それにしても、主演に国民的アイドルを据えたのは良いんだが、三方ヶ原の戦いであのアイドルは脱糞出来るんだろうか?
駿河の国は富士山麗にある臨済寺。
元は今川氏親が義元の教育係として太原雪斎を招くため、母である北川殿の別邸跡に建立した善得院を前身とし、花倉の乱で義元が家督を相続した後に兄である氏輝を祀った事で、現在は今川家の菩提寺として今川家の一族をはじめ、地元の民の篤い信仰を受けている。
そんな臨済寺の大書院には現在七人の人影が集まっていた。
その内の一人である松平元康は、側近の石川数正を背後に置き、胃を庇うように前のめりになりながら座している。
その原因は、目の前にいる品の良い尼僧にあった。
「久方ぶりですね、元康殿。お変わりありませんか?」
「ご、ご無沙汰しております、大方様。幸い体の不調なく健やかなる日々を過ごせています~。」
「それは行幸です。しかしながら元康殿、私は貴方に言わねばならぬ事があります。」
そう言うと大方様と呼ばれた尼僧は、形の良い眉をキッと吊り上げた。
「武将たる者、配下の前では胸を張りなさいっ!!!」
「ひゃっ、ひゃいっ!」
建物を揺さぶらんばかりの鋭い大喝に、元康は飛び上がるようにして背筋を伸ばす。
それを見て、尼僧は尚も厳しい視線を元康に向ける。
「そうです、その姿勢です。配下の者は常に主君の顔色を伺うもの。仮に上の者が不安や後ろめたさを表に出せば、それを見た兵達も不安を覚えます。そうなれば家中全体に動揺が広がるは必定。上に立つ者は、常に威厳ある振る舞いに気を配るよう心得なさい。良いですね?」
「は、はいっ!肝に命じましたっ!」
念押しされた元康が勢い良く頭を下げると、漸く尼僧は眉を下げ、物憂げな表情となる。
「……元康殿、今は乱世。つい先日まで飛ぶ鳥を落とす勢いであった今川も、今は国を纏めようとするにも苦心する有り様。そこにあって松平家が独立を果たすは、戦国の世の習いとして当然の事です。元康殿、己の選択に自信と責任を持ちなさい。そうでなければ、雪斎和尚の教えが意味をなしませぬ。」
「……はい。有り難き言葉に御座います。」
元康は神妙な面持ちで再び深く頭を下げた。
それを見やると、尼僧は他の立席者へと向かって頭を下げる。
「申し訳ありませぬ。公的な場において、内々の諸事にかまかけてしまいました。何卒、老体の世迷い事とお目こぼし頂ければ幸いで御座います。」
「…いえ、お気になさらず。むしろ、上に立つ者の心構えとして良き説法を耳にする事が出来ました。流石、尼御台様に御座います。」
立席者の一人である村井貞勝は、笑みを浮かべながら尼僧に応える。
その様子を、貞勝の後ろに座する秀吉がじっと伺っていた。
(なるほど、あれが今川義元の御母堂、寿桂尼殿か。儂がいた世では賢母として知られていたが、こちらでも同じらしい。)
寿桂尼
その名は夫を亡くし出家した後の名であり、彼女の本名は後世に残っていない。
権大納言中御門宣胤を父に持ち、京を訪れていた今川氏親がその聡明さを気に入り我が妻にと所望し、宣胤も氏親に英雄の気質を見出だし快く娘を送り出したと言われている。
今川家では専ら大方様と呼ばれ、義元をはじめ氏親との間に六人の子を儲ける一方で、夫を政務で補佐し『今川仮名目録』の作成に大きく貢献した。
また、夫が死去した際には年若い我が子に代わり二年に渡って国政を取り仕切り、花倉の乱では出家していた義元を還俗させ当主に担ぎ出し、実家の伝手を最大限活用し御所に義元の正統性を認めさせた。
さらに、花倉の乱の混乱に乗じ隣国の甲斐武田家が駿河との国境へ進軍した時には、自ら兵を率いてこれと対峙し撤退させたという、とても公家生まれの女とは思えぬ逸話まである。
