太閤転生伝   作:ミッツ

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戦支度

 秀吉達が美濃に来て二月が経とうとしていた。

 既に季節は秋が深まり、殆どの農家が稲刈りを終え、農村では収穫祝う祭りの真っ最中である。

 そんな山の麓から聞こえる祭り囃子に耳を傾けつつ、暮れ泥む夕日が照らす縁側で、秀吉と月は今日も今日とて碁に興じていた。

 

「良くもまあ、飽きもせず毎日毎日続けられるもんだなぁ。」

 

「ああ。まあでも、二人が楽しそうなら良いんじゃね。」

 

「そりゃそうだがな。」

 

 そう言いながら鹿の干し肉を齧るのは、喜太郎と良晴である。二人は庵の奥から秀吉達を眺めながら、鹿肉を肴に酒を嗜んでいる。

 

「それにしても、もう二ヶ月か。なんかあっという間だったな。お前ら、明日には尾張に帰るんだよな。」

 

「おう、特に予定が変わらなければな。」

 

 元々良晴達が信奈から命じられた調略の期間は二月。

 その期間が目の前に迫り、二人は一旦尾張に帰らなければならなかった。

 

「でもほんと、色々良い経験が出来たな。ありがとな、喜太郎。」

 

「良いってことよ。でもな良晴、俺は一つだけ心残りがあるんだ。」

 

「心残り?一体何だよ?」

 

 喜太郎らしからぬ憂いた表情に、良晴が不安になって尋ねると喜太郎は言った。

 

「良晴、俺はお前に童貞を捨てさせる事が出来なかった!」

 

「ちょ!?おまっ!」

 

 心底無念そうでいて実質茶化している喜太郎に、良晴は慌てふためく。

 

「いやー、秀吉と一緒に『花宿』に連れていくまでは良かったが、まさか本番で緊張し過ぎて勃たなくなるとは思わなかったぞ。」

 

「声押さえろって!月に聞こえるだろ。」

 

「大丈夫大丈夫。あの通り、碁に集中してて気付いてねぇよ。というか、どうせ明日にゃここを離れる訳だし、最後の想い出作りで今夜もう一回挑戦しねぇか?」

 

「……いや、やめとく。明日に影響したらいけねぇからな。」

 

「そうか、お前がそう言うならやめとくか。」

 

 暫し悩んだ末に良晴は喜太郎の申し出を断れば、喜太郎も特に気にした様子もなく了承する。

 

 そうして束の間の沈黙が場に流れると、喜太郎は少しだけ真剣な面持ちで盃を置いた。

 

「…なあ、良晴。」

 

「ん?」

 

「お前ら、一色家に仕える気はないか?」

 

「えっ!?」

 

 ついさっき色宿に誘った時と同じ軽い調子、されど内容の重みは全く違う誘いに良晴は目を白黒させ喜太郎を見つめる。

 喜太郎の顔からは冗談の色は一切感じられない。

 

「どうしたんだよ急に?」

 

「いやな、前から考えてはいたんだ。お前達はちゃんとした教育を受けていて中々優秀だ。このまま在野に放しておくには惜しいだろう。それに…」

 

 言葉を切り、喜太郎は縁側へと目線を向けた。

 

「あいつもお前らの事を気に入っている。滅多に無いんだぜ、あいつがここまで懐くのは。」

 

 そう言って微笑みを浮かべる喜太郎の姿は、妙に様になっている。

 佇まいに気品があるとも言えるだろう。

 こうして勧誘を受ける事さえ名誉に感じ、思わず二つ返事で了承したくなる魅力があった。

 

 だからこそ、良晴は居ずまいを正すと表情を引き締め頭を下げた。

 

「ありがとう。けど、悪ぃ。その誘いは受けられねぇ。」

 

「…そうか。一応理由を聞いても良いか?」

 

「…ほっとけない奴がいるんだよ。なんつうか、賢いけど破天荒で癇癪持ちで、その癖に人並みに傷付き易いっていう。ぶっちゃけ相手にすんのは面倒臭いけど、ほっとけなくてさ。だから、あいつを置いてお前の所には行けねぇ、」

 

