太閤転生伝   作:ミッツ

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戦場に石雨降りて

 熱田神宮にて決起した織田軍は、場所を近くの空き地に移して簡易な陣立てを行うと、主だった武将を集めて軍議を開始した。

 

「ではまず、現状をお浚いします。昨日奇襲部隊を壊滅させた今川の先遣隊は、そのまま鳴海城に向かうのではなく、付城へと向かいこれを攻略しました。その後、鳴海城にも大高城にも向かった様子は有りません。」

 

 万千代がその場を仕切って解説すると、各将は真剣な面持ちで地図を見下ろす。それを確認し、万千代は再び口を開く。

 

「恐らく、今日にも今川軍本体は鳴海城に向け出発するでしょう。鳴海城に入られてしまえば、これを止める手立ては私達にはありません。」

 

 今は兵力が分散し、自然の地形や前もって用意していた付城により足並みが揃っていないが、鳴海に兵を集結され一気に攻め込まれれば、寡兵の織田軍に抗う術は無い。

 

「結局昨日話した事と大きな違いは無いわね。つまりこの戦の要は、如何に今川軍本隊を鳴海まで進攻させないかよ。そして私たちにできる策は、先行してきた敵軍に奇襲を仕掛け、これを撃退して時間を稼ぐくらいしかないわ。それを向こうも予想していたからこそ、私の考案した奇襲は防がれた訳ね。」

 

 自嘲するような口調で述べながらも、信奈の目は鋭くなっていく。もはや過ぎたことで悩んでも仕方がない。それよりも、自分を信じて集結した三千の味方に報いらんとする気持ちが、信奈の思考をより先鋭化させていた。

 

「ならばいっそのこと、盤上をひっくり返すくらいの気概をもって序盤の劣勢を取り返すしかないわ。策はこうよ。まずは昨日と同様に鳴海城へ先行する敵部隊を今度は私達全員で奇襲するわ。ただ追い返すだけじゃダメよ。背を向けて逃げる敵に散々食らいつき、容易に立て直せないだけの被害を与える。そしてその後、私達は反転し、鳴海城に向かうの。」

 

 信奈は地図上の鳴海城を指揮棒で指し示すと各将を見渡す。彼女の発言に口を挟む者は誰一人としていない。

 

「忍びの知らせによれば、城に詰める兵は少数であり、城主だった山口親子が粛清された混乱がまだ抜けきっていないそうよ。当然山口の旧家臣団には今川に不満を持っている者たちも多い。三千の兵であっても早期に落とせる可能性は十分にあるわ。」

 

 今回の今川の侵攻において、最重要拠点の一つが鳴海城である。

 織田領内の国境に建てられたこの城が今川の手の内に有る限り、織田は常に今川の侵攻の危険に曝され続けると言って等しい。

 逆に鳴海城を取り戻す事が出来れば、此度の今川の侵攻を頓挫させる事にもなる。

 

「…簡単には言ってくれますが、なかなかに難儀な策に御座いますなあ。奇襲を警戒しているであろう敵に完勝し、そのうえで城攻めを行いこれを早々に攻略させねばならぬとは。連戦であることに加え、もし城攻めに手間取り先行隊を迎合した敵本隊に攻め掛かられれば、我らは城方と今川本隊の挟み撃ちに成りまする。そうなれば恐らく、全滅は避けられないものかと。」

 

「あら、どうしたの信盛、ビビった?」

 

「いやまさか。これほどの難事を成し遂げた時のことを思えば、自然と闘志が沸き立つというものです。」

 

 そう言って豪快に笑い飛ばして見せる信盛の姿に、他の将兵からも笑みが漏れる。

 部隊の士気が十分に高まっていることを感じ取り、信奈も獰猛な笑みを浮かべた。

 最早ここに至って迷いなし。

 ここに集いし三千の戦子達は、既に死の恐怖を乗り越えた死兵と成らんとしていた。

 

