太閤転生伝   作:ミッツ

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何とか年明けまでに投稿しようと思って今日にいたりました。
最新の歴史研究も随時アップデートされており、調べがいがあると同時に作品に落とし込むのに苦労しました。

それでは皆様よいお年を。
そして、あけましておめでとうございます。



序章の終わり

 今川軍に突撃を仕掛けた織田軍勢。

 その先陣に立つのは他ならぬ大将、織田信奈本人であった。

 

「いけいけいけっー!!立ち止まらず真っ直ぐに敵本陣に向かいなさいっ!落ち首を拾っているような奴がいたら叩き斬るわよっ!」

 

 半ば脅迫じみた檄であったが、戦意高揚甚だしい将兵達は雄叫びを上げながら今川の兵を追いたてていく。

 何より、大将が率先して先陣を斬るのだから織田兵の士気は嫌が応にも高まっていた。

 

 一方完全に虚を突かれた今川兵は気勢を征され、恐慌に陥り逃げ惑う。

 中には焦るあまり泥濘に足を取られ転倒し、後ろから来た味方から立て続けに踏みつけられ、哀れ水溜まりで溺死する者も数多に上った。

 

 そんな渦中にあって、織田信勝改め津田信澄は両手で槍を待ち自軍先団の後を追っていた。

 

「前へ、もっと前へ!ここで手柄を上げて僕は!」

 

 戦前より並々ならぬ覚悟でこの戦に臨んでいた信澄は、己に言い聞かせるように呟きながら、必死に足と視線を動かしていた。

 そうして戦場を駆け回っていた信澄だったが、不意に横合いから飛び出してきた人影とぶつかり尻餅を着いてしまう。

 

「あいたた、ごめん。よそ見をしてて…」

 

 ぶつかった部分を擦りながら相手を確認すると、それは今川の兵だった。

 信澄と同じくらいの年齢の若い男兵である。

 織田軍の奇襲に慌てていたのか、キチンと紐を締めていなかった兜は脱げ落ち、鎧の右肩の紐も取れかけていた。

 顔を顰め頭を擦っていた今川兵は、ぶつかった信澄が織田兵だと気が付くと焦った様子で立ち上がり腰の刀を抜く。

 それを見て信澄もようやく自分が敵前にいるのだと把握し、慌てて立ち上がると槍を構えた。

 そうして信澄と今川兵はお互いに武器を持ったまま暫し硬直する。

 

 目の前に敵がいる。すぐに戦いを挑み討ち果たさねばならない。

 

 信澄とて頭ではそう分かっているが、槍を握る手は震え、足は竦んで踏み出せない。

 今川兵も同様だ。

 

「あ、あっあああああああ!あああああっ!」

 

 刃を信澄に向け、腹の奥底から威嚇めいた怒声を放ってくるが、信澄との間の距離は変わらない。

 雨に濡れたその顔は、どこか泣き出しそうでもあった。

 

 それでも何とか覚悟を決めたのか、今川兵は刀を振り上げ信澄に切り掛かった

 

「う、うわああああああああっ!!!」

 

「ひぃっ!?」

 

 ヤケクソ気味の絶叫と共に踏み込んでくる今川兵に対して、信澄は思わず目を瞑ったまま槍を突き出す。

 中途半端な刺突が急所を捉えられる訳もない。だが、狙いの逸れた槍の穂先は鎧の外れた今川兵の右肩を掠る。

 それによって手が狂ったか、今川兵の斬撃も信澄を捉えられず空振りする。

 さらに空振った勢いのままに地面を叩き、その衝撃と雨の滑りによって刀はスルリと今川兵の手元を離れ、信澄の足元に落とされた。

 

「あ…」

 

 呆気にとられた声が、どちらの口から洩れたかは分からない。

 だがそれも一瞬。

 

「ひっ、ひぃぃぃっ!」

 

 武器を亡くした今川の兵は、情けない悲鳴を上げると這いずるように背を見せる。

 そこからは信澄も必死だった。

 気付けば今川兵を追い掛け、その背中にもう一度槍を放った。

 今度は穂先がぶれることも無く、槍の先端は吸い込まれるように今川兵の背中に突き刺さる。

 体のほぼ中心を突かれた今川兵は、ビクリッと体を強張らせると一歩二歩フラフラと歩いたのちに膝から崩れ落ちた。槍は刺さったままである。

 そこで初めて、信澄は自分が武器を手放してしまっていることに気が付く。

 それでもなお、呆然と倒れ伏した今川兵を見るばかりで、戦場の真ん中で佇むばかりであった。。

 

