嫌いじゃないけど、最後は後悔と恥辱に苦しんで死んで欲しいと思った大河主人公は初めてです。
「相良良晴と木下秀吉に御座いますか?」
「ああ、そうだ。明日お前に引き合わせようと思うのだが、どうだ、半兵衛?」
昼間に良晴達と出会い、竹中半兵衛と会わせる約束をした一色龍興は、その日の夕刻に菩提山城の離れにある半兵衛の庵に来ていた。
その頭には父のゲンコツによる大きなたん瘤が出来ており、時折痛みで顔を歪めている。
「…あの、龍興様、たぶんその二人と言うのは…」
「分かっている。間違いなく織田の人間だ。恐らく美濃への再侵攻に先駆け、調略にでも来たんだろう。」
「それが分かっていながら、なぜ?」
半兵衛と龍興は古い付き合い、それこそ幼少期からの既知の間柄である。
とある出来事により、家中では互いに嫌いあっていると噂される事もある二人であるが、実際には時折相手の居所に顔を出し、話をするくらいには良い関係を築いている。
とは言っても、大抵は諸事をほっぽり出して城を抜け出した龍興が避難所として半兵衛の庵に転がり込むのがほとんどであり、そのために幼馴染の御曹司が不仲説を放置している向きがあると半兵衛は見ていた。
故にそろそろ夕餉でもと思っていた時間にたん瘤を拵えた龍興が上がりこみ、食事を共にするとの名目でちゃっかりと自分の分の夕飯にあり付いたのも、また城で何かやらかして逃げてきたのかと思っていた所に先の会話である。
半兵衛からすれば、腑に落ちないと言った心境である。
一色龍興という人間は、好き勝手に生きているようでいて意外と機微に敏く、特に女性に対しては殊更気を使う気質である。
半兵衛に人並外れた対人恐怖症があるのも当然知っており、無理に出仕を迫る事が無いどころか、半兵衛など必要ないと公言し城から遠ざける配慮もするほどだ。(もっとも、そのせいで二人の不仲説が補強されるのだが。)
そのため、いきなり見知らぬ人間、それも敵対する国の間諜らしき人間と会うように言われても困惑が大きかった。
あまりにも龍興様らしくない。
そんな半兵衛の内心を予測してか、龍興は少しだけ身を乗り出すと真剣な目つきになった。
「実はな、そいつらお前の名を知ってたんだ。」
「私の名をですか?」
「ああ、先の織田との戦で織田軍を敗退せしめる策を練った軍師としてな。」
その瞬間、半兵衛の眼が俄かに見開かれる。そして口元を右の掌で覆うと、己の膝元に目を落としてブツブツと呟きながら思案に暮れだした。
時間にして十を数えた頃、半兵衛は龍興に目を戻すとゆっくりと口を開いた。
「龍興様、私が策を練っていたことは…」
「誰にも言ってねえ。あの策は親父が考案した事になってる策だ。お前があの策を練った軍師であることを知ってるのはお前と親父、そしてお前から直接策を聞いた俺の三人だけだ。」
織田が美濃に侵攻してきた折、慌しくなった城内を抜け出した龍興はいつものように半兵衛の庵に上がり込んでいた。
呆れて苦言の一つでも言いたかった半兵衛であるが、自分も人の事を言える立場では無いため、諦めて溜め息一つ吐く他無い。
そんな半兵衛の心境を知ってか知らずか、龍興は思い立ったかの如く『お前だったらどうやって織田を迎え撃つ?』と話を向けた。
それに対し半兵衛が返した答えが、織田軍を霧の出やすい谷間に誘導し霧に乗じて先鋒を撃滅する策であった。
地図と駒を用いて説明を受けた龍興は瞬時に策の有用性を理解すると、詳細を詰めた策の内容を半兵衛に紙にしたためさせ、父である義龍に献策した。
その際、表舞台に立つことを嫌った半兵衛は自分の名を世に出さないことを懇願した。
もとより半兵衛の性格をよく知る龍興はこれを了承し、義龍にも同意させた。
これにより、織田軍を撤退に至らしめた策は義龍が考案し成したものであると美濃では周知されていた。
「にも拘らず、織田の人間が真の軍師は誰であるか見抜いていた。親父が口を滑らすとは思えねえ。」
「わ、私も誰にも話してません!」
