太閤転生伝   作:ミッツ

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愚将の生まれた日

 一色軍の総攻撃を予期した信奈は、全軍に対して戦闘を想定した準備を通達した。

 それにより慌ただしさを増した織田軍を前にして、後詰めの部隊を率いる安藤守就は眉間に皺を寄せる。

 

「敵軍に動きがあるな。もしかすると、此方の動きを読まれたやも知れぬ。」

 

「ほう。では作戦を中止するか?」

 

 独り言を呟く守就の隣から、どこか挑発的な色を持った提案を稲葉一鉄がする。

 守就は不愉快そうに一鉄を睨み付けると頭をふる。

 

「誰がそんな事をするか!あくまでも気を引き締める為に言ったまでじゃっ!」

 

「そうか、では気張って行くとしよう。」

 

 怒鳴られても飄々とした態度を崩すような事は無く、一鉄は澄まし顔で前方を向く。

 その態度がますます守就を苛立たせるが、これ以上は味方の士気に関わると考えグッと堪える。

 

 安藤守就と稲葉一鉄。

 共に一色義龍を主と仰ぎ、西美濃三人衆に名を連ね称される二人だが、その関係は決して良くない。

 古くから美濃に土着した安藤一族と、祖父の代に伊予国より流れ着いて土豪となった稲葉一族。年も近く、領地も隣り合い、幼き頃から互いに意識してきた。これだけなら対等なライバル同士として見ることも出来るだろう。

 しかしながらこの二人、どうにも相手の気性が気に食わなかった。それが顕著に現れたのが美濃における主代わりの時である。

 土岐氏から道三。そして道三から義龍へと領主が入れ替わった美濃国だが、その際稲葉一鉄は周りに先んじる形で主替えをし、新たな主の覚えが良くなるように立ち振る舞った。

 道三の時には土岐氏の側室であった姉を道三に譲るように取り計らい、それによって産まれた義龍の叔父としての立場を手に入れた。

 そして義龍の時には敢えて国内の不穏分子である義龍の弟たちを唆し、彼らが反乱を企てた処で義龍に売り渡したという噂も有る。守就はそうした一鉄の策略を姑息として毛嫌いしていた。

 一鉄もまた、そうした守就の反感を上手く立ち回れなかった事への僻みだと見なしているので、二人が相容れる事は決して無い。

 

 とはいえ、そうした思惑を戦場にまで持ち出すかと言うとそうでは無い。

 両者とも長きに渡り戦場に身を置いた古強者であり、此度の戦が美濃国の、強いては西美濃の豪族達の運命を左右する事は重々承知している。

 なので軽く憎まれ口を叩く事はあっても、それで自軍の士気に影響を及ぼすような愚は犯さない。

 

「さて、出迎えのようだな。」

 

 織田本陣を目指す守就達の前に重厚な陣を敷く兵団が現れる。その構えには見覚えがあった。

 

「ほう、勝負どころで家中筆頭を差し向けるとは。うつけも多少は戦の心得が有るらしい。」

 

 立ち塞がるは織田家筆頭家老、佐久間信盛。

 守就達にとって先代の頃より何度も槍を交えた馴染み深い相手である。

 

「………伊賀守殿はここ最近戦場には出られてませんでしたなぁ。先槍のお役目は少しお辛いのでは?」

 

「なんだと貴様っ!!たとえ戦場で槍を振るう機会に恵まれずとも、この腕を錆び付かせてなどおらぬわっ!!」

 

「ふむ。では先槍のお役目をお願いしてもよろしいかな?」

 

「言われずとも!貴様は我が後塵を拝すが良い!」

 

 そう叫ぶと守就は配下の軍勢を率いて信盛の軍団へと向かって馬を駆けさせる。

 それを冷めた目で見送った一鉄は、自身の側衆を近くに呼び寄せた。

 

「直元に伝令を。織田は中央の軍勢に隠れながら側面から我らの本陣を狙っている。我は左翼を押さえる故に、其方は右翼を潰してくれと。」

 

「承知いたしました!」

 

 伝令の兵が駆け出すと、一鉄も軍勢を率いて左翼へと向かう。

 これまでの織田の戦を見る限り、織田信奈という武将は大将でありながら前線にて指揮を執る事を好む。それが自軍の兵の士気を高くする秘訣でもあった。

 しかしながら、中央の軍勢からは大将が前に出ているような異常な士気の高さは感じられない。

 ともすれば、後ろに下がって戦況を見守っているとも考えられるが信奈の性格からしてそれは無い。

 

「然らば中央の大軍は陽動。本命は大将自ら精鋭を率いて我らの本陣を叩くつもりじゃな。」

 

 果たしてそれが右からか、左からか?