「おいっ!大丈夫か!?」

 

「信澄様っ!大事御座いませぬかっ!?」

 

 戦場の真ん中で棒立ちとなる信澄に駆け寄ってきたのは、良晴と勝家の二人であった。

 

「あっ、勝家、それに良サル君…」

 

 気の抜けた返事をする信澄。その体は泥で汚れているが、目立ったケガは見当たらないことに良晴たちは安心した。

 しかし、そのすぐ側に今川兵が倒れ伏せているのを発見した良晴は息を呑む。

 

「信澄、こいつはお前が?」

 

「えっ!?あっ、その。」

 

 良晴の言葉にようやく正気に戻った様子で目を見開く信澄であったが、すぐに顔を青くさせ口元に手をやろうとする。

 だが、それを止めるかのように勝家は信澄の両肩を強く掴んだ。

 

「信澄様、初陣にて手柄首、見事な誉に御座いますっ!」

 

「か、勝家。」

 

「されど今は戦中。先程姫様が伝えていたように首を取る暇は御座いません!然らば、今はひたすら前に進み下さいませっ!」

 

 そう言って信澄の後ろに回った勝家は、強引に背中を押して足を進ませる。

 信澄の足取りはいまだ覚束ないままであったが、意識を前線に向けれたお陰で僅かに血色が戻っていた。

 そうして前を行く二人に遅れそうになった良晴も慌てて付いて行こうとした、その時であった。

 

「ははうえ…」

 

 足元から掠れた若い男の声がした。

 良晴の足が止まり、視線が泥地に倒れた今川兵に向きそうになる。

 しかし、それをグッと堪えると、振りきるように勝家達の後を追って走り出した。

 倒れた今川兵の涙が、雨に混じって泥に染みたのを誰も知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 一方別の場所では、奮戦する今川の将の姿があった。

 

「狼狽えるなっ!敵は我らより少数。しかも尾張の弱兵共だっ!」

 

 そう言って味方を叱咤した今川の将は、横凪ぎに槍を振るうと、向かって来た織田兵の首をへし折った。

 

「ふんっ!所詮尾張兵などこの程度。この由比正信の相手ではないわっ!」

 

 そう高らかに吼えるともう一振り、今度は上段の一撃を織田兵の脳天に叩き込み地に這わせる。

 その武勇に周囲の今川兵が俄に活気づき、勢いに乗っていた織田兵の足が止まった。

 味方の顔に生気が戻った事を確認すると、由比正信は顔には出さず内心でホッと息を吐きながら決死を覚悟する。

 

 最早戦線の崩壊は止めようが無く、如何に正信が味方を叱咤しようと局地的なものに過ぎず、いずれ織田軍の勢いに飲まれ果てるだろう。

  

 それでも、ここで正信達が踏みとどまり時間を稼げば、それだけ義元が戦場を離脱するのが容易になる。

 

 負け戦が今川家積年の恩に報いる場になるのは少々残念ではあるが、己の武勇で当主を無事に生還させれば、これに勝る誉れは無いと心を奮い立たせ、正信は誰一人としてここを通さぬとでも言うような気迫を込めて、織田兵を睨み付ける。

 

 織田兵達は鬼気迫る正信の様相に完全に飲まれ、前に進めなくなる。

 だがそんな時、長槍を携えた小柄な女武将が織田兵の中から現れると、槍の穂先を正信へ向け構えた。

 

「…織田家赤母衣衆が一人、前田又左衛門利家見参。お相手願う。」

 

「前田又左衛門…ほう、ではお主が弱兵揃いの織田にあってその人あり、と言われる『槍の又左』か。よもや、このような幼な子であったとはな。」

 

「……犬千代を侮ってる?」

 

 そう問いかける犬千代の眉間には深い皺ができ、それを見た正信は静かに笑う。 

 

