太閤転生伝   作:ミッツ

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近江喜太郎

 美濃の国は稲葉山城。

 建仁元年、鎌倉幕府の文官にして十三人の合議衆が一人、二階堂行政が現在の岐阜県岐阜市金華山の山頂に砦を築いたのが始まりとされるこの城は、一度廃城された後に十五世紀中頃、美濃守護代の斎藤利永によって修復され居城とした。

 その後、長井利政こと後の斎藤道三が主君に謀反し奪い取って以来、美濃齋藤家の拠点として今に至る。

 その稲葉山城下、井之口の町に信奈の命を受けた秀吉と良晴はいた。

 

「ふう、ようやく着いたのう。さて、早速御勤めを果たさねばならぬのじゃが、大丈夫か良晴?」

 

「…ああ、なんとか。おぇ。」

 

 妙に肌艶の良い秀吉が心配そうに尋ねるが、反対に良晴は顔色悪く、時折気持ち悪そうに嘔吐いていた。

 美濃を目指して長良川を遡上していた船上で、完全に舟揺れにやられてしまったのだ。

 

 良晴は別段、乗り物に酔いやすいという訳では無いし、何なら以前舟で美濃にきた際も特段体調を崩す事は無かった。

 ただ今回は、前夜に隣部屋から聞こえて来る男女の営みの音色に付き合わされ、睡眠不足になった事が諸に影響してしまっていたのだ。

 

「本当に大丈夫で御座いますか、相良殿?無理なようでしたらしゃきに宿をとってぇやしゅんでいただいてぇも。」

 

 語尾を噛みまくりながら気遣うのは、秀吉配下の蜂須賀五右衛門である。

 彼女は今回、秀吉達の護衛として同行している。

 格好も普段の忍装束ではなく、周りに合わせて町娘の装いである。

 そしてもう一人、よく日に焼けた屈強な大男が三人の後ろに控えている。

 

「うおおおおっ!親分の舌っ足らずマジ最高ぅっ!!」

 

 訂正。日に焼けた屈強なロリコン、もとい露漓魂であった。

 男の名は前野長康。

 長良川を拠点に水運や船舶の護衛を担う川賊、『川並衆』、その頭領である五右衛門に次ぐ地位にある男である。

 見た目の厳つさに比例し腕っぷしは強く、五右衛門に代わって実質的に川並衆の実務を纏めあげる統率力もある。

 そしてその本質は、人の心さえ荒みきった戦国の世に、一時の潤いと暖かみを与える純真可憐な幼女を愛でんとする、露漓魂だ。

 念のために言っておくと、長康は幼気な少女に直接的に手を出すことは無い。

 彼ら露漓魂にとって幼女はあくまでも慈しむ存在であり、それに手を出すことは露漓魂と言う名の紳士の風上にも置けぬと嫌悪する行為である。

 

 なお、某サルが言うには、『股から血が流れて子供が作れるように成ったなら、さっさと嫁いでバンバン子作りするべきじゃろに。』との事。

 18歳以下は子供だと見なし、子供の権利等で少児婚を規制する動きは近代の先進国の流行りである。

 女は若くて元気な内に沢山子供を作っておくのが戦国というか、割りと最近までの世界的な常識であった。

 なので子宝に苦労した秀吉からすれば、信奈をはじめとした織田家の姫武将達が子作りどころか婚姻さえ結んでいないのは、結構本気で心配している事柄なのである。

 

 閑話休題

 

「良晴がこの調子じゃと、本格的に動くのは明日からが良いじゃろ。五右衛門、良晴を連れてどこか適当な宿を取っちくれ。儂は長康と先に確認せねばならぬ事があるでな。」

 

「承知いたしました。相良殿、歩けますか?」

 

「あぁ、何とか。」

 

「よし、では昼過ぎになったらまたここで落ち合おう。良晴も、それまでに体調を治すが良い。では長康、行くかの。」

 

「おう。おい小僧、親分に変なまねしたら許さねぇからな。」

 

 顔を青くする良晴に凄むと、長康は秀吉と共にその場をあとにした。

 

「さて、それでは相良殿、我々も行きましょう。」

 

「あぁ、とにかく今は早く宿を取って横になりてぇ。」

 

 フラフラとした足取りながら、良晴は何とか歩み始めた。

 

 井之口の町に入ると、そこは良晴が想像していたよりも遥かに賑やかだった。

 商店の店子達は声を張り上げ呼び込みをし、行商と思しき者達は盛んに往来を行き来し、街角の広場では旅芸人達が観客を相手に芸を披露して喝采を浴びていた。

 つい最近まで、国を二分する争いが起きていたとは思えぬ盛況ぶりである。

 

「なんか、思ってたよりも栄えてんな。マムシのおっさんがいなくなってどうなってんだろうって、気にしてたけど。」

 

「そうでございますな。往来を歩く人の顔が明るい。そういう国は良い国でゃと、父も言ってぇおりゅましゅてゃ。」

 

「これなら、すぐに宿も見つかりそう「うわっ!!」ぐほっ!?」

 

「相良殿っ!?」

 

 町の様子を見渡しながら歩いて良晴に、路地裏から走って出て来た長身の男が激突する。

 男は衝突を避けようと咄嗟に体を捻ったが、そのせいで肘が良晴の鳩尾に突き刺さり、余計にダメージを与える結果となってしまった。

 

