太閤転生伝   作:ミッツ

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些事たる仇

 織田軍が桶狭間にて今川の大軍を打ち破ったという知らせは、一両日中に地元清州の町にも届いた。

 当初は半信半疑であった人々も、次々届く吉報の知らせによりよもやと感じ始め、引き上げてきた織田兵たちの姿を目にし織田家の勝利を確信した。

 帰還した織田兵たちは皆一様に胸を張り、堂々とした行進を清州の人々に披露した。

 その姿に清州の民は驚きながらも狂喜する。

 

 まさか本当に、あのうつけ姫と呼ばれた信奈様が、滅亡の淵に立たされていた織田家が、東海一の大大名家である今川を見事に討ち果たしたとは。

 

 清州に生きる者たちにとって、誰しもが少なからず領主である織田家に愛着がある中で、奇跡的な大勝利を果たしたのだ。

 誇らしくない筈がなかった。

 

 町の男衆は、流石信秀様の子!と馬上の信奈を褒め称え、町娘たちは勇壮な若兵達に黄色い歓声を上げ、子供たちは訳は分からずとも周りの大人たちに倣って囃し立てる。

 

 そんな領民たちの温かい声に微笑みを称えながら応えつつ、信奈は既に今後の事を思案していた。

 

 今川義元を捕らえたとはいえ、今川家が滅んだわけではない。今すぐ軍事行動に移る事は無いだろうが、領地を削ったわけでもなく、国力では今川家が上回っている。

 何より問題なのは、国境の鳴海城がいまだ今川の手の内にあることだ。

 

 桶狭間の戦いの後、信奈は早急に兵を纏め鳴海城の奪取に向かおうとした。

 しかし、鳴海城に入った岡部元信は本隊との連絡が途絶えたことを不審を覚え、すぐさま城の防備を固める事を指示し、早馬によって本隊壊滅を知ると完全に籠城の構えをとったのである。

 これを短期間で攻め落とすには現在の兵数では心許なく、さらに他所に今川軍が存在する状況で攻城戦に手間取り挟み撃ちにされる危険性を鑑みて、信奈は清州への撤収を命じたのであった。

 

 しかしながら、鳴海城奪還は国防上必須であり、外交的な攻略を含め解決策を練る必要がある。

 

「姫様、顔が固くなってしまってますよ。せっかく戦勝を祝われているのですから、もっと華やか御顔をしなければ五十点です。」

 

「ん?ああ、ちょっと考え事をしてたわ。でもたしかに、祝いの場でしかめっ面は相応しくなかったわね。うーん、そうねぇ…」

 

 万千代の言葉に今度はまた別の事を考え始めた信奈であったが、その顔には直ぐにニヤリと企み顔が浮かぶ。

 あっ、また何か思いついたな、と万千代が感づいたのとほぼ同時に、信奈は突如として愛馬を走らせ隊列から抜け出すと列の先頭に躍り出る。そして周囲の視線を一身に集めると、近くにあった家屋の屋根に飛び移った。

 

「尾張の領民たちよ!知っての通りこの地を踏み荒らそうとした今川の者たちは、この私が叩き潰してやったわ!だけどこれは私一人の力じゃない!織田家を支える勇猛な家臣団!そしてこの地に住まう尾張を愛する皆の力添えがあってこそ!即ちこの戦は尾張の民の勝利よ!」

 

 腹から響く声で信奈がそう叫べば、町中に響かんほどの歓声が上がる。

 それを信奈は嬉しそうに眺めていた。

 

「さあっ!今日は祭りよ!兵共は食い、飲み、歌い、踊り、戦の疲れを癒しなさい!商人たちは稼ぎ時よ!この祭りでたんまり稼いで、我が家に矢銭を納めなさい!」

 

「ワハハ!なんとも商売意欲が削がれる言葉で御座いますなぁっ!まあ本日は戦勝祝い!しっかりと姫様の軍資金を稼がせてもらいます!」

 

「フフフ、許しなさい!その銭で今度の戦も勝ってやるわ!」

 

 商人たちと軽口を叩きながら信奈が宴の開始を号令すれば、待ってましたとばかりに兵も領民も盛り上がる。

 こうして始まった宴は三日三晩続き、清州の町は大いに盛況となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこは清洲城の土牢であった。

