンラドは生を受けた。
「母は宮中に出入りしていた有力貴族の娘で、父は――現・ロシア皇帝、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ」
「皇、帝? 王子様だったの、貴方!?」
「認知すらされていない庶子ですがね。父は私が産まれた事すら、知らないのかもしれません」
ニコライ皇帝の第一子。正真正銘の王子様。予想だにしていなかった血統に、クーデルカは酒気が醒める程に驚く。
そんな女に笑って返す言葉は、認知すらされていないと言う言葉。恋仲だった彼の父母は、しかし婚姻には至らなかった。
「父は私が産まれる前に、母を捨てました。理由は知りませんが、恐らくは先帝からの命であったのではないかと踏んでいます」
この時代、王族の婚姻とは国家戦略と同義である。自国の有力諸侯の娘より、諸外国の王室と結び付く事をニコライ2世は望まれたのだ。
そしてそうなると、恋仲にある女の存在は邪魔となる。当時20歳。皇太子に過ぎない身分のニコライでは、父母の命に逆らえなかった。
となれば、破局するのも当然の事。其処で終われば、よくある悲恋の一つであったのだろう。だが運が悪い事に、その時既に女はニコルを孕んでいた。
「捨てられた母は実家に戻り、妊娠に気付いたそうです。そして産む事を望んだ母に、しかし実家は断固としてそれを許しませんでした」
愛する人と一緒になれない。ならばせめて、愛した人の子を産みたい。そう考えた女の情に、そうされては困るのが貴族の事情だ。
政略結婚に使える筈の年頃の娘が、皇太子のお手付きとなったと言うだけでも厄介なのに。その子まで産んでしまえば、王室が大きく荒れてしまう。
一度は納得した皇太子が、また父母に逆らうかもしれない。皇家が裏で進めている婚姻が、上手くいかなくなるかも知れない。
王位継承者が無作為に増えてしまうのは都合が悪く、下手をすれば国家間の関係にも泥を塗りかねない。そう考えれば、産ませる訳にもいかないと言うのも当然だ。
「母の実家は、母に堕胎を命じました。ですが母はそれを拒絶して、ならば出て行けと勘当されたそうです。お前はもう、貴族ではないと」
子を産む前におろせと言われて、女は狂ったように抵抗した。彼女にとってそれは、愛する人との間に残った僅かな絆であったから。
どうしても納得しない強情な娘に、ならば出て行けと実家は命じた。国を荒らす火種を抱え込むなど出来ない。彼らにとっても、其処は譲れない事であった。
そして同時に、女の想いを甘くも見ていた。一人で生きる力もない娘だ。少し厳しく当たれば、直ぐに泣き付いてくるだろうと。
けれど彼らの予測は外れた。女は父母や貴族としての誇りより、まだ見ぬ我が子の生を望んだのだ。追い出されて帰らなかった女は一人、貧民街で子を産んだ。
「母は、典型的な貴族の娘でした。蝶よ花よと愛でられて、社交界での会話や踊りを得意とする。それ以外には、何の技術も有していませんでした」
子を産んだ女は実家に頼れず、さりとて一人で生きていられる程に強くもなかった。裕福な貴族の娘が貧民街で、真面に子育てなど出来よう筈もない。ニコルが生まれた時には既に、女の人生は詰んでいたのだ。
「身に付けていた装飾品を質に入れても、足元を見られて大した額にはなりません。そして手に職もなく、頼れる身寄りもない。となれば、生活費を稼ぐ手段は自然と限られます」
「……ニコルのお母さんも、身体を売ったのね」
「はい。それしか、ありませんでした」
貴重な品を売り捌いて得た金も、貧民街であばら家を買えば直ぐに底を尽いた。他に稼ぐ術を知らない女には、身売りをするしか道がなかった。
ニコルの母が抱いたであろう感情が、クーデルカには良く分かった。更に生まれた子どもを育てねばならないとなれば、その境遇は幼い日のクーデルカよりも寒い物であったのだろう。
「愛した男とは違う男性に抱かれる日々。稼いだお金は、親子で過ごすには足りない物。食事も満足に取れず、寒さに震える日々が続きました」
死にたくなる気持ちを我慢して、汚らわしい男に抱かれる。そうまでして得た金も、二人で食べるにはまるで足りないはした金。