「おっと、その様に思わせてしまったか。だが安心せい、お主の事は侮っておらぬ。儂が侮るのは、こんな幼な子を頼らざるを得ない織田兵と、その主君である織田信奈よ。」

 

 正信の言葉に犬千代の皺が益々深くなる。

 それを見て正信は笑みを濃くする。

 

 己に対する謗りより、味方と主君への侮りに怒り、それを顕にする。

 見た目通り青い。然れどその青さ、正信は嫌いではない。

 

 今川家にあって根っからの武人である正信にとって、武勇ある血気盛んな若武者は敵であれ好ましい存在であった。

 しかし、今は戦の最中。

 血気盛ん故の青さを利用すべく挑発すれば、犬千代は容易にそれに乗った。

 

 挑発罵声も戦の手段。

 

 正信は内心で、この小さな体に大なる闘気を秘めた若武者を死なせるは惜しいという気持ちを押さえつつ、出来うる手段は全てこうじ犬千代を討ち取る所存にあった。

 

「…犬千代への誹りはまだ許せる。けれど、姫様とみんなへの誹りは絶対に許さないっ!」

 

 正信の挑発に耐えられなくなった犬千代は激高し、凄まじい勢いで正信に迫る。

 だがそれは、正信の望む処であった。

 激すればそれだけ刺突は直線的となり、動きも単調となり、隙も生まれる。

 正信の狙いは最初の一撃をいなし、体勢の崩れたところを刺し貫く事である。

 その為に最も肝心なのは間合いの見極めだ。

 己と犬千代との距離、得物の長さ、犬千代が迫りくる速度。

 それらを長年戦場に身を置いて磨き続けた感により、正信は瞬時に犬千代の殺し間を導きだした。

 迫り来る犬千代の刺突。

 それが正信の間合いに入る一間歩手前で正信は動き出す。

 

 正信の首を狙った一撃を己の槍で擦り上げる様に逸らそうと、左腕を持ち上げ槍の穂先を跳ね上げる。

 

 しかし、互いの槍がかち合おうとしたその瞬間、犬千代の槍が突如上を向き正信の槍は空を切る。

 

「なにっ!?」

 

 予想外の動きに正信は思わず犬千代の槍の動きを目で追ってしまう。

 その失態に正信が気がついたのは、槍が引き戻され視界から消えた瞬間である。

 

 しまった、そう口にする暇もなかった。

 

 慌てて視線を戻すも殺し間と見極めた場所に犬千代はおらず、代わりに左脇から背中にかけて強い衝撃が走った。

 

 視線を向けなくても分かる。脇の下から串刺しにされ、止めどなく血が流れるのを正信は感じた。

 

 一つ分からないのは何故間合いを見切られたかであったが、泥地に出来た細い線によって正信は理解した。

 

「そうか、槍の尻を地に立て、己の勢いを殺したか。激したのも、演技であったか…」

 

 犬千代は正信の間合いに入る寸前、己の槍を地面に立てブレーキにしてタイミングを外すと、横っ飛びで正信の死角に入り刺し貫いたのだ。

 正信の狙いを見抜いたうえで、その策を利用した妙技である。

 

「…犬千代は一度挑発に乗って痛い目を見た。姫様や仲間達にも沢山迷惑をかけた。だから、犬千代はもう二度と安い挑発には乗らない。」

 

 正信の左側から抑揚ない、されど強い決意を感じられる言葉が聞こえる。

 槍が抜かれると、傷口から出血の勢いが増す。

 正信は槍を取り落とし、崩れ落ちながらも犬千代の方を見る。

 そこには、油断なく武器を構える小さな武人の姿があった。

 

「…前田殿よ、敵ながら見事な武勇である…お主の主君らに向けた侮辱…謝罪いたそう。だからという訳では…ないが…死人の願いと思い…一つ……聞いてはくれぬか?」

 

「……なに?」

 

 犬千代の返事に正信は壮絶な笑みを浮かべた。

 

「我が首をもって…手柄とせよ……」

 

 そう言い終えると、正信は顔から倒れ伏せた。

 犬千代はチラリと信奈がいる方向に顔を向けるが、すぐに槍をその場に突き立てると、脇差しを抜いて切っ先を正信のうなじに立てた。

 

 

 