「覚悟が決まった?と聞くのは愚問のようね。皆の者っ!出陣よっ!!」

 

「「「「応っ!!!!」」」」

 

 信奈率いる織田兵三千は血気盛んに出立した。

 

 

 

 

 同じ頃、水掛城の今川軍本隊も出立の準備を整えつつあった。

 その陣中で、朝比奈泰朝は配下から『清洲城を出た織田の軍が熱田神宮に集結しつつある。』という報告に耳を傾けている。

 

「そうか。織田は最後まで我らと戦う決断をしたか。それで、敵の総数は?」

 

「はっ!凡そ三千といったところであり、主だった武将は全員参戦していると思われます。」

 

「ふむ。三千か…」

 

 尾張の国力と周辺国への備えを考えるならば、恐らく今織田が出せる兵力のほぼ全力。

 つまり、織田は今日の一戦に勝負をかけて来たのだと泰朝は思い至る。

 

「よくぞ知らせてくれた。この情報、すぐに先行しておる元信達に伝えよ。ただし、敵は我らより少数なれど、窮鼠と成得る。決して油断召されるな、とも。」

 

「ははっ!畏まりましたっ!」

 

 配下の兵は頭を下げると、すぐに泰朝の言葉を伝えるため陣中をあとにした。

 泰朝はそれを見送ると、じっと西に広がる森を睨む。

 

 この森の先で織田信奈が逆転の一手を狙い、待ち構えている。

 

 その事実に戦を前にして気持ちが高ぶるのと同時に、信奈が降伏してこなかった事に僅かな安堵を泰朝は覚えた。

 

 これで主君に慮る事無く、戦場にて織田信奈を殺せると。

 

「いかん、何を既に勝ったつもりでおるのだ。」

 

 泰朝は己の心に慢心があるのを感じ、叱咤する。

 相手は雪斎和尚が虎と認めた武将。一分のスキも許してはいけない。

 

 味方に油断するなと言っておいて、この様とは。

 まだまだ自分も修行が足りぬと己を戒め、泰朝は立ち上がると主君の元へ向かう。

 

 今川軍は既に戦仕度を終わらせていた。

 将兵の目は爛々と輝き、まるで獲物を目の前にし主人の命令を待つ猟犬のようであった。

 その中心にあって、義元の様子は普段と変わらない。

 豪奢な十二単を身に纏い、代々幕府より乗る事を許可された輿に身を預ける姿は神々しささえ感じられ、泰朝を見つけて笑みを浮かべれば、日輪の日が差したかのように泰朝の心を暖かくした。

 

 

「どうしたんです、泰朝さん?ぼぅとして。私の美しさに見惚れましたか?」

 

 立ち竦む泰朝をからかうように義元が尋ねれば、少し恥じ入る風に泰朝も笑う。

 

「えぇ、見惚れました。姫様の美しさは正しく天より遣わされた女人の如くかと。」

 

「ほほほっ!まぁ、泰朝さんったら。相変わらずお口の御上手です事。然らば、天よりの命を伝えましょう。」

 

 義元は輿の上で立ち上がると、周囲の今川兵を見渡す。

 彼らが一心に己の主君を見上げれば、義元は優雅な所作で懐から扇子を取り出し、西を指し示した。

 

「いざ皆の衆、前へ。」

 

 五千の兵から成る今川軍本隊から閧の声が上がり、東海一の弓取りの進撃が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 さて、桶狭間の合戦において広く知られる風説に、織田軍は今川軍を奇襲するべく密かに迂回して今川軍を強襲。

 数の有利に油断した上に前哨戦の勝利で浮かれきっていた今川軍は、迂回してきた織田軍に側面から襲撃を受けてしまったというものがある。

 しかしながら、この説は後世で書かれた読み物語で描写されたものであり、脚色も多く現代の歴史家からは否定的な意見が多い。

 