 すまん、と言って頭を下げる良晴を暫し見つめた喜太郎は、再び盃を取ると酒を満たした。

 その酒を一気に煽ると、にやついた笑みを浮かべた。

 

「なあ、良晴。お前、惚れた女がいるな?」

 

「んなっ!?なななな何言ってんだよ急にっ!?」

 

「くくくっ。誤魔化さなくても良い。そうか成る程、だから花宿では勃たなかったのだな。いざその時を前にして、気になる女の顔が浮かんだのだろう?」

 

「ち、違ぇよっ!俺にとってアイツはほっとけない奴で、まぁ憧れみたいのはあるけど、だけど好きとかそういうのじゃっ!?」

 

「おや、俺は好きな女がいるなと言っただけで、お前が先程申した奴が好きなんだなとは言って無いが?」

 

「あっ、て、てめぇ…」

 

 悔しそうに喜太郎を睨み付けるが、当の本人は愉快そうに酒を飲むばかりである。

 ぐぬぬ、と奥歯を噛み締める良晴であったが、やがて諦めたのか大きく息を吐き自分の盃に酒を注ぎ口にする。

 

「…確かに気になる奴ではあるけど、惚れたとかそんなんじゃねぇぞ。これはマジだかんな!俺はただ、アイツの夢に惹かれたんだ。」

 

「ほぅ、そうか。まあ、そらならそれで良い。男に袖にされる理由としては上出来だ。気になる女の夢を叶えてやる。男として、この上無き誉れだろ。」

 

「…そう言うもんか?」

 

「そう言うもんだ。少なくとも、俺にとってはな。」

 

 相変わらず愉しげに酒を嗜む喜太郎であったが、その目が不意に細間り、瞳に怪しげな光が灯った。

 

「それにしても、良晴が其処まで惚れ込む女か。どれほど良い女か、一度会ってみたいものだ。」

 

 そう言って唇を舐める妖艶な様に、良晴の背に言い表せぬ寒気が走るのであった。

 

 

 

 なお、売春宿に行った下りはバッチリ聞かれており、後日喜太郎は父親から有難い説教を受ける羽目になるのだが、それはまた別の話である。

 

 

 

 

 

 翌日、良晴と秀吉、それと五右衛門の三人は尾張へと下る船の上にいた。

 朝イチに二月暮らした宿を引き払った三人は、見送りに来た月と喜太郎に別れを済ませ、帰路へと付いている。

 そうして南に向かい川を下る船の上で、良晴は小さくなっていく美濃の地を振り返っていた。

 

「なんかあっという間だったな。俺、ここに来れてすげぇ良かったなって思ってる。」

 

「そうか、それは良かった。」

 

「………秀吉さん、ごめん。無理やり付き合わせちゃって。」

 

「…何を謝る?」

 

「秀吉さんはさ、半兵衛を調略したくなかったんじゃないか?」

 

 突然の謝罪、そして今回の美濃来訪の前提を覆しかねない問い掛けをされるも、秀吉は感心した様子で良晴に笑みを向ける。

 

「ほう、儂が一度も半兵衛を誘う素振りを見せなかったから、そう思うたのか?」

 

「どちらかと言うと、初めてちゃんと顔合わせした時かな。あの時、秀吉さん凄く嬉しそうだったじゃんか。それで気づいたんだ。秀吉さんにとって竹中半兵衛は、大切な部下じゃなくて、大切な友達だったんじゃないかって。」

 

 少々弱気に、しかし確かな自信を持って己の推論を語る良晴に、秀吉は目を細める。

 

 やはりこの小童、人を見る目がある。

 単に未来の知識を知るだけでなく、目の前の出来事から情報を組み立て、その上で人の心情を推測し、結論にたどり着けるだけの知恵がある。

 

 まあ、時々間の抜けた事も仕出かすが、それはそれで愛嬌があって人の心を和ませる。これもまた、良晴という男の将器かもしれぬ。

 

 そんな事を思いながら、秀吉は良晴に倣って後方に視線を向け、その遠くに見える山を見据えた。

 

「…上に登っていくとな、友と呼べる者が少なくなるんじゃ。」

 

