昼下がりの軽食を終えて、直ぐに始めた旅支度。半年分の旅装となれば、必要最低限の量だとしても相応だ。
だが少年の身長では、大きな荷物は邪魔となる。さりとて懐に武器以外の物を入れ過ぎては、戦場で望んだ物を取り出せないと言う危険も増える。
詰まりは、必要最低限ですらも持ち歩けないと言う現状。大半は現地調達に頼るしかなく、ならば準備が必要ないかと言えばそれも違う。
持ち運べる量に限りがあるからこそ、選ぶ内容は慎重に。これは本当に必要か。これは代替が出来るのではないか。一つ一つと悩んでいけば、掛かる時間は長くもなろう。
夕食の時間までには終わらず、結局ニコルが納得出来る形に納まったのは夜も更けてから。気付けば屋根裏部屋に差し込む光は、月の色へと変わっていた。
「ニャーニャーニャー」
そうして何とか整えた旅支度。旅装の入った革製のボンサック。取り出し口を口紐で縛っただけの、簡易で丈夫な肩掛け鞄。それと戯れているのは、桃色の体躯をした蝙蝠。
クーデルカの努力も虚しく、煙を伴う変身だけで残念な性格へと戻ったヒルダ。彼女は口元に食べかすを付けたまま、鼻歌混じりにニコルが苦労して整えた中身を弄っている。
「ニャーニャーニャー」
絶対に必要な水筒を取り出して、代わりに盗難防止用の鎖が付いた本を入れる。様々な用途に使えるだろう清潔な布を抜き出して、代わりに修道院にあった曰く付きの宝石と入れ替える。
身の丈よりも大きな旅装と戯れているヒルダの姿に、ニコルは頭を抱えて嘆息する。一体何をしているのかと、分からないし分かりたくもない。それでも問わない訳にはいかないだろうと。
「……で? 貴女は何をやっているのですか?」
「ニャ? 何って、旅の支度ニャ。ニコルってば、実用一辺倒で詰まらんニャ」
人が苦労して選別したと言うのに、一体何をしてくれているのか。数時間の努力を無に還された少年が、苛立ちを抑えて問い掛けた言葉。対してヒルダは、自慢気に胸を張って返す。
全く保存加工していない食品を革袋に詰めるのは、果たして旅の支度と言えるのだろうか。そんな疑問を抱きながらも、それ以上に無視出来ない事もある。故にニコルは、面倒そうな表情を隠さず言葉を紡ぐ。
「これじゃ、一緒に行くのに暇ばっかりニャ。もう少し、娯楽を楽しまなきゃ人生損ニャよ」
「色々と言いたい事はありますが、付いて来る気なんですか?」
「え? 付いて行っちゃ駄目かニャ?」
「……クーデルカに説明した内容は、貴女も聞いていたのでしょう」
「聞いてたニャ。けどヒルダちゃんは人間ではなく、吸血鬼なので問題ないニャ」
ヒルダは形態が変わっても、その記憶は継続される。当然ニコルがクーデルカに語っていた、付いて来てはいけない理由も確かに分かっている。
立場の違う人間を、国の仕事に同行させる訳にはいかない。その理屈は分かっていて、しかしヒルダはこう言うのだ。そもそも己は吸血鬼だから、立場の違う人間ではないのだと。
重箱の隅をつついたような発言を受けて、ニコルは呆れたように息を吐く。痛む蟀谷に手を当てて思考するのは、曲解しているこの蝙蝠を如何にして説得するか。
常人とは琴線が異なる吸血鬼だ。説得するには骨が折れるぞとまで考えて、直後にニコルは思い直す。別に説得する必要はないのではと、至った解は最早単なる開き直り。
「……ま、別に構いませんか。ヒルダなら、死んでも惜しくはありませんし」
「ニャっ!?」
クーデルカの同行を拒んだのは、彼女の事を守れぬから。傷付いて貰いたくはないと言うのは感情で、大切にしているからこそ遠ざける。
ロジャーに対して感じているのは、優秀な教師を失いたくはないと言う合理性。恐らくは死なないのだろうと言う信頼もあるが、態々戦地に巻き込もうとも思わない。
対して、ヒルダはどうかと言えば。別にどうでも良いと言う一言で切って終わる。感情的にも合理的にも、死んで困る相手じゃない。寧ろ傍に居れば、いざと言う時の盾くらいにはなるであろうか。
「私としても、捨て駒が手元にあれば助かりますからね。上海に巣食うと言われる邪仙は、何でも世界最強クラスの実力者だそうで」
「ニャニャッ!?」
「いやぁ、自分から進んで犠牲になるとは。最近の囮と言うのは、実に身の丈を弁えている。どうせ死なないでしょうし死んでも惜しくはないので、いざとなったら派手に散ってくださいね」
「ニャァァァァァッッ!?」
故に、ニコルは決めたのだ。この蝙蝠は、引き摺ってでも連れて行こうと。人の努力を無にした対価は、その身体で支払って貰うのである。