 あとは己と敵将の思惑が噛み合うか否かだ。

 

 斯くして、中央部の激戦を尻目に左翼へと回った一鉄の目の前に現れた旗は…

 

「…ちっ。ハズレくじだったか。」

 

 黒地に白の✕印。その家紋の名は丹羽直違。それが示すは児玉惟行を祖とする児玉丹羽氏の軍勢である。

 

 

 

 

 

 

「長秀様、前方から此方に向かってくる軍勢があります。」

 

「…どうやら此方の狙いを見破られたようですね。相手は?」

 

「折敷に三文字の旗。稲葉良通の軍勢です!」

 

 物見の報告に万千代は握った采配棒に力を込める。

 稲葉一鉄こと稲葉良通の名は優将として織田家にも通っている。

 相手にとって不足無いどころか、若年の万千代からすると些か荷が重い相手である。

 

「…何を弱気に。もはやここに至って相手がどうこう言ってる場合じゃない。私は私で百点満点の働きをするだけです!」

 

 己を叱咤し、力の宿った瞳で敵軍を睨み付ける万千代。

 手にした指揮棒を振り上げると、勢い良く稲葉隊を指し示した。

 

「恐れること無く敵中を合い駆けよ!そしてそのまま一気に敵本陣を攻め落とします!」

 

 力強い掛け声と共に、丹羽隊は臆すること無く稲葉隊へと突撃していった。

 

 

 

 同じ頃、万千代の位置から対極の場所で信奈は馬を走らせていた。

 一鉄の読どおり、信奈は部隊を二つに分け、中央の佐久間隊を隠れ蓑にし一色本陣を強襲する策を打っていた。

 そして万千代と違い、信奈の部隊は然したる障害も無く戦場の側面を抜けようとしていた。

 

 ここを抜ければ後は敵本陣を叩くのみ。

 

 手綱を握り締める信奈の瞳に闘志が燃える。

 その周囲を守る犬千代をはじめとした母衣衆も同じ目をしていた。

 皆逸る気持ちを押さえながら、それでも溢れ出る戦意を纏いし戦国武将達は、ただひたすらに一色本陣を目指していた。

 

 だが間も無く敵後方へと抜け出そうとしたその時、疾風のごとき影が信奈達の前に立ち塞がった。

 

「ふぅ、なんとか間に合ったか。その方、織田信奈殿とお見受けする。一色家筆頭、氏家直元にござる。」

 

 大急ぎで駆けつけたせいか、肩で息をし額の汗を拭いながら直元は信奈に話しかける。だが、瞳だけは決して信奈から目を離そうとしていない。

 

「氏家直元…確か西美濃三人衆の筆頭だったわね。」

 

「いやはや筆頭など畏れ多い。たまたま、父祖より実り多き土地を受け継げただけに過ぎませぬ。それにしても、噂どおり御美しい姫様に御座りますなぁ。しかも敵陣に合い駆ける度量もお持ちとは。」

 

「…お褒めの言葉ありがとう。称賛のついでに我が大義の為にそこを退いてくれると有難いのだけど?」

 

「ハハハッ!!侵略者風情が大義を語るとは!!………笑えませぬな。」

 

 すっと直元の表情が消え、無機質な殺意しか感じられぬ武将の顔となる。

 それに対し、信奈は獰猛な獣のごとき笑みを浮かべた。

 

「無駄とは思いますが一応言っておきましょう。降伏せよ。然らば武家の習いにて御命までは奪いませぬ。」

 

「笑止。ここまで来といて降伏なんてするわけ無いでしょ。」

 

「でしょうな。では殺るか。」

 

「ハハッ、殺れるもんなら殺ってみなさい。」

 

 互いにブンッと槍を振り下ろし、指揮官自ら先陣を切って敵勢に突撃する。

 中濃の戦いにおける最激戦区の争いは、こうして始まった。

 

 

 

 

 一方その頃、戦場中央部では安藤守就勢の猛攻を佐久間信盛が辛抱強く凌いでいる。

 織田軍最古参にして筆頭家老の信盛は、その統率力と安定性から織田軍の最大戦力を与えられ、中央戦線の維持を信奈から命じられていた。

 

「しかし、儂も特別耐える戦が得意という訳でもないのじゃがなぁ。」

 

 戦況を眺めながらなんとも言えぬ表情で信盛は呟く。

 近年出自問わず有能な人材を積極的に登用している織田軍であるが、それ故に手柄を挙げてやろうと攻める戦を好む者が多く、守勢になると脆さを見せる部分が大きい。

 