「す、すまねえ兄ちゃん!大丈夫か?」

 

「相良殿、しっかり!」

 

「うぐぐぐ…」

 

 悶絶する良晴を男と五右衛門が介抱するが、良晴には返事をする余裕さえなくなっていた。

 

「おいてめぇっ!やっと追い付いたぞ。」

 

 そうしていると、また新たな乱入者が路地裏から現れた。

 姿を見せたのは、見るからに人相の悪い破落戸風の男。

 その後ろには、似たような容姿の男達が三人続いていた。

 

「げぇ、太郎丸の旦那。」

 

「おいこら、てめぇ今回の件どう落とし前着ける気だ?おおぅっ!」

 

「いや、少し落ち着けって。そうカッカせずに酒でも飲みながらゆっくり話でも。なっ?」

 

「ふざけてんじゃねえぞ!この野郎っ!」

 

 宥めようとした結果、余計に相手を怒らせてしまった長身の男は、ジリジリと後ろに後ずさる。

 すると、破落戸風の男達の目が良晴と五右衛門に向けられた。

 

「何だこいつら?てめぇの連れか?」

 

「いや、違う!そいつらは…」

 

 長身の男が釈明するよりも早く、破落戸は脂汗をかく良晴の襟首を掴み無理やり立ち上がらせると、己の眼前で揺さぶった。

 

「なんだぁっ!このガキ、顔青くしてやがる。ビビって返事も出来ねぇのかぁ?」

 

「やめてくれ、旦那!そいつらは本当に何も関係無い。ただ俺とぶつかっちまっただけなんだ!」

 

 良晴を嘲笑う破落戸を長身の男は必死に止めようとするが、破落戸どもは完全に良晴達をいたぶる対象と見ており、五右衛門にも下卑た視線を向けていた。

 それを受け、五右衛門は密かに偲ばせた忍具に手を伸ばす。

 

 さて、ここで一つ想像して欲しい。

 この時、良晴は船酔いで気分を悪くしている。

 陸に降りて多少回復したとはいえ、完全に体調を取り戻したとは言い難い。

 そんな状態で腹部に肘鉄を入れられ、悶えているところを無理矢理立ち上がらされ、首元を掴まれ揺さぶられる。

 果たして、この後どうなるだろうか?

 

「お、お、お…」

 

「あん?」

 

 当然こうなる。

 

「オロロロロロロロロロロロッッッッ!!!!」

 

「うぎゃあああああああああっ!?!?」

 

 食道から逆流した内容物は勢いよく良晴の口から発射され、至近距離から破落戸に直撃した。

 顔面から吐瀉物を受けた破落戸は突き放すように良晴から距離を取ろうとしたが、勢い余って腰から転倒してしまう。

 取り巻きの男達は吐瀉物まみれの仲間に触れるのが嫌なのか、遠巻きにして狼狽えるばかりである。

 

「ッ!?よっしゃっ、いまだッ!」

 

 そう叫んだ長身の男は、良晴に肩を貸し立ち上がらせると、五右衛門の手を掴んで駆け出した。

 

「なっ!?何をっ!?」

 

「いいから今はここを離れるぞ!」

 

 混乱する五右衛門とグッタリとした良晴を連れて、男は再び裏路地へと駆け込む。

 背後からは「逃げたぞっ!追えっ!」と言う声が聞こえてくるが、その声を背に複雑に入り組んだ路地裏を男は勝手知った様子で駆けていく。

 その様子から、五右衛門はこの男が土地勘のある人間だと察しがついた。

 暫くすると、背後から聞こえてくる男達の声は無くなり、長身の男も足取りを緩める。

 そうして幾つかの分かれ道を曲がれば、いつしか三人は大通りへと戻ってきていた。

 

「…ふう、何とか撒けたな。すまねえな、捲き込んじまって。兄ちゃん、大丈夫か?」

 

「あ、あぁ。吐いたらさっきより楽になったよ。」

 

「ははっ、そりゃあ良かった。詫びといっちゃなんだが、近くに良い店があるから休んでかねぇか?奢るぜ。さっきの奴らが、まだこの辺うろちょろしてるかもしれねぇしな。」

 

「…拙者は構いませんが、どうします、相良殿?」

 

「…ああ、俺も問題無い。」

 

「決まりだな。おっと、自己紹介がまだだったな。」

 

 そういうと長身の男は、どこか芝居がかった所作で胸を張り、己の名を名乗った。

 

「俺の名は近江喜太郎。しがない地侍だ。よろしくな。」

 

 これが相良良晴にとって、長きに渡る因縁を結ぶ事になる男との出会いであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「へぇ、良晴達は行商人なのか。尾張からは舟でか?」

 

「ああ。川並衆に護衛をしてもらったんだ。」

 

「なるほど。あいつらは金さえ払えば大抵の事は請け負ってくれるからな。って事は、お前ら結構稼いでんだろ?」

 

「い、いやぁ、ぼちぼちかな?」

 

 良晴達一行は、喜太郎が紹介する店へと来ていた。

 店は飯屋と宿屋を兼業しており、店内のいたるところから注文が飛んでいる。

 そうしていると、店員の娘が良晴達の前に皿を出す。

 