邪悪な笑みを浮かべた少年の言葉に、叫び声を上げて床を転がり回る桃色蝙蝠。ニコルは彼女の胴体を片手で掴むと、残る片手で丸い小窓を開けた。
「ニャ、ニャ、何で窓を開けるニャ? 夜風は、冷たいニャよ?」
「何、大した事ではありませんよ。これから再度準備をしないとならないのですが、その前に邪魔者を排除せねば作業が進みませんからね。……折角、夜行性に生まれたのです。明日の朝まで、月夜の旅路を楽しみなさい」
「ニャァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!?」
掴んだ桃色をボール代わりに、大きく振り被ってピッチャー投げた。魔力で強化された剛腕に依って、ヒルダは星空の彼方へと飛んでいく。
彼女が寝ている内に刻んだ魔術的な刻印がある限り、何処へ墜ちようと転移魔法で回収は可能。故に後で拾えば良いやと、少年は窓を閉じて鍵を掛ける。心は実に晴れやかだった。
そんなネタにしかならないやり取りを終えてから、旅装に放り込まれた余計な物を抜いていく。黒猫の餌やシャルの絵本は兎も角として、石板を入れて彼女は何がしたかったのだろうか。
逆さに振った鞄の中から出て来る物を部屋の隅へと投げ捨て、代わりに選別した道具を再びボンサックの中へ。詰め替え終わった所で聞こえてきたのは、屋根裏に繋がる梯子を上る音。
ふと振り向けば、部屋に入って来たのは一人の女。湯上りなのか薄手の服装に、ダークブロンドの髪は濡れて解けたままとなっている。
納得してはいなかったのだから、きっと来るだろうと思っていた。そんなクーデルカの来訪に、ニコルは素直な笑みを浮かべる。さて、何を口にしようかと。
「ねぇ、ニコル。少し、話をしても良いかしら?」
「勿論ですよ、クーデルカ。貴女を拒む、理由はありません」
僅か悩んだ少年が言葉を紡ぐより前に、クーデルカが先んじる。彼女の問い掛けに肯定の意を返した後、ニコルは立ち上がってベッドへと。
床以外に座る場所など、此処しかないのだから。腰を掛けた状態で、来訪した女を手招きする。クーデルカも頷いて、ニコルの隣に腰掛けた。
「……あのね、ニコル。あれから考えたんだけど、やっぱり私も」
「駄目ですよ。クーデルカ。貴女の事は連れて行けない。だって――――私では、貴女を守れない」
少年の理由を考えた上で、それでもと口にしたクーデルカ。彼女の想いを受けてしかし、ニコルには肯定なんて返せない。
だから表向きの理由で止まらなかった女に、伝えるのは単なる本心。包み隠さぬ感情を曝け出す以外に、説得の方法など浮かばなかったのだ。
「あたしを連れて行きたくないのは、あたしに死んで欲しくないから?」
「はい、その通りです。クーデルカ。私は貴女に、傷付いて欲しくない。死んで欲しくは、ないのです」
嘘偽りなどは許さないと、目を見詰めて来るクーデルカ。その瞳を見詰め返して、語る少年の言葉に嘘偽りなどありはしない。
そうとも、素直になろうと決めたのだ。お節介な友人から与えられた宿題に、ニコルは確かにそう返したのだ。ならば大切な相手に対し、嘘偽りなど向けたくない。だから――
「私は貴女を好いている。この好意が、親愛なのか恋愛なのかは分かりませんが」
少年は瞳を見詰めたまま、心の内を真摯に語る。今も名前を付けられない熱は、しかし確かに胸の奥を焦がしている。
だから真っ直ぐに、連れて行けない理由を語る。余りに無力な少年は、遠ざける事でしか大切な人を守れない。だから彼女に告げるのだ。
「それでも、貴女を好いている。だから、付いて来て欲しくない。連れて行く訳には、いかないのです」
「……本当、酷い男。そんな風に言われたら、付いて行きたくても行けないじゃないの」
クーデルカは納得してはいなかったから、何度でも頼み込もうと此処に来た。大切だと思われる事は嬉しいが、ならば同じ位に大切だと思っている事も分かって欲しいと。
そう言いに来たのに、気付けば丸め込まれている。好いた相手に真摯な瞳で言葉にされて、それでもと返す事など女には出来なかったから。本当に酷い男だと、少年に触れて呟いた。
「心配なのですよ。今の上海は魔境です。表も裏も、そのどちらもが」
手の甲に触れる、クーデルカの指先。其処から感じる熱が大切だと思えば思う程、連れて行ってはならないと言う想いが強くなっていく。
上海の地は魔境だ。表では大国同士が牽制し合い、裏には邪仙とその一味が潜んでいる。ニコル自身、生きて帰って来れる保証はないのだ。