加えて、東国武士の気風が強かった今川家中に京文化を伝え発展させる等、国内の文化的な功績も無視できない。
総じて言えば、歴戦の武将にも劣らぬ才能と胆力を持ち、史実においても正真正銘の女大名として名を知られた今川家の誇る烈女である。
そして、元康にとっては今川に引き渡されてから今日に至るまで駿河での生活面で非常に世話になった人物であり、太原雪斉とはまた違った形の恩を受けた人である。
つまり、今川を見限った立場的に非常に面を会わせ辛い相手であった。
そんな元康を慮ってか、寿桂尼に隣に座る青年が明るい口調で声をかける。
「竹千代、母上もこう言っているし、あんま深く思い悩む必要はないぞ。俺もお前とは共に和尚に学んだ仲だ。幼なじみとは争いたくない。それに、今川は家臣団が大勢死んだせいでとても三河に関わっている余裕は無い。なんだったら遠江の西半分位までなら獲ってもいいぞ。」
「龍王丸、余計な事まで言わなくてよろしい。」
寿桂尼が隣から口を挟んだ青年に叱責すれば、青年はまったく堪えた様子もなく「へいへい。」と軽く返す。げんこつが落ちた。
(龍王丸、つまりこの小僧が今川氏真。義元の嫡男は、こちらの世では義元の末弟か。)
桶狭間で当主を捕らえられるという大敗を喫し、有力家臣が悉く討ち死にするか捕虜になった上に、三河勢が独立するという混乱の極致にあった今川家であったが、寿桂尼が主導となって建て直しに奔走している。
その一つに、義元の弟である今川氏真の当主就任があった。
今川氏真
彼もまた戦国の世に少なからず名を残した人物である。
史実において、公家文化に傾倒し大名としての今川を滅ぼした暗愚と言われる一方で、関東の覇権を競った今川、武田、北条の三家で唯一、戦国の荒波を乗り越え血脈を後世に残したのは紛れもない事実である。
風貌は色白で覇気に乏しく、武家の男子というより公家のお坊ちゃんを思わせる雰囲気を纏わせていた。
ただ、武家としての教育をまるで受けていなかった姉に比べると、細身の割には確りと筋肉がついていることが服の上からでも分かる。
加えて、先ほど手勢の問題から三河に手を伸ばす余裕が無いと申したように、自家の現状を正しく認識出来る位には頭が回るなど、最低限は大名の子としての教育を受けていることが伺えた。
秀吉は氏真から目を離し、改めて出席者を見渡した。
今回の会談は織田が今川に申し出て実現したものであり、一名を除いて桶狭間の合戦の当事者達である織田、今川、そして松平の家の者達が集まっている。
「では、あまり悠長をする理由もありませんので、早速ですが始めさせて頂きましょう。此度の戦の始末について。」
貞勝が音頭を取り、会談が始まった。議題は当然、桶狭間の戦後処理についてである。
「当家といたしましては、先日の合戦を持ちまして今川とは手打ちとしたい所存に御座います。条件としては鳴海城はじめ、今川が持ちうる尾張の城の返還。代わりに当家にて療養中の前今川当主、義元様の不足無い生活をお約束致します。」
「その条件、当方としても異存ない。欲を言えばさっさと菊姉に帰って来てもらって当主なんて地位は返上したいんだが、それは望み過ぎか。」
貞勝の言葉に了承を示しながらも軽口を叩く氏真を寿桂尼が肘で小突く。
なんとも言えぬ空気になりかけるが、貞勝が軽く咳払いをして仕切り直す。
「次に松平家の独立についてですが、こちらについても今川家としては認める方針に御座いますか?」
「ああ。さっきも言ったように、今の当家に三河まで手を回す余裕は無い。遠江の維持でさえ厳しいくらいだ。竹千代には西遠江を獲っても良いと言ったが、半分くらいは本気だぞ。ただなぁ…」
