太閤転生伝   作:ミッツ

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汚れた掌で奪いし心

 清洲城の評定の間で信奈と長政が相対する。

 それだけ見れば一刻前と何ら変わらない情景だ。

 しかし、彼らの表情は一刻前と大きく変わっていた。

 

「…体調は良くなったかしら、長政?」

 

「……お陰様で、なんとか。」

 

 咎めるような厳しい視線を向ける信奈と、それを受けて恐縮した様子で顔を俯かせる長政。

 長政を見る織田家の家臣団の視線も一様に厳しく、睨んでいると言っても過言ではない。

 とても同盟の話をしに来たとは思えぬ空気が部屋に張り詰めていた。

 

 その中にあって、困惑した様子を見せる人影が二つ。長政の背中に視線を送っていた。

 彼らは長政の御供として同行してきた浅井家の家臣である。

 名を赤尾清綱と遠藤直経と言う。何れも長政の側で浅井家の政を支える忠臣である。

 同盟の話をするに当たって長政の印象をより織田家中に刻み付けるため、会談中は別室で待機していた二人だったが、何故か急に会談の場に呼び出され主君が針の筵にされている状況を目の当たりにしては戸惑うのも無理は無いだろう。

 そんな二人には目も暮れず、信奈は長政に問いかける。

 

「…六角家の人質から脱したのなら男の振りを続ける必要は無いわよね。どうして自分の性を偽り続けるの?」

 

 その瞬間、赤尾と遠藤の肩が跳ね上がる。

 長政が女であること。それは浅井家における最高機密である。

 浅井家でも宿老クラスでなければ知ることの無い秘密を、他国の家中に、しかも会談中に知られてしまった。

 考えられる限り最悪の展開である。

 どうして知られてしまったのかは皆目見当は着かないが、織田家が長政に敵意を向ける理由には合点がいった。

 今回両家が結ぼうとした同盟は、血縁を交わす婚姻同盟である。

 そこに浅井家は、婚姻を結ぶ当人の性別を偽ったのだ。

 織田家からすれば浅井家の行いは詐欺に等しく、著しく信用を損なう裏切りである。

 気付けば遠藤は信奈に対して土下座をしていた。

 

「申し訳御座いませぬっ!此度の同盟における発案、全てこの愚臣によるものっ!何卒この咎は私にっ!」

 

 遠藤としては何とかして責任が長政や主家に向かわぬように必死になっての言葉だった。

 そんな遠藤に対し信奈は視線すら向けない。まるで遠藤の言葉すら聞こえて無いような素振りである。

 それを見た遠藤が再び口を開こうとしたところで、信奈が長政に送る視線を強くした。

 

「長政。」

 

「…何でしょうか?」

 

「いま何か空耳のようなものが聞こえたけど、あんたにも聞こえた?」

 

「…いいえ、聞こえませぬ。」

 

「そうよね。まさか当主同士の話し合いの場で勝手に発言をするような無粋な家臣なんて、いるわけ無い筈よね。もしそんな奴がいたら、無礼討ちしたって文句無いわよね?」

 

 要するに、部下に余計な口出しをさせるんじゃ無い殺すぞ、という意である。

 

「…はい。その様なこと決して許すべきでは無いと思います。」

 

 その意思は正しく長政にも届いた。その後ろで遠藤と赤尾は項垂れる。

 彼らは今、信奈の慈悲によって生かされている。

 騙そうとした上に無礼にも当主同士の会話に割り込もうとしたにも関わらず見逃され、警告を与えられるに止まった。

 一命を与えられるに等しい救済である。

 故に黙ってその慈悲を受け入れる他無い。

 これ以上を望めば、己のみならず主君にも害を及ぼす事になるのを理解したからだ。

 

「それじゃあ答えてくれるかしら?なぜ、男だと偽り続けたの?」

 

「…幼少の頃に六角家へ人質に入った際、女のままでは貞操を脅かされる恐れがあったので性別を偽ったのは先に述べた通り。その後、京で政変が起こったのを期に六角家は細川方に付いたのに対し、我が家は敵対する三好方に付き六角領を侵しました。これにより六角と浅井は一食触発の状態になりましたが、京の情勢を重視した六角が譲歩する形で和睦を結びました。」

 

「その際六角が浅井に求めたのが、あんたと六角家の養女との婚姻だったと聞いてるわ。」

 

「ええ。六角家としては私と養女の間に子供ができ、その子が家督を継げば北近江への影響力を与えられると考えたのでしょう。しかし、この時既に我が父は六角との決別を決意していました。そこから先の事は御存じかと思います。」