「だよな。ならどうして良晴はあの策を講じたのが半兵衛だと知ってたのか。気になって仕方がねえなあこりゃ。」
そう言って不敵な笑みを浮かべる龍興に、半兵衛はようやくその真意を理解した。
「私にその者たちを見極めよと?」
「それが一つ、もう一つは勘だ。」
「勘?」
「そうだ。お前とあいつらを引き合わせたら、何か必ず面白いことが起きる。俺の勘がそう告げるんだ。」
「……あまり理に適っているとは言えませんね。」
「そりゃそうだ。所詮ただの勘だからな。だが時として面白いということは、合理的であることよりも良い結果を生むこと事もあるんだぜ。」
その話しぶりから察するに、どうやら龍興の中では半兵衛と尾張からの間諜を引き合わせることは決定事項らしい。
とはいえ、半兵衛からしても自分の軍師としての姿を知っている者が他国にいるというのは、純粋に興味をそそられる事でもあった。
なにより、木下秀吉という名が無性に気になる。
「わかりました。明日、その方たちとお会いします。」
「ははっ、あんがとよ。けど意外だな。」
「意外ですか?」
「ああ、もう少しごねるもんかと思ってた。」
「……もしかすると、私にとって天命とも呼べる出会いがあるように思えましたので。」
「ああん?なんだそりゃ。」
奇妙な物言いに龍興が問いかけると、半兵衛は珍しく悪戯っぽい笑みを浮かべ答える。
「ただの勘です。」
伊吹山地の東端に位置する菩提山。この地の豪族であった岩手氏を滅ぼした竹中重元が菩提山の山頂に築いたのが、竹中氏の居城である菩提山城だ。
先の美濃国内の動乱において道三方についた重元は、義龍勢から城を攻められるも籠城の末これを退けている。
その後、道三が尾張に逃れてから間も無く、重元は義龍に降伏し隠居、それから暫くして病から此の世を去った。
家督を継いだ竹中半兵衛重治は、先代が主君へ槍を向けた禊として稲葉山城への参内を見合せると共に、居城ではなくそのすぐ近くに建てられた庵で生活している。
良晴と秀吉は、喜太郎に案内され庵へと続く山道を登っていた。
「はぁはぁ、おい喜太郎。まだ、着かないのか?」
「もうちょいだから確りしな。案外だらしねぇんだな良晴。」
「うるせぇ。ちょっと山道を歩き慣れてないだけだ!」
「へいへい、そうかい。おうい、秀吉は大丈夫か?」
「うむ、この程度であれば他愛なく。」
喜太郎からの問い掛けに答える秀吉。その表情は言葉通り涼しげで、良晴と違い山登りを苦にした様子は無い。
しかし、良晴はそんな秀吉に僅かな違和感を覚えた。
普段に比べれば言葉少なで、受け答えもどこか心非ずであった。
以前実家に里帰りした時とも似ているが、あの時醸し出していた後ろめたさとはまた違った様相である。
「秀吉さん、本当に大丈夫なのか?」
「うん、気遣い無用じゃ。」
心配する良晴の問い掛けにも何処と無く素っ気ない。
今日の秀吉は妙に人を遠ざけているようであった。
「見えてきたぞ。あれだ。」
そうこうしている内に、一行は山の中腹にある開けた場所に建てられた小さな庵にたどり着く。
素朴という言葉が似合う、喧騒とは無縁の空間であった。
「ここに竹中殿が?」
「ああ、中で待ってる筈だぜ。」
三人の先頭に立った喜太郎は、慣れた足取りで庵の玄関に向かい戸を開いた。
「よう半兵衛、俺だ。」
「…お待ちしておりました、近江様。お連れの方は?」
「後ろにいるぜ。さあ二人とも、入ってくれ。」
喜太郎に促され秀吉達は敷居を跨いで庵に入る。
そして、玄関の奥で正座をし、涼やかな笑みを浮かべる青年と相対した。
「御初にお目にかかります。竹中半兵衛重治に御座います。どうぞよしなに。」
「……木下と申します。」
「あっ、俺は相良良晴って言います。初めまして。」
言葉少なな秀吉と、少し緊張した様子の良晴と挨拶を交わした半兵衛は一行を奥の部屋へと案内する。
綺麗に片付けられた板張りの間へとたどり着くと、部屋には既に四人分の座布団が敷かれていた。
「いま茶を用意します。」
そう言って一旦半兵衛は部屋を出る。