明日の見えない閉塞した日々は、女の心を蝕み続けた。苦しくなる事はあっても、楽になる事はない。女の身体が有する価値は、年追う毎に下がってしまう。
己の食事を削って我が子に与えながら、この日々とて何時まで続くのかと考えてしまう。老いてしまえば身を売る事すら出来なくなるから、生きる事すら出来なくなる。
「そうして、母は壊れてしまった。私が物心ついた頃にはもう、真面な会話も出来ませんでした」
未来に絶望しかない日々の中で、女の心は擦り減り削れた。現実に耐える事が出来なくなった女は、夢の中に沈んでしまった。
「寝ているか。客に媚びているか。壊れたラジオのように、過去や父の事を語っているか。それだけが、幼い頃の私が知る母でした」
ニコルが物心つく前に、ニコルの母は壊れていた。心は壊れたまま、身体は生きる為に必要な行為を繰り返し続ける。
男に抱かれて金を得て、我が子に食事を与えながらに妄執を囁く。そうした後は糸が切れたように、次の仕事まで眠り続けた。
「『何時かお父さんが迎えに来てくれる。貴方は皇帝に成れるのよ』……母は現実に耐えられなくて、そんな夢を見続けていたのです」
現実から目を背けて、在りし日の夢を視る。何時だって彼女の中での時間は止まっていて、女にとっては現実こそが悪い夢でしかなかった。
だから事あるごとに、ニコルに向かって口にした。彼の血統と、父親の事を。何時だって壊れた女は、愛した人が迎えに来てくれる事を期待していた。
「当時の私は、母が嫌いでした。男に媚を売る姿が、醜いと。毎晩聞かされる妄想が、煩いと。こんなにも下らないモノが、我が母とは情けないと。……母の想いにも気付かずに、愚か者だと嗤っていたんです」
そんな女を幼いニコルは、内心で蔑み続けていた。身体を売っても碌に稼げず、極貧を極めた生活は底がないと思える程に落ちていく。
食事も満足に取れず、毛布も一枚しかない家の中。壊れた母が話し続ける雑音を嫌っても、吹き込む風の寒さに耐える為には触れ合っている他なかった。
幼いニコルにとって、世界とは実に詰まらない物だった。母が家で客を取っている間、貧民街から見上げた宮殿。何時かあそこに行くのだと、気付けば彼はその妄執を抱いていた。
「私はこうはならない。母のような、負け犬にはならない。……全く、愚かにも程がある。母がどうしてそうなったのか。世情を少しでも考えられる知性があれば、分かった筈の事でしょうに」
ニコルは思う。原作においての自分は、恐らくはあの時のままに育った己なのだろうと。原作知識と言う切っ掛けが無ければ、きっと同じように成っていた筈だ。
壊れた母を見続けて、こんな風にはならないと誓う。母の妄執を受け継いで、帝政ロシアの玉座を求める。そうすれば空っぽな自分でも、何かを手に入れられる筈なのだと。
けれどそうはならなかった。少年は今、原作とは違う道に居る。知識を得た事で、ニコルの世界は確かに変わったのだ。
「変わったのは、忘れもしません。ある日唐突に、私は毎晩、“悪夢”を見るようになりました」
三歳のある日、ニコルは唐突に“前世の記憶”とでもいうべき記録を夢に見た。
何処かの誰かの一生涯分の記憶はしかし、既に物心ついていた少年にとっては現実感のない記録に過ぎない。
最初は何が何だか分からず、変な夢を見たなと言う程度。だが次第と理解が及ぶにつれて、ニコルは確かな恐怖を抱いた。
「自分が死ぬ夢。何も為せずに殺される夢。言い訳も出来ない程の、負け犬となってしまう夢」
見た事もない誰かが遊んでいた『シャドウハーツ2』と言うゲーム。その物語に出て来る、ニコルと同じ名前の誰か。
その男が抱えた歪みが、その男が叫ぶ想いが、その男が望んだ物が――ニコルには手に取るように分かった。分かって、しまったのだ。
これは己だ。これは己の未来だ。己は何も為せないまま、無駄に年を重ねて殺される。そう理解した瞬間に、ニコルは絶叫を上げていた。
「繰り返される光景を理解した瞬間、私は無様にも涙を流し恐怖に震えました。狂ったように叫び続けて、そのまま糸が切れるように倒れたのです」