「はい、こちら鮎の塩焼きです。」

 

「おおっ!来た来た。美濃に来たなら、長良川で獲れた鮎を食わなきゃな。さぁ、俺の奢りだ。遠慮無く味わってくれ。」

 

「お、おう。そんじゃ頂きます。」

 

 喜太郎から促され、良晴は鮎の身にかぶり付く。

 最初に感じるのはパリッとした皮の食感。そして、ホロホロと崩れる柔らかな身。

 噛めば噛むほど溢れ出る旨味。そして、鼻を抜ける川魚とは思えぬ爽やかな香り。

 水質汚染とは無縁の清流に生える苔を食べて成長した鮎は、良晴が食べたあらゆる魚とも別物の一品であった。

 

「何だこれっ!マジでうめえなっ!」

 

「だろ、だろ!そんでこいつよ。」

 

 喜太郎の手元には、いつ注文したのか、冷やの酒が注がれている。

 喜太郎は鮎にかぶり付くと、しばし味わったあとに酒を口に運んだ。

 

「くうぅぅぅ、うめぇ!長良川で獲れた鮎を肴に、美濃の蔵元で造られた酒を流し込む。これ以上の贅沢ありゃしねぇぜ。どうだ?良晴も一杯やらねぇか。」

 

「ああ、悪い。ちょっと体調も回復しきれてないし、今日は遠慮しとくよ。」

 

「おっと、そうだったな。んじゃ、また次の機会に楽しもうぜ。」

 

 申し出を断られたのにも関わらず、喜太郎は気を悪くした様子も見せず再び旨そうに酒を飲む。

 

 その様子を五右衛門は、鮎を口にしながらも注意深く観察していた。

 歳は良晴と同じくらいか。

 背は良晴よりも一回り高く、細身ではあるが良晴を肩に担ぎながら疾走出来るだけの体力がある。

 目元も涼やかながら野性的な雰囲気のある顔立ちは、年頃の娘から視線を集めるには十分であろう。

 軽薄で能天気な部分はあるが、所作には気品が見え隠れしている。

 本人はしがない地侍と言っていたが、もしかすると古くから美濃に土着した武家の倅かもしれぬと五右衛門は予想した。

 

「ところで、喜太郎はなんであいつらから逃げてたんだ?」

 

「ああ、いや大した話じゃない。あの時お前がゲロ吹っ掛けた男、ありゃ太郎丸っつう商人崩れの破落戸なんだがな、なんつうか…」

 

 苦笑いを浮かべながら、喜太郎は酒を煽って質問に応える。

 

「あいつの嫁さんに手を出したのがバレちまったんだ。」

 

「いや、そりゃ完全にてめぇが悪いだろうが!」

 

「でも、マジで良い女だったんだぜ。あんな旦那にゃ勿体無いって思っちまってよ。まぁ、男の性ってやつだ。」

 

「しかも全然反省してねぇ!」

 

 まさかの告白に良晴は絶叫する。

 五右衛門が喜太郎に向ける目も、一瞬でゴミムシを見るようなものになっていた。

 

「畜生ぅ、危うくNTR野郎に心を許すところだったぜ。喜太郎!てめぇは俺の敵だ!」

 

「まあまあ、そう言うなって。こうして巡りあったのも何かの縁だ。仲良くやろうぜ。ほら、お前ら行商人なんだろう。この辺の土地柄について、美濃生まれの俺が色々教えてやるって。そういうの、商売するなら結構重要だろ?」

 

 喜太郎の申し出に良晴と五右衛門は顔を見合わせる。

 今回、信奈から申し付けられたのは竹中半兵衛の調略。

 そこで言うと、半兵衛の所在地さえ分からぬ現状で、美濃に精通した情報提供者というのは非常に有益な存在だ。

 いきなり半兵衛に繋がる事は無理でも、喜太郎から縁を辿って半兵衛に行き着ける可能性は十分にある。

 

「…そういう事なら、分かった。じゃあ、幾つか聞いてもいいか?」

 

「えらく聞き分けがいいなぁ。まあ、いいや。何でも聞いてくれ!」

 

「さっき町を歩いてる時も思ったけど、結構賑わってるよな。つい最近戦が起こりそうになってたって聞いたけど。」

 

「まぁ、そうだな。戦が未然に防がれたのと、御領主様が御所から一色家を名乗るのが許されたのが大きいな。」

 

「一色家?」

 

「なんだ知らねぇのか。美濃の地は元々、土岐家が代々守護に任じられてきたんだが、齋藤家先代の道三が主君であった土岐頼芸を追放して、実質的に美濃での実権を握ったってのは知ってるよな?」

 

「ああ、それは聞いたことがある。たしか、そのせいで周辺国から警戒されて、京の公家からの評判も良く無かったんだよな。」

 

「そう。齋藤家は実質的に美濃を治めながらも、正式に守護職を任せられて無かった。けどちょっと前、齋藤家は有力な公家に多額の寄進を行い、幕府の名門『一色』の姓を名乗る許しを得た。要するに、金で権威を買ったんだ。」

 