 

「前置きが長いっ!さっさと男の振りを続ける理由を答えなさい!」

 

「失礼いたしました!我が浅井領は六角家と縁が切れたとはいえ、その影響が無くなった訳ではなく。六角家では姫武将を軽んじる風潮が強く、浅井領内にもその傾向が強い地域があります。もし私が女だと知られれば反発する国人も現れ、家中を二分する事となり、他国の介入を招く恐れ間あると。それ故に、私は自ら望んで男で有り続けました。」

 

 長政は緊張した面持ちのまま唾を飲み込む。

 

 この頃の長政は名将としての未来を期待されど、幼少期からその殆どの人生を六角家で過ごしており、北近江の国人衆の中には資質を疑問視する者も少なくなかったとされる。

 故に久政は早くから長政に家督を譲り、補佐をしつつも長政に為政者としての実績を作らせようとしていたという見方がある。

 織田との同盟を急いだのも、その為だったとも言われている。

 

 話を聞き終えた信奈は、右手で持った扇子を遊ばせながら、思案するように長政の顔を覗き込んだ。

 

「…ねぇ、浅井家と織田家は婚姻同盟を結ぶ運びになりそうだったけど、事が済んだらまた同盟破棄しようとしたの?」

 

「その様なことはっ!例え六角家を打ち倒そうと、その後も織田家とは悠久の盟約の元に、この乱世を共に歩みたいと…」

 

「だとしても、女同士では子は生まれないわよね?あんたが女だと知らないまま、浅井家の世嗣ぎが出来ない事を我々が不審に思った時、浅井家はどうするつもりだったの?」

 

「そ、それは…」

 

 長政が額に汗をかき、信奈の顔を仰ぎ見る。

 冷たい殺意の込められた瞳が、長政を貫いていた。

 

 織田信奈は嘘偽りを何より嫌う。

 

 それを知る長政は、心の奥で父に詫び、己の心内を明らかにする覚悟を決めた。

 

「…私には政元という同腹の弟がいます。この弟を嫁いできた姫にあてがい、子を作り…ッ!?」

 

 ダンッという床を強く叩いた音に驚き、長政は話を止める。

 見れば信奈が立ち上がり、怒りの形相で長政を見下ろしていた。

 

「そう、よく解ったわ。つまり浅井家は我々を舐めているのね!」

 

 そう言うと信奈は自分の後ろにあった太刀を手に取り、鞘を外すと長政の前へと歩みを進める。

 

「若っ!?」

 

「動くなっ!」

 

 赤尾と遠藤が慌てて二人の間に入ろうとするが、犬千代と久太郎が背後から刀を突き付け動きを止める。

 一方で長政は動かない。むしろ激怒する信奈を前にし落ち着きを取り戻し、静かに座して目を伏せていた。

 

 ああ、自分はここまでだったか。

 

 心の中で長政は呟く。既に己の死を受け入れる心待ちにあった。

 無念が無いとは言えない。

 武将として、乱世に己の存在を示したいと思った事もあった。

 女として、身を焦がすような恋に憧れた事もあった。

 姉として、残される姉弟を案じる気持ちもあった。

 娘として、父の期待に応えられない悔しさもあった。

 だがそれでも、信奈が振り上げた刃から逃れようとは思えなかった。

 

 舐めているつもりは無かったが、そう思われても仕方がない。

 三方を敵方に囲まれ、窮した末に願い出た此度の同盟。

 発案は久政だったが、長政を含めた重鎮たちもそれしか浅井が生き延びる術は無いと腹を括った。

 あとはどれだけ織田に長政の秘密を隠し通せるかが問題だったが、まさか同盟を結ぶ前に明らかにされるとは思わなかった。

 出来るなら猿顔の織田家臣には恨み言の一つも言ってやりたいが、今さら言っても仕方ない。

 だがせめて、自分に付いてきた二人の忠臣は無事に近江に返して貰えないだろうかと口を開きかけたその時、長政と信奈の間に人影が割って入った。

 

「姉上、落ち着かれませ。」

 

 鈴の鳴るような声だと長政は感じた。

 目を開けると、自分と同年代くらいの色白な若武者が信奈の正面に立っている。

 

「邪魔をしないで勘十郎。私は織田家の当主として、我が家を足蹴にしようとした無礼な輩を成敗しないといけないわ。」

 