「まぁそれで儂に守勢の御鉢が回って来るのは構わんのじゃが、儂もどちらかというと攻め戦の方が得意じゃからのう。」

 

 後年、『引き佐久間』の異名で唄われ、殿役や撤退を得意としたと伝わる事も多い佐久間信盛であるが、史実において彼が撤退等の引き戦で大きな手柄を挙げたという功績は残されておらず、むしろ本人が言うように攻め戦でこそ多大な成果を挙げている。

 

「とはいえ、折角姫様より賜ったお役目じゃ。ここは一つ戦線を維持しつつ、隙があれば攻めっ気を見せて見るのも良いかもしれぬのぅ。」

 

 後世の評価から言えば、この『中濃の戦い』において信盛は大きな手柄を挙げれなかったとされている。

 だが戦の中盤から終盤にかけて安藤守就の猛攻に曝されながら、目立った被害を出さずに戦線を維持し続けた功績は、影の功労者として存分に役目を果たしたと歴史学者等からは評価されている。

 また、戦後も信奈は信盛を筆頭家老として重用している事から、中濃の戦いでの信盛の働きを信奈が十分に評価していたとされる。

 

 こうして柴田勝家と氏家直元の激突で始まった戦は、両軍総力をあげた全面衝突へと移行する。

 この勝負はほぼ互角。死力を尽くした両軍の将の奮闘により、がっぷり四つの均衡した状況に落ち着いた。

 しかし、このとき既に戦の勝敗、あるいは歴史の分水嶺と言うべき『その時』は誰にも気付かれぬまま、すぐそこにまで迫っていた。

 

 

 

 

 

 

 

「…膠着してしまいましたね。」

 

「はい。こうなってくると織田は厳しいですね。」

 

 戦場から少し離れた小山の上で、竹中半兵衛と側近の喜多村直吉は戦況を見守りながら思った事を口に出す。

 

「織田としては奇襲的に一色本陣へと攻めかかりたかった筈です。しかしそれを稲葉様と氏家様に止められ膠着状態に持ち込まれてしまいました。互角に見えますが状況的に苦しいのは間違いなく織田です。」

 

「それは大殿がまだ動いて無いからですか?」

 

 直吉の質問に半兵衛は大きく頷く。普段は弱気で人見知りな半兵衛であるが、軍略に関しては絶対の自信を持っていた。

 

「はい。この状況、義龍様なら間違いなく動きます。自ら兵を率いて各所に広がる織田軍を攻めれば、味方と連携して各個撃破が可能です。そうならない為に織田軍は早急に稲葉様達を突破したかった筈ですが、最早それも叶わないでしょう。」

 

「となれば、この戦!」

 

「ええ。ここからは織田がどれだけ被害を出さずに撤退出来るかの勝負になるでしょう。」

 

 この時、戦場で戦っていた信奈も半兵衛と同じ考えに至っていた。

 後年信奈は自身の子供達にこの戦について語り、どこで撤退を指示するかという処まで追い詰められていた、と話している。

 一見互角に見えて戦略的にも戦術的にも一色有利となれば、ここまま一色が織田を押しきり、織田信奈の野望は立ち上がりから大きく躓く事になる。

………そうなる筈であった。

 

「あっ!重治様、大殿の陣に動きが!」

 

「いよいよ出陣ですね。少し動き出しが遅いですが、このまま攻めきれば間違いなく一色が勝利…し………え?」

 

 戦国史に残る希代の軍師、竹中半兵衛。

 その知謀は若くして歴戦の猛者とも遜色無く、これまでに戦の推移を予想し外した事は無い。

 

「そんな…どうして……。」

 

 まさしく天より与えられし唯一無二の才能。

 周囲の人間も皆一様にその才を認め、半兵衛自身も謙遜しつつ自身の才に信を置いていた。だが…

 

「いったい何が起きてるんですかっ!?」

 

 その自信が根底から打ち砕かれるような光景に、半兵衛は心の底から絶叫した。

 

 

 

 

 

 

 時は暫し巻き戻る。

 

 

「よしっ!今が勝機。これより我らは敵中へ合い掛からん。」

 

 信奈の突撃が直元に阻まれた直後、一色義龍は椅子から勢い良く立ち上がると周囲に向けて声を張り上げる。

 

「直元が信奈を惹き付けている今こそ、奴らを挟撃するにまたと無い好機。奴らが逃げ出す前に一気に叩くのだ!」

 

「「「「はっ!!」」」」

 

「龍興っ、御主も来いっ!我が勇姿しかと目に焼き付けよっ!」

 

「お、おうっ!」

 