 喜太郎の話す内容について、良晴は覚えがあった。

 良晴と秀吉が道三の救出に動いた際、秀吉は多額の資金と京の公家との伝手を提供することで、道三の身柄を齋藤義龍から貰い受けた。

 義龍はその時の資金と伝手を上手く使い、美濃を治める正統性を確保したのである。

 

「でも、幕府の権威なんて意味あるのか?将軍は京から追い出されて、実権なんて何も無いんだろ?」

 

「畿内から離れた田舎じゃ案外馬鹿には出来ないぜ。それに今回、一色家を名乗ることを許可するよう動いたのは、御所に在られるこの国で最も尊き身分の御方の周辺だ。歴史と権威しか無いハリボテと言う奴らもいるが、そのハリボテがとんでもなくデカイ。幕府の名門がどうとかより、そういった御方の働き掛けがあったって方が今回の場合は大きいんだよ。」

 

 名目上とはいえ、この国の頂点として積み上げてきた歴史が重い、と言って喜太郎は再び酒を口に運ぶ。

 

「あとはそうだな、道三が始めた『楽市楽座』を廃止したおかげもあるな。あれで大分景気が良くなったぜ。」

 

「はぁ!?楽市楽座を廃止ぃ!?しかもそれで景気が良くなったって、どういう事だよ!」

 

 良晴は思わず大声を上げてしまう。

 

 楽市楽座といえば、織田信長が行った代表的な政策として義務教育で必ず習うものである。

 実際には南近江の六角氏が信長より百年も前に実施しており、他にも似た政策は全国でも散見されている。

 つまり『楽市楽座』自体は信長が考案した革新的な政策というわけではなく、齋藤道三も信長に先駆けて商人による独占的な商売形態である『座』を廃止し、関所を撤廃による物流の活性化を狙った政策を実施していたとされている。

 

 現代知識として楽市楽座の概要を知っている良晴からすれば、自由な商売を促し経済を活性化させる政策を廃止して、それが景気回復に繋がるのには理解が及ばなかった。

 

「まあ、簡単に言えば、楽市楽座のせいで粗悪品を売る輩が増えた。他国から来た奴らの中には、偽物やら盗品やらを我が物顔で売りやがる輩がいたんだ。座があった時はそういう輩が幅を利かせないよう、商人の間で取り締まりをしてたが…」

 

「座が解散させられたから悪徳商人が大手を振って商売をするようになった?」

 

「その通りだ。」

 

 座というのは、特定の物品の商売を一部の商人達で独占する事で経済競争が妨げられるという一面があるものの、同業種間における相互協力組織として、最低限の品質の保証及び職種内の秩序維持という自警組織としての顔も持つ。

 そこを廃するという事は、公正な経済競争を促せる一方で、未熟な市場では商品の品質低下や需要と供給の不均等による価格崩壊を招き、市場の混乱に繋がる恐れがある。

 

「加えて関所を撤廃したせいで、木曾や越前方面から盗賊どもが入って来るようになっちまった。あいつら、国境の村を襲うと領主が兵を向ける前に国境を超えて逃げちまうんだ。」

 

「なるほど。国を超えてまで兵を送れぬと盗賊どもも理解してるのでごじゃいますな。へちゃをすればしょのままいくしゃになってしまいましゅ。」

 

「オマケに想定していたよりも有力な商人を集めることが出来ず、道三が期待していたような経済の活性化も出来なかった。」

 

「それはまたどうして?」

 

「単純に言えば、道三は信用されて無かったんだ。元々他国の出身、しかも家中で出世するために同僚の悪評を主君に吹込み失脚させたり、敵対者に和解がしたいと呼び寄せた挙げ句に毒茶を飲ませ暗殺したり、守護家の相続問題をかき回しまくって国を二分する争いを引き起こしたり、悪どい事をやりすぎてんだよ。特に、土岐頼芸を追放したときの顛末は城下にも知れ渡ってる。」

 

「土岐頼芸って、たしか先代の守護だった人だよな。」

 

「ああ、さっきも言ったが、美濃は代々土岐家が治めてきてな、名君は現れないが大きな失政も無いって感じで、無難に守護の役目をこなしてた。頼芸は土岐家の次男坊だったんだが、道三の策に利用され実の兄と家督争いをすることになり、それに勝って当主となった。しかし、実権は道三に奪われ、傀儡の身に甘んじていたんだ。」

 

「あれ?でもそれじゃ、道三はわざわざ頼芸を追放しなくてもよかったんじゃ?」

 

「頼芸が良くても、周りが許さなかったんだ。家中の反道三派は、水面下で頼芸を立てて道三を排斥する機会を窺っていた。道三も頼芸が美濃にいる限り、己の立場を脅かされ続けると考えたんだろ。だからと言って、強引に追い出したんじゃ、自分に靡いている国人達も流石に反発する。そこで道三は、頼芸が自発的に美濃を出ていくように仕向けたんだ。」

 

「…一体、どんな方法をとったんだよ?」

 

「…頼芸が大切に飼っていた鷹、それを道三は八つ裂きにして、死体を頼芸の部屋に晒したんだ。」

 

「なっ!」

 

 道三が仕出かした所業に良晴は絶句し、五右衛門も僅かに眉を潜めた。

 