 朝比奈泰朝の意識を覚醒させたのは、城内に響く祭囃子の太鼓の音色であった。

 陽気な歌声と共に耳に入ってくるその音色に瞼を開ければ、半分だけ開いた視界から土気色の天井が見えた。

 視界の悪さを不審に思い瞼を触れば、鋭い痛みが走る。

 それと同時に、朦朧とした意識が一気に鮮明となった。

 

「………ここは?」

 

「気が付きましたのねっ!泰朝さん!」

 

「姫様…」

 

 声のした方に顔を向ければ、義元がすぐ側に膝を着いていた。

 その目は泣き晴らしたように真っ赤であったが、泰朝の名を呼ぶ声には喜色が籠っていた。

 

 いったい何があったのか?

 そう尋ねようとした泰朝であったが、その視線が義元の頭部で固まった。

 義元の髪は黒く美しい見事な長髪であり、本人のみならず家臣達にとっても今川義元の美しさを象徴する自慢の美髪である。

 それが今や、肩口で無造作に刈り取られ、古の平安貴族を想わせる美髪の面影は失われていた。

 

 それを目にした泰朝は愕然とし、そして全てを思い出すと、痛む体を無理矢理引き起こした。

 

「泰朝さん!?無理を成されてはっ!」

 

 義元が止める言葉すら無視し、激痛に襲われながらも正座を作った泰朝は、両手と頭を地面に投げ打った。

 

「申し訳御座いませぬっ!」

 

 絶叫とも言える泰朝の謝罪に、義元も泰朝の肩に置こうとした手を止めた。

 

「此度の戦、御家にとって、京に上り、天下に武威を示し、姫様の御威光をあまねく全国に知らせ賜らん大事!にも拘らず、この泰朝っ!姫様より大軍を預かりながら、これを敗北せしたるは、臣下として、あるまじき失態っ!あぁ、ああぁ!御前にて、恐懼して、謝辞奉りまするっ!」

 

 満身創痍に土下座する泰朝から、悲痛な言葉が紡がれる。

 

 勝てる戦であった。勝たなければならない戦であった。

 それを負け戦にするばかりか、主君を囚われの身にさせてしまった。

 

 何故もっと警戒しなかった。悪天候に紛れての奇襲などいくらでも予想出来たはずである。

 雪斎和尚より何を学んだというのか!

 

 泰朝の胸中に止めどない後悔と羞恥心が溢れかえる。

 その顔からは穏やかながら勇ましい表情は掻き消え、赤子のように目元から大粒の涙を流れ落ちていた。

 

 義元はそんな泰朝の姿に目を見開き言葉を失うも、やがて顔を引き締め真剣な面持ちで背筋を伸ばした。

 

「…顔を上げてください、泰朝さん。」

 

 そう声をかけるが、泰朝は平伏したまま肩を震わせるばかりであった。

 

「………面を上げよっ!朝比奈備中守っ!」

 

 すると今度は普段の義元からは想像できぬほどの鋭い声が発せられる。

 その言葉に泰朝は肩を跳ね上げると、恐る恐るゆっくりと顔を上げた。

 その姿は、どこか親に叱られるのを恐れる子供のようであった。

 

「…此度の敗戦、今川家にとって大きな痛手となりましょう。私であっても、それくらいは理解できます。これを立て直すは、容易ではないでしょう。」

 

「…ははぁ、おっしゃる通りに御座います。」

 

「………わが父、氏親は幼少のころに父親を失い、家中の争いに巻き込まれ、お婆様と共に身を隠したと聞きます。」

 

 義元は唐突に、噛み締めるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。

 泰朝は黙してそれを聞き入った。

 

「何とか命を拾う事はなれど、その後も臣下や一族の者に家督を簒奪されそうになるなど、それは大変な苦労をし、今川家の血脈は何度も滅亡の危機に陥ったそうです。そこに手を差しのべたのは、叔父である伊勢新九郎盛時公であったと聞きます。」

 

 伊勢新九郎盛時、またの名を北条早雲。

 一代にして相模に一大勢力圏を築いた後北条家の初代である。

 