 一方で織田信奈に仕えた太田牛一の記した『信奈公記』によれば、信奈は出陣に際して将兵に今川の先行してくる敵先遣隊を襲撃すると宣言した上で出立したという。

 しかも織田軍は今川軍本隊の側面では無く、正面から突撃したとも記されている。

 また、松平家の兵として参戦した大久保某が記した記録によると、今川本隊が信奈が出立したという情報を手に入れたので奇襲を警戒すべし、という指示を受けたという。

  

 つまり、当事者達が残した記録を纏めると、織田信奈は今川軍先遣隊を強襲するべく出陣したはずが、何故か後方にいるはずの今川本隊を真正面から攻撃し、今川も警戒していたにも関わらず正面からの強襲を許した事に成る。

 

 どうしてこんなことになってしまったのか?

 

 その原因は信奈達が出陣して半刻ほどたった頃に発生した。

 

 

 

 

 配下を率いて熱田神宮を出発し、先遣隊を討つべく東に進軍していた信奈だが、不意に鼻先に冷たい感覚が走る。

 

「ん?」

 

 見上げれば曇天の空からポツリ、ポツリと雨粒が落ちてきて、そう時間が経たず本格的に雨脚を強めた。

 

「これは運が良いわね。雨粒が私達の姿を隠し、雨音が兵馬の足音をかき消してくれるわ。文字通り恵みの雨ね。」

 

 信奈の言うとおり、奇襲を仕掛けようとする織田軍にとってこの雨は大変幸先の良いものである。

 家臣達の中にも、主君の強運に感嘆する者がいた。

 

「目に見えない神なんて頼りにしないなんて心に決めた直後だけど、こういうのがあると神を頼りたくなる気持ちも解るわね。」

 

 そう軽口を叩く信奈に将兵からも笑い声が起こる。

 

 しかし、すぐにそうも言ってられない様相となった。

 

 本降りは間も無くどしゃ降りとなり、桶を引っくり返したような豪雨が織田軍に降り注いだ。

 さらには嵐のような強風が吹きすさび、遂には雹まじりの雨が信奈達の顔を叩くまでになった。

 最早顔を上げて前を向くことさえ難しい状態である。

 

 

「ああもうっ!いくらなんでも降りすぎよっ!やっぱり神なんて頼るもんじゃないわっ!」

 

「どうします姫様?一旦木の陰にでも入って雨宿りをなさった方が。」

 

「そんな暇はないわ。こうしている間にも今川は進軍してきてるんだから、とにかく今は前に進むしかないのよ。」

 

「…あまり焦りすぎるのもよくありません。体を冷やし身を震わせる兵が、戦場で何の役に立ちましょう。」

 

「…わかったわ。一度森に入って休憩しましょ。ただし、斥候として十人ばかり放って敵軍の所在を偵察させるわ。その間、他の者たちは各々で雨露を凌いで体を冷やさないようにさせなさい。」

 

「はっ!皆さん、聞きましたね。暫しの間、森に入ってこの雨を凌ぎます。佐久間様と六さんは偵察に行く者を選抜して下さい。」

 

 万千代からの命令に対し、部隊からは心なしかほっと息をつく者が多いように信奈は感じた。

 よく見れば、カチカチと奥歯を震わせる者もおり、少し気持ちを逸らせすぎていたと反省する。

 

 行軍を中断した織田軍は、木の陰に入ると防具の上からびしょ濡れになった衣服を拭いたり、着衣したまま服を絞ったりして体が冷えるのを防ごうとする。中には持ち合わせの布で皮膚をこすり、乾布摩擦を行う者もいた。

 信奈達女武将も、簡易的な幕を張って人目を憚り、その中で体と着衣の手入れをする。

 こうして織田軍が暴風雨を凌いでいたころ、今川軍もまた雹まじりの雨に曝されていた。

 

 

 

 

「ひどい雨ですわね。泰朝さん、どこかでこの雨を凌げませんこと?」

 

 輿の上で傘を差し、空模様を窺いながら顔を覗かせた義元が尋ねると、輿の横で馬に乗る泰朝は少し渋い表情をしながら答える。 

 