「卵から孵し、自ら手塩をかけて育てた鷹を頼芸は我が子のように可愛がっていた。それを無残な姿にされ、頼芸は心の均衡を失い、逃げるかのように美濃から出ていった。だが、その姿が美濃の人々にある思いを抱かせたんだ。あまりにも、可哀想だと。」

 

「可哀想か…」

 

 そう思うのも無理は無いと、良晴は思った。

 

 良晴にとって齋藤道三とは、信奈の義父であり、助平なところはあるが気さくで、芯の通った一流の策略家であり、後世にも名を残す優秀な戦国武将であった。

 だが、道三と同じ時代を生きた人々にとっては、必ずしも尊敬すべき人物とは限らない。

 むしろ、同じ時代を生きたが故に闇を垣間見た者や、直接的な被害者達にとっては、憎くておぞましい悪人こそ、道三の真の姿であった。

 

「道三みたいな悪人には手を貸せない。そう思われたんだな…」

 

「そうだ。そもそも楽市楽座自体、家臣や領民には反対されたが強行した挙げ句にこの様だったからな。とどめとなったのが織田信奈への国譲りだ。戦に負けたのならともかく、一戦も交えずしてうつけ姫に美濃の地を明け渡すと言った。これによって、道三は美濃の人々から完全に見限られた。その結果、今度は自分が追放されたって訳さ。」

 

「虚しい話だな。ところで今の領主、義龍はどうなんだ?」

 

「ん?評判はいいぜ。道三時代の悪政は廃止し、それまで道三に反発していた国人や商人達とも詫びを入れて和解し、合議制を取り入れる事で家臣団の意見を積極的に採用するようになってな。そんで、この前起きた織田との合戦で完勝し、国内外に武威を示した事で領民達の支持も磐石なものにしたわけさ。」

 

「ッ!なぁ、その戦、齋藤は軍師の策を使って織田を撃退したんだろ?」

 

「あ?軍師?」

 

「ああ、聞いた噂じゃ、竹中半兵衛って軍師が齋藤家にはいるそうだけど、そいつが織田を撃退する策を考えたんじゃないかって…」

 

 竹中半兵衛の名を出したその一瞬、喜太郎の目がギラリと光った。

 そこに込められた僅かな殺気を感じとった五右衛門は身を固くするが、すぐに喜太郎は先程と同じ機嫌良い笑顔を見せていた。

 

「へぇ、思いのほか半兵衛の奴も有名になっちまったんだな。お前らみたいな商人にも名が知られるとは。」

 

「知ってんのか!?半兵衛のこと!」

 

「ああ、あいつと俺は昔馴染みでよ。興味があるのか?半兵衛に…」

 

「え?あ、ああ。まあ、今川に勝って勢いのある織田に完勝したんだ。いったいどんな人なのかって興味が「おいっ!居やがったぞ!」っ!あいつら!?」

 

 不意に外から聞こえた叫びに何事かと視線を向ければ、そこには喜太郎を追っていた破落戸の一人がいた。

 

「やっべ!おい、裏から逃げるぞ!」

 

 言うが早いか、喜太郎は机に銭を置くと店の裏口に向かって駆け出し、良晴と五右衛門も慌ててそれに付いていく。

 店の人間が驚く顔を尻目に裏口から出ると、路地裏へと続く道は荷物で塞がれ、袋小路となっている。

 喜太郎は舌打ちをすると残された道、表通りへと続く道へと走る。しかし…

 

「よう。ようやく会えたな、この野郎。」

 

「ぐっ、太郎丸の旦那…」

 

 路地から出た先には、太郎丸とその取り巻き達が待ち構えていた。

 太郎丸は喜太郎の首に手を回し路地から引きずり出すと、挨拶代わりに鳩尾に一発喰らわせる。

 

「まったく、手を掛けさせやがって。ちぃとばかし痛め付けるだけにするつもりだったが、もうそれだけじゃ気が済まなくねぇなぁ。」

 

「旦那!奥にこいつの連れがいやしたぜ!」

 

「おう、そいつらにもゲロぶっかけられた礼をしなくちゃいけねぇからな。ちゃんと見張っとけ。」

 

 明らかに先程とは違う剣呑な雰囲気の破落戸どもに、良晴の脳内の警鐘が激しく鳴り響く。

 下手な対応をすれば、喜太郎のみならず自分達も不味い事になるのが目に見えていた。

 

「わ、悪かったよ、さっきは。この通り謝るし、汚した服も弁償するからさ。ほら、喜太郎も謝れって。」

 

 良晴としては、人妻に手を出した喜太郎が全面的に悪いのは言うに及ばずだが、先程まで親切に美濃の内情を教えてくれた件で少なからず情というのも沸いている。

 なので、痛い目を見るのは仕方ないにしても、せめて命くらいは助けてやりたいと、喜太郎に助け船を出した。

 それを見た太郎丸は、嫌らしい笑みを作った

 

「良い連れを持ってんじゃねぇか。良いぜ。てめぇが誠心誠意謝罪して、俺の女の居場所を吐くんなら、命だけは勘弁してやんよ。」

 

「女の居場所?」

 

 太郎丸の言葉に良晴が疑問を覚える。

 すると、腹を押さえ踞っていた喜太郎が太郎丸を見上げた。

 

「それ聞いて、女房を見つけたら、あんたどうすんだ?」

 