「父上は盛時公より戦と政を学び、時には直接手を借り一族との家督争いに勝利し駿河を平定すると、その後も武田や上杉といった外敵と戦い、国を守り、盛立てました。今川の血には、苦難にあってこれに立ち向かい、決して折れることの無い強き血が流れています。」

 

 義元は泰朝と目を会わせ、その手を強く握った。

 

「今川の血は決して途絶えません!如何なる逆境にあろうと何度でも立ち上がり、御家を再興出来ます。だからどうかその時まで、生きて私を支えてください。」

 

「姫様っ!?それは…」

 

「お願いです、泰朝さん。死なないで下さいまし。生きて私の盛時公となって下さい。」

 

 懇願する義元に、泰朝は己が死を覚悟している事を悟られていると知った。

 そして義元は、それを決して許さない。

 例えどれ程戦犯と後ろ指を指され、生き恥を晒していると罵られようと、生きて自分を助け続けよと命じる。

 

 なんと我が儘で、得難き主君だろうか。

 

 泰朝は嬉しさと同時に申し訳なさを感じ入ると、手を握られたまま再び平伏する。

 

「この泰朝、姫様や和尚様より期待を受けながら、それに応えられぬ不孝者に御座います。」

 

「ええ。」

 

「そればかりか、取り返しのつかぬ失態を犯しながら、姫様の慈悲にすがり付きたいと思うてしまう恥知らずに御座います。」

 

「ええ。」

 

「その様な、取るに足らぬ愚か者に御座いますが、苦境の姫様を支えとなれるのであれば、どうか力添えする事を御許しくださいませ。」

 

「勿論ですわ。何度でも立ち上がり、今川家を盛立てましょう。」

 

「…この身に有り余る、誠に有り難き御言葉。この泰朝、微力ながら改めて姫様に全霊をもって御仕え致しまする。然れど、どうか今日ばかりは…」

 

 そう言って再び頭を地面に着けると、泰朝は地面に向かって慟哭を上げる。

 悲しさ、悔しさ、嬉しさ、申し訳なさ、誇らしさ、恥ずかしさ、腹立たしさ。

 希望も、絶望も、あらゆる感情が籠められたありったけの咆哮が腹の底から喉を通って溢れ出る。

 泰朝はもはや、自分が何を思い絶叫しているのか分からず、ただただ大粒の涙を流し泣き叫んでいた。

 そんな泰朝の側によると、義元はそっと肩を擦り慈愛の眼差しで見つめ続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 桶狭間の勝利から一月ばかり経った頃、清洲城に来客があった。

 この頃になると奇跡的な勝利の余韻は多少はあれど、多くの者達は戦後処理を始めとする慌ただしい日常に回帰しており、当主である信奈自身も鳴海城を始めとする各所の問題に対する本格的な対処に取り掛かっていた。

 

 三河から訪問の取り次ぎを求める書状が届いたのは、それを見計らったようなタイミングだった。

 

 信奈は松平家の要望を快諾し、本日の会談の場には信奈をはじめとして秀吉や良晴を含めた織田家臣団が同席している。

 また、元康の背後には家臣の酒井忠次及び石川数正が供として控えていた。

 

 会談の場で信奈の正面に座した元康は、作法に則り頭を下げる。

 

「この度は、突然の訪問の申し出を認めていただき、誠に有り難き事に御座います。三河松平家当主として謝辞奉ります。織田上総介信長様におかれましては御機嫌麗しく存じ上げます。」

 

「…うん。苦しくないわ。」

 

 それだけ言うと、信奈はじっと元康を見つめ、元康もまた黙ってその視線を受ける。

 暫しの間、無言が場を支配するが、不意に信奈が表情を緩め肩から力をぬいた。

 

「必要な事とは理解できるけど、やっぱり形式通り挨拶と言うのはどうにも肩が凝るわ。ともかく久し振りね、竹千代。」

 

「はい~!お久しぶりです、吉姉さま。」

 

 顔を綻ばせた信奈に対し、元康はほっとした様子で笑顔を返す。そこには昔馴染みの気安さがある一方で、どこか緊張感が感じられた。

 

