奇襲部隊の壊滅の知らせは、夕刻には清州城に伝えられた。
その知らせは、奇襲の成功を待ち望んでいた織田の将たちにとってあまりにも無情なものとなった。
「全滅、ですって…。」
「はっ!投降した者たちも悉く首を跳ねられ、その首が門前に届けられておりまする。」
「…抵抗するなら容赦しないという訳ね。」
伝令より知らせを聞いた信奈は激情を覚えながらも、辛うじて冷静さを保っていた。
だが、自分の命令で奇襲を実行した将兵たちが一人も生きて帰ってこなかった事実に、顔は青くなり、語尾はわずかに震えている。
「ま、まだ初戦を取られただけに御座います!諦めず、攻撃を繰り返せば…。」
「いや、待て。こうも完璧に奇襲が防がれたということは、完全にこちらの動きが読まれていたに相違ない。であるなら、ここで何度同じ手を使おうが通じるはずがなかろう。」
「では座して敗北を受け入れろというのかっ!貴様らに織田の武将としての気概は無いのかっ!」
「一つの策に固執し無駄に犠牲を増やしてはならぬと言っておるのだっ!それとも、次は貴公らが成功の望みの薄い奇襲をやってくれるのか?」
「おい、貴様っ!姫様が考案した策にケチをつけるかっ!」
「誰もそのようなこと申しておらぬわっ!」
奇襲部隊が全滅した報に動揺しているのは家臣たちも同様だ。評定は紛糾し、収拾がつかなくなりつつあった。
それを収めるべく一喝しようと信奈が立ち上がったその時、顔面蒼白となった伝令が評定の間に転がり込んできた。
「急報っ!急報に御座りまするっ!」
「何があったのっ!?」
「今川軍の猛攻により丸根砦並びに鷲津砦陥落っ!佐久間盛重様、飯尾定宗様、そして織田秀敏様がお討ち死に致しましたっ!」
「そんなっ!叔父上達がっ!」
「盛重もかっ!」
伝令の知らせに信奈と佐久間信盛は悲痛な叫びをあげた。
丸根砦と鷲津砦は、それぞれ大高城と鳴海城への備えとして建設された付城であり、今川軍の戦力を分散させるという信奈の戦略の起点となる砦である。
しかし、砦の陥落以上に衝撃が大きかったのは、それぞれの城を守備していた武将の死であった。
織田秀敏は信奈の父、信秀の叔父にあたる織田家の長老である。
飯尾定宗は飯尾家に養子に入った秀敏の息子であり、二人とも信秀亡き後、一貫して信奈を支持し続け、信奈も親族の中で特に二人を篤く信頼していた。
佐久間盛重はその名が示す通り信盛の弟であり、稲生の戦いの折に多くの親族が反信奈を掲げる中、兄と供に最初から信奈についてきた。
信奈にとって、今川撃退の要所である砦の失墜もさることながら、家督を継いだ頃よりの忠臣を失うのは、戦略的にも精神的にも非常に大きなショックを与えるものであった。
「どうすればいいの…奇襲は失敗した…大叔父上も死んだ…砦も失った……敵は目の前……私はいったいどうすればいいのっ!?」
「お、おい。大丈夫かよ、信奈?」
立て続けの凶報に打ちのめされ、信奈は顔面蒼白となり、目を虚ろにフラフラと足取りも怪しく柱に寄り掛かる。
今まで見たことのない弱弱しい様に思わず良晴が立ち上がるが、控えていた万千代と久太郎が素早く主君の側によると、その体を支えた。
「姫様、お気を確かに。」
「…少し休むわ。」
そう言うのが精一杯だったのか、信奈は二人に肩を支えられ奥へと下がっていく。
その様を見送った家臣団の間には、重苦しい沈黙が流れる。
「…もはや、これまでか。姫様があのようになってしまわれるとは。」
そんな言葉が家臣から漏れながらも、それを咎める声はない。それほどまでに織田は追い詰められていた。
「…こうしていても埒があきませぬ。皆様方、我々も暫し休憩をいたしましょう。隣室に飲み物と軽い食事を用意させますので、どうぞそちらへ。」
「…そうじゃな。少し頭を冷やす必要があるやもしれん。」
村井貞勝の呼びかけに信盛が応じて立ち上がると、後に続くように他の者たちも腰を上げ、部屋を出ていく。