「織田家赤母衣衆前田又左衛門利家っ!今川家が優将、由比正信の首とったああああっ!」

 

 その名乗りは雨中の戦場にあって、敵味方問わず大きく響き渡った。

 

 

 

 

 

「おおっ!犬千代の奴、やりよったなっ!此度の田楽狭間でも手柄首を上げるとは流石じゃ!」

 

 織田勢後方にいた秀吉は、犬千代の名乗りを耳にして膝を叩く。

 前世での桶狭間においても前田利家は複数の首を取る手柄を上げている。しかし、その時の利家は出奔中の身であり、戦にも無断でこっそりと参戦していた為にその手柄が評価されることは無かった。

 

「しかし此度は正真正銘織田家の臣。きっと信奈様は犬千代の手柄をお認め下さる筈じゃ。それにしても、こうして見ると二度としたくない戦と信長様が評した訳がよく分かるのぉ。」

 

 秀吉は戦場の様相を眺めながら苦笑いを浮かべた。

 

 桶狭間の戦いは、結果的にあらゆる条件が今川の不利に働いた戦である。

 少なくとも直前までで今川軍に大きな失策は無く、戦略的にも戦術的にも織田家に対して優位に事を進めていた。

 それが、突然の大雨で盤上がひっくり返ったのだ。

 

 逆に織田軍にとっては最後の最後でとてつもない幸運に恵まれたに等しい。

 ただそれは運任せ、勢い任せのままに手にした勝利と言うにも等しかった。

 

「思えばあれ以来、信長様も戦で何をするかより、戦に至る前に何をするかに熱心になられておったわ。」

 

 信長で無くても二度としたくない戦と言っただろう。これほどまでの薄氷の上で勝利を拾った戦は日ノ本の歴史を紐解いても、そうあるものではない。

 

 戦の形勢はすでに決した。あとは敵大将を捕れるかだけだが、と秀吉が思案していると、東の空に向かって空気を割くような甲高い笛音が飛んでいく。

 それは、桶狭間の戦いが最終幕に移ったのを知らせる音色であった。

 

 

 

 

 

 

「くっ!今の音はっ!?」

 

 織田勢の攻勢を手勢と共に何とか凌ごうと奮闘していた朝比奈泰朝は、自軍左後方に向けて飛んで行く笛の音に顔を青ざめさせる。

 今のは織田軍が放った鏑矢の音。

 それが今川軍側の空に向けて放たれる理由はただ一つである。

 

「姫様が、見つかった!」

 

 義元が敵軍に捕捉される。泰朝が最も恐れていた事態が起こってしまった。

 戦場を見下ろせば、味方の合図を聞いた織田軍勢が今川の左翼に向けて殺到している。

 泰朝は近くで共に戦っていた国人衆のまとめ役、井伊直盛を見つけると肩を掴んで自分の方を向かせる。

 

「井伊殿、姫様が敵に見つかった。某は十ばかり手勢を率いて助太刀に参るゆえ、この場の指揮は井伊殿にお任せする。」

 

「こ、心得た!」

 

 直盛の返事を確認すると、近衆に指示を出しながら泰朝は素早く陣を出る。

 そのまま槍を片手に馬へ飛び乗ると、義元を乗せた輿が逃れた方向へ走らせる。

 

「あってはならぬ。こんなところで終わるなど、あってはならぬのだっ!」

 

 誰に聞かせるでもない、心からあふれた言葉を泰朝は叫ぶ。

 

 主君は望んだ。この国の頂に立ち、暗雲濃い現世を正道なる政で再興させるのだと。

 師匠より託された。主君を頂まで導く道を。

 

 それが今、音を立て崩れ去ろうとしている。

 

「そのようなこと、認めてなるものかぁっ!」

 

 雨に打たれ、脳裏を過る最悪の光景を振り払いながら、泰朝は必死になって馬を走らせる。

 そうしているうちに、ようやく目的のものを見つける。

 