 思い出すのは、かつて戦場を共に駆け抜けた者達の顔。

 いずれは大きな手柄を立て、一国一城の主になるのだと。そう酒宴の席で宣えば、おうやって見せよ藤吉郎、そう囃し立ててくれる友だった。

 あの頃は酒は買えても宛を買う金が無く、夢話を肴に酒を飲むしかなかったが、それでも十分楽しかった。

 

「みな儂の事を藤吉郎と呼んだ。それがいつしか筑前守と呼ぶ者が増え、関白殿下と呼ばれる頃には藤吉郎と呼ぶ者はおらんくなった。」

 

 弟や妻でさえ、いつしか殿下と呼ぶようになった。そう呼ばねばならなくなった。

 

「半兵衛は、半兵衛だけは最後まで藤吉郎と呼んでくれた。」

 

 もし、前世で半兵衛が生き続けていれば、二人の関係はどうなっていただろうか?

 不思議と秀吉には、それまで通り友であり続けてくれるような気がした。

 そこに己の願望が含まれていることは理解している。

 だがそれでも、己の知る半兵衛ならば、困ったように笑いながらも楽しそうに他愛のない与太話に付き合ってくれる。そんな、奇妙な信頼があった。

 秀吉にとって竹中半兵衛とは、二度と失いたくない大切な友であった。

 

「月殿に戦場は似合わぬ。あのお方はあの地で健やかに過ごし、よき伴侶を得て、子を産み、長生きしてほしい。」

 

「……そうだな。」

 

 秀吉の言葉に良晴が同意する。

 すでに美濃の地は遠く見えなくなった。

 されど秀吉たちの胸中には、言い表せぬ満足感に満たされていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで結局、何一つ成せずにおめおめ帰ってきたという訳ね、馬鹿猿どもが。」

 

「いや何もやってこなかったわけじゃ…」

 

 言い繕おうつした良晴に対し、信奈はピシャリと扇子で床を叩いて言葉を止めさせる。

 その額には青筋が走っており、言葉もいつも以上に刺々しい。

 要するに、信奈は機嫌は殊更悪かった。

 

「言い訳無用!この二月、家中の者たちは先の敗戦を取り返さんと皆必死に働き成果を上げているわ。なのにあんた達二人は主命を授けられながらも満足な手柄を上げる事が出来ず、無為に時間と労力を消費した。情けないとは思わないのっ!」

 

 美濃から帰還した秀吉たちの報告を聞いた信奈からのぐうの音も出ない叱責に、流石の良晴も黙るしかない。

 今回美濃へ行った目的は、竹中半兵衛を調略すること。

 主命を全う出来なかった以上、それはまごう事無き失態である。

 

「ははあ、信奈様のお叱りはごもっとも。この秀吉、恐懼してお詫び申し上げまする。」

 

「謝るだけなら猿でも出来る!あんた達分かっているでしょうね?主命を受け、施しを受けた以上、それに見合う成果を出すのは配下の義務よ。あんた達にも少なくない支度金を渡しているわ。それに見合うだけの責任は取らせねば、他の者たちのへの示しがつかないわね。」

 

「せ、切腹でもしろってのか?」

 

 震える声で尋ねる良晴に、信奈は冷たい視線を向ける。

 

「ええそうね。それも一つの責任の取り方よ。私はあまり意味があるとは思わないけど、責任を取るという意味では一番わかりやすいわね。それで、どうするの?切腹するの?しないの?」

 

 どうあっても責任は取らせるという信奈の剣幕に、流石の良晴も閉口し、助けを求めるように隣で首を垂れる秀吉を見る。

 すると秀吉は、それまで床に向けていた視線をゆっくりと上げた。

 

「もし、信奈様より切腹せよと命ぜられれば、この木下藤吉郎秀吉、天武此方無き腹割きを以てその責を果たしましょう。」

 

「ちょ、秀吉さんっ!?」

 

「なれどただ腹を割いただけでは、責を取れど失態を取り返したとは言い難し。然らばこの木下、信奈様の主命失敗のお侘びとして、献上したき物が御座います。」

 

「……へぇ、詫びの品をね。いったい何なのかしら?」

 

 尚も厳しい表情を崩さず、されど少しばかりの興味を示しながら信奈が問えば、秀吉の瞳にギラリとした力強い光が灯った。

 