部屋に残るのは少数で、彼らは地図の周りに集まり今後の動きについて小声で意見を交わしていた。
それを尻目に良晴は秀吉の袖を引くと、休憩所となった隣室とは反対側の部屋に入り戸を閉めた。
「どうしたのじゃ良晴?このような場所に連れてきて。」
「…秀吉さん、秀吉さんは桶狭間の戦いの時、まだ下っ端だったから戦がどのように進んだのかよく知らないんだよな?」
「…ああ、そのように申したはずだが。」
「……本当にそうなのか?」
「…何が言いたい?」
「…確かに桶狭間の時の秀吉さんには、当時の状況はよくわからなかったのかもしれない。けれど、秀吉さんが織田信長の人生で最も重要な一戦と言っていい桶狭間の戦いについて、何も調べず本人に話を聞いただけなんて思えないんだ。」
あの豊臣秀吉が、織田信長に仕え、その才を認められ、後に天下の頂にまで上り詰めた男が、織田家どころか東海地方の勢力図を大きく書き換えた、戦国一著名な一戦について何も調べなかった筈が無い。
そんな歴史知識というには余りにも不正確な予想であったが、仏頂面のままにじっと見つめてくる秀吉に良晴は確信を強める。
暫しの間、沈黙を保った秀吉であったが、やがてため息を一つ着くと、やれやれと言うかの如く頭を掻いた。
「まったく、下手に後世に名が伝わるのも中々に厄介であるのう。まあ、お主になら別段隠し立てすることでもないが。」
「やっぱり。秀吉さんはどれ位のことを知ってるんだ?」
「戦の経過は勿論。今川軍の侵攻経路、部隊の配置、戦後の被害状況、並びに戦が周辺国に与える影響、ざっと思いつく限りではそんなところかの。」
「えっ、そんなに?」
「ああ。そもそも儂が信長様に召し上げられたのは、田楽狭間の戦についての詳細な報告を上げたからじゃ。」
「そうだったのか。草履を懐で温めた話が印象深いけど、あれは確か創作の可能性が高かったんだよなぁ。って、そんなことよりも、どうしてその話を信奈にしてやらなかったんだよ。その情報があれば奇襲が失敗することも、砦が落とされることも無かったかもしれないじゃないかっ!?」
秀吉の返答に良晴は強く詰め寄るが、秀吉は動じた様子は見せず、じっと良晴の視線を受け止める。
「…良晴よ、この戦は織田の行く末を決する戦であると同時に、信奈様が天運を開くための戦ぞ。故に儂は、此度は必要以上に手を出さぬと決めた。信奈様の運命を定めるのは信奈様自身じゃ。」
「…信奈自身の手で、この苦境を乗り切ることに意味がある。そういうことなのか?」
「いかにも。信奈様にあの方と同じものがあるなら、それができると信じておる。」
桶狭間の戦いはただの戦ではない。
まさしく、織田家の運命を変え、日本の歴史さえ変えてしまった戦である。
秀吉が思うに、あの戦があったからこそ織田家の武将たちは織田信長という人物の底知れなさを認識するに至った。
そしてそれは、信長自身の成長にも繋がったのだと考えている。
秀吉にとって金ヶ崎の引き口が武将としての己と周囲の目を大きく変えたのと同様に、織田信奈という姫が武将として大きく成長し、周囲に力を認めさせるには、桶狭間という苦境を己の手で乗り越えねばならない。
「儂らの知識で織田を楽に勝たせるのは容易い。然れど、それは真に織田信奈という戦国武将が選んだ道ではない。例え一つ間違えれば奈落へと落ちる道であろうと、己で選んだ道を進まねば武運は開けぬ。戦国大名とは、そういうものじゃ。」
己の才で道を開き、この国で最も高い場所まで上り詰めた男の言葉に、相良良晴は強い衝撃を受けた。
ふと、主君の下がった部屋の方に目を向ければ、ちょうど薄明かりが襖に差す。
「…信奈は、大丈夫だよな?」
「ああ。そうであってもらわねば困る。」
逢魔が時に日の光が溶けていく中で、織田家の夜は静かに過ぎていった。
この時代を生きる人間の一日の生活は、日が昇るとともに始まり、日が沈むと共に終わる。
日が完全に沈み切っての起きている人間はごく僅か。貴重な油や蝋燭を使用できる人間に限られた。