「決まってんだろ。躾なおすんだよ。今度は俺以外の男に股開かないように徹底的にな。」

 

「…一応、まだ挿れては無いんだけどな。なぁ、旦那、あんた以前から女房を外で必死に稼いできた金を、勝手に賭場で使ってたそうじゃねえか。しかも少しでも抵抗したら、手を上げてたとか。」

 

「それがどうした?自分の女が稼いだ金をどうしようが俺の勝手だろうが。」

 

「…申し訳ないとは思わねぇのか?」

 

「あん?なんでそんな事を思わなきゃならねぇんだ。こっちは身寄りの無いのを女房にしてやってんだ。女郎に落とさねぇだけ有難いと思って欲しい位だ。」

 

 この時代、女が一人で身を立てるのは非常に難しい。

 姫武将という存在はあるが、それになるのは武家の血筋を引いているか、男以上の武威と才を示せる女に限られた。

 

「まったく、折角俺が情けをかけてやってるてんのに、こんなガキに絆されるなんてよ。アイツには自分の立場ってのをキチンと教えてやらねぇとな。さぁ、アイツの居場所を吐け!」

 

「断る!」

 

 太郎丸の恫喝に、喜太郎は即答する。

 そして気合いを入れて立ち上がると、正面から太郎丸を睨み付ける。

 その威容は先程までとは打って代わり、太郎丸の後に控える破落戸共を後退りさせる程であった。

 

「俺は良い女と旨い酒を愛してるんだ。だからそれが粗末に扱われてるのは我慢ならねぇ。いいかこの野郎。あの女はお前には勿体無さすぎるほど良い女なんだ。たとえこの身が長良川に浮かべられようが、お前だけには渡してやるもんかっ!」

 

 力強く足を踏み締め、腹の底から響く声で啖呵を切る喜太郎に、先程までの軽薄な雰囲気は無い。

 そこにあるのは、己の譲れぬものの為に命を張ろうとする漢の生き様であった。

 

「…そうかよ。折角慈悲を与えてやったってのに無為にしやがって。そんなに死にてえのなら、望み通りてめえの死体を長良川に流してやらぁっ!」

 

 喜太郎の気迫に一度は気圧された太郎丸だったが、すぐに怒りの形相を浮かべ喜太郎に詰め寄ろうとする。

 しかし、掴み掛かろうとした喜太郎の隣に人影が並んだのを見て動きを止める。

 良晴であった。

 

「おい、良晴。なんの真似だ?」

 

「うるせぇ。言っとくけど、俺はモテるイケメンは嫌いだし、NTR野郎なんて滅んじまえって思ってる。けどよ…」

 

 困惑する喜太郎の問いに不機嫌そうに答えながらも、良晴は拳を構えた。

 

「好きなものを護るために命を張ろうとする奴は、まぁ嫌いじゃない。それに約束しちまったもんな。」

 

「約束?」

 

「言っただろ。酒は次の機会だって。ちゃんと覚えとけよ。」

 

 良晴の答えに一瞬呆気に取られた様子の喜太郎だったが、すぐに端整な口元に笑みを作り、快闊な笑い声を上げた。

 

「ああっ、任せとけ!美濃で一番上等な酒を味あわせてやんよ。」

 

「てめぇら、人を馬鹿にしやがって!」

 

 良晴と喜太郎のやり取りに我慢の限界が訪れたのか、太郎丸は俗にドスと呼ばれる小刀を抜き、その切っ先を良晴達に向ける。

 他の手下達も各々手持ちの武器を良晴達へ向けた。

 

「もう許さねえ!てめえら二人とも望み通り長良川に躯を浮かべてやらぁ!」

 

「ん?俺たち二人ってことは五右衛門は見逃してくれるのか?」

 

「はんっ!そっちの小娘は人買いに売るに決まってんだろ。見てくれは良いからな。まあその前に、俺たちでたっぷりと味見させてもらうがな。」

 

 そう言って下卑た視線を五右衛門に向ける太郎丸に、五右衛門のみならず良晴や喜太郎までも嫌悪感を顕にする。

 

「おいおい、まだ月のモノも来てるか分からない小娘をどうこうするのは流石にどうなんだい、旦那。」

 

「ふん、そういう物好きは案外多いんでな。安心しな、まずは俺達がたっぷり可愛がって具合を確かめ「おい。」あん、なんだ?引っ込んで…」

 

 言葉の途中に割り込まれた太郎丸は、不機嫌そうに声の主の方を向いて怒鳴り付けようとするが、相手を確かめると途端に顔を青くした。

 

「何やら騒ぎが起きてると報せを受けて駆け付けてみれば、御主ら此処が一色家の御膝下である事を知っての狼藉か?」

 

「いや、ええと、それは…」

 

 現れたのは上り藤の家紋が入った正装を身に纏った老父である。老父と言えど、その肉体は服の上からでも分かるくらいに筋肉で盛り上がり、破落戸共を睨みつける視線には殺気すら感じる迫力があった。

 また、その後ろには配下の者が二十ばかりいる。

 すると喜太郎は、待ってましたとばかりに大声を上げた。

 

「うわああああ!!助けてくだせぇっ!こいつら、俺たちを殺して女を攫うって。」

 

「なっ!?てめぇ!」

 