「確かに雨はひどいですが、まだ城を出てそう時間もたっておりません。あまり先行している部隊と間隔が開くのもどうかと思いますが。」

 

「ですけどこの雨ですわよ。前を行く部隊も歩みを緩めるか、適当な場所で雨宿りをしているかもしれませんわ。それなら、こちらも進軍を強行するよりかは、雨が止むまで無理をしない方が良くてよ。焦りは禁物。余裕をもって優雅に突き進む。それが王者の兵法ですわ。」

 

 義元の話を聞き、泰朝はふむと顎を撫でる。

 荒事を嫌い、戦を苦手とするため軍事については基本配下に丸投げする義元からすれば、珍しく筋の通った意見である。

 思えば此度の侵攻は、雪斎和尚がこの世を去って以来初めての大規模な軍事行動。戦嫌いの義元といえど気持ちが高ぶり、普段は口を出さぬ軍事に意見するのも無理からぬ事である。

 だとすれば、せっかくやる気になった主君を無下にするのも偲びない。

 泰朝は口角が上がりそうになるのを抑えつつ、脳内に叩き込んだ周辺の地図を思い出しながら答える。

 

「それならば、ここより少し先に行った場所に小高い丘があります。そこで陣を立て、雨が止むまで一旦進軍を止めるというのはいかがでしょう?」

 

「ええ、それでよろしくてよ。万事うまくいってるのですから急ぐ必要はありませんわ。」

 

 満足げに頷く義元に頭を下げ、泰朝はすぐに各将に義元の命令を伝えた。

 無論警戒は怠らず、陣の側面には見張りを着けることを厳命している。

 しかしそれでも、泰朝の心には、いや今川軍全体に一分の隙があったのかもしれない。

 彼らは心なしか、織田と当たるのは先遣隊であると思い込んでいた。

 実際のところ、普通であれば先に織田軍とぶつかるのは先遣隊のはずだったし、信奈をはじめとした織田の兵達もそう思っていた。

 

 この時は両軍とも思いも至らなかったのだ。

 岡部元信率いる今川の先遣隊が、長時間兵が雨に打たれ疲弊するのを恐れ行軍速度を上げていた事に。

 さらに思わぬ悪天候と慣れぬ道のせいで予定していた侵攻ルートから外れていたうえに、豪雨の影響で忍達の警戒網に穴が生まれた事に。

 それらが重なりあった結果、織田強襲部隊と今川先遣隊がお互いの存在を認知しないまま素通りしてしまっていたなんて、予想出来る者は未来から来た一人を除いて、誰一人いなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「この先の丘で、今川の部隊が陣を構築しているですって?」

 

「はっ!この者が言うには左様の如く。」

 

 勝家は信奈に向かって頭を垂れながら報告する。

 その隣には頭頂部の禿げた小男が勝家に倣って頭を下げていた。

 休憩の前に斥候に赴いた者の一人である。

 

「確かあんた、梁田政綱って言ったわね。間違いなく、今川の部隊がこの先の丘にいるのね?」

 

 鋭い眼光と共に尋ねられた政綱はビクリと肩を跳ね上げながらも、唾を飲み込み顔を上げる。

 

「は、ははっ!間違いございませんっ!あの旗印は今川のものに相違なしかと。この先は盆地に御座いまするが、中心は小高い丘となっておりまする。どうやら相手方は我らと同じく、雨を凌ごうとそこに陣を築こうとしているようで御座いましたっ!」

 

 政綱の言葉を最後まで聞いた信奈は、ふと空を見上げた。

 雨脚は相変わらず強く、小さな氷の粒が信奈の顔を叩いた。

 暫しそのまま佇んでいた信奈であったが、不意に政綱の方を向くと、強くその肩を叩いた。

 

「良い情報を持って帰って来てくれたわ。大義よ。」

 

 そう言って干してあったマントを翻して身に付けると、体を休める兵達に向かって声をあげる。

 