程なくして湯気の立った茶碗を載せた盆を持って帰ってくる。
「粗茶ですが。」
「…忝ない、頂戴致します。」
礼を言って椀を口に運べば、程よい熱さが喉を通り、同時に爽やかな渋みと微かな甘さを含んだ苦味が鼻を抜けた。
「さて、お二方は私と話をしたいと聞いてますが。」
秀吉達が茶碗から口を離したのを見計らい半兵衛が切り出すと、秀吉は「ふうむ」と顎を撫でた。
「確かに美濃にその人在りと噂される竹中殿と語り合いたいとは思っていましたが、こうも都合良くお会い出来るとは思っておりませんでした故、いざ相対しますとどうも…」
「おや、そうでしたか。でしたら、改めて茶席でも用意いたしましょうか?」
「それも良きに御座いましょうが、竹中殿は碁を嗜まれますかな?」
「碁、ですか?」
「はい。ほら、あそこに。」
秀吉が指し示した部屋の隅には、年代物の碁盤が鎮座している。
「…手慰み程度でありますが。木下様はお上手なのですか?」
「いやいや、大したものでは。以前、とある御方に師事した事がある程度で。」
「なるほど。では、打ちましょうか。」
「はい。打ちましょう。」
そうして、竹中半兵衛と秀吉の碁が始まった。
庵にはパチリ、パチリという石が置かれる音のみが響き、居合わせた者達は黙ってその音に聞き入っていた。
程なく盤上が進み、白黒の模様が半分ほど埋めた頃合いに喜太郎が良晴の袖を引っ張った。
「ん?どうしたんだ?」
「おい良晴、あいつはどこぞの良家の生まれか?」
「あいつって秀吉さんか?いや、普通の農家出身だけど。」
「信じられぬ。これ程の打ち上手、美濃中を探してもそうは見つからぬぞ。」
「ええと、つまり秀吉さんが有利って事なのか?」
囲碁のルールなど殆ど分からない良晴の問いに、喜太郎は大きく頷いた。
「半兵衛に攻めさせた上で見事に捌いていやがる。まだ盤上の形は互角だが、先の展開を広げる道筋を幾つも作ってる。ほら、半兵衛の顔を見てみろ。」
促されるままに良晴が半兵衛に目をやると、無表情を装っているが鼻の頭に汗をかき、耳の先は朱を帯び、今の半兵衛の心情を如実に表していた。
そうして終盤に差し掛かる頃には、対戦は指導碁の様相を呈していた。
秀吉の『これならどうする?』と問い掛けるような一手に、半兵衛が時間をかけて応えると、秀吉は更に問の一手を打って返す。
半兵衛も途中で投げ出す事をせず、一手一手粘り強く丁寧に答えを出す。
だがそれも、長くは続かない。
「………参りました。」
半兵衛の口から出た言葉で対戦は終了した。
それを受け、秀吉は大きく息を吐いた。
「有り難う御座います、竹中殿。善き碁でした。」
「…いえ、私の方こそ。お強いのですね、木下様。」
「いやはや全くだ。お前さんとんでもねぇ爪隠してやがったな、この野郎。」
半兵衛と喜太郎が揃って賛辞をすると、秀吉は照れ臭そうに頭をかく。
「はははっ、有難い御言葉です。さあ、それでは感想戦と参りましょう。ほれ、良晴も近こう寄れ。」
「えっ、俺も!?」
「お主は石の置き方も知らんじゃろ。儂らが教えよう。」
「お、おう。」
戸惑いながらも良晴が三人の輪に加われば、検討会が始まった。
先ほどの対局の感想戦では「ここはこう置けば良かった。」「ここで悪手が次に繋がる展開に変わった。」などと経験者が盛んに意見を交わし、次に未経験者の良晴に対する講義に移る。
初めは石の持ち方さえ覚束無い良晴であったが、熱を帯びた秀吉達の指導に当てられ、基本的なルールを覚えるに至り何となくではあるが囲碁の面白さに目覚め始めた。
そうして意外と筋が良いと褒められ調子に乗って喜太郎に挑んでみれば、赤子の如く捻られた。
悔しがる良晴を宥めつつまた検討をし、次は秀吉が喜太郎と打ち決着をつけてまた検討、それを繰り返していけば何時しか日は暮れ始め、翌日また伺うと約束し、その日はそれで解散となる。
そうした碁盤を囲んだ若者達の語らいを、隠し戸の向こうで一人の少女が窺っていた。
