林檎を目の前に、1枚の紙を手に持つ。紙を持つ手に力を集中させ、そっと林檎に振り下ろす。
その結果、林檎に紙が突き刺さり、止まった。……本当は林檎を切るつもりだったのに、失敗したみたい。
「……やっぱり、私には無理」
「無理じゃないわ。ただの
と言われても、紙で切れるようになっただけなんて、正直成長してるという実感が湧かない。それに紙で練習してるけど、こんな高価なものが何処にでもあるわけじゃない。今使わせてもらってる羊皮紙は吸血鬼が持ってきたものだけど、数は多くないと言っていた。ただ私の練習のために、分かりやすく練習しやすいものを持ってきてくれただけで。正直、これなら実際にナイフを使った方が強い気すらする。
「浮かない顔ね。大丈夫よ。本来、魔術を覚えるのだって並の人間にはできないことなの。それができた貴女は、もっと強くなれるわ」
「……はい」
私はもはや並の人間じゃないんだけど。それに覚えたと言っても、私のは……。
私が覚えたものは『代替魔術』というもの。文字通り何かを『代替』する魔術。本当は儀式での間に合わせに使うような、魔術では初歩的なものらしい。彼女に手伝ってもらった結果、最終的にこの魔術に辿り着いた。
理由としては初歩的な魔術故の魔力コストの低さ。私との相性。不意打ちに利用できる、などなど。一番大きいのは、吸血鬼が最初に言っていた相性なのかな。
「うーん……。多分少なくても妖力と併用すれば、もう少し凄いことはできるでしょうけど……」
「……? それなら、妖力の使い方を……教えてくれるの?」
「そうねえ……。貴女が望むなら、ね。でも、使いたくないでしょう?」
「…………」
言われてから思ってしまったけど、親を殺した吸血鬼の力なんて、確かに使いたくない。でも、それでも。生きるために必要なら私は……。
「ああ。そうだわ。妖力を使わずに利用する手はあるわね」
「……そうなの?」
「ええ。それこそ代替すればいいじゃない。妖力を、魔力にね」
「……あ」
代替魔術の原則。それは代替の対象となったものが、目的のものに見合うかどうか。棒で人は切れない。ただ紙なら、人を切り得る。本来の目的を実行するための可能性が、少しでもなければ代替することができない。その少しとは、本来の用途に代用できるか、じゃない。紙でナイフを代替できる魔術だから。もっと曖昧な……紙で例えれば『切れるか。切れないか』なんて些細なものなんだと思う。
そして、妖力や魔力などの力に呼び名以外の違いはほぼ無い。ただ使う人が違うだけなんだから。……なんて、吸血鬼が言ってた記憶がある。
「そうと決まれば練習するに越したことはないけれど……。まだ大丈夫かしら? 長い時間頑張ってたんだから、少しくらい休憩してもいいわよ。私がいる間は急ぐことでもないしねえ」
「……あと、ちょっとだけ。頑張ってみる」
「ふふ。そう。なら私も手伝ってあげるわね。ちょっと失礼して」
そう言って、吸血鬼は私の正面に立つ。私の両手を握り、祈るように顔の前まで持ち上げた。元は人間である私でも、何かの力が流れ込んでくるのが分かる。多分、吸血鬼の妖力が。
「妖力は私達が生きていくためには必要なエネルギー。使いすぎれば疲労するのよ。だから、私の力も貸してあげるわ。魔力として代替してみせて。そうすればきっと、林檎も切れるようになるんじゃないかしら。まだ未熟な魔術でも魔力でゴリ押しできるでしょうしね」
「……うん」
その感覚さえ掴むことができたら、自然に自分の妖力も代替することだってできるのかな。──手伝ってもらってるわけだし、しっかりやらないと。
集中する。自分の力に。流れ込む吸血鬼の力に。そして行使する。代替する。妖力を魔力へ。その余剰魔力を、再び代替魔術に割いていく。今度はより大きく。強い魔力を使いながら。
「そのまま、これで切ってみなさい」
そう言って渡されたのは2枚目の紙。私は頷きそれを受け取ると、その紙を刃に代替する。そして、林檎へ向かって投げつけた。
今度は刺さったままの紙ごと真っ二つに切り裂かれる。明らかに並の刃よりも鋭く、硬いものに代替されていた。これを私がやったのだと思うと、嬉しい反面ゾッとする。こんな力が私にあるんだ、って。
「ふふっ。流石私の妹ね。凄いじゃない」
ただこの吸血鬼にとっては喜ばしいことだったらしい。彼女は自分のことのように喜びながら、私の頭を撫でてくれた。でもこれは、自衛には有り余るほど強い力。いや、私にとってはそう感じるだけで、この吸血鬼にとっては当たり前の力なのかな。
「……あぁ」