一旦は貞勝の言葉を肯定した氏真だったが、少し困ったように眉を下げると頭を掻く。
「俺としてはそれで問題無いんだが、あんまり簡単に独立や切り取りを認めると、国人達が黙っちゃいない。下手すりゃ、俺の首が落ちる。」
「わ、私達としても、急に遠江を半分やると言われても困るというか…まだ三河の掌握すら出来てませんし…」
桶狭間で大敗したとはいえ今川は名門。三河を失ったとしても、二国を治める大大名には変わり無い。
だが流石に独立を許しながら何もしないとなると、権威の失墜は免れない。いくら手を回す余裕が無いと言ってもだ。
これを放置し続ければ国人衆はいざというとき今川は頼りに為らぬと見限り、他家に流れるか最悪の場合は主家を排除しようとするだろう。
そして、今川がその様な状況に陥るのが松平にとって都合が良いかというと、そうでは無い。
松平はついこの間独立を果たしたばかり。元康もその家臣達も領地経営の経験値が圧倒的に不足していた。
しかもどさくさ紛れの独立であった為に、引き継ぎなど出来てる筈もない。
結果、現在松平家の首脳部は内政に忙殺されている。
戦なんてやってる暇はない。領土拡大なんてもっての他。戦で死ぬ前に緒業務に殺される。
もう少し落ち着いてから動き出したいというのが、松平家の偽らざる本音であった。
そんな中で隣国が情勢不穏というのは、松平家としてはあまり宜しくない。
「というわけで竹千代、うちとしては適当に国境で戦をする事を提案したいのだが、どうだ?」
「まあ、それが妥当ですね~。」
元康と氏真の間で、自然とその様な結論が下された。
さて、ここで言う適当な戦とはどう言う事か、少し解説しよう。
戦国武将というのは武力でもって土地を支配する者である。故に土地を巡って争いとなれば、先陣を切って戦わねばならない。
しかし、彼らとてトラブルがある度に戦っているわけではない。
戦いなれば貴重な労働力である領民を駆り出さねば為らぬし、下手に被害を出せば領地経営に大きな影響を及ぼす。
その為、戦国の世であっても争い事は可能であるなら話し合いで解決するのが基本であった。
それでも武門としての立場上、周囲へのアピールとして武力活動が必要となる場合がある。
そうした際に行われるのが、予め決着を着けないことを前提とした戦である。
具体的な例としては以下の流れである。
①予め示し会わせた場所に両軍布陣する。
②代表者同士による口合戦。
③適当に弓と石で牽制。
④槍兵を前進させ、適当に打ち合う。
⑤日没に合わせ両軍撤退。帰り際に互いに「カッタ、カッタ、エイエイオー。」と勝鬨を挙げながら帰宅。
以上を行った上で、事前の話し合いで決めていた通りに国境線や利権について定めたのである。
因みにこの戦のやり方、親戚関係や血筋が非常に複雑な東北地方の武家では常態化していたのだが、どこぞの空気を読まない事に定評のある独眼竜が「そんなの関係ねぇっ!!」とばかりにガチンコを仕掛けていって、周辺の大名が多大な迷惑を被る事になる。
閑話休題
「まあ、具体的なやり方や時期については追々煮詰めるとして、次の議題に移ろうか。そろそろ、鞍打の婆様も待ちくたびれてるだろうし。」
「カァッー!誰が婆様じゃ小童っ!?」
「いや、今この場に婆はあんたしかいないだろ。」
そう氏真が指摘するのは、僧衣を纏った老女である。
髪はほとんど白くなり、顔に刻まれた皺は生きてきた月日を感じさせたが、端正な顔立ちと気品のある佇まいは若き日の美貌を想起させた。
また、氏真とのやり取りにはどこか気安さを感じさせ、一見すれば親しき親戚同士のじゃれあいに見える。
一方で、その両眼に宿る光には確かな知性が認められ、更にその奥には深淵の闇を思わせる冷たさがあった。