 輿は道端に打ち捨てられ、担い手の男衆の三人がそれを背に五人の織田兵相手に防戦していた。

 その後ろには、足を押さえ苦悶の表情を浮かべる担い手と、泣きべそをかきながらオロオロと狼狽える義元がいた。

 泰朝は馬の勢いそのままに、死角から一人を槍で打ち叩くと、馬から降りて更にもう一人を刺し貫く。

 泰朝の乱入に混乱しながらも、数の有利がなくなった織田兵は慌ててその場から逃れようとするが、遅れて走ってきた泰朝の近衆達がこれを手早く仕留めた。

 そうして一先ず周囲の安全を確保すると、泰朝は義元へ駆け寄った。

 

「姫様、お助けが遅れましたこと御詫び申し上げます!どこぞお怪我は?」

 

「わ、私は大丈夫です!ありがとう御座います泰朝さん!」

 

「さあ、姫様。今はこの地を離れるのが大事。手綱は某が後ろから持ちます故、早く。」

 

 泰朝は無礼と思いながらも強引に義元の手を引き、愛馬の元へ連れていく。

 そして先に騎乗し義元をを引き上げようとしたその時、突如愛馬が嘶き後ろ足で立ち上がった。

 

「なっ!?」

 

「泰朝さんっ!」

 

 突然のことに対処できず、馬から振り落とされた泰朝に義元が駆け寄る。

 心配させぬように顔をしかめながらも義元へ頷いて無事を示す泰朝だったが、すぐに硬直する。

 目に写るのは足を引き摺りながら旋回する愛馬。その右後足には痛々しいまでに深く矢が突き刺さっていた。

 人を乗せて走らせることは適わないだろう。

 

「…この、クソッタレがあああぁぁっ!!」

 

 側に義元がいるにも関わらず、泰朝は天に向かって咆哮する。

 

「何故だっ!?何故天は義元様に味方しないっ!?義元様こそ天下を統べし御方っ!暗き世に光を差さんと誓われた御仁なのにっ!」

 

「や、泰朝さん。」

 

 狂乱し、地を叩いて天を呪う泰朝に、義元はかけるべき言葉を見つけられない。

 だが、そうしている間にも織田軍の追撃隊が迫り来る。

 彼らの足音は泰朝の耳にも確りと聞こえていた。

 故に、泰朝は歯を食い縛り苦悶に満ちた顔を上げる。

 

「…皆の者、しかと聞け。」

 

「「「はっ!」」」

 

「俺は姫様を駿河へお連れする。お主らは…お主らは、ここに留まれ。」

 

「「「っ!」」」

 

 それは義元と自分が逃れる時間を稼げという命令、自分たちの為に死ねという命令であった。

 近衆は息を呑み、一瞬言葉に詰まる。

 しかし、すぐに全員の顔が覚悟を決めた武人のものに変わる。

 

「あい分かりました。姫様のこと、よろしくお願い致します。」

 

「…武運を、祈る。」

 

 辛うじてそう告げると、泰朝は状況に頭が追い付かず呆然とする義元の手を引いて駆け出した。

 その後姿を見送ると、泰朝の近衆たちは武器を構え織田軍が殺到してくる方角を睨む。

 

「…どうぞご無事で、泰朝様。お側にお仕え出来、幸せでした。」

 

 やがて彼らの前に織田の追撃隊が現れる。彼らもまた主君の為に目を血走らせ、必死に己の役目を果たそうとしていた。

 後続を含めれば、その数およそ50ほど。対する近衆達は神輿の担い手を含めても14人。織田軍圧倒的有利である。

 それでも泰朝の近衆達は奮闘し、最後の一人が討ち取られるまで泰朝達が逃げる時間を稼いだのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 泰朝は己の主君の手を取り走り続ける。

 息苦しく、体は疲労によって重くなろうとも、足を止めるわけにはいかなかった。

 

「はぁはぁ、申し訳ありません義元様。もう少し御辛抱くださいませ。」

 

 主君を気遣い声をかけるが、返事は帰ってこない。代わりに少しだけ強く手が握られる。

 その感触に泰朝は少し安心する。

 

 部下達と別れてからどれだけ時が経っただろうか?

 どれ程の道を走っただろうか?

 あとどれくらいで城に着くだろうか?

 部下達はもう全員死んだだろうか?