けれど行かねばならぬのは、少年には自由がないから。悪魔の玩具である彼には、強くならない限り未来がない。だから彼は、進み続けなければならない。
「彼の大邪仙と争うかもしれない。国家間の緊張が高まり、予想外の開戦が起こるかもしれない。そんな土地で誰かを守れる程に、私はまだ強くない」
その道に、大切な人を巻き込めない。ニコルは今も弱いから、誰も守れない程に無力であるから、大切に思う人程傍に居て欲しくない。
そう語る少年には、本当はもう分かっていた。この熱も、何時か手放さなければならない。クーデルカとも、何れは別れなくてはならないと。
「強くなりたい。そう望んで、選び取った道。其処に後悔などはありません」
ニコルが大切に想う相手を、ラスプーチンが見逃す筈もない。ましてやクーデルカは、闇の鍵と言われる存在。手を出す価値は、余りに多くあり過ぎる。
壊されてしまう。ルチアやベロニカ達の時と同じように。それに抗えるだけの力がニコルの内にはまだなくて、だから遠ざけないといけないなんて事は分かっていた。
何せ相手は、人の記憶すら暴く魔術師だ。覚えている事すら許されない。サピエンテス・グラディオに戻る時が来たならば、全てを忘れて去らねばならない。
触れ合う熱が温かであればある程に、泣きたくなる程に辛く、叫び出したくなる程に苦しい道である。けれどこの道を歩くと決めたのは、ニコラス・コンラド自身であるのだ。だから、後悔などはない。後悔なんて、許されない。
「だから、だけど――――貴女には、此処で待っていて欲しい。クーデルカには、此処に居て欲しい。貴女の元に、私は帰って来たい。……そう思うのは、卑怯ですかね?」
だと言うのに、そんな言葉を口にしてしまう。唯でさえ弱いのに、もっと弱くなってしまう。分かっていて、少年にはこの熱を遠ざける事が出来ないでいる。
温かいから。柔らかいから。愛おしいと、感じるから。だから己に言い訳して、もう少しだけ。仮初の自由が終わるまでには、まだ時間があるから。また此処に、戻って来たいと願うのだ。
「ズルい言い方だとは思うわ。心配しているのは、あたしも一緒だもの」
そんなニコルの事情には気付けずとも、その心情にならば到達出来る。だからクーデルカは、伸ばしたその手で少年の肩を抱き締める。
まるで、心に刻み込むかのように。忘れないでと、伝えるかのように。強く、強く、抱き締める。そうして数分程、抱き締めてから手を離した。
離れていく熱に、名残惜しさを感じる。そんな弱さを恥じる少年の前で、己の首筋へと両手を伸ばすクーデルカ。銀細工を軽く弄って、首から下げていたペンダントを彼女は外した。
「一緒に居る事は諦める。けどせめて、これだけは持って行って」
「これは?」
「御守りよ。きっと貴方を、守ってくれるわ」
そうして、ニコルの手に委ねる。付いて行く事が出来ないのならば、この形見が彼を守ってくれるようにと祈って。
女の祈りが籠ったペンダントを受け取って、頷いた少年は女と同じように。首から掛けていたロケットを、自ら外して彼女に渡した。
「では、私からも……母の形見を、貴女に預けます。必ず戻る。その約束の、証として」
父の形見のペンダントと、母の形見のロケット。二つを互いに入れ替えて、身に付け直すニコルとクーデルカ。
互いに見合っているかと見比べ合って、触れ合える距離で笑い合う。そんな優しい時間の中で、膨れ上がるのは小さな欲望。
「ねぇ、ニコル」
囁くような声音で名を呼んで、踏み出すのはクーデルカ。何時だって距離を縮めようと動くのは、
名を呼ばれた少年が振り向いた瞬間、女は彼を押し倒す。想定外の行動に抵抗はなく、柔らかなベッドは小さく揺れた。
「好き合っているのなら、繋がりたいと思うのは自然な事よね?」
何処か妖しげに微笑んで、瞳を覗くクーデルカ。息が掛かるような距離で、囁く言葉には熱い熱が籠っている。
返答次第では、今直ぐにも一線を飛び越える心算で。見詰める瞳に返すのは、あの夜の焼き直し。今はまだ、応える事が出来ないから。
「……こういうのは、流石に。私はまだ、子どもなのですが」
クーデルカを想うのならば、此処で応えてしまえば良い。父親なんて居なくても、子どもが出来れば彼女はきっと幸福となれるだろう。
それが分かって、受け止められない理由は己の境遇。母に愛されてはいても、父には見向きもされていなかった。そんな己が、どうして父と同じに成れる。