「美濃との国境、そこに城をご用意いたしました!」

 

 秀吉の言葉に信奈と良晴は固まる。いや、彼らだけではない。

 小姓や侍女、たまたま居合わせた家臣たちまで、皆一様に呆気に取られていた。

 その中で一番早く動き出したのは信奈であった。

 

「…聞き間違いかしら。秀猿、今あんた城を用意したとか言った?」

 

「はっ、間違いなく!場所は長良川の西岸の墨俣。元は斎藤為利が築き、今は廃城となった城が御座います。そこに我が家臣前野長康を詰めさせ、山賊に扮し部下達と共に城の修繕を取り仕切っております。」

 

「それってもしかして『墨俣一夜城』かっ!?そういや美濃に着いたから長康をずっと見てなかったけど、ずっとそっちに。どうして言ってくれなかったんだよ!」

 

 美濃での日々を思い返せば、行きの道中は一緒だったがその後は別行動だった前野長康。

 それが秀吉の密命を受けて後世に名高き偉業『墨俣一夜城』に関わっていた事を知り、良晴は驚愕すると共に問い詰める。

 

「すまんな。なにぶん敵地であるに何処に目や耳が有るか分からぬ故、迂闊に口には出来ぬでな。」

 

「うーん、そう言われればそうだけどよ。」

 

 理由を聞かされれば納得できるが、自分の知らぬところ歴史のターニングポイントが過ぎ去った事に良晴の心情は複雑であった。

 

「ていうか、墨俣城って言ったら川の上流から加工した材木を流して、ソッコーで組み立てることで一晩で作った城じゃなかったのかよ?」

 

「はぁ?一晩で城が建てれるわけが無かろう。さっきも言ったように廃城になった城を修繕しただけじゃ。材木も近場から取ってきたわ。」

 

 まぁ尤も、小田原では一晩で城を建てたように見せ掛けた事もあったが。と秀吉が内心で呟いたのも知らず、良晴は「歴史ロマンが…」などと嘆き始める。

 

「………ヒヒッ」

 

 不意に引き吊ったような甲高い音が聞こえる。

 音の出所を探れば、顔を真っ赤にしてプルプルと震える信奈の顔があった。

 

 後に『信奈公記』において太田牛一は、この時の事をこう記している。

 

『信奈公の御機嫌、甚だ良き』

 

「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!!!」

 

 狂った鳥のような甲高い笑い声を響かせ、信奈は腹を抱えて床を転げ回った。

 

「ヒィヒィ…ちょ、調略しに行って…城を建ててくるとか…何よそれっ!面白すぎるでしょっ!?ああ、もうダメッ!アハハハハハハッ!」

 

「ひ、姫様、その…」

 

 信奈のあまりに狂乱する様に、小姓達も何と声を掛けて良いか分からぬ様子。

 良晴をはじめとした家臣たちも、普段とは全く違う姿に目を丸くしている。

 一方で秀吉は信奈が笑い転げる姿を懐かしそうに見ていた。

 

 織田信長も笑いの沸点が独特であり、笑顔を作る事はあっても笑い声をあげる事は滅多に無かったが、ひと度ツボに入ると人目を憚らず笑い転げていた。

 

 最後に見たのは松永久秀を成敗した時の戦功報告だったか。

 泥塗れになった古田織部が、焼け焦げた鉄屑を袋に入れて現れ「殿が御所望の名器『平蜘蛛』。松永久秀より奪って来ました。」と宣った。

 それを聞いた信長は大爆笑し「忠心見事っ!おみぁーは天下一のひょうげものだきゃー!褒美としてその平蜘蛛、おみゃーにやるっ!」と、その功を讃えた。

 その時の信長の姿が、目に涙を浮かべて床を叩いている今の信奈と重なって見えた。

 

「あー、お腹痛い。秀猿、城の規模は如何に!」

 

「修繕が済めば三千は詰めれるかと。十日も戴ければ、さらに五百は増やせましょう。」

 

「でかしたわ秀猿!失態を取り返して余りある武功よ!その功を以て、竹中半兵衛の調略失敗を不問とするわ。」

 

「ははっ!有り難き幸せに御座います!」

 