 

 次々と疑問が浮かび上がるが、それを深く考える余裕は無く、ただただ走り続けるしかなかった。

 しかし、それも長くは続かなかった。

 

 不意に左手に握る義元の手が重くなり、するりと拳から抜け落ちる。

 振り向けば、荒い呼吸を繰り返し義元がへたり込んでいた。

 

「大丈夫ですか、姫さまっ!?」

 

「も…申し訳ありません、少し…休憩を…。」

 

 普段は自信に満ち溢れた義元の表情も、今は疲労の色が濃い。

 十二単の着物の殆どはとうに脱げ落ち、足元は泥に塗れている。

 出陣の際、あれほど煌びやかで美しかった主君の有様が、今では見る影もなく見すぼらしいものになっている。

 それを思うと、泰朝は思わず涙が出そうであった。

 

「今しばらく、どうか御辛抱を…」

 

 それでも今は先程と同じ言葉を繰り返す他ない。

 泰朝は担ぎ上げるように肩を貸して義元を立ち上がらせると、再び歩みだそうとする。

 

「いたぞっ!こっちだっ!」

 

 しかし、それよりも早く敵兵の声が響いた。 

 振り向けば、織田家の旗を差した槍兵が穂先を泰朝達に向けていた。

 

「織田家馬廻衆服部小平太一忠っ!その方、今川家大将今川義元殿とお見受けする!いざっ!」

 

「くっ!姫様お下がりください!」

 

 槍を持って突っ込んで小平太から義元を離れさせようと後ろに突き飛ばしながら、突き出された一撃目を何とか避ける。

 泰朝は小平太が槍が引き戻す隙に腰の刀を抜こうとするが、予想に反し小平太は槍を取り落とし泰朝に体当たりを仕掛けた。

 不意を突かれた泰朝は背中から地面に倒され、その上に小平太は馬乗りする。

 

「おのれ、貴様っ!」

 

「その首もらったっ!」

 

 小平太は体重をかけ泰朝の身動きを封じながら、右手で泰朝の顔を押さえ、左手で脇差を抜くとその切っ先を首に突き立てようと振りかぶった。

 

「泰朝さんっ!」

 

 義元の悲痛な叫びが木霊し、鮮血が地を濡らすかと思えたその時だった。

 

「っんぐ!」

 

 突如小平太の顔が苦痛に歪み体勢が崩れる。

 その瞬間、泰朝は上半身を跳ね上げ小平太を突き飛ばすと、素早く刀を抜き小平太の膝を切りつける。

 今度は小平太の悲鳴が木霊した。

 

 小平太を払いのけ立ち上がった泰朝の口から何かが吐き出される。噛み千切られた小平太の親指だった。

 

「馬鹿が。貴様らにこの方を触れさせるものか。」

 

 幽鬼の如く目を血走らせ、口元から血を滴らせる泰朝は、なおも立ち上がろうとする小平太の顔面を蹴り飛ばし動きを止める

 そして仰向けに倒れた小平太の胸元を踏みつけ、自分がされたのと同じように今度は小平太に対して刀を突き立てようとする。

 

「うおおおおおおおおおっ!小平太ああああああっ!」

 

 だがそれよりも早く、第三者が二人の間に割り込んできた。毛利新介である。

 新介は飛び上がるようにして槍を振り上げると、すさまじい勢いで泰朝に向かって叩き付ける。

 避けるには適わぬ。そう判断した泰朝は左手を頭の上に掲げると、新介の一撃を受け止める。

 メキリっ、という骨が折れた音が泰朝の左手首から聞こえた。

 しかし、泰朝は事無げに左腕で巻き込むように新介の槍を掴むと、脇に挟んで確りと固定する。

 

「なんじゃと!」

 

 新介が驚愕する間に泰朝は体を捻って槍ごと新介を引き寄せると、前のめりにつんのめった新介に向かって刀の切っ先を突き立てようとする。

 

「させるかあああああっ!」

 

 だが寸前で小平太が飛び上がるようにして立ち上がり、泰朝の右腕に縋り付く。

 

「くそっ、死にぞこないがっ!」

 

「でかしたっ、小平太!」

 

 小平太によって動きを阻害された泰朝に向かって、新介は槍を捨てて飛び掛かる。

 そして再び泰朝を叩き伏せると、今度は二人掛で動きを封じる。

 

「おのれ、放せっ!たわけ共がっ、ぐっ!?」

 