 そんな松平元康を家臣団の末席から窺う秀吉の表情はなんとも言い難いものであった。

 

 女である事に文句は無い。もう諦めた。

 ただ、頭に着けた獣のそれを模した耳と、腰からひょっこりと顔を覗かせる丸みを帯びた尻尾は何だと激しく突っ込みたい。

 隣に座る犬千代に聞けば、松平家は狸を始祖として崇めており、当主は狸の飾り物を身に付けるのが伝統なのだと言う。

 最早どこから突っ込めば良いか分からなかった。

 

「こうして話すのはあんたが今川に引き渡されて以来ね。このまま昔話に花を咲かせるのもいいけど、ひとまず私からあんたに言っとかなきゃいけない事があるわね。」

 

 そう言うと信奈は顔を引き締め、先ほど元康がやったように頭を下げた。

 

「この度は先の戦で捕らえられた配下の兵を国許に返してくれた事、本当に感謝するわ。聞けば今川より処刑するよう命じられながら、密かに匿っていたそうね。」

 

 桶狭間の戦いに先んじて信奈が命じた奇襲策は、それを予期した泰朝により破られ、捕らえられた女兵達も見せしめとして処刑されるはずであった。

 しかし、処刑を命じられた元康はそれに従わず、捕虜達を自軍の陣内に連れていくと密かに匿っていたのであった。

 

 今回の会談の目的の一つには、彼女らの身柄の引き渡しが含まれている。

 

「…顔を上げてください、吉姉さま。私も弱小とはいえ大名の端くれです。士道に背く行いで父祖の名を汚すわけには参りません。ただそれだけの事でしたので。」

 

「でも、そのあとの撤退は大変だったんじゃないの?」

 

「それはまぁ、本当に大変でした。ええ。」

 

 途端に元康の目から光が消える。

 本当に、本当に大変だったのだ。

 

 あらゆる種類の戦において、最も困難で過酷なのが撤退戦である。

 特に敵勢力圏からの脱出なると、その難易度は跳ね上がる。

 背後から迫り来る追撃隊も脅威だが、何より恐ろしいのはその地を知り尽くした地侍や農民達の落武者狩りだ。

 彼らは肉体的にも精神的にも疲弊した敗残兵を襲い、金目の物は勿論、武具や防具、更には姫武将の身を略奪する。

 

 武家においては、敵兵であろうと姫武将を無闇に傷物にしないのが戦の作法とされているが、それはあくまでも武家同士での慣例。

 農民や野盗にとっては関係なく、容赦なく姫武将も略奪品の対象となる。

 名のある姫武将であれば領主の元に連れて行き報償金に変えるのだが、足軽や無名の姫武将は良くて地元有力者の情婦、大抵は奴隷に身を落とされ売られるか、村の共有品にされる。

 

 故に姫武将達は何よりも落武者狩りを恐れる。

 捕まれば最後、その身と記憶に一生消えぬキズを着けられる事になるからだ。

 その為敗戦の折りに、落武者狩りに捕まるくらいならと自害する姫武将も少なくない。

 

 元康もまた、大高城で今川軍敗戦の知らせを聞くと大いに取り乱し、その場で腹を切ろうとして家臣から止められた。

 何とか切腹を思い止まり、地元の岡崎城を目指し撤退を開始した元康一向であったが、その道中で今川敗戦を知った落武者狩りに何度も襲われた。

 元康達は恐怖やあまり漏らしそうになりながらも必死に逃げ回り、幾度となく落命の危機に陥りながらも命からがら岡崎城に帰還した。

 岡崎城に辿り着いた時、元康はこう思った。

 

 いつかあの逃避行を思い出してきっと泣いてしまう、と。

 実際に今思い出しても涙目になっていた。

 

「そ、そう…大分難儀したみたいね。まぁ、でも今日はそんな苦労話をしに来た訳じゃないでしょ?」

 

 元康の経験した苦労に気遣ってか、信奈は強引に話題を変える。

 元康も頭を振って気を取り直した。

 