「いやあ、初めて囲碁やってみたけど結構面白かったな。将棋と比べてもそこまでルールが複雑じゃねぇし。」
「じゃろ?儂も最初は信長様の薦めで始めたんじゃがすっかり嵌まってのう。本因坊にも習って本格的に碁を学んだんじゃ。」
菩提寺山からの帰り道、良晴と秀吉は宿を目指し歩きながら本日の会合について語り合っていた。
夕日が照らす二人の表情は実に晴れやかである。
秀吉にとっては今世に来て久しぶりに存分に碁を打った事の満足感、良晴は新たな娯楽に触れた事の新鮮味に満たされ、共に充実した高揚感に浸っていた。
「本因坊ってのは良く分かんねぇけど、秀吉さんって碁が好きだったんだな。」
「まあの。ところで、四百年後でも碁は人気か?」
「うーん。あんまり普段は触れる機会が無いなぁ。昔囲碁の漫画が流行ったけど最近はあんまりだな。あっ、でも将棋だったら最近すごい天才が現れてブームになってるぜ。」
「ほう、未来では将棋のほうが人気か。儂も将棋は好きじゃが、碁に比べるとどうも下手でのぅ。何とか勝てるよう色々工夫したのじゃが。」
「へぇー、そうだったんだ。って、そうじゃねぇだろ!?」
「うおっ、どうした突然!?」
思い出したかのように大声を上げる良晴に秀吉は驚き、どこか焦った様子の良晴に尋ねる。
「どうしたじゃねぇよ!結局今日一日碁をしてただけじゃんか!調略の話はどうしたんだよ!?」
「………お主はアホか?一色家の者が目の前にいて、どうして一色家の家臣を口説ける。」
「…あ。そういや喜太郎って一色の人間か。」
「まったく御主は。それに、あの男を調略する意味はない。」
そう言って秀吉は少し不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「竹中半兵衛があんなぬるい打ち方をするものか。」
その言葉に良晴は疑問符を浮かべるが、丁度その時二人の間に割って入るように小さな人影が現れた。
「主よ、今戻りました。」
「うおっ!?って、五右衛門かよ。」
現れたのは朝から姿の見えなかった五右衛門である。
どうしてこの場に彼女がいるのか問おうとした良晴であったが、それより早く秀吉が口を開く。
「首尾はどうじゃった?」
「はい。予想通り、裏手口とは別に屈んで入れるようにしてある小口が有りましちゃ。おしょらく、ありゅじたちがいちゃ部屋にょ隣に隠しべひゃがありゅのではなゃいかと。」
五右衛門の報告に良晴の目が見開く。それと同時に先程の秀吉の言葉が頭の中で結び付いた。
「秀吉さんっ、もしかしてさっき会った半兵衛は!?」
「…お主の想像通りよ。まぁ何、時間はたっぷり有ることじゃし、気長にいくかの。」
鳴かぬ相手を鳴かせるのは得意だが、時には鳴くまで待つのも悪くない、と秀吉は言う。
「元よりそう簡単に半兵衛と会えるとは思っておらぬわ。ここは一つ、内府殿に習うとするかのう。」
その翌日、秀吉達は昨日と同じように半兵衛の庵を訪れ、相も変わらず半兵衛と喜太郎と碁を楽しんだ。
次の日も同様だ。
思い思いに碁石を置き、時折盛んに意見を交わし、休憩時間には漢詩の訳しかたについて話したりもした。
それは、ある程度教養の有る者にとっては非常に心地好く、充実感に満ちた時間であろう。
そうした日々が五日ほど続いたある日、いつものように庵に着くと半兵衛と喜太郎以外にもう一人、色の白い小柄な少女がいた。
秀吉達にとって初めて出会う、見知らぬ少女である。
しかし、秀吉だけは少女に対して妙にしっくりと来る感覚を覚えた。
「このおなごは半兵衛の親戚の子でな、秀吉達と碁に興じている話をしたら是非とも自分も参加したいと我が儘を言ってきてな。一つ相手をしてやってくれ。」
からかうように喜太郎が紹介すれば、少女はムスッと眉を寄せながらも美しい所作で頭を下げた。
「月と申します。よろしくお願いいたします。」
「…木下藤吉郎でございます。どうぞよろしく。」
それだけ言うと秀吉は黙って碁盤を準備する。心なしか急いている様子だ。