(これは、女郎蜘蛛の類いの女じゃな。)
秀吉にはこうした目をする女に心当たりがあった。
己の美貌と人当たりの良さを利用し異性へと近づき、何重にも張り巡らせた罠により身動きをとれないようにし、最後には骨の髄まで吸い尽くしてしまう強かなる女人。
この老女、とうの昔に全盛期の美しさは失ってしまっているが、長年戦国の世の最前線に立ち続けた経験と知識は秀吉にも匹敵しうる乱世の賢者であった。
間違いなく、この場所に集まった者達の中で最も警戒せねばならぬ人物である。
「まったく、礼儀を知らぬ若造の相手は疲れるわい。おっと、お初にお目にかかる方々もいましたな。これは失礼。」
そう言って老女は床に三指を着いた。
「北条家で相談役を務めておりまする。北条幻庵宗哲と申します。」
関東三軍師が一人、『相模の妖女』がそう名乗った。
北条幻庵、またの名を長綱。
幼き頃に箱根権現社別当寺金剛王院入寺し僧籍となり修行を積むと、近江の三井寺に留学する。
帰国後、箱根権現の四十世別当に就任する一方で、北条家の外交僧として各方面で活躍した。
また、馬術や弓術にも優れ、僧籍でありながら一軍を率いては武田や上杉と渡り合った。
現在は高齢を理由に表向きには隠居したとしているが、いまだその影響力は北条家内はもとより周辺国にも及ぼしている。
(そんな大物が此方から呼んだとはいえ態々他国の会談に現れると言うのは、北条家にとっても今川の敗退は手痛いものであった証左じゃ。)
駿河今川、甲斐武田、そして相模北条の三家による三国同盟の目的は、互いに背後を守り合う事にある。
関東の緒大名を平伏させ、広大な関東平野を掌握するのに力を注いでいた北条からすれば、背後の今川が弱体化するのは国の方針を根本から転換させかねぬ大事であった。
(おそらく北条家では、今川を助けるか、切り捨てるかで家中の意見が分かれとるんじゃろ。故に重鎮である幻庵和尚を派遣し、西方の動向を探りつつ国の方針を決定するつもりじゃ。)
秀吉が幻庵を注視しつつ思案に暮れていると、貞勝が懐から地図を取りだし床に広げた。
「さて、此度の会合に北条家の御方に来ていただくは、今後東海の平和と益々の発展を目指さんが為に御座います。その第一歩として、織田家は尾張から相模へと連なる商易海路の整備を御提案させて頂きたく存じ上げます。」
「ふむ、商易海路に御座いますか。」
この提案は信奈の父である信秀が目指した尾張と三河に股がる経済海路構想を更に発展したものであり、信奈の肝いりで発案されたものである。
「ほう、それは良い案だな。今川は乗ろう。儲かりそうだ。」
「松平としても異存はありません。尾張の津島からの商船が多く来航するとなれば、三河の商人達も喜びましょう。」
氏真と元康はすぐに賛成の意を示した。
彼らの言う通り、交易の活発化は国を潤す重要な要素である。
だが幻庵は一瞬目を細めると、困ったような笑顔を見せた。
「なるほど、確かに良いお話に御座いますなぁ。然れど一旦、国許に持ち返させて頂きとう御座います。なにぶん国の行く末を左右する大事に御座いますゆえ、主に判断を仰ぎ、その上で判断させて頂きます。関銭や船の往来数についても追って。」
そう言って頭を下げる幻庵に、秀吉はこの案に含まれる毒に彼女が気付いている事を察した。
この商易海路構想、単に東海地方の経済活動を活発化させるだけの物ではない。
尾張から相模にかけての海路が整備され、無制限に人や物の動きが活性化されれば、確かに相模の国はより豊かになるだろう。
しかし、海路による商易が相模の経済で大きな比重を占めるようになった時、突如この商易海路から相模が閉め出されたらどうなるか?