「姉上のお怒りはごもっとも。我が家を利用し粗末に扱おうとした者に報いを与えるは大事。しかし、今一度我らの大義を思い出して下さい。そうすれば今何をすべきか、聡明なる姉上なら自ずと解る筈です。」

 

 信奈は怒りの形相のまま勘十郎を見るが、勘十郎はそれを真っ直ぐに受け止め姉の目を見つめる。

 そうして暫し睨みあった二人だったが、先に折れたのは信奈だった。

 舌打ちをして視線を外すと、床に捨てた鞘を拾って太刀を納める。

 長政の後ろから安堵の溜め息が聞こえた。

 

「そこまで言うなら勘十郎、あんたの考えを述べなさい。我が織田家が何をすべきか。浅井家に対しどう振る舞うべきか。」

 

「はっ!然れば、姉上の御前にて我が腹案を述べさせて頂きます。」

 

 そう言って勘十郎は身を屈ませると信奈の正面からずれ、信奈と長政で正三角形を作る位置に座った。

 

「まず織田と浅井の同盟についてですが、当初の予定通り結ぶが良いと思います。これは浅井家と結ぶ利が捨てがたい故に御座います。然れど婚姻同盟ではなく、義兄弟の同盟が良いかと。」

 

「義兄弟の同盟ねぇ。つまり、長政が女であることは伏せ続けると?」

 

「如何にも。わざわざ同盟相手の領内を動揺させることも無いかと。」

 

「では誰を浅井の人間と義兄弟にするというの?」

 

「この僕です。僕が長政様と義兄弟となり、浅井への人質として北近江に行きます。」

 

「何ですってっ!?」

 

 勘十郎の放言に信奈が驚愕する。

 それだけでは無い。織田家臣たちは勿論の事、長政やその従者たちも驚いた表情を見せる。

 そんな中、勘十郎だけがどこか能天気そうな、穏やかな余裕のある笑みを浮かべていた。

 それを見て、信奈は落ち着きを取り戻し弟の真意を知ろうとする。

 

「詳しく話しなさい。」

 

「はい。そもそも現状として、織田家は浅井家の弱みを二つ握っています。一つは長政様が実は女である事。もう一つは、それを隠し我が家と婚姻同盟を結ぼうとしたこと。この二つが外に漏れれば、北近江は大いに荒れる事が予想されます。それは天下を目指す姉上にとって、望むべき事では在りますまい。」

 

 信奈が浅井家との同盟に前向きだった理由として、美濃進攻後に上洛を行う上で近江から京に上る道筋を確保しようとしていた背景がある。

 浅井と協力して南近江の六角を倒せば、美濃から京への最短ルートを結ぶ事が出来る。

 故に、信奈にとって京への進路上にある近江の地が情勢不穏になるのは避けるべき事であり、浅井家の秘密を隠し続ける理由となった。

 

「じゃあ、あんたが長政の義兄弟として近江に行く理由は?」

 

「今のままでは織田に主導がありすぎます。従属では無い同盟を結ぶ上で、権勢が一方に傾き過ぎれば必ずや不和と成りましょうや。然らば、誰かが質として浅井家に身を寄せるが永世の盟約の要と成ります。」

 

 織田家が浅井家の弱みをちらつかせれば、確かに浅井家を好きに扱えるだろう。

 しかし、不均等な同盟関係はいずれ浅井家内で反発を呼び、破綻を向かえるのを予想するのは容易だ。

 だからこそ、織田も義兄弟という形で人質という弱みを浅井家に差し出すべきだと勘十郎は主張する。

 

「だけど、本当にそれでいいのでしょうか?」

 

 恐縮しながらそう尋ねるのは長政である。

 如何なる事情があれ、浅井が織田を騙そうとしたのは事実。

 勘十郎の発案はそれを咎めるどころか、恩情をかけるに等しい提案であった。

 

「我らは貴女方を騙し、己の利ばかりを取ろうとしました。にも関わらず、この様な情けを頂くのは…」

 

「長政様、確かに浅井は織田を騙そうとしました。しかし、幸いにもそうはならなかった。だったら、改めて両家の得となる盟約を結べば良いだけです。それで良いではないですか。」

 

「しかし…」

 

「それに僕にとっても、北近江に行くのは悪くない話なんです。恥ずかしながら、僕は以前姉上に対して謀反をしてしまいました。寛大にも姉上には許して頂けましたが、尾張では中々肩身が狭くて。むしろ人質として姉上のお役に立てるなら、これ以上の喜びは御座いません。ねっ、姉上!」

 