 暴れ逃れようとする泰朝であったが、その顔面に手甲を纏わせた新介の鉄槌が叩き付けられる。

 一発目で鼻が潰れ、二発目で前歯が折れ、三発目を振り下ろした後には泰朝の顔面は血に塗れていた。

 それでも、新介は油断することなく何度も、何度も、拳を振るい続けた。

 そうしているうちに泰朝の抵抗も弱まっていき、ついに四肢の力が失われる。

 辛うじて息があることは分かるが、もはや面影さえ感じられぬほど顔の形が変形してしまっていた。

 

「はあ、はあ…」

 

 それを見て漸く新介の手が止まる。

 荒い息を吐きながら上体を起こすと、腰から脇差を抜く。

 泰朝の左目が、腫れあがった瞼の隙間から刃の反射を捉えた。それにより泰朝は己の死際を悟る。

 

「……お逃げください…姫様…」

 

 その一言が漏れると同時に、新介の右手が振り上げられた。

 

 

 

「おやめくださいっ!」

 

 

 不意に泰朝の視界が塞がれる。頬に感じるのは冷たく震える人の手の感触。鼻を擽るのは己の主人が気に入っている白梅粉の香りだった。

 

「私達の負けです!この身は如何様にしても構いません!だからどうかっ、これ以上、皆さまを傷つけないで下さいましっ…」

 

 涙ながらに義元が嘆願する声が聞こえる。

 それによって、泰朝は義元が自分の上に覆いかぶさっていることを悟った。

 

 もう限界だったのだ。

 多くの者が自分の為に犠牲となり、心底自分を支えてくれた人が目の前でボロボロにされ、今にも命を刈り取られようとしている。

 それがどうしても我慢できなかった。これ以上親しき者たちを失うには、義元の心は耐えられなかったのだ。それが今川義元という姫武将の限界だった。

 

 愕然とし言葉を失う泰朝をよそに、新介はゆっくりと立ち上がって義元の後ろに回る。

 そして、左手で義元の長髪を束ねると、そのちょうど真ん中に刃を入れた。

 

「あぁ…」

 

 絹が引き裂かれるかのような音、それと同時に後頭部が軽くなる感覚に義元の口から小さな悲鳴が漏れる。

 そして、新介の手には切り落とされたばかりの黒く艶々しい髪房が握られていた。

 

「…織田家馬廻衆筆頭毛利新介良勝っ!今川家大将今川義元殿の御身捕らえたりっ!その証左として、かの御仁の御髪を頂戴したぁっ!」

 

 高らかにそう叫び、新介は力強く手にした勝利の証を掲げていた。

 呆然とその姿を見上げていた義元だったが、やがて顔を歪ませると手で顔を覆いシクシクと啜り泣き始めた。

 そんな主君に手を伸ばそうとし、泰朝の意識は急速に失われていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「姫さまっ!やりましたっ!毛利新介がやりましたっ!今川義元を捕らえたとの由!」

 

「新介がっ!それは本当なのっ!?」

 

「ははっ!間違いありませぬっ!今川本隊は壊滅っ!すでに何人もが捕らえられた義元を確認しておりまする!」

 

「デアルカ…デアルカっ!!」

 

 伝令からの知らせに驚愕の色を浮かばせるも、すぐにその知らせが信憑性に足るものと確認すると信奈の顔が喜色に染まる。

 

「万千代、今川義元を捕らえたそうよ。これは私達の勝利よねっ!?」

 

「はいっ!間違いなく!」

 

「本当に勝ったのよねっ!?織田家を、尾張の国を守り抜いたのよねっ!」

 

「はいっ!二百点満点の御味方大勝利に御座いますっ!」

 

 信奈は興奮した様子で何度もそばに控える万千代に尋ねれば、万千代も涙ながらに味方の勝利を肯定する。

 すでに戦場の至る所で織田兵の歓喜の声と、敗走する今川兵の悲鳴が聞こえる。

 

 遂に信奈も我慢できなくなり、万千代を置き去りにして自軍の右翼前方へと駆け出す。

 後ろから万千代の呼び止める声も、すれ違いざまに織田兵が驚き振り向く様も気にしない。

 ただ夢中になって走り続けていると、前方に黒い人だかりを見つけた。

 