「皆の者っ!今川の先遣隊はこの先で雨避けをしている。これより私達は風雨に紛れ強襲をしかけ、敵を撃滅するわ。すぐに準備なさいっ!」

 

 信奈の激に兵達は慌ただしく動き始め、程なく戦仕度を済ませる。

 そして、織田軍は今川軍本隊を先遣隊と思い込んだまま、これに向かって進軍を始めるのであった。

 

「そういえば、今川が休んでいるという丘は何て言う名前なの?」

 

 信奈が何気なしに近くにいた政綱に尋ねると、政綱は少し考えるような素振りを見せる。

 

「ええと、確か昔は田楽狭間等と呼んでおりましたが、地元の者達は桶の底ような形をしておるので桶狭間、そこの丘の事は桶狭間山等と呼んでおりまする。」

 

「そう、桶狭間ね。」

 

 信奈は吟味するかの如く桶狭間の名を口にすると、自ら先頭に立ち自軍を率いて雨中を行く。

 相変わらず冷たい雨が兵達の体を打ち、暴風は容赦なく吹き付けて来るが、織田の兵達はいよいよ間近になった戦の気配に心を燃やし、寒さを忘れた。

 

「……あった、あそこね。」

 

 そしてついに、信奈はその目に前方で陣立てをしている今川軍を捉えた。

 それに合わせるかのように、雨脚が俄に弱まり始めていた。

 

「………ねぇ、万千代。」

 

「………はい、姫様。」

 

「なんか思ってたより相手の数が多いんだけど。」

 

「…奇遇ですね。私も先遣隊というからには、千か二千くらいのものと思ってましたが、軽く見るだけでも私達と同数か、それ以上のように見えますね。」

 

「………ていうかあれ、敵の本隊なんじゃないの?」

 

「………多分そうだと思います。」

 

「……………いやいやいや!?流石にこれは予想してないわよっ!?えっ!?なんで先遣隊を奇襲する筈が後方の敵本隊を見つけてんのっ!?」

 

「もしかすると、どこかで見逃してしまったのかもしれません。ともかく、一旦この場は引いて、策を練り直すのが良いかと…あっ。」

 

「どうしたの万千代?」

 

「なんだか、向こうにいる人影が人を呼んでいるような素振りを。」

 

「何ですって!?」

 

 信奈が慌てて前方に目を凝らすと、雨のせいで視界がぼやけるが、確かに大きく手を振って人を呼んでいるような鎧武者の姿が見えた。

  

 それを目にした瞬間、信奈の中で何かが切れた。

 

「………突撃するわよ。」

 

「…ひ、姫様。本気ですか?」

 

「最早ここに至って逃れるのは適わないわ。然らばただ前を行くのみ。目の前の死に背を向けるのではなく、目の前の死に立ち向かい乗り越える他無いのよ。」

 

 その言葉に、背後にいる兵達から息を呑む音が聞こえる。

 だが、彼らも熱田神宮に集いし時に覚悟は決めていた。主の言葉は、織田兵たちの心の闘志を最高潮にまで高めた。

 

 実際のところ、信奈をはじめとした織田の兵達の精神状態はかなりおかしな所まで至っていた。

 ここ数日に及ぶ軍議と不安による寝不足、もう後がないという焦燥感、信奈の檄による高揚、そしていきなり敵の総大将が率いる本隊を目の前にするという急展開に、彼らはテンション爆上げガンギマリ狂乱状態となってしまっている。

 ゆえに、次に信奈が命じた指示に何の戸惑いもなく従った。

 

「全軍、敵中に相駆けよ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方で、陣立てをしている今川軍の見張りを任された兵は、手のひらを眉に当て前方を注視していた。

 そこに別の見張りの兵が声をかける。

 

「おい、どうした。何か見えるのか?」

 

「ああ、何か向こうに人影のような物がな。」

 

 声をかけた兵が隣に倣って目を凝らすと、確かに豪雨に紛れる馬上の人影があった。

 