その限られた人間の一人にあたる朝比奈泰朝は、水掛城の個室で地図を睨みながら、何度もその上に置かれた駒を動かしては顎に手を当て思案していた。
すると、廊下側の襖が不意に開かれた。
「あら、泰朝さん。まだ起きてらしたの?」
「これは姫様。こんな夜更けに如何なされましたか?」
「ちょっと喉が渇きましたので、水でも貰おうと思ったんですの。」
「それならば誰か人をお呼びください。家中の者しかおらぬとはいえ、年頃の女性が夜分に出歩くものでは御座いません。少しお待ちを。」
そう言って泰朝は部屋に義元を残して外に出ると、井戸から水を汲んで帰ってくる。
「これをお飲みになられたら、すぐにお部屋にお戻りください。明日も早う御座います。」
「あら、ありがとう御座います。…ふう、冷たくておいしい。それにしても、明日には尾張に入るのですわね?」
「ははっ!万事上手くいっておりますれば、明日の日中には鳴海城に入ることが叶います。鳴海城への先遣隊には元信、大高城には松平元康が援軍に入りますれば、抜かりは無いかと。」
「それは素晴らしいですわ。あとは織田信奈さんがどのように振舞われるかですわね。まったく、潔く負けを認め軍門に降るというのなら、同じ姫武将の誼で無碍には扱いませぬのに。」
ため息交じりの義元の言葉に、泰朝の肩が僅かに跳ねる。
「…まこと慈悲深きお考えに御座います。されど、相手方にも武家の矜持があるのでしょう。」
泰朝は信奈が降伏してきた場合、密かに謀殺するつもりであることを目の前の主君に伝えていない。事が済んだ後も、己の胸の内に秘し続けるつもりであった。
「いずれにせよ、義元様は本陣にてどっしりと構えていて下さればよろしいかと。あとは全て、我らにお任せください。」
朝比奈泰朝は死んだ後、極楽に行こうなどと考えていない。
例え地獄に落ちようとも、今川義元という姫武将が笑顔で世を照らし、争いの無き太平の世を作れるのであれば、その陰で生み出される闇は全てこの身に引き受け地獄へ落ちよう。
それが、朝比奈泰朝という武人の矜持であった。
「ありがとう御座います、泰朝さん。師匠亡き今、あなたたち今川家臣団こそ、私の頼るべき依木ですわ。」
そう言って無垢な笑顔を向ける主君に、ほんの少し泰朝は胸に痛みを感じるのであった。
そんな泰朝に気づいていないのか、義元はのんびりと縁側に出ると雲の掛かった月を見上げる。
「尾張を治めれば都への道が開けますわ。伊勢の北畠家、近江の六角家、そして御所の方々へは名門の誼により根回し済み。応仁よりの乱を治められず将軍が都を逃亡した今、今川が音頭を取り新たに幕府を開き、国の政を正道に戻す。それこそが、天におわします師匠への手向けですわ。」
縁側の淵まで足を進めた義元は、白い手を月へ向けて伸ばすと強く拳を握った。
「見ていてくださいまし、師匠。必ずや今川の御旗を京に。」
今川もまた、明日が運命の日になることを予感していた。
夜雲が流れ、月は完全に夜闇消えた。
信奈が目を覚ましたのは、まだ日も登らぬ夜更けであった。
体を起こすと、すぐに昨日のことが思い出される。寝覚めの良さは彼女の利点の一つであった。
「結局、何一つ打開策が思いつかなかったわ。」
あの後、信奈は評定の間に戻る事は無かった。
万千代たちが心配して何度か声をかけてきたが、碌な返事もせずに部屋に閉じこもっていた。
家臣たちはその後も話し合いを続け、ほとんどの者が城に泊まったそうだ。
立ち上がってみれば、妙に頭がフラフラする。自分でも気落ちしていることが自覚できた。
だが、気持ちとは裏腹に、体は自然と動き出す。
寝巻のままに廊下に出ると、そのまま庭へと続く戸を開く。
人気のない闇夜の中、暗がりにポツンと井戸が目に入った。
信奈は素足のまま庭に降りると、覚束ない足取りで井戸に近づく。
そして、備え付けられた桶を井戸の中に落とすと、縄を引いて水をくみ上げた。