少女は虚を付かれた風に少し肩を跳ねさせるが、すぐに落ち着いて自分の分の石を用意する。
不思議な人だ。
少女は盤上から目線を外し、上目遣いで対面に座る男を見る。
木下秀吉は、いつになく真剣な表情で石を握っていた。
暫しその顔を眺めていた少女であったが、不意に秀吉の視線が動き慌てて盤上に眼を戻す。
ここ数日、少女は隠し部屋からずっと目の前の男を伺っていた。
それでまず思ったのは、木下秀吉という男は実にチグハグな人だという事だ。
身なりや言動から見て決して高貴な身分や歴史の有る家に仕える家人ではない。精々、地方武家の侍大将が良いところだ。
歳も見た目ほどとって無いだろう。一見四十を越えているようにも見えるが、声の張りや機敏な動作は若人のそれである。
にも関わらず、少女には家格とは縁も所縁も無さそうな小男が、宮中に巣食うの老練な公家と重なって見えた。
発言や所作には確かな教養と品位がある。それも取って付けたような急拵えの知識ではなく、実践の中で磨き上げられた本物の礼儀作法である。
いったいどこでどうやって身に付けた物なのか?
少女にとって興味を持たずにいられない疑問であった。
また、時折相手を見透かすような視線を投げ掛けたかと思うと、賑やかな笑顔と共に相手の懐に入り込み心を掴む人たらしっぷりは思わず舌を巻く程だ。
少女にとっての忠臣であり、今は半兵衛を名乗っている青年もいつの間にか秀吉の来訪を楽しみにするようになった。
龍興は一歩下がった姿勢ではあるが、好感を抱いているのは間違いない。
二人とも初めて秀吉達がこの庵を訪れた日から、良晴を交えて実に楽しそうに碁に興じ、文化を語り合っている。
………羨ましくない、と言ったら嘘ですね。
心中でそう呟けば、意地悪な笑みを浮かべる龍興が脳裏に現れる。
少女は頭を振って幼なじみの残像を追い払い、別に我が儘は言ってないでしょう、と言い訳をする。
秀吉達を見極めろと言ったのは龍興だ。
確かに四人の輪に加わってみたいと思ったのは事実だが、偽名を使い秀吉と相対したのは、あくまでもその人となりを見極めるためである。
そう結論付けて一旦盤上に意識を集中する。
戦況は互角か、やや少女が有利といった状況だが、一手でも下手打ちすれば一気に逆転され、そのまま押し切られる恐れもある。
これ程緊迫感のある碁は少女にとって久々であった。
隠し部屋から見ていて相当打てるとは思ってはいたが、実際対戦してみるとその実力に見誤りは無かった。
面白い。
心中で呟き思わず微笑んでしまった少女は、己自身に驚いた。
少女は自他共に認める対人恐怖症である。初対面の人と真面に話せた覚えは無い。
それが、この猿顔の小男に対しては殆ど人見知りが出ないのだ。
十数年に及ぶ己の人生を思い返しても、木下秀吉という人物と出会った記憶は微塵もない。
なのに、対面に座っても緊張しないどころか妙に居心地の良さを感じてしまう自分自身に、少女は戸惑いながらも嬉しく思っていた。
「…ううっ」
「えっ!?」
不意に圧し殺したような唸り声が聞こえた。
目線を上げると、秀吉が感極まった様相で涙を流している。
盤上から目を離さず、顔を震わせながらも万感に耐えようとし、それでも耐えきれず溢れた涙の雫が手の甲に落ちていった。
「も、申し訳御座いませぬ!いま暫く、暫く…」
拳に落ちる雫の感触に気付き、右手で目元を押さえ必死に堪えようとするが、一度流れ出した涙は途絶えること無く、秀吉の顔を濡らし続ける。
気付けば少女は身を乗りだし、秀吉の左手を己の両手で包んでいた。
「月殿!?」
少女の行動に驚き、秀吉はその顔を見つめる。泣き腫らした真っ赤な眼に少女の姿が写った。
「木下…様…」
それ以上に少女の言葉が続かない。
今日初めて言葉を交わしたはずの男が涙を流す。何がこの男に涙を流させるのか分からないが、それがどうしようもなく心苦しかった。
この人にこんな顔をさせたくない。だが、その手を握り、名を呼ぶ事しか出来ない。
どうして泣いていらっしゃるのですか?