 そう言って頭を下げる秀吉に続き、良晴も慌てて頭を下げた。

 なれど、その胸中には悔しさが渦巻いていた。

 未来の知識を駆使し、竹中半兵衛を味方に付けようとしたがそれも叶わず。

 その失態に己のみならず秀吉まで巻き込んだ挙げ句に、尻拭いまで押し付けてしまった。

 その悔しさも然ることながら、先程と打って変わって機嫌の良い信奈が秀吉にのみ笑顔を向けていることに、良晴に言い表せぬ苦しさ感じていた。

 

「さて、猿達の報告も聞いたことだし今日はもう帰って休みなさい。ねねが寂しがってたわよ。」

 

「ははあ、承知いたしました。」

 

「その代わり、明日の評定には遅れず来ること。なんてたって、美濃攻めの今後を占う大事があるんだから。」

 

「え、何があるっていうんだ?」

 

 含みを持たせた信奈の言い方に良晴が疑問の声を上げると、信奈はニヤリとあくどい顔を作った。

 

「近江の浅井の使者が来るわ。そこで浅井と織田が同盟を結ぶか否かを決めるのよ。」

 

 

 

 

 

 

 翌日の評定の席には、主だった織田家臣団がみな参列していた。

 全員が揃ったのを確かめると、上座の信奈は背筋を伸ばし口を開いた。

 

「みな揃ったわね。それじゃあ評定を始めるけど、長く国を離れていた者もいるから軽く近況を話しとこうかしら。万千代。」

 

「はっ!まず初めに、三河では松平様が領地の掌握をほぼほぼ終わらせました。それに合わせ遠江方面の戦線も一旦停止、今川とは休戦し、三河へと撤退する運びとなりました。しかしながら松平様は一時浜松にまで勢力を伸ばす事となり、その影響力は西遠江にかなり及んだものと思われます。一方今川は一時遠江の半分を失いながらも、今川氏真を中心とした新体制を構築し、遠江全域を再統治するに至ってます。また、甲斐との交易を活発に行い国力の回復に尽力しているようです。」

 

「たしか武田晴信の弟、義信の妻は今川の姫だったわね。」

 

 甲斐、駿河、相模の三国が同盟を結んだ折り、お互いの国の姫を相手国に送る約束がされている。

 それにより武田の『黄梅院』が北条氏政の義姉妹となり、北条の『早川殿』は今川氏真の妻に、そして今川の『嶺松院』は武田義信の妻となった。

 しかし、桶狭間の戦いを経て、この三国同盟に暗雲が立ち込めていた。

 

「いくら国力の回復に尽力しようとも先の戦で負った損害は容易に補填出来るモノでは御座いません。同盟を頼りに他国の助力を得ようとするのも自然な事。八十点はあげれます。しかし、ここにきて武田側にも不穏な動きがあります。」

 

「…聞いてるわ。上杉と大きな戦があったとか。」

 

「はい。先の関東管領から役職を受け継ぎ、名を上杉謙信と改めた『長尾景虎』と武田晴信は、長きに渡り北信濃を巡って争っていました。それが桶狭間の戦いより程無く、川中島と呼ばれる地で大規模な戦になったそうです。双方とも己方の勝利を喧伝してますが、武田は晴信の妹である武田信繁をはじめ多くの臣を失うなど、かなり苦しい状況に陥ったようです。」

 

「そこまで聞く限りなら、今川と交易を活発化させる利は武田にも有るようだけど、武田はより手っ取り早く上杉との戦の損失を補おうとしてると?」

 

「ええ。そもそも武田が北信濃を求めるたのは、海を望むが故と言われてます。しかし、それを阻まんとする上杉の力は強大であり容易では非ず。そこに来て、今川が弱ってるとならば…」

 

「同盟を破ってでも方針転換し、駿河を攻めるのが良しとする…デアルカ……。」

 

 そう言うと信奈はじっと目を瞑る。

 自身を追い詰めた存在が、今は明日も知れぬ状況に有ることに信奈の胸中は複雑であった。

 

「関東は暫く荒れるでしょうね。でも今の話を聞く限り、例の策は予定通り進んでいるようね?」

 