生まれて初めて、母親の気持ちに共感出来た。未来がないと言うのは絶望的だ。ああ、これは耐えられないと。
幸いだったのは、ニコルに狂い続ける事が出来る程の体力がまだなかった事。心が壊れてしまう前に、身体が限界を迎えたのだ。
「そうして、目が覚めたら……母が穏やかに、笑っていました」
倒れて意識を取り戻した時、ニコルは優しい温もりに包まれていた。目を開けば、重なったのは慈愛の色を浮かべた瞳。
母親は膝を枕代わりに、倒れた少年を寝かせていた。一枚しかない毛布を彼に被せて、柔らかく髪を撫でながらに語るのだ。
「『怖い夢を見たのね、もう大丈夫よ』と。母の瞳に私が映っていたのは、あの日が初めての事でした。…………そして、私が母を見たのも。あの日が初めてだったのでしょう」
それは奇跡であったのだろう。壊れて狂っていた女は、我が子の嘆きの声を耳にした事で母に戻れた。
ほんの一瞬、僅か一晩にも満たない奇跡。次の朝を迎える頃にはもう、会話する事すら出来なくなっていた。
まるで夢のような時間であった。だがだとしても、確かに起きた事である。そう信じるニコルの瞳は、確かに母を映していた。
「母は、病を患っていました。当然です。真面な食事もない、不衛生な環境で身体を売る。寿命を縮めるには、十分過ぎる生活でしたから」
だから気付けた、母の体調がおかしい事に。そして気が付いたのだ。ゲームの中では、ニコルの母親なんて出て来ないと言う事実に。
「それに気付いて、初めて私は恐怖しました。このままでは母が死んでしまうと、其処で初めて実感したのです」
一瞬でも母の愛に触れたから、ニコルはそれを失う事を怖れた。ゲームの通りになるなんて、納得したくもなかった。
諦める訳にはいかない。母の死は、己の破滅を確定付ける。同義であるとすら言える。ならばこそ、幼いニコルは必死になった。
「母が客を取る間、私は自由に動けました。だから必死になって、母を死なせない方法を探しました」
どうすれば母親を生かせるのか。頭を回して考え続けて、毎日毎日サンクト=ペテルブルグを駆け摺り回った。
母の病は、不衛生が祟った物。病を治すには金が要るが、金さえあればどうとでもなる。だからと最初に探し求めたのは、母の生家である貴族の屋敷。
「母の実家を探しました。母が質に出した物に付いていた家紋を、朧げにではありますが覚えていたので。後は足で駆け回って一致する家に駆け込みました」
幸いな事にニコルは、記憶を引き継ぐ前から地頭に優れていた。更に転生者の知識を獲得したのだから、幼くしても大人顔負けだ。
母の能力的な事を思えば、それ程遠くにはないと予測は出来た。後は曖昧な記憶を頼りに、大きな屋敷を順繰りに回っていくだけの事。
数日もあれば、見付け出す事は簡単だった。母の実家に辿り着いたニコルは覚悟を決めて、その門を確かに叩いたのだ。
「そして、泥水を掛けられて追い払われました。お前が居たから、娘を捨てるしかなかったのだと。私を杖で殴り付ける祖父は、私に私の出生について語りました。憎悪を込めて、呪うように」
結果は失敗。母を助けてくれと何度言おうが、お前が居るから無理なのだと暴力を振るわれる。
このままでは母が死んでしまうと縋ろうと、その前にお前が死ねば良いのだと彼らには取り付く島もない。
それでも殺されなかったのは、孫と言う存在に対する慈悲があったのか。それとも幼い子どもを殺す覚悟がなかっただけか。
血塗れになって、貧民街へと戻る幼子。あばら家の扉を開けて、瞳に映るは母の浮かべる壊れた笑顔。出生の秘密を知った後では、受けた暴力よりもその笑顔の方が痛かった。
「母が、私を愛していた。その事実を、痛みの中で知りました。あの時は血塗れの身体よりも、母へ向けた己の情こそが心に痛く感じたものです」
何時もの様に父の話を聞いた後、母に抱き締められて眠りに落ちる。その温もりに、少年は決意を強くした。
必ず助ける。母の実家が駄目だとしても、父に頼れば如何にかなるかもしれない。諦める理由なんてなかった。
「日に日に窶れていく母を救う為、私は町中を駆け回りました。王宮に出入り出来る商人や技術者に頭を下げて同行を希望したり、王宮に繋がる隠し通路を探し出しては入り込んだり」