「はい~。戦に大敗し、当主の身柄まで押さえられた今川家は三河に構う余裕は無くなり、今は駿河で新体制の構築に必死です。そこで松平家は三河を守護するべく独立した次第です~。つきましては、三河の国と民の安寧の為に織田家と同盟を結びたいと思ってまして~。」

 

 岡崎城に帰還した元康は、今川家の混乱に乗じ父代からの悲願であった独立を果たす。

 然れど、相変わらず弱小大名であることには変わりなく、一方的に独立したので今川家とは敵対し、国内においては今川の影響下では大人しかった宗教勢力が不審な動きを見せている。

 それらに対処するためにも背後の安全を確保するのは必須であり、織田家との同盟は最重要事項と言ってよかった。 

 

「なるほど、あんたの事情は分かったわ。うちとしても、今後は美濃の斎藤を相手にするつもりだから、後ろを任せられる同盟相手は欲しかったところよ。」

 

「それでは!」

 

「ただ、同盟を結ぶにあたって一つ聞いて起きたい事があるのだけど、いいかしら?」

 

「はい~、何なりと~。」

 

 同盟が現実味を帯びた事に元康の顔に喜色が浮かぶ。

 しかし、次の瞬間信奈の顔から表情が消えた。

 

「あんたの父親、松平広忠を殺したのは、私の父上よ。」

 

「………はい?」

 

 突然の信奈の宣言に、元康は呆気にとられ間の抜けた返事をする。

 それを気にもせず、信奈は鋭い眼光で元康を見据えながら言葉を続ける。

 

「それだけじゃないわね。一族の者に賄賂を送ってあんたの祖父、清康を暗殺させ、家督を簒奪させたのも父上ね。結局広忠が今川と結んで家督を取り戻しちゃったんだけど、それが無ければ三河はうちの属国になってたかも知れないわ。」

 

「き、吉姉さま、何を…」

 

「父上は海上輸送による貿易路の拡大に熱心だったから、関東方面への航路として三河の港は何としても欲しかったの。あんたを誘拐したのも三河を傀儡化するためだったみたいだけど、広忠はそれに応じなかった。だから殺した。その混乱に乗じて一気に攻め入り三河を手に入れる。それが父上の狙いだったわ。まさか、一度も思い至らなかったなんて言わないわよね?」

 

 信奈の問いに元康は答える事が出来ず、冷や汗をかきながら視線を逸らす。

 そんな元康に信奈は黙って近づくと、中腰になって無理矢理視線を合わせる。

 

「ねえ、竹千代。あんたは私と同盟を結びたいと言ったわね。父親と祖父の仇の娘である、この私に。その言葉の裏に私への怨みは一切無いと誓えるの?」

 

「吉姉さま、私はっ!」

 

「答えなさいっ、竹千代っ!己の本心を、この私に。」

 

 元康を詰問する信奈の瞳には、元康の心の奥底を見極めんとする冷たい殺気を纏った危うい光が輝いていた。

 

 元康は知っている。

 この昔馴染みの少女が、嘘や誤魔化しを何より嫌っている事を。

 もし、下手な言い繕いをしようならば、最悪この場で切り捨てられてもおかしくない。

 

 背後で忠次と数正が腰を浮かすのを感じた。

 二人とも刀を預け丸腰であるが、必要ならば主君を守るため信奈と元康の間に割って入らん構えであった。

 それを見て、織田の家臣団も殺気立つ。勝家など既に刀の鍔に指を掛けていた。

 

 元康は目線で忠次達に控えるよう伝えると、静かに目を閉じた。

 そして再び目を開くとき、元康の覚悟は決まった。

 

「怨みなら、あります。」

 

 元康の言葉に周囲がざわめき、勝家は柄に手を置き膝立ちになる。

 

「されどっ!私の怨みなど、我が大義に比べれば些事に御座います!」

 

「…些事ですって。肉親の仇討ちを些事とする大義とはいったい?」

 

「…父上は私が織田に誘拐された時、織田から従属せよという要求されましたが、これを拒みました。もし我が子の命惜しさに今川を裏切れば、怒った今川に攻め込まれてしまうと危惧したからです。そうなれば傷つくのは三河の民。父上は三河の民を守るため、苦慮の末に私を見捨てる決心を致しました。」

 