「ありゃあ多分、先遣隊の伝令ではないか?あのような場所に突っ立って、大方こちらの陣を見失っておるのだろう。」

 

「ああ、なるほど。おおいっ!こっちだ!そんな雨の中で突っ立っておらんで、早うこっちに来い!」

 

 大きく手を振り大声で呼び掛ければ、やがてそれに気が付いたのか、人影は馬を走らせ陣に近づいて来る。

 やはり伝令であったかと、見張りの兵は安心するが、すぐに違和感を覚える。

 人影の後ろに黒い波が見えた。

 それは近づくにつれ人波の形となり、さらに近づけば雨音に紛れ人の怒声が聴こえてくる。

 見張りの思考が止まる中、不意に風雨が弱まり、近づく人波が掲げる木瓜紋の旗が姿を表した。

 

「て、敵襲っ!敵襲うううううっ!」

 

 見張りの兵は漸く事態を把握し、急事を味方に伝える。

 しかし、それをするには余りにも遅すぎた。

 

 

 

 

 

 

 

「ん?」

 

 幕を張った陣中で行軍の進路を手帳に記していた泰朝は、筆を手にしたまま不意に手帳から顔を上げると、不審げに外を窺う。

 そこにお付きの小性が声をかけた。

 

「如何なされましたか、泰朝様?」

 

「いや、何やら人の叫び声のようなものが聞こえたのでな。」

 

「もしかすると、誰か喧嘩でもしているのやも知れませぬ。注意してきましょうか?」

 

「ああ、頼む。戦を前に気が高ぶるのは致し方ないが、無益な私闘は厳に慎むべしとな。」

 

 そう言って再び手帳に目を落とそうとしたその時、泰朝の陣中に勢いよく伝令が転がり込んで来る。

 

「なんだ貴様はっ!?無礼であろうっ!」

 

 小性がそう叱責するが、すぐに伝令の様子がただならぬ事に気が付く。

 全身を泥に汚し、言葉を出せないほど激しく呼吸をしながらも、顔だけは真っ青に血の気が失せていた。

 

「おい、お前、いったい何があった!?」

 

 尋常ならざる様子に胸騒ぎを覚えた泰朝が問い質すと、伝令は数回の深呼吸の末に漸く言葉を紡いだ。

 

「て、敵襲に、御座いますっ!お、織田の軍勢が、正面よりっ!」

 

「なんだとっ!?」

 

 知らせを聞いた泰朝は筆と手帳を投げ捨て、幕の外に出る。

 泰朝が陣を張るのは丘の中腹、丁度背後にある義元の陣を守る場所にある。

 そこから丘を見下ろせば、津波が如き織田軍の勢いに突き崩され、今川兵が散々に追い散らされていた。

 既に前衛は総崩れの様相である。

 

「なぜここに至るまで気付かなかった!」

 

「わかりませぬっ!突如雨の中から敵影が現れ、対処する間も無く攻撃を受けたとしかっ!」

 

 泰朝が伝令に怒鳴り付けるが、彼にしても狼狽えながらそう答えるしかなかった。

 泰朝は苦虫を噛み潰した表情で戦況を改めると、絞り出すような声で命じた。

 

「…くっ!撤退の準備だ。」

 

「て、撤退に御座いますか?」

 

「いまこの場で敵の勢いは止められぬ。せめて姫様だけでも、水掛城に引いて頂くのだっ!それと、元信と元康に早馬を送れっ!」

 

「ははっ!」

 

 素早く小性に命を伝えると、息つく間も無く泰朝は丘を駆け上がり、取り次ぎの側衆を押し退け義元の陣中に入る。

 血相を変えた泰朝の登場に、義元は目を丸くする。

 

「どうしましたの、泰朝さん?」

 

「姫様、すぐに撤退のご準備を。織田より奇襲を受けました。我々が時間を稼ぎますゆえ、水掛城までお引き下さい!」

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいまし!泰朝さん、織田の方々が奇襲を?いったいどうして!?」