どうしたら泣き止んで頂けますか?
胸中に疑問が沸き上がり、だけどそれが胸につっかえて言葉になら無い。
生まれて初めての感覚に混乱する。
もどかしい想いに苛まれ、少女の視界がじわりと滲んだ。
すると、秀吉のもう一方の手が少女の手に重なった。
「ありがとうございます、月殿。もう大丈夫、心配御無用です。」
穏やか言葉と共に微笑みかけ、秀吉は大きく深呼吸をした。
「失礼を致しました。続けましょう。」
そう言って手を離すと、秀吉は先程までと同じように石を置く。
パチリという音が、少女には矢鱈大きく聞こえた。
「参りました。本当にお強いですなぁ。」
敗北を認める秀吉の言葉には晴れやかさすらあった。
まるで負けたことが嬉しくて仕方無いと言った風ですらある。
しかし、勝者であるはずの少女は胸の苦しさに耐えられなくなり、碁盤を挟んで平伏する。
「申し訳ありません木下様!私はっ…」
「月殿っ!」
秀吉は少女の仮の名を呼び、彼女の言葉を続けさせなかった。
「大声を出して申し訳ありませぬ。然れど、私は今日、月殿と碁を打てて嬉しかった。今はそれで十分です。」
その言葉に少女は察する。
ああやはり、この方は既に気付いている。いつ頃気付いたのかは分からぬが、気付いた上で自分を慮っているのだ。
その気遣いを嬉しくて思うと同時に、このまま月という少女であり続ける事の後ろめたさを感じる。
だけど今は、秀吉の気遣いを有り難く受け取るべきだと、少女は小さく笑みを作った。
「…分かりました。私も木下様と碁が打てて楽しかったです。願わくば、これからも時々で良いので…」
「私にとっても有り難きことっ!まだ暫く美濃には滞在する予定ですので、出来る限り会って頂ければ幸いで御座います!ところで、月殿に一つ御願いしたき事があるのですが…」
「…はい、何なりと。」
少女の言葉を受け、秀吉は恐る恐る己の願いを口にした。
「…私の事を『藤吉郎』とお呼び下さい。」
「『藤吉郎』さま…」
小さく呟いてみると妙に口に馴染んだ。この方を呼ぶにはこれ以外に無い、と思わせる程に少女の中でしっくりと納まった。
「分かりました。これから宜しくお願いします。藤吉郎様。」
そう呼び掛けられた時の秀吉の表情を、少女は生涯忘れる事は無いだろう。
至極の喜びというのはこの事を言うのだと確信できる程の大輪の笑みが、そこにあった。
ああ、なるほど。私はこの笑みのために…
この日、少女は知った。己が運命を預けれる人がいる事を。
今宵はこれまでに致しとう御座ります。
・秀吉と碁
作中の通り、史実の秀吉には碁に関する逸話が幾つかあり、同年代の武将の中では屈指の実力者であったと言われている。
また、将棋についても好んでいたとされるが、あまり強くはなかったらしく、自分が有利になる『太閤将棋』というルールを考案したとされる。
・竹中半兵衛(月)
原作既読者で無くてもお察しの通り、竹中半兵衛を名乗った青年は影武者であり、『月』と名乗った少女が本物の竹中半兵衛である。偽名の由来は史実半兵衛の正妻の『得月院』から。
原作だと軍師であるのと同時に陰陽師の側面もあるが、本作では史実に準拠し陰陽師要素は排除している。なので、前鬼は登場する予定はない。
本作では龍興と幼なじみであり、とある出来事により本人同士と周囲とで認識に差が生まれている。
・偽半兵衛
正体は史実で竹中半兵衛の忠臣であった喜多村十助直吉。半兵衛から篤く信頼され、黒田官兵衛に裏切りの疑いが掛かり、信長の命で息子の松寿丸(後の黒田長政)が処刑されそうになった時、半兵衛に頼まれ松寿丸を匿ったとされている。