水に満たされた桶を覗くと、見るからに寝不足といった具合の酷い顔をした己が映っていた。
それが妙に可笑しく感じられ、口元から歌が紡がれる。
人間人生五十年
下天の内をくらぶれば
夢幻の如くなり
幸若舞の演目の一つ、敦盛の一節である。
源平合戦の一の谷の合戦において、己の子供と同年代の若武者を殺した武士の苦悩を歌ったものであり、『人間の五十年は天界の最下層の下天の一日に過ぎず、一睡の夢のように儚いものだ。』という意味である。
信奈はこの一節が好きではなかった。
まるで人がどんなに必死に世を変えようと足掻いたところで、天の差配に比べれば細やかな抵抗にしか成り得ないと言われているようであり、己の夢を否定されているような気分になる。
だから本当はとても口遊みたくなる様な歌では無い筈なのに、自然と口から零れてしまった。
水面に映る己の顔が醜く歪み、信奈はそれをかき消すように頭の上で桶を逆さにした。
冷たい水が全身を濡らし、前髪の先から水滴が滴り下りる奥で、信奈の目に怒りにも似た光が宿る。
踵を返した信奈は強い足取りで私室に戻ると、体にへばり付いた寝巻を脱ぎ捨て、裸体を晒す。
信奈の私室には一如何なる時でも戦に出れるよう、戦装束が常に準備されている。
体の露を払った信奈は、それを手早く着込んでいく。
幼少の頃より戦ごっこに明け暮れた信奈にとって、介添え無しに着付けるのも慣れた作業である。
ほどなく着付けを終えた信奈は、再び庭先に降りると外を回って馬屋に向かった。
そこには明確に誰の目に触れないようにしようとする意図があった。
馬屋から自分のお手馬を連れ出すと、馬の面を優しく撫でる。
それに応えるように馬が嘶けば、信奈は小さく笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、こんな早くから。少しだけ付き合って。」
そう言って鞍を掛けると、馬の背に跨がった。
手綱を僅かに操れば、馬は主人の意図を汲み取ったのか軽い足取りで裏口へと歩みを進める。
普段はあまり使われない裏口の門を出ると、信奈は颯爽と馬を走らせた。
東の夜空が白み始めた天の下を、信奈が操る馬が駆けていく。
ただ真っ直ぐに、脇目もふらず馬を走らせる信奈の様子は、まるで誰かに追われているようでもあった。
やがて辿り着いたのは、年季の入った鳥居の前である。
その奥には苔のむした石畳が、鬱蒼とした林の奥まで続いていた。
信奈は馬を繋いで鳥居を潜ると、じっと林の奥を見詰める。
そして、意を決したように一歩一歩、ゆっくりと石畳を歩き始めた。
足元だけを確かめるように進んでいけば、ほどなくして視界が開ける場所に出る。
そこに鎮座するは、三種の神器の一つ、草薙神剣を神体とする熱田大神を祀りし、熱田神宮の拝殿である。
信奈は拝殿の側に歩み寄ると、大きく息を吐き、頭を下げて手を合わせた。
「…意外だな。お前が神様に祈るだなんて。」
不意に背後から掛けられた声に驚き信奈が振り返ると、寝癖頭の良晴が眠気眼を擦りながら現れた。
「良サルっ!どうしてあんたがここにっ!?」
「俺の知る歴史じゃ、織田信長は桶狭間の戦いを前に熱田神宮を参拝したって伝承があったから、ここで待ってたらお前が来るんじゃないかと思ってさ。」
「…あんた、私の前で未来の知識を喋るなって命じた事、忘れたのかしら?」
「細かいこと言うなって。それに、俺が知ってるのは織田信長の未来で、織田信奈の未来じゃない。織田信長と織田信奈は別人だろ。」
「……そうね。私は織田信長って奴のことなんか、まったく知らないわ。」
信奈は再び拝殿の方を向き、良晴に背中を見せる。
良晴は信奈の方へ近づいていき、肩を並べた。
「けどさ、こうして見ると中々感慨深いもんがあるよな。この場所で信長が戦勝を祈願して、桶狭間の合戦に臨んだって思うと。」
「……信長も今川と戦ったの?」
「ああ。」
「勝った?」
「ああ。そしてそこから、信長という戦国武将の快進撃が始まったんだ。」