 現れた武士団に対し、喜太郎は情けない声色で助けを求めると太郎丸は慌ててそれを止めようとする。

 だがそれよりも早く、武士団の男衆が手際よく太郎丸とその配下を拘束していった。

 

「くそ、放しやがれ!」

 

「お主ら、楽市があった頃に入り込んだ他国の行商の崩れであろう?それがこのような場所で騒ぎを起こして逃れられると思うたか?神妙にお縄に付け!」

 

「ち、ちげぇ!俺たちは…」

 

 太郎丸が言葉を続けるより早く、老父の拳が太郎丸の鼻っ面を抉った。

 とても老人が放ったそれとは思えぬほどの重い一撃は、容易に太郎丸の鼻骨をへし折り、吹き出た鼻血が顔面を真っ赤に染め上げる。

 その光景に手下たちは抵抗する気力を失い、項垂れるようにして手を縛られていく。

 

 その様子を手に着いた血を拭きとりながら眺めていた老父は、鋭い視線をそのままに喜太郎達の方を向けた。

 

「さて、それではどのような顛末があったのかお聞かせ願えますかな?」

 

 その問い掛けに一瞬ビクリと身を跳ねさせた喜太郎であったが、老父に近づくと耳に口を寄せ何やら囁き始める。

 それを聞いて老父は眉にしわを寄せ不審げに良晴たちを見つめるが、再び喜太郎が囁くと、最後には大きくため息をついた。

 

「分かりました。では、お主たちもうよい。もう騒ぎを起こすではないぞ。」

 

 そう言い残すと、老父は配下達と縄を打たれた破落戸共を従え、稲葉山城の方へと去っていった。

 それを唖然として見送っていた良晴に、喜太郎が明るい声で話しかける。

 

「いやー、何とかうまいこといったな!」

 

「えっ!?いったい何が?」

 

「ん?ああ、大通りから外れているとはいえ、ここら辺もそれなりに人の出入りがあるからな。大声で騒ぎ立てれば警邏が寄ってくるだろうとは思ったのだが、まさか伊賀守殿直々に現れるとは…」

 

 くつくつと笑う太郎丸を見て、良晴もようやく合点がいった。

 要するに、喜太郎が太郎丸たちに対して行った口上は、騒動が起きていることを大声で周りに知らせ、警邏兵が駆け付けるまでの時間を稼ぐための策だったのだ。

 それに気づいた良晴は、全身がどっと疲れるのを感じた。

 

「なんだよ、そうだったのか。俺はてっきり覚悟決めて戦うもんだと…」

 

「はっはっは、あいにく俺の剣筋は鈍らでな。人なんて切れるわけがない。その分、小賢しく頭を使っただけよ。」

 

 あっけからんな喜太郎の笑顔に、良晴の口の端にも笑みができる。

 軟派で軽薄さを隠そうともしない楽天家な男であるが、陽気でいて妙に誠実ながら抜け目無いところは秀吉とも通じる部分があり、良晴に親近感を覚えさせていた。

 

 すると、良晴たちに向かって歩み寄る影があった。

 

「おーい良晴。なんぞ騒ぎに巻き込まれたのか?」

 

「あっ、秀吉さん。」

 

 現れたのは街の入り口で別れた秀吉である。

 どうやら喜太郎たちが起こした騒ぎを聞きつけ様子を覗い参ったようだが、その中心に良晴たちがいたことに驚いた様子である。

 一方で良晴は、秀吉に同行していたはずの前野長康の姿が無いことに疑問を覚えるが、それを口に出すより早く秀吉の目がぎょろりと喜太郎を捕らえた。

 

「良晴、この御仁は?」

 

「ああ、近江喜太郎って言ってさっき知り合ったんだ。」

 

「お初にお目にかかる。近江喜太郎と申す。しがない地侍の倅にてよしなに。」

 

「…ふむ。木下秀吉と申します。我が同行人が御迷惑をおかけしたようで、何卒お許しを。」

 

「いやいや、むしろ俺が迷惑をかけた方で助けられたくらいだ。何か礼をせねばと思っているのだが…そうだ!良晴、お前竹中半兵衛に会いたがっていたな。会わせてやろう。」

 

「えっ、マジでっ!?出来るのか!?」

 

「ふふん。言っただろ。家同士の付き合いで俺も半兵衛とは旧知の仲だ。どうする?」

 

 喜太郎からの問いかけに良晴は秀吉を見る。秀吉は暫し思案したのち、黙って良晴に頷いて見せた。

 

「分かった。竹中半兵衛に会わせてくれ。」

 

「よっしゃ。そんじゃ、明日の朝、さっきの飯屋の前に来てくれ。半兵衛の庵に案内してやるよ。俺はこれから、この旨を半兵衛に伝えてくる。また明日な!」

 

 そう言って背を向けた喜太郎は、陽気な足取りで人波に消えていった。

 

「…良晴、喜太郎殿についてだが、一応警戒しておいた方が良いぞ。」

 

「…やっぱそうだよな。いくら古くからの地侍だからって、いきなり半兵衛に人を紹介できる奴が只者のわけが無いよな。」

 

「いかにも。しかし、近江喜太郎か…」

 

「ん?何か心当たりでも?」

 

「多少な。だがもしそうだとすると、あの御仁は少々厄介なお方かもしれぬぞ。」

 