現代風に言うなら、バブル崩壊に近い状況に相模は陥るだろう。
織田、松平、今川の三家が一斉に北条との取引をやめた時、地理的に言えば東の端にある北条は海路による交易が出来なくなり大混乱となる。
松平家が織田家に臣従に近い同盟関係にあり、今川家が義元を人質同然にされている現状で、織田家に追従するのは先ほどやり取りから見ても解りきっている。
もしあそこで安易に提案に乗っていれば、北条は経済という名の首輪を織田に着けられるに等しかった。
これに気付けたのは幻庵が若い頃近江に留学し、その地で財を為す近江商人達と交流があったからに他ならない。
自分以外の者がここにいたらどうなっていたことか。
幻庵はそれを想像し、表情に出さぬよう内心で冷や汗をかく。
一方で、北条から色好い返事を得られなかった貞勝であったが、気にした素振りを見せることなく柔らかな笑みを浮かべて頷いた。
「なるほど、確かに今この場で早急に決める事でもありませんでしたなぁ。では、この件については日を改めるとして、実はもう一点御提案させて頂きたい策が御座います。」
そう言って貞勝は周囲の視線を集めながら、本命の策を語りはじめた。
その策、元は信奈が考え出した策に秀吉が一手間加え発展させたものであり、織田家を天下に押し上げ、そしてその途上にある障害を排除せしめる策である。
貞勝の話が進むにつれ、今川母子と幻庵の目が見開かれていく。
元康や数正の表情に変化は無いが、それは先んじて策の内容を知らされているからであり、初めて策について信奈から教えられた時には空いた口を塞げずにいた事は記憶に新しい。
一通り策について語り終えた貞勝は、一息吐いた後に再度口を開く。
「策の実行には今しばらく時を要しますが、実行するにあたり、織田は松平、今川、北条それぞれの助力を必要と考えまする。策の名は『虎囲いの計』。その最終目標は、」
貞勝は懐から小刀を取り出し、その切っ先を地図上の甲斐の国に突き立てた。
「甲斐武田家の滅亡に御座います。」
その日の晩、今川氏真は今川屋敷の庭に佇み、じっと月を見上げていた。
夜空に雲は少なく、風も無く、虫達の無く声もほとんど無い、とても澄んだ夜であった。
五感でそれを感じていた氏真は、背後からの足音に気が付く。
振り返れば、色白の少女が心配げに氏真を見ていた。
氏真の妻、早川殿である。
「旦那様、まだお休みになられないのですか?」
「ああ、うん。どうにも眠れなくてな。俺の事は気にしなくていいから、先に休んでいてくれ。」
「ですが…」
「いいから。君の体はもう、君一人の体ではないのだから。」
氏真は早川殿に近づくと、愛しげに彼女の腹部に手を当てる。それに早川殿は少し顔を赤らめた。
「ほら、早く部屋へ。暖かいとはいえ、夜の気に体を晒すと冷えてしまう。俺もすぐに戻るから。」
「…分かりました。では旦那様、お先に失礼いたします。」
小さく頭を下げ、早川殿は屋敷へと戻っていく。
その姿が建物の中に消えるまで、氏真は口許に笑みを浮かべ見送った。
「良き奥方に御座いますな。」
突然氏真の背後から声がする。
驚いて振り返れば、背の低い猿顔の男がいた。
氏真の記憶が確かなら、屋敷の客間に泊まっている村井貞勝の従者である。
「君は確か、織田の…」
「木下藤吉郎秀吉と申します。私も今日の事が頭から離れず、眠れぬ夜に散歩に出たところ、斯様な場所に来てしまった次第でありまして。決して覗き見をしようとした訳ではありませぬ。どうかご容赦を。」
「…いや、別に構わないさ。あのような会談、当分頭から消えるようなものではない。ふふっ、あの鞍打の婆様が血相を変えたんだ。あんな姿、初めて見た。」
会談後、北条幻庵は挨拶もそこそこに慌ただしく相模へと帰っていった。
恐らく早急に一族を召集し、此度の会談について話し合うのだろうと、容易に想像がついた。
「…少し、俺の話に付き合ってはくれぬか?」
「私のような者で良ければ、是非とも。」
「…俺はな、今川はもう滅びると思っておった。」
あっさりと、何でも無いかのように氏真は言った。
その顔に思い詰めた様子は無く、ただ涼やかに淡々と事実を告げる口振りだった。
秀吉は無言で続きを促す。
「菊姉、ああ、義元の姉上は大名として決して優れた人物では無い。だけど、皆に好かれる御方だ。どうにか力になってあげたい。不思議とそう思わせる魅力のある人だ。俺には無いものを持っている人だ。」
「…なるほど。だから多くの方が義元様の元に集ったのですな。」