「何が、ねっ!よ。はぁ…」

 

 純真無垢な勘十郎の笑みに、信奈は毒気を抜かれた様子で溜め息をつく。 

 そうして頭を掻いてもう一度溜め息をつくと、ギロリと長政を睨む。

 

「長政、津田信澄の提案、受け入れられる?」

 

「はい!この様な寛大なる申し出、受け入れざる理由は御座いません!」

 

「デアルカ。ならば勘十郎、あんたに任すわ。」

 

「ありがとう御座います姉上っ!長政様、良かったですね。」

 

「あ、ああ。本当に有難い。」

 

 急展開の結末に長政は戸惑いながらもホッと息をつく。

 下半身を晒され女である事を明らかにされてから、この様な形で落ち着くとは思いもしなかった。

 すると勘十郎は居ずまいを正し長政を正面に見る。

 

「長政様、少しそのまま。」

 

 そう言うと勘十郎は長政の顔に向かって手を伸ばす。

 

「信澄殿、何をっ!?」

 

 突然の事に長政は身を固くする。

 その脳裏には、先ほど秀吉に体をまさぐられた記憶が甦っていた。

 しかし、勘十郎は長政の目元に親指を当てると、目尻に沿って優しく撫でるのみだった。

 

「驚かせてしまって申し訳ありません。どうしても、目の雫が気になってしまって。」

 

「…あっ。」

 

 勘十郎の親指は濡れていた。

 安堵によってか、長政は自分でも気付かぬ内に涙を流していたらしい。

 それを勘十郎に拭われた事に長政が顔を紅くさせると、勘十郎はクスクスと笑った。

 

「な、なんだ?」

 

「いえ、長政様にも可愛いところが有るのだと。」

 

「か、可愛い!?」

 

 同年代の男性から可愛いと言われ、長政の熱が一段高くなる。

 何か言い返せねばと口を開くが、言葉が纏まらず声に成らない。

 そんな長政に対し、勘十郎はこの日一番の満天の笑みを作った。

 

「これからよろしくお願いします長政様。不肖の義弟ですが、どうぞ可愛がって下さい。」

 

 その笑みに、今度こそ長政は完全に言葉を失ってしまう。

 目に写るのは端正に整った勘十郎の顔。

 感じるのは更に増した体の熱と、早鐘を打つ心臓の鼓動のみであった。

 

 そんな二人を見つめる信奈の顔は、名状し難き複雑な色で象られていた。

 

 

 

 

 時は一刻前に遡る。

 

 

 長政が別室で休憩している間、信奈と織田家臣団は今後の方針について改めて煮詰め直していた。

 

「天下を目指す上で浅井家との同盟は捨てがたいわ。だけどその前に、今回の浅井家のやらかしの落とし所を決めなきゃいけないわね。」

 

 そう家臣たちに宣言するのは信奈。もとより、彼女に浅井との同盟をしないという選択肢は無かった。

 故に問題は、浅井家にどう落とし前を着けさせるかどうかだった。

 

「落とし前を着けさせるにしても、あまりに我が有利に成りすぎるは後々の禍根に成りかねます。むしろ、浅井家の弱みを握っている現状でも十分かと。」

 

 そう分析するのは村井貞勝。

 外交の専門家として、一方が利を得すぎる同盟関係の危うさを説いた。

 

「ですが今さら婚姻同盟を結ぶのは五点以下の下策です。やるならば姫様の縁者の方に長政様と義兄弟の契りを結んで頂き、浅井家の人質となってもらうのが良いですね。その上で、人質となった方を通して織田家の意向を浅井家に汲んで頂くように出来れば八十点はあげれますね。」

 

 そう提案したのは万千代。

 冷静に現状を見極め、主家の利となる盟約を模索した。

 

「然らば、人質になって頂くのは津田信澄様が良いでしょう。家督の相続権を失ったとはいえ、信奈様の同腹の弟君。人質として不足は無く、かといって織田家にとって必要不可欠な御方と言うには少々足りぬ。そう言う意味でも人質としては適役かと。」

 

 過ぎた事をと謝りながらも、秀吉は人質役として勘十郎を推した。

 一部で秀吉の言葉に眉をひそめる者もいたが、語る内容は理にかなっており、声に出して反対する者はいない。

 

 こうして長政との会談を再開させる以前に、織田家中では既に勘十郎を人質として送りこむ事が決まりかけていた。

 

 そんな中で、当の勘十郎は手を上げ姉に向かって発言する。

 