抱き返すのならば、全てを受け入れる覚悟を持って。だがニコルがラスプーチンに勝てない限り、ニコルと関わり続けた者に訪れる未来は破滅である。
大切に思えばこそ、どうしてそんな未来を許せるか。だから女の瞳を見詰め返す事が出来なくて、目を逸らした少年が口にしたのは何時も通りの逃げ口上。
幼さを理由に逃げている。そんな子どもの弱さが分かって、クーデルカは小さく笑う。このまま今日は逃がさないと、踏み込む事も出来たであろう。
そうされれば、迷う少年はきっと流された。女の本気に、逃げるだけでは敵わない。それが分かって、しかしクーデルカは選ばない。望んだ絆は、そんな形ではなかったから。
「良いわ、今は見逃してあげる。その代わり、もう一つだけ約束よ」
だからクーデルカは、一歩だけ。此処からもう一歩だけ踏み込む為に、少年の頬に手を当てる。そうして無理矢理、見詰め合う形へと。
顔の向きを固定して、僅かな距離を更に詰める。月を背に、影が重なった。二人の間で交わされたのは、瞬きする間もなく終わるバードキス。
「もう少し大人になったら、この続きをしましょう?」
初めての行為を奪った女は、妖しく微笑みながらに告げる。今はこれで良い。貴方の心に準備が出来るまでは、此処までで良い。
だからこの先は、次の機会に。その時までに、受け止められる大人になってと。熱の籠った吐息と共に、クーデルカは想いを音にした。
「…………私は」
女の想いを受けて、少年は返す言葉に躊躇う。もし叶うのならば、全てを伝えたい気持ちになった。けれど、そんな事は選べない。
彼女を受け入れられない理由は、語るだけでも危険に繋がる情報だ。グレゴリオ・ラスプーチンは強大で、ニコラス・コンラドは弱いから。
「……いえ、そうですね。その時になっても、貴女の想いが変わらなければ」
だから少年は心に決める。強くなろう。今よりも、もっと強くなろう。ラスプーチンを倒して、彼女に応えられるようになろう。
そうは思えど、それは余りに現実的な話じゃない。残る自由時間は二年しかなく、それだけでラスプーチンよりも強くなれる筈もない。
そんな事は分かっている。分かっていて、為せなければ失うしかない。そんな事、ニコルには分かり切っていたから。
(強く成れなければ、私の事など忘れて貰おう。貴女の心が変わったならば、約束は果たされなくて良い)
そう、決めたのだ。記憶を消そうと。もしも強く成れずに終わるのならば、ニコルと言う存在が居た事を彼女に忘れて貰うとしよう。
大切な人の記憶を書き換える。幸せになって欲しい女性の、想いを身勝手に踏み躙る。それはとても苦しい事だが、彼女が壊されるよりは余程良い。
弱ければ何も得られない。強くなければ失うしかないのだ。それがニコラス・コンラドが、自ら望んで踏み込んだこの道の理。故に少年は心に誓って、女と約束を交わす。
「ええ、約束よ」
「はい、約束です」
同じ言葉を口にして、しかし想いは遠ざかる。何時か触れ合う事を望んだクーデルカと、何時か別れる事を選んだニコル。
少年が悪魔の玩具である限り、約束が果たされる事はない。そして悪魔は強いのだ。ならばこの夜の出来事は、きっと忘れてしまう事。
それで良いのだと、ニコルは思う。期限を決めねば何時までも、甘えてしまいたくなる程に温かいから。きっとそれで良いのだと、ニコルは思った。
次話は影も形も出来ていないので、毎日投稿は本日で終了。
今後の投稿はある程度(上海編終盤まで)のストックが出来てから、逐次修正しながら上げていく予定なので大分先になると思われます。
今後のストーリー展開は次の内どれが良いですか?
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ヒロインは一人。純愛ルート。
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ヒロイン複数。ハーレムルート。
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ヒロインは甘え。求道者ルート。
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ウルと二人で漢祭りルート。
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宿命の兄妹対決! ニコルとアナスタシア!