原作知識を頼りに、サンクト=ペテルブルグを駆け摺り回った。以前と同じように、以前よりも必死になって。
エドガーと言う時計職人が居る事を覚えていた。王宮御用達の彼に着いて歩けば、皇帝への御目通りも叶うかも知れない。
そう考えて探してみれば、彼はまだ見習いを卒業したばかり。王宮になど入れないと、困った顔で諭されて終わりだ。
街の地下には、王宮から続く避難経路があると知っていた。だから何度も何度も其処に挑んで、知識を頼りに駆け回る。
ゾンビ犬に襲われ逃げ惑いながらも、如何にかロケットを手に入れた。これで霊障で塞がれた道も開くと喜べば、棺に返しても反応すらしなかった。
血塗れの子どもは怒りに任せて、一度は怨霊に返したロケットを奪い取る。ふざけるなと何度も叫びながら、地下通路を後にした。
「父に逢えれば、救ってくれるのではないかと期待しました。ロシアでも名高い大司教ならば、母を癒してくれるのではと妄想しました。けれど返って来たのは、何時も痛みばかりでした」
ニコライに逢う為に、時には真正面からエルミタージュ宮殿に乗り込もうとした。その際には兵士に捕まって、話を鼻で嗤われた。
ラスプーチンに逢う為に、周囲の教会へと何度も足を運んだ。けれどその度に大司教はお忙しいのだと諭されて、何も得られず追い返される。
一度や二度では諦めなかった。何度も何度も食い付いた。最初は大人の対応をしていた者達も、果てには乱暴になっていく。
兵士達には殴られ蹴られ、神父や修道女には汚い物を見る目で侮蔑される日々。気が付けば何時も血塗れで、壊れた母の笑顔を見ていた。
「結局、私には何も出来なかった。傷だらけになって家に戻れば、目に映るのは己よりも壊れていく母の姿」
そんな日々が、二年と続いた。もう母は長くないと、ニコルにも分かった。何故なら彼女には、立ち上がる力すらも残ってなかったから。
間に合わないと理解した。この後でどんな奇跡が起ころうとも、此処まで進行した病は止められないと分かってしまった。ニコルには、何も出来なかったのだ。
「あの日のように、泣きました。何も出来なくてごめんなさいと、あの悪夢を見た日のように」
ごめんなさいと涙を流した。貴女を救えなくてごめんなさいと。愛してくれたのに、苦しい想いばかりさせてごめんなさいと。
見っともなく泣きながら、気付けば知る限りの全てを話していた。聞かれても分からない事実を良い事に、原作の知識を口にした。
自分は知っている。死者の蘇生方法を。何時か必ずエミグレの秘術を成功させて、また貴女に逢えるようにする。その時こそ、きっと幸せにしてみせると。
だから今は、助けられなくてごめんなさい。一度は死なせるしかなくて、本当にごめんなさいと。泣き叫びながらニコルは、母に全てを明かしていた。
「そんな時です。あの日のように、気付けば母が私を抱き締めていました」
それは少年の生涯で、二度目に起きた奇跡。優しく子を抱き締める母に、ニコルの声は届いていた。彼女は確かに、ニコルの言葉を理解していたのだ。
「母は笑って、言いました。『私の事は気にせずに、貴方は幸せになりなさい。それが私の幸せなのよ』と」
その上で、彼の言葉を否定した。死後の蘇生を望まなかった。悲しいけれど、これで良いのだと。苦しいけれど、これで良いと。
未練となるのは、貴方の事だと。己の事など忘れて良いから、どうか幸せになって欲しいと。涙を流すニコルは確かに、母に愛されていたのである。
「この写真を撮ったのは、その少し後の事です。母を救う方法を求めていた際に知り合った、エドガーと言う時計職人にカメラを借りて」
悲しげな顔でニコルの話を聞くクーデルカに、ニコルは微笑みながら首から下げたロケットを開いて見せる。
映り込んでいたのは、狂人とは思えない程に柔らかな笑みを浮かべた女性。ベッドに起き上がった女が、子を抱き締めている姿。
「何時もは寝ているか、妄言ばかり口にしている。そんな母が、笑って映ってくれた。もしかしたらこれが最期の贈り物になると、母には分かっていたのかもしれませんね」