「姉上、会談を再開しましたら、一芝居打って頂いても宜しいですか。」

 

「芝居って、何をさせるつもりなの?」

 

「長政殿に対して刀を振り上げ怒って下さい。それこそ、切り殺さんばかりの迫力で。それを僕が止めますので、何か考えがあるのかとお尋ね下さい。そしたら僕は『自らが長政の義兄弟となり、浅井の人質となります。』と言います。」

 

「…解らないわね。そんなことをして、一体何が起きるというの?」

 

「浅井に負い目を与えます。浅井がやろうとしたことは我らを舐めきったと言われても仕方の無い行為。それを許され、あまつさえ恩情をかけられた事を派手に演出します。即ち、狙うは浅井長政、そしてその側近達の心です。」

 

「…つまりあんたが、長政達を籠絡すると言うの。」

 

「如何にも。彼らに負い目と恩を此れでもかと心に刻ませ、決して忘れ得ぬ情を覚えさせます。そして長政様には、僕を意識させます。これでも姉上に似て、顔には自信がありますし、女の子の扱い方も知っています。それに…」

 

 勘十郎は笑う。信奈でさえ思わず背筋に寒気が走る様な、冷酷な笑顔で。

 

「今の長政様は秀サル君のお陰で傷ついておられます。その傷を僕が優しく癒してあげれば、きっと僕の言うことをよく聞いてくれるようになるでしょう。」

 

 勘十郎は傷跡の残る白い手を伸ばし、信奈の眼前で力強く空を握った。

 

「姉上、必ずや勘十郎は浅井長政の心を奪います。すべては姉上と、織田家の為に。」

 

 その日、織田家と浅井家の間で義兄弟の契りを交わす盟約が結ばれた。 

 同時に一つ、新たな才気の芽が開いた。

 『器用な御仁』として東海に名を轟かせた策謀家『織田信秀』。

 その血を姉と分け、挫折の果てに過去の名を捨て、新たなる己の在り方を定めんとした『津田信澄』は、今まさに策謀家として覚醒の時を迎えようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の晩、信奈は自室に良晴と勝家を呼んだ。

 部屋について早々、信奈は自ら二人に酒を振舞うと、自分の盃を満たしチビチビと嘗めるように飲み始める。

 その様子を勝家は不思議に思う。

 

「珍しいですね。姫様が晩酌をされるなど。」

 

 信奈は酒が苦手だ。

 下戸だというのもあるが、初めて酒を口にした日に酔い潰れ、醜態を晒してしまうという黒歴史があるからだ。

 以来、信奈は人前では酒を飲まないようにしている。

 

「……久々に酔ってみたくなったのよ。でも一人で飲むのも味気ないでしょ。」

 

「だから俺たちを呼んだのか?」

 

「…まぁ、そんな所ね。」

 

 普段に比べると大分歯切れの悪い受け答えをする信奈に良晴も違和感を感じる。

 常に身に纏っている覇気は鳴りを潜め、代わりに何処かどんよりとした空気が信奈の周囲に流れていた。

 その姿は、他人には言い難い悩みを抱えた人のそれである。

 

「…勘十郎は変わったわね。」

 

 無言で盃を眺めていた信奈が唐突に漏らす。

 ため息まじりのその言葉が、今日の会談での弟の事を指しているのは明白であった。

 

「確かに勘十郎様、信澄様は変わられました。きっかけは稲生での戦。決定的だったのは今川との戦で、手柄首を上げた事かと。」

 

 勝家が思い出すのは桶狭間の戦い。

 それは勘十郎にとって初めて戦場に出た戦であり、初めて自らの手で人を殺した戦であった。

 

「珍しい話では御座いません。人を殺めたという経験は、なかなかに悩ましい事です。ですが最終的には折り合いを着けなければならず、その過程で以前とは物の考え方が大きく変わる者も多くいます。私にも覚えが…」

 

「…そうね。あれで死生観が変わらない方が珍しいわね。勘十郎はどんな様子だったの?」

 

「数日程部屋に籠られたそうです。その後、いつの間にか部屋を出られた時には憑き物が落ちたような表情だったとか。」

 

「…デアルカ。珍しくは無いわね。ありきたりで普通な事…」

 

 そう語る信奈の口調は、どこか自分に言い聞かせるようであった。

 それを見て、漸く良晴は察する。

 信奈は弟の変わりように動揺しているのだ。

 口では当たり前の事と言いながらも、女を追い詰め、それを意のままに操ろうとしている弟の姿に、姉として割り切れぬ思いに揺れている。

 それを誰かに漏らしたかったのだろう。

 