「そうなんだ。じゃあ、信長は自分の夢を叶えられたのね。」
「……いや、叶えられなかった。信長は自分の夢を叶える前に、命を落とした。」
「………そう。」
二人の間に僅かな沈黙の間が生まれた。
「………なあ、信奈。いま俺がいるこの世界は、俺が歴史で学んだものとは違う過去だ。だから、お前が今川義元に勝てるだなんて、自信をもっていえねえ。」
「………。」
「それでも俺は、お前に着いていきたいっ!」
「…どうして?答えなさい。」
良晴の言葉に、信奈に驚いた様子は無かった。
しかし、瞳には剣呑な光が帯び、いつかのような嘘偽りは一切許さぬ、とでも言うような濃密な殺気を全身から醸し出していた。
そんな信奈に、良晴は少し照れ臭そうに笑顔を浮かべながら答える。
「なんつうか、惚れちまっただよ、お前に。」
「………は?」
良晴が発した言葉の意味が判らぬ、とでもいうように呆けた様子を見せる信奈。
しかし次の瞬間には顔を真っ赤にし、なんと言葉を発して良いのか分からず口を開閉する。
それを不審げに見ていた良晴だったが、すぐに自分が言った言葉を自覚し、こちらも顔を赤くした。
「い、いや、変な意味じゃないぞっ!武将として惚れたって事だっ!お前の夢や戦国武将としての生き方に憧れてるんだ。だから俺は、お前と一緒にこの時代を駆け抜けたい。」
「っ!?ま、紛らわしい言い方してんじゃないわよっ!」
良晴に怒鳴り付けると、信奈は顔を反らし火照りを収めるかの如く深呼吸をする。
そうして先程とはまた違った意味で気まずい沈黙が流れるが、気を取り直すように良晴は咳払いをする。
「兎に角だ、俺は何が何でもお前に着いていくと決めた。史実と違うとか、未来が変わったとかは、もう気にしない。俺は伝承でしか知らない織田信長じゃなくて、目の前にいる織田信奈を信じる。」
「………こんな滅ぼされる寸前の家の当主を信じるなんて、あんた相当な馬鹿、いや、うつけ者ね。」
「………かもな。少なくとも、賢いって言われるよりかは、そう言われる方が多い気がする。でもな…」
良晴は信奈の顔を真っ直ぐに見詰めて言う。
「そんなうつけ者も、案外多いのかもしれないぜ。」
それはどういう意味か、そう問いかけようとした信奈の耳に人が走り寄る足音が聞こえてきた。
振り向けばそこに、戦装束を纏った秀吉と犬千代がいた。
「秀サルっ!それに犬千代っ!?あんた達、良サルから聞いてここに…」
「左に非ず。姫様が立ち上がられる事、我ら一同固く信じ、いつでも戦に出れるよう準備をしておりますれば、姫様が出陣されし気配を知る由にて、馬の足跡を追ってここに参った所存に御座いまする。」
「…犬千代は姫様のお陰で織田家に復帰できた。どんな相手だろうと、姫様が命じるままに、犬千代は戦う。」
自分を信じ、参上した二人に何と言葉を掛けて良いか分からず、信奈は視線を迷わせる。
そんな信奈の肩を良晴が叩く。
「俺達だけじゃないぜ。ほら、あれ。」
良晴が指したのは、境内の入り口の方である。
丁度その時、鳥居の方へ続く石畳の参道を、日の出の光が照らす。
そこを歩き近付いて来るのは、鎧で身を固め、木瓜紋の旗を掲げた兵の一団である。
目を見開いた信奈の前に立った一団の先頭は、織田家筆頭家老の佐久間信盛だ。
「姫様、遅参しました事、お詫び申し上げまする。この始末は戦場にて取り返します故、何卒ご容赦を。」
「信盛、あんたも私と戦ってくれるの?」
「筆頭家老を任される以上、当然に御座います。何より、今川は我が弟を殺した仇。どうして戦わずして軍門に降れましょうや。」
そう言って正座をする信盛の隣に、村井貞勝が立つ。
その装いは普段は事務方の貞勝がめったに見せない、戦装束であった。
「姫様、この貞勝、微力なれど御力になりとう御座います。」
「地蔵、あんたも…」
「私は姫様に夢を見ておりまする。その夢のため、この身を如何様にも御使い下さいませ。」