ふと、目の前で死んだお母さんの姿を思い出し、納得してしまった。いとも容易く人間を殺せるんだから。この程度の力で驚いてちゃダメなんだ。人を超える力を手に入れてようやく、人間じゃなくなるだけなんだ。そして私は、ようやくそのスタート地点に立っただけなんだ。
「あら、どうしたの? アナベラ」
「……ううん。なんでもない」
「そう……」
どうして不機嫌な顔をしてるんだろう。何も話さないことに怒ってるのかな。それとも……。
「あっ」
「ん?」
「……あ、ありがとう。……その、おねえ、さま」
「……! ふふふ。ええ、どういたしまして。ふふっ。偉いわね、アナベラっ」
吸血鬼は嬉しそうに、私を抱きしめてくる。やっぱり、お礼を言ってほしかったんだ。手伝ったことへの。……なんで、私は親を殺した種族と仲良くしてるんだろう。生きたいから、なのかな。……自分で自分がよく分からない。もう、何を思ってるのかも分からない。
──矛盾した自分の気持ちが……。嬉しいっていう気持ちが分からない。
「ところでアナベラ。そろそろ休まない? いつもならもう吸血してる時間帯よ?」
私から離れ、心配そうな顔でそう話す。いつもなら、って。私の吸血ってそんな規則正しいものだったっけ。そんなことを思いつつも、口には出さずにそっと頷く。
「……うん。そうだね。えっと……でも、もう少しだけ続けたい。今度は……自分の力、で」
吸血鬼に頼りになってばかりじゃ、この先何かあった時が怖い。もう私は人間じゃないんだから。親を殺した種族と半分くらい同じになってしまったんだから。……もう、怖がってたらお母さんとの約束を果たせない。
「いいけど……大丈夫? さっきも言った通り、妖力は使い過ぎれば疲労してしまうわ。流石に死にはしないけれど……」
「……大丈夫」
「貴女がそう言うなら、いいわ。でも、無理し過ぎないでよ。疲れても、私の血を吸えばいいだけなんだけれど。じゃあ、もう1つ置いておくから、切ってみなさい」
そう言ってフルーツバスケットから林檎を1つ。さっき切り裂いた林檎が置かれた机の上に起き直す。そして壁に刺さったままになっていた紙を私に寄越すと、彼女は椅子の上で楽な姿勢を取っていた。
「……っ」
自分の中にある妖力を一部だけ魔力へ代替させ、紙に魔力を集中。そして、紙を持つ手を振り下ろす。スパり、と林檎が切り裂かれる。感触はまるで柔らかい何かを切っているかのようだ。こんなにも、簡単に切れるとは。成功するとは、ぶっちゃけると思ってなかったんだけど……。
「ふふっ。よくやったわね、アナベラ。魔力面はこれである程度は心配ないわね。身体能力はあるし、あとは体術でも覚えれば並の妖怪を倒せそうねえ」
「……体術?」
「ええ。……ああ、美鈴に習ってみる? あの子、体術だけで言えば私よりも上なのよ」
美鈴さん、やっぱりただのメイドじゃないんだなぁ、って。でも、今でさえ充分忙しそうなイメージがある。そんな人に頼って、あまり迷惑をかけたくない。
「……ううん、大丈夫。忙しく、させたくない、し」
「別に平気だとは思うけどねえ。まあいいわ。気が変わったら、いつでも相談しなさい。私でもいいし、美鈴相手でもいいからね」
「……うん」
気が変わることなんてなかなか無いだろうけど。もしそんな時が来れば、美鈴さんに相談しよう。人を介してじゃなく、直接話した方がいいだろうし。
「ただ、そうね。時間さえ稼いでくれたら、必ず守ってあげるから安心なさい。貴女を見捨てることなんてしないから、ね?」
「……うん」
優しくしてくれるのは、どうしてなんだろう。代わりが見つからないからなのかな。それとも……。
「さて。そろそろいいかしら」
「……?」
「吸血よ。あら、そんなに衝動湧かないのかしら。ああ、いつも量が多いせいね。きっと」
いつも多かったんだ……。なら、もう少し減らして飲んでもいいよね。吸い始めると、止められなくなっちゃうけど。そういう意味では、衝動が弱いわけでもないのかな。
「さあ、アナベラ。来なさい」
「…………」
手を広げて待つ吸血鬼に、私はゆっくりと近付く。私が彼女に近付くと、優しく抱擁してくれる。吸血鬼の甘い匂いが鼻に伝わる。間近に迫る彼女の顔が、なんだか可愛く見えてしまう。嗅覚が、視覚が本能を刺激し、血を求める。
「ぁ……」
私が無言でその首筋に噛み付くと、吸血鬼は短く声を漏らす。その嬌声は私の感覚を研ぎ澄まし、私の快感を沸き立たせ。赤い液体が、私の舌を伝い、私の喉を潤していく。
「ぁあ……。積極的ね……っ」
無我夢中で吸血鬼を引き寄せ、抱きしめて。溢れ出る血を舐め尽くし……。
私はそれから数十分もの間、吸血鬼から離れられずにいた。