 そう言うと、秀吉は喜太郎が消えていった雑多をじっと見つめた。その先には、稲葉山の山麗に山城が聳えている。

 

 

 

 

 

 

 

 稲葉山城の台所の勝手口が、音を立てぬようゆっくりと開かれる。裏手門に通じる裏道に面した戸を開けて入ってきたのは、先程良晴たちと別れたばかりの喜太郎である。

 喜太郎は頭だけ戸口から出し、キョロキョロと辺りを見渡す。

 丁度昼餉が終わって暫くした時間であり、台所番達は休憩の為姿が見えない。

 誰もいないことを確認した喜太郎は、しめしめと忍び足で台所へと入っていった。

 

「お帰りなさいませ、若様。」

 

 忍び込んだ喜太郎の死角から、唐突に彼を呼ぶ声が聞こえた。

 ぶわりと汗が噴き出る感覚に襲われながらも喜太郎がぎこちなく振り返ると、豊満な肉体の女中が眉を怒らせていた。

 

「お、おう、お猪ではないか。奇遇だなこんなところで。」

 

「奇遇などでは御座いませぬ。また若様が城を抜け出したと飛騨様が騒がれてましたから、どうせ勝手口から帰ってくると思って待っておりました。」

 

「ははは、流石俺の女中だ。俺の考えなどお見通しだな。」

 

「何を呑気なことを。あまり飛騨様に苦労をお掛けなりませぬよう。あの御方も明智様がいなくなってから苦心されておられるのですから。」

 

「ああ、分かってる分かってる。そうだ、爺様と戦になりかけた時、織田が使わせた交渉役は猿顔の小男だったそうだな。」

 

「…ええ、御殿様と直接お話しした所を見た方はそう仰られていました。」

 

「それと、織田と同盟を結んだ時に爺様を説き伏せたのは相良という男だったと十兵衛が申しておったな。」

 

「確かにそのような話をされてましたが、どうして今そのようなお話を?」

 

「くくく、いやなに。なかなか面白いことになってきたなと思ってな。」

 

 そう言って笑う喜太郎の目は細まり、どこか蛇を思わせる怪しい光を纏っていた。

 

「…若様、若様のご気性は我々もよく存じております。さりとてどうか、ご自分の御立場というものを今一度自覚してくださいませ。貴方様はこの一色家の御嫡男であらせられるのですから。それと…」

 

 今まさに台所から廊下へと繋がる戸を開けようとした喜太郎の首根っこを、お猪はガッシリと捕まえた。

 

「話を逸らして逃げようとしてもそうはいきませんよ。さっ、広間に参りましょう。伊賀守様からお話を聞いて、御殿様たちが首を長くして待っています。良いですね、龍興様?」

 

「…はい。」

 

 万事休す。もはや折檻は逃れられぬと察し、近江喜太郎こと一色龍興は力なく項垂れた。

 

 今宵はこれまでに致しとう御座ります。




近江喜太郎(一色龍興)
一色(斎藤)義龍の息子にして道三の孫。
史実において、酒と女に溺れた挙句に家を滅ぼした暗愚とされてきたが、近年の研究で評価が見直されつつある。宣教師ルイス・フロイスは『日本史』の中で龍興を『非常に有能で思慮深い』と評している。
近江喜太郎は龍興が御忍びで街に出る際の偽名であり、自分の幼名と母の名前からとってある。
普段から勝手に街に抜け出し、美人が困っていると素性を伝えず手助けするついでに御手つきにしたりしている。ちなみに今回助けた人妻は城の女中として雇った。

前野長康
五右衛門に仕える川並衆のまとめ役。原作における前野某に当たり、原作通り露璃魂である。
なお、史実の前野長康は織田家に仕える武家の家系の出自であり、秀吉には信長から与力として派遣されたのちに正式に配下になったとも言われている。
武人としては冷静で武勇に優れ、馬術の腕は信長にも褒められている。
また、建築士としての腕も一流であり、大阪城や聚楽第などの建築奉行も務めた。
さらに、茶道で利休に師事するとともに、文学や漢詩にも通じるなど、文化人としても名をはせた。

土岐頼芸
美濃の元守護。道三の策略により兄と家督争いを起こし、傀儡とされた末に追放された。
本人は道三の傀儡であるとこと、自分の実力では道三に抵抗したところで徒に美濃の民を傷付けるだけであることを自覚し、傀儡の身に甘んじていた。
文化人としては秀でた才があり、特に鷹の絵は非常に評価が高く『土岐の鷹』として珍重された。
追放後も芸に身を助けられ各地の大名家で庇護され、晩年は織田によって美濃に戻ることを許され、半年後に故郷の地にて生涯を終える。享年82歳。
なお、史実では孫の土岐頼高も鷹の絵を得意とし、豊臣、徳川で御伽衆として仕えた。

お猪
龍興付きの女中頭。落ち着きのある肉付きの良い姉御肌な人物で、たまに龍興が連れてくる身寄りのない女性を女中として雇う際の教育係も務めている。龍興より2つ年上であり、幼少期から龍興の身の回りの世話をしている。龍興の筆おろしの相手。
モデルとしたのは『センゴク』の斎藤龍興の側女の『猪姐さん』
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