貞勝は信盛に倣うように正座をする。
すると今度は、万千代が信奈の前に進み出た。
「この万千代、六さんや犬千代さんのような武勇は無く、木下様のような知略も御座いません。されど、姫様の事は誰よりも近くで見続け、その心情慮りますれば、どうか最後までお供遣わし下さいませ。」
「万千代…」
それに並ぶように二つの人影が進み出る。
「姉上っ!この信澄、御家存亡の危機を前にして、留守役に身を甘んじるは耐え難く、勝手を承知で馳せ参じました。お叱りは後程受けます故、何卒戦列に加わる事お許し下さいっ!」
「この勝家も右に同じ!一度は刃向かった不忠者に御座いまするが、命をとして働きます!」
「勘十郎、六…」
つい先日争ったばかりの二人が、決意を新たに進み出れば、信奈の言葉にも熱が籠った。
その後も続々と織田の兵共が参列する。
森可成、川尻秀隆、佐々成政、池田恒興、長谷川橋介、金森長近、佐藤藤八、毛利秀頼、岩室重休…
代々織田家に仕えてきた者。
信奈や信秀から才を買われ召し上がられた者。
農家や商家の次男三男ゆえに家を継げず、武家で一旗揚げようと仕官した者。
信奈の幼少の頃よりの悪ガキ仲間。
生まれも育ちも多種多様ながら、見詰め見上げる先は皆一様に同じ。
熱田神宮の境内から参道にかけて、約三千以上の兵が信奈の元に馳せ参じていた。
「我ら一同、信奈様が御命じなされるならば、如何なる戦いであろうと身を投じる所存に御座いまする。」
強者に媚びへつらい、恩を忘れ、我が身可愛さに尻尾を振れば、それは最早武士では無い。
武士とは即ち、武を重んじ、損得の先に己の生き様を定め、主君の恩に命をかけて報いる者達である。
然らば、熱田神宮に集いし三千の兵共は、紛れもなく真の強者たる武士であった。
「どうか姫様、目に見えぬ神では無く、目の前の我らを御頼り下さいませっ!」
信盛の言葉と共に、織田の兵達が一斉に頭を垂れる。
その光景に信奈は身を震わせ、暫し言葉を失う。
「…この、うつけ者どもめ。」
漸くそう口にした信奈であったが、それ以上は言葉に出来なかった。
このままでは色々と柄でも無いことが口から溢れると悟った信奈は、空を見上げると何度か大きく息を吐く。
それでも喜色を抑えきれず、正面を見据えた口許は上を向いていた。
「皆の者、よくぞ覚悟を決めてくれたわ。その命、存分に使わせて貰うわよ。」
腰から刀を抜き、天を突いた織田信奈は高らかに命ずる。
「いざ行かん、尾張の戦子達よ。」
その号令に、織田兵より閧の声が上がれば、今川の覇道を阻まんとする『うつけの強者共』が今ここに誕生した。
運命の一戦はもう間も無く。
戦国のみならず、日本史上最も有名な合戦の火蓋が切って落とされようとしていた。
今宵はこれまでに致しとう御座りまする。
・織田敏宗
・飯尾定宗
・佐久間盛重
桶狭間の前哨戦において、砦を攻められ討ち死にした三人の武将。史実においても、朝比奈泰朝の猛攻を受け敗死したとされるが、彼らが稼いだ僅かな時間が信長が軍を興す時となった。
ちなみに定宗の嫡子、尚清は信長の馬廻りとなり、のちに秀吉にも仕えた。
・秀吉による桶狭間の報告
この辺りについては、センゴク桶狭間戦記からとってます。桶狭間戦記は桶狭間の戦いにフォーカスを当てながらも、他作品ではあまり扱われない桶狭間以前の今川や、信長が織田家を纏めるまでの経緯を非常に丁寧に、かつ5巻という巻数の中で分かりやすく描かれており、本作でもかなり参考にさせて頂いています。
・敦盛
本文で書いたように敦盛は元々、源平合戦で我が子と同年代の若武者を討ち取った源氏の侍、熊谷直実の苦悩を唄ったものであり、敦盛とは直実が討ち取った平敦盛の事である。
よく『人間五十年』の部分をこの時代の平均寿命だと言う人もいるが、原典の意味合いからすると完全な間違いである。(因みに原作では五十年を二十年に変えていますけど、多分本来の意味からは外れている。もしかすると、わざとなのかもしれませんが…)