「思えば父上も謀略に長けてたわ。案外あいつの方が私より父上に似てたのかも知れないわね。」

 

「とは言え信澄様は未だ経験は浅く、過信を過ぎるのは禁物かと。」

 

「そうね。近江に行く前に良く言い聞かせとかなきゃいけないわ。何れにせよ、先ずは美濃よ。良しサル、あんたを秀サルの部隊の与力に付けるわ。」

 

「俺が秀吉さんの部隊の与力に?」

 

「そう。秀サルは川並衆を配下に置いてるでしょう。美濃を攻めるに此れを遊ばせておく理由は無いわ。だけど今回の会談で、理由はどうあれ秀サルは他国の使者に恥をかかせた。その罰として秀サルには美濃攻めにおける部隊の指揮を禁ずる。代わりに奴の部隊を率いるのはアンタよ。」

 

「待ってくれよ!?俺は部隊を率いた事なんて…」

 

「兵糧を集める時に川並衆や五右衛門を上手く使ったそうじゃない。顔見知りなんだから他の部隊より扱い易いでしょ。」

 

「で、でもよ…」

 

「それに秀サルには部隊を率いるのを禁じるけど、従軍するのは禁じてないわ。アンタの補佐役くらいは出来るでしょうね。」

 

 要するに、次の美濃攻めにおける秀吉の指揮官としての手柄は認められず、それらは全て名目上の指揮官である良晴に還元される。

 ただし、指揮官として以外で挙げた手柄に関しては相応に評価すると言うに等しい。

 

「なんか釈然としねぇな。結局俺は秀吉さんの威を着て手柄だけ貰うようなもんじゃねぇか。」

 

「どうせ二十人にも満たない小部隊でしょ。大した手柄は期待してないわ。それよりも、人を使う事を学びなさい。何れ自分の部隊を持ちたかったのならね。」

 

「…おう。」

 

「六、アンタもよ。今川との戦じゃ大した手柄は挙げれなかったでしょ。今度は必ず手柄を挙げるのよ。」

 

「はっ!お任せくださいっ!この柴田権六勝家、必ずや姫様が御満足して頂ける手柄を挙げて見せまする!」

 

「フフッ、励みなさい。」

 

 勝家の宣言に信奈は楽しげに笑うと、手に持った杯を呷る。

 その肌はほんのりと朱が差し、吐息には艶やかな熱が混もっていた。

 

「ふう、なんか熱くなってきたわね。脱ご。」

 

「姫様っ!?」

 

「ちょっ!?なにやってんだよ信奈っ!?」

 

 急に立ち上がったと思いきや、身に付けていた服を脱ぎだし半裸になった信奈を良晴と勝家は止めようとする。

 だが信奈は据わった眼で二人を不機嫌そうに見る。

 完全にアルコールで出来上がってしまっていた。

 

「あによ?はだかになってなにがわるいの!いぬちよ、いぬちよー!」

 

「解ったから取り敢えず座れ!もう怖くて仕方ねぇよ!主に素面になった後の俺の処遇がっ!」

 

「良サル、姫様を見るなっ!部屋の外に出てろ!」

 

「あん?なにかってにかえろうとしてのよ。あたしがまだのんでるでしょうが!」

 

「いやもう本当に止めとけって。絶対明日後悔するから。」

 

「よしっ、わかった!まうわよ。」

 

「舞うわよじゃねーよ!?頼むから動かないでくれっ!?」

 

「姫様見えてますっ!見られちゃいけないところが見えてますっ!?」

 

 その日、歴史書には残らない信奈の黒歴史が、また一つ増えたのだった。

 

 今宵はこれまでに致しとう御座りまする。




・遠藤直経
 浅井家家臣。長政の側近として、織田との同盟締結に尽力したとされ、主家が織田を裏切ろうとした時も反対したとされる。
 最後は姉川の戦いで自軍の敗走を悟り、首実検に偽装し織田陣営に入り込み信長を暗殺しようとしたが見破られ討たれた。

・赤尾清綱
 浅井家家臣。浅井家三代に仕えた老臣であり、主に外交面で活躍したと言われている。
 
・信長と酒
 史実信長も酒が苦手だったと言われている。自分が酔い潰れるのも、酔い潰れる人間を見るのも嫌いだったとか。
 代わりに大の甘いもの好きであったが、甘いものを食べ過ぎて糖尿病になりかけたとも言われている。
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