「…我が子の命と、名も知らぬ領民の天秤に乗せ、領民を選んだのね。」

 

「…人あっての国。国あっての国主。しからば、大名の役割とは国と領民を守る事に御座います。父上の決断は当然の事。お爺様もそうです。世の乱れにより領民が苦しむのを見逃せず、武によって一族を纏め上げ、領民のための施策に努めました。我が松平家は何時の世も三河の民と共にあり。それが子々孫々の教えです。」

 

 そう言うと元康は大きく息を吸い込んだ。

 

「もし私が私怨により吉姉さまと一戦交えれば、国が乱れるは必定。それ即ち父祖の教えに反する行いなれば、私の怨みなど取るに足らない些事で御座います!仇であろうが魔王であろうが、いくらでもその手を握ります!」

 

「…なるほどね。じゃあ例えば、私があんたに『伴侶と我が子を殺せ。さもなくば三河を攻め滅ぼすわよ。』と命じたならば、あんたはどうするの?」

 

「………若輩者ですので、夫も子も持たぬ身。なので想像する他無いですが…」

 

 元康は自ら信奈と視線を合わせた。

 

「その時は殺します。己の手で夫と我が子を殺します。それが、三河の民の安寧に繋がるのでしたら。」

 

 迷いなく言い放たれたその言葉には、この女であれば間違いなくそうするであろうと思わせる強い意思が込められていた。

 

 秀吉はそこに、かつて己に手痛い敗北を刻み付けた男の面影を垣間見る。

 姿形は全く異なれど、このタヌキ娘は間違いなく松平元康、後の『関東の覇王』、徳川家康その人であった。

 

「…まったく、普段は人の顔色ばかり気にしている癖に、肝心なところで実直なのよね、あんたは。」

 

 どこか呆れを含んだ言葉と共に信奈は立ち上がると、大股で元の席へと戻って行った。

 そして何時ものように勢い良く腰を下ろすと、元康に向かって笑みを浮かべた。

 

「あんたの民を思う心、良く理解したわ。その心が有る限り、あんたに背後を任せられる。」

 

「ではっ!?」

 

「松平元康、尾張と三河の末長い付き合いを願いましょ。」

 

 この瞬間、戦国史上最も長く、強い結び付きとなる同盟関係が生まれた。

 信奈の言葉に元康はほっと大きく息を吐き、広間にも弛緩した空気が流れた。

 

「じゃあ早速、無事同盟が結ばれたと言うことで、竹千代?」

 

「はい~何ですか?」

 

「ちょっと駿河に行ってちょうだい。」

 

 信奈の頼みに、元康の顔が再び凍る。

 彼女の苦難は始まったばかりであった。

 

 今宵はこれまでに致しとう御座ります。




・松平元康
 ご存知、後の徳川家康。
 戦国の覇者にして終幕者。太平の世を築いた偉大な人物なのだが、晩年の腹黒さ故に嫌われる事も多い。
 なお、本作の秀吉は、自分亡きあと豊臣家に取って変わっただろうとは予想しているが、流石に血脈まで絶やして無いだろうと思っており、悪感情はほとんど無い。

・酒井忠次
 松平家宿老にして、後の徳川四天王の一人。
 史実において、家康を政治、戦の両面で支えた良将だが、「信康事件」の際には独断で盛大にやらかし、信康自害の原因の一つとなった。
 後に、息子の戦の褒美が少ないことを家康に文句を言ったところ、「へー、忠次も息子が可愛いんだな。儂も信康が可愛いかったぞ。」と、強烈な皮肉を言われる。

・石川数正
 松平家家臣。元康の側近として幼少期から仕え、特に外交面で大きく貢献した。
 何気に秀吉とも因縁深い人物であり、史実で彼がとった行動が徳川の、強いては日本の歴史を大きく動かしたと言っても過言では無いだろう。

・いつかこの逃避行を思い出しきっと泣いてしまう
 大河ドラマ『真田丸』の本能寺の変回で家康が見せた見事な逃げっぷりを、当時の月9ドラマのタイトルっぽく評したものを、改題したもの。
 なお史実通りにいけば、あと2回似たような逃避行が元康を待ち受けている模様。頑張れ。
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