 

「お恥ずかしながら、我らの警戒を掻い潜ったとしか。前衛は既に総崩れとなりますれば、最早一刻の猶予は無し。一旦水掛城で形勢を建て直す他ありませぬ。」

 

「……いまここにいる方々だけでは迎え撃てませぬの?」

 

「…敵の勢いは極めて猛勢のうえ、我が軍は陣形を解いた所を突かれたゆえ、混乱甚だしく、この場で形勢を建て直すは難しいかと。」

 

「………わかりました。口惜しくはありますが致し方ありませんわ。皆さん、撤退の準備を!」

 

 義元の指示に側衆達が慌ただしく動き始める。

 だがそこは東海覇者、今川義元に最も近い場所に仕える精鋭達。

 手早く撤退の準備を整えると、輿に主君を乗せる。

 

「それでは、水掛城に向かいます。泰朝さん達もすぐにあとを追ってきて下さい。」

 

「……姫様、私達は暫しここに残りまする。」

 

「…何を言ってますの、泰朝さん?」

 

 予想外の返答に呆けたように義元が聞き返せば、泰朝はいつも自分に見せる優しげな笑みをしている。だけど今日のそれは、どこか無理に笑っているように見えた。

 

「我らの使命は姫様をお守りし、天下の頂きにお連れする事。その使命、いまここに果たしとう御座います。」

 

 そう言って頭を下げる泰朝。

 それに倣うように、いつの間にか彼の背後に控えていた他の家臣達も頭を下げる。

 

「あなた達、まさか…」

 

「さぁっ、時間が無い。姫様をこの場よりお連れするのだっ!」

 

「「「「応っ!!」」」」

 

 顔を上げた泰朝の号令に輿を担ぐ者達が力強く応えると、全速力で走り出した。

 

「待ってくださいましっ!泰朝さんっ、泰朝さんっ!!」

 

 義元は名を叫びながら手を伸ばすが、それが届くことはなく、やがて名を呼ぶ声も雨音に紛れ聞こえなくなった。

 泰朝は輿が走り去った方向へもう一度深々と頭を下げると、ゆっくりと顔を上げる。

 その表情に激しい感情は無い。

 だが、その瞳は強く冷たい火を爛々と宿した、護国の鬼の目となっていた。

 

「…さあ、皆の衆、今こそ今川家積年の恩を返す時ぞ。」

 

 そう言うと、泰朝は桶狭間山の頂上より戦場を見下ろす。

 織田軍の勢いは止まることを知らず、既に山の麓にまで突き進んでいた。

 だがそれでも、泰朝達の心は萎える事無く、寧ろ主君の命を守る戦に闘志を熱く燃えたぎらせる。

 それは紛れもなく、彼らが戦国の世に生きる武士である証左であった。

 

「織田信奈っ!我らの前に屍を晒す覚悟があらば、存分に掛かってくるがよいっ!」

 

 泰朝の咆哮が桶狭間に木霊し、長きにわたる戦いはいよいよ佳境を迎える。

 

 今宵はこれまでに致しとう御座りまする。




・桶狭間の戦い不測遭遇戦説
 現在研究者の間では、最も有力であるとされる説の一つ。
 だが、大抵の創作物では迂回奇襲説が採用される。
 理由は恐らく、そっちの方が信長の凄さを強調でき、ドラマティックだから。
 本作ではテンプラ外し好きの作者の趣味に走った結果、不測遭遇戦説を採用したが、たまにはこういう間の抜けた感じの桶狭間の戦いがあっても良いのでは?

・梁田政綱
 創作物では今川軍が桶狭間で休息を取っていることを信長に知らせ、一番の戦功を上げたと信長に称えられる武将だが、当時の記録にはその様な記述は一切存在しない。
 政綱が戦功第一等と広まった最大の原因は、某司馬大先生の作品による。
 一応実在する人物ではあり、子は信長に仕え、子孫は幕府の旗本となった。
 
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