 彼らが背中に差すは織田家の旗。そしてその中心で担がれているのは、信奈がよく知る昔なじみの顔であった。

 その顔は戦を終えたばかりの上に、仲間たちの手荒い祝福のせいで泥だらけの傷だらけであったが、歓喜と誇りに満ちた朱色が差している。周りの仲間たちも同様であった。

 信奈は大きくその場で息を吸い込んだ。

 

「新介ぇっ!」

 

 人だかりの中心にいる人物の名を叫べば、一気に注目が信奈に集まる。

 信奈の姿を目した者たちは、新介も含めて一様に慌てて居住まいを正しひれ伏そうとする。

 しかし、信奈は彼らが地に膝を着けるよりも早く駆け寄ると、新介の頭を胸に抱きよせた。

 

「ひ、姫さんっ!?」

 

「新介っ!おみゃーほんとよーやった!どえりゃ大手柄だぎゃあ!」

 

 興奮のあまり普段は出ない訛りまじりに新介を褒め称える様に周囲の者たちは一瞬ポカンとするが、次第に口元に笑みを浮かべ始め、ついにはクスクス、やがてワハハと声に出し笑い始める。

 それによって漸く信奈も自分の行動に気づいたのか、ハッと顔を赤らめるとコホンと咳払いをする。

 

「んんっ!毛利新介、敵大将を捕らえるは見事な働き!追って褒美を与えるわ!」

 

「は、ははぁっ!有難き幸せに御座います!」

 

「よしっ!じゃあみんな、勝鬨を上げるわよ!」

 

「「「「「おうっ!」」」」」

 

 信奈の号令に織田の兵たちが一斉に信奈を囲み始める。

 その中心に立った信奈はぐるりと回りの者たちの顔を見渡し、天に向かって刀を掲げた。

 

「それじゃあいくわよ!エイ、エイ!」

 

「「「「「オオー!」」」」」

 

「エイ、エイ!」

 

「「「「「オオー!」」」」」

 

 戦場の中心で信奈を中心に織田兵たちの歓喜の声があがる。

 誰もが胸を張り、その存在を天に見せつけるかの如く高らかに叫んでいた。

 

 その輪の端に秀吉はいた。

 口は勝鬨の声を上げながらも、その眼は笑わず、どこか別の場所を睨んでいた。

 

(とりあえずは一安心というところじゃな。本当の戦いはこれからじゃ。)

 

 先の世を知る未来の天下人は、次の戦いを見据えていた。

 ここから先は、以前の自分が辿らなかった道を進むがゆえに。

 

 

 

 今宵はここまでに致しとう御座ります。




・由比正信
 今川家家臣
 史実においても桶狭間の戦で戦死した。

・鏑矢
 戦場において情報手段に用いられた道具の一種。
 矢じりの付近に笛が付けられており、これを射出することで甲高い音を鳴らすことができる。

・井伊直盛
 今川家臣
 遠江の国、井伊谷付近を治める国衆のまとめ役をしていた。
 史実同様、この作品内でも桶狭間で戦死している。
 後継ぎとして同族から婿養子を迎えているが、史実通りに行けば後に内通の疑いで主君の命を受けた朝比奈泰朝によって粛清される。
 その後、幼少であった息子の直政が後を継ぐのだが、直政を養育し当主代理を務めたのが、2017年の大河ドラマの主人公、井伊直虎である。

・服部小平太
 史実では今川義元に一番槍を付けた人物として知られる。
 死闘の末に義元に指を食い千切られ、膝を切られ後年もその後遺症に悩まされたと言われている。
 その後は順調に出世し、豊臣政権下では城持ちの大名までになった。
 しかし、あろうことか木下秀次に付けられたことで『秀次事件』の連座を受け、取り潰しの上切腹を言いつけられる。享年65歳。
 子孫は後に紀州徳川家(暴れん坊将軍を輩出したことで有名)に仕えたと言われている。

・毛利新介
 史実で今川義元を打ち取った人物。
 信長の馬廻衆として常に側で仕え続け、桶狭間後は主に吏僚(伝令や使者等の役割)を務めるなど、文官に近い立場にあって長きに渡り信長に仕え、後に後継者である信忠付に配置転換される。
 そして最後は本能寺の変で主君と運命を共にした。
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