開いたロケットを片手で閉じて、大切そうに握り締める。これはたった一つだけニコルに遺された、母の形見であったから。
「その日、貧民街も湧いていました。街に唯一つだけあるラジオから、大音量で聞こえる情報。父とアレクサンドラ皇后の婚姻が報道されたその晩に――――母は息を引き取りました」
1894年11月26日、父親が別の女と結婚したその日。晴れ渡る青空の下でニコルは、母を永遠に失った。
先帝の死から一月と経っていない時期の慶事に世間が湧く中、ニコルは一人で母の死体を抱き締め涙した。
「私は冷たくなった母を背負って、祖父の下に赴きました。どうか母を、墓に埋めて欲しいと」
涙を流し終えた後、ニコルは既に決めていた。これより先に、為すべき事を。
母を連れて行く事はもう出来ない。だから眠らせる為にもせめてと、母の生家に頭を下げた。
「葬儀への参列は許さない。墓参りも一度だけ、それ以降は許可しない。その条件を受け容れて、母は眠りに付きました」
殴られ蹴られたその後で、母の墓石は建てられた。必死になって頭を下げた事で、墓参りも一度だけだが許された。
どの道、一度しか顔を見せられないとは分かっていた。だからその条件を飲み干して、ニコルは母へと別れを告げた。
「その後は、正教会の大司教に拾われて、修道騎士として育てられて、今に至ると言う訳です」
そうして別れを告げた後に、彼は出会ったのだ。そう遠くない内に現れるだろうと予想していた、グレゴリオ・ラスプーチンと言う名の悪魔に。
「……ニコル。貴方は、憎くはなかったの?」
「そうですね、憎かったのだとは思います。けれど今は、正直に言ってどうでも良い。尤も、私も聖人君主ではありませんから。侮蔑や軽蔑は今もしていますがね」
語り終えたニコルに対し、問い掛けるクーデルカ。何を憎んでいるのかと、主語の欠けた言葉に少年は平然と頷いた。
憎しみはあった。己自身も含めた全てに、強い憎悪を抱いていた。だが、それで何になると言うのか。
全く以って、労力の無駄であろう。そんな時間の浪費を行うくらいであれば、母の願いを叶える為に思考を進めるべきなのだ。だから今のニコルには、憎しみなんて残っていない。
「憎んだ所で、母が戻る訳でもない。過去に帰れる訳ではないのです。……戻れたとしても、戻る気などはありませんが」
好意の反対は無関心とは良く言った物で、ニコルは世の殆どを好いていないのだ。嫌う価値も憎む価値もないと見下しているから、どうでも良いと割り切れてしまう。
或いは嘗てのクーデルカやシャルロッテよりも、今のニコルは周囲の者らに諦観と絶望を抱いているのかもしれない。或いは単純に、そんな感情を向ける余裕がないだけかもしれない。
「母は幸せになって欲しいと願ってくれました。だから私は、幸せにならなくてはいけない」
事実は一つ。母の未練は、ニコルが幸せに成れると言う確信を得られなかった事。最期に正気だった時、確かに直接望まれたのだ。
ならばニコルは、幸福に成らねばならない。誰よりも幸せにならなくては、母の未練が果たせない。それこそが、少年が今を生きる理由。
「ですが困った事に、私は如何にも頭が固いようでして。母の未練を果たすより前に、為さねばならない事があるのです」
「為さねばならない、事? それは、どんな……」
「何、大した事ではありません。本当に、大した事ではないのです」
母を愛していたから、母の未練を果たさねばならない。そう誓う少年が、それでも未練よりも優先してしまう事。
一体それは何だと言うのか。問い掛けるクーデルカに、ニコルは苦笑しながら語る。客観的にも主観的にも、それは大した事ではなかった。
「私は唯、父に問いたい」
知りたい事が、一つある。聞きたい事が、一つある。それを問わねば、己の幸せなど探しようがなかった。
「母はその最期まで、父の事を愛していました」
何故ならば、ニコルの母はその最期まで父を愛していた。冷たくなっていく母が、最期に口にしたのは父の名前であったから。
「父には母と婚姻出来ない、どうしようもない理由がありました」
父親は、結局迎えに来なかった。助けにすらも来なかった。それでも仕方がないと言えるだけの、理由は確かに存在していた。