「ああ、そして誰も帰って来なかった。別に織田を恨んではいない。先に手を出したのはこちら。織田は戦国の作法に則っただけだ。すべて今川がやらかした事。それを背負いきるには、俺には荷が重い。」
自嘲を含んだ笑いを氏真はもらす。
僅かな間、沈黙が流れる。
「…きっと、晴信の姉上は攻めてくる。弱った今川を見逃すほど、あの人は甘くない。氏康の姉上もそうだ。露骨に攻めて来ることは無いだろうが、情に流され利を捨てる人では無い。二人に抗う力は俺には無く、遠くないうちに今川は滅びる。その時は竹千代の所にでも転がり込もうか、なんて思っておったのだがなぁ…」
氏真は胸元に手をやると、ぎゅっと拳を強く握った。
その目には、ギラリッとした強い光が宿っていた。
「貞勝殿の話を聞いてから、胸のざわめきが止まらぬのだ。もしあの策が実れば、今川は生き残れるどころか、晴信の姉上にも勝てる。そう思い至ってから、心の内から熱がドンドン沸き上がる。こんな事、初めてだ。」
「…恐れながら申し上げまするに、それは恐らく、氏真様が内に秘めし、生きたいという欲に御座いましょう。」
「生きたいという、欲?」
「はっ。私がかつて仕えた主君は、常々このように申しておりました。『戦わぬ戦国大名など、いっそ滅ぶべし。』と。」
「…随分と手厳しい主だな。」
「ですがそれこそ、乱世における真理に御座います。戦国大名である以上、戦いからは逃れられぬさだめ。戦い、勝ち、生き残るこそ武士の本分。氏真様、これまであなた様の前には滅びの道しか見えていなかった。しかし今日、我らの策により、今川が大名として生き残る道を見つけられた。生存への希望が、あなた様の心の奥底に眠る戦国大名の魂に火を着けた。氏真様っ!」
話している内に秀吉の言葉に熱が籠り、爛々と光る目で氏真を見定めた。
「あなた様は今、戦い、勝ち、生き残りたいという欲を持たれた。今日というこの日が、今川氏真という戦国大名が生まれた日に御座います。」
その言葉に氏真は息をのみ、口を閉じた。
それからどれぼど経っただろうか。再び沈黙が支配する空間において、漸く氏真の口から深い溜め息が漏れた。
「そうか、俺は生きたかったのか…」
それだけ言うと、氏真は月を見上げる。
相変わらず雲ひとつ無い空に半月は浮かんでいる。
ただ、その輝きは先ほどよりも少しばかり明るくなっているように感じられた。
「そういえば幼少の頃、俺も父上から教えられたな。『大名が為すべきは、ただ生きることのみ』と。元は父上が伊勢盛時公より授けられた教えだったそうだが、すっかり忘れていた。」
「…良き教えかと存じ上げまする。」
「ああ、今ならそう思える。確かこうも教えられたな。」
『乱世とは、命燃やし尽くす遊び場である。』
「ならば楽しまねば、損であろうなぁ。」
氏真の顔に、これまでとは全く違った獰猛な笑みが浮かんだ。
今宵はこれまでに致しとう御座ります。
・寿桂尼
今川義元の母。今川家のゴッドマザー。
史実においても、この人一人で大河ドラマ一本作れるくらいの濃い人生を送っている。
最近の研究により、今川家仮名目録はこの人が主導となって作成された事が有力視されている。
・今川氏真
史実では義元の息子。本作では弟。元康とは幼なじみ。
以前は家を滅亡させた事で暗愚と評される事も多かったが、最近は割りと見直されつつある。
正妻の早川殿とは非常に仲が良く、晩年は夫婦揃ってしょっちゅう家康の屋敷に遊びに行き、家康からウザがられた。
最終的には「お前らもう来んな!」と離れた場所に屋敷を与えられ、そこに住むことになり、「兵を使わず大御所から城を奪った夫婦」と称されたとかなんとか。
・北条幻庵
北条家五代に渡って仕えた、北条最強の外交僧。
また、作中にあるように弓や馬術に優れ、戦時での活躍もあるなど文武に秀でた人物である。
手先が器用で特に馬鞍を作るのが得意だったとされる。
因みに史実では二人の息子がいたが、共に武田信玄に城を攻められ討ち死にしており、本作でも同様の設定である。
・伊勢新九郎盛時
別名「北条早雲」。所謂後北条家の初代であり北条氏康の祖父に当たる。
元は素浪人で、下克上の末に相模の覇者となったと言うような逸話もあるが、実際には室町幕府の作法伝奏役を務める正真正銘のエリートの家系出身で、関東には姉の嫁ぎ先の御家問題の解決のために出向したが、なんやかんやあって相模に土着することになった。
因みに相模支配の正統性を示すため、北条執権家の末裔の血筋を取り込んだともされているが、その取り込んだ血筋の先祖こそ、現在少年ジャンプで連載中の「逃げ上手の若君」の主人公、北条時行であるという説もある。