「はい。九十点程度には。」

 

 信奈の問いかけに万千代は声を小さくし答える。

 松平、今川、そして北条をも巻き込んだ『虎囲いの計』は、人知れず着実に進行していた。

 

「続いて伊勢志摩方面についてですが、現在各方面に調略を掛け、二割ほどは此方に傾きつつあると報告が上がって来ています。此方の戦況次第では一気に土豪達を引き込めるとも。」

 

「つまり一益は、さっさと美濃を落とせと言ってるのね。美濃さえ落とせばいつでも日和見共を味方に出来ると。」

 

 尾張の隣国である伊勢の地は、幕府の名門にして伊勢神宮の宮司でもある北畠家が長年に渡って治めている。

 しかし、近年は幕府の権威低下と国内の仏教勢力の攻勢により、豪族への求心力を著しく失いつつあった。

 そこで織田家は美濃を攻める片手間にちょっかいを掛けているのだが、腐っても名家にして皇族との繋がりが深い北畠家であるが故に、直接的な軍事行動は控えていた。

 現在はもっぱら、伊勢志摩の豪族と繋がりが有るという新参の滝川一益と、伊勢湾を拠点に活動する海賊の九鬼嘉隆に調略を任すに留めている。

 

「まあどちらにせよ美濃を落とさないとどうにもならないわね。六、兵の調練は終わったのよね?」

 

「はっ!万事抜かりなく。」

 

「万千代、兵糧は?」

 

「不足なく。」

 

「デアルカ。みんな戦の準備は万全のようね。だけど念には念を、もう一手詰めさせるわよ。地蔵、例の件を皆に。」

 

「ははぁ。此度の美濃攻めを万端にすべく、新たな同盟の締結を進めておる次第に御座います。相手は北近江の浅井家。今日この後、浅井の使者殿との調整をする予定に御座います。」

 

「一色義龍の妻は浅井家の縁者だそうだけど、浅井が代替わりしてからは関係が悪化して小規模の戦も散発してるそうよ。浅井との同盟は、一色を挟み撃ちにして戦を有利に進めるためにも必要不可欠。」

 

 信奈は立ち上がると、改めて集まった家臣たちを見回した。

 

「今日の会談が美濃攻めの成否を左右すると言っても過言ではないわ。必ずや会談を成功させ、同盟を締結するわよ。」

 

 信奈の言葉に、家臣一同みな一斉に頭を垂れる。

 その中にあって一人、秀吉のみが苦虫を噛み潰したような表情で呻き声を圧し殺していた。

 

 浅井長政

 それは前世において、ある意味で『明智光秀』以上に秀吉が嫌っている、忌まわしき男の名であった。

 

 今宵はこれまでに致しとう御座ります。




・織田信長の方針
 信長は失態を犯した時の振る舞いについて、次のように述べている。

「失態をした者が最もやってはいけないのは、嘘をついたり報告をしなかったりして失態を誤魔化そうとする事だ。失態をしたのなら、まずはキチンと上に報告し、その上で潔く切腹するか失態を上回る手柄を挙げるべきである。」

・墨俣一夜城
 秀吉の出世話の定番であるが、作中の通り墨俣城自体は廃城になったものを織田がリノベーションした物である。そもそも美濃攻めにおいて秀吉が国境の砦を任されたという記録はあるが、それが墨俣城であるという事実は一切存在しない。
 因みに小田原で作った石垣山城は、80日掛けて造った物を一晩で造ったように見せ掛けたと言われている

・平蜘蛛の残骸を広い集めた古田織部
 『へうげもの』から持ってきたエピソード。『へうげもの』の信長は序盤の短い期間で退場するが、抜群のカリスマ性と魅力に溢れ、数ある創作物の信長の中で特に作者のお気に入りの信長である。

・川中島の戦い
 武田信玄と上杉謙信が北信濃を巡って争った5度の戦いの総称。作中で扱ったのは最激戦となった4度目の戦いであり、この一戦は両者自軍の勝利を主張しており引き分けとする向きもあるが、武田は多くの将を失い、日本海を目指す戦略は頓挫したに等しかった。ある意味この戦いが、武田家崩壊の序章と言えるかも知れない。
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