「だから、仕方がない事だとは思います。ですが、それでも問わずには進めないのです」
仕方がない事だった。どうしようもない事だった。理屈では分かるが、感情は納得してくれない。
どうしてと、叫びたくもなる。そんな価値があったのかと、怒りたくもなる。だから、それを問わねば何処にも行けない。
「貴方は母を愛していたのですか、と」
その最期まで父を愛した母を、他の女と一緒になった父は果たして本当に愛していたのだろうか。
己の母は唯の道化であったのか。己の愛に殉じた悲劇の女性であったのか。知りたいのだ。知らねばならない。
「それを聞いて、どうするの?」
「……さて、どうしたいのか。私にも、分かりません」
クーデルカの問い掛けに、返せる答えも今はない。知った後で為す事など、知らねば思い浮かべる事も出来やしないから。
「愛してなどいなかった。そう言われたら、刃を向けないで居られる自信はない。けれど愛していたと言われても、そう簡単には信じられない」
父が母を愛していなかったのならば、その瞬間に父はニコルの怨敵となる。帝政ロシアを崩壊させて、その玉座を奪う事こそ彼の幸福になるだろう。
だが父が母を愛していたのだとしても、その事実をニコルは受け容れる事が出来ないだろう。ならば何故、と。何故助けてくれなかったのだと叫んでしまう。
「けれど、だからこそ、死んで貰っては困るのですよ。父には私が問い質すその日まで、玉座に君臨して貰わねばなりません」
ニコルが問い質すその日まで、父にはロシア皇帝で居て貰わねばならない。母を捨ててまで得た椅子を、失う事など許しはしない。
そうとも、ニコルが問い質すのに相応しいのは、エルミタージュ宮殿にある玉座の間。その前でこそ、真実を明らかとするべきなのだ。
(故に、ラスプーチンは邪魔なのだ。私とあの男は、決して相容れる事はない。奴がロシアを、狙う限りは)
其処まで至る為には、無数の障害が存在している。一つがロシア皇帝であるニコライの持つ地位ならば、もう一つがニコルの師であるラスプーチン。
グレゴリオ・ラスプーチンとの戦いは避けられない。あの男こそ、ニコルの人生における最大の脅威。彼を倒す為にこそ、ニコルは膝をついてその教えを乞うているのだから。
「何時か私は、玉座の前で問い掛けます。私の父である、ニコライ2世と言う男に。……そうして初めて、私は私自身の道を歩き出せる。そんな気がするのです」
「不器用なのね、ニコルは」
「そう、ですね。器用には、生きられないんでしょう。私も、そして貴方も」
語る少年の頬を、女が優しく片手で撫でる。不器用だと言う自覚はあった。もう少し器用であったのならば、もっと楽に生きられる筈であろうに。
それでも、この道を変える心算はない。己で決めた道を進まねば、己で決める幸福なんて得られはしない。
ニコルはそう思うから――――優しく少年を抱くクーデルカの身体を、抱き返す事はまだ出来ない。
・ニコルはシャドハ2の時点で27歳なので、誕生は逆算すると1888年前後。
・史実では1890年から約一年間、ニコライ2世は
・更に史実では1892年から2年間、ニコライ2世には
擦り合わせると色々と妄想が捗ります。
今後のストーリー展開は次の内どれが良いですか?
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ヒロインは一人。純愛ルート。
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ヒロイン複数。ハーレムルート。
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ヒロインは甘え。求道者ルート。
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ウルと二人で漢祭りルート。
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宿命の兄妹対決! ニコルとアナスタシア!