 高揚した様子で息子に命ずる義龍に、龍興は気圧されながらも返事を返す。

 急いで兜の緒を締め脇差を確認する。それが終わると義龍の横に立った。

 

 

「親父、準備出来たぜ。」

 

「よしっ!では皆馬に乗れ!我が号令と共に一気に織田のうつ…け……を………。」

 

「………親父?」

 

 不意に言葉を切って無言になった義龍を不審に思い、龍興が声を掛けるが返事は無い。

 

「お、おい、どうしたんだよ?」

 

 不安を覚えた龍興は、義龍の肩に手を掛け軽く揺する。

 すると義龍は前後にフラフラと体を揺らし、そのまま顔から地面に倒れ伏した。

 

 

「………親父っ!?」

 

「殿っ!?」

 

 一瞬の間呆然と倒れた義龍を見下ろした龍興達だったが、すぐに大声を上げて義龍に駆け寄ると仰向けにして何度も呼び掛けた。

 

「おいっ、親父っ!しっかりしろっ!?親父っ!親父っ!?」

 

 だが義龍は一切反応を返さない。

 目蓋は閉ざされ、僅かに開いた口の端からは弱々しい呼吸音のみが聞こえる。

 

「薬だっ!誰か気付けの薬を持って参れっ!!」

 

「はっ、ただいまっ!?」

 

 龍興が悲鳴染みた指示を出すと、側近が散薬の入った薬入れを持ってくる。

 龍興は無理矢理父の口を開かせ、匙で掬った粉薬をねじ込み、水を流し込んでなんとか薬を飲み込ませた。

 しかし義龍が回復する気配は全く無く、その顔からは血の気が引き青白くなり始めていた。

 

「くそっ!どこかに医師はいねぇのかっ!?」

 

 龍興が周りに問うが返事は帰ってこない。

 ここは戦場。怪我や急病に対応するための簡易的な薬や道具は有れど、それはあくまでも応急措置用のみ。

 本格的な治療をするなら城に戻るしかない。

 絶望的な状況に頭を抱える龍興だったが、あることに気付いてハッ!と顔を上げる。

 

「そうだっ!一鉄だっ!あいつはたしか医療心得があった筈!今すぐ一鉄を呼び戻せっ!」

 

「しかし若様、稲葉様は前線で指揮を取られています。急に戻って来いと言われてもすぐには…」

 

「なに言ってんだ!自分達の主君が倒れたんだぞ。これを助けずにどうする!?兎に角さっさと一鉄を呼んでこい!」

 

「は、ははぁっ!」

 

 龍興から命じられた伝令は大慌てで馬を駆けさせ戦場へと赴く。

 そして一鉄を見つけるとすぐに事の次第を報告した。

 

「なにっ!?殿が倒れただと!」

 

「はっ!稲葉様にはすぐに本陣へ戻っていただき、殿を見るように、と若様は仰られています。」

 

 伝令の話を聞いた一鉄はチラリと後方の本陣へと目をやると、次に前線の方へ目をやり重々しく口を開いた。

 

「…すぐには戻れぬ。そうお伝えしろ。」

 

「えっ!?よろしいのですか?」

 

「状況を考えろ。今は戦の正念場。殿が出陣出来ぬとなった以上、我らがここで持ちこたえるしか無い。ここを離れる訳にはいかんのだっ!それよりも…」

 

 一鉄は周囲に目を配ると伝令を近くに寄らせた。

 

「この事、まだ他には伝えておらぬな?」

 

「はっ!稲葉様以外には…」

 

「では事の喧伝は厳に慎ませろ。下手に広まれば士気に関わる。若様にも、今は何もせずそこでじっとしておくよう言っておけ!」

 

「しょ、承知いたしました。」

 

 伝令は陣へ戻ると、一鉄の言葉をそのまま龍興へ伝えた。

 それを聞いた龍興は愕然とした表情で項垂れた。

 

「何もするなだと。何もしないまま親父が死んだらどうすんだっ!?」

 

「落ち着かれませ若様!稲葉様も今すぐには戻れぬと言っておられました。戦況が落ち着けば必ずや…」

 

「だけどよぅ。」

 

 一鉄の言葉は正しい。

 戦の真っ最中に前線の指揮官が本陣へ戻るなど、下手すれば戦線を崩壊させかねない愚行だ。

 しかも医療の心得があるとはいえ専門家ではない一鉄が戻ったところで、義龍を回復させられる保証など何処にも無いのだ。

 その様なこと、龍興も重々承知している。

 だがそれでも、肉親の危篤を前にして納得しかねる思いが龍興の胸中で暴れていた。

 

「若様っ!殿の意識が!」

 

「っ!?親父っ、気が付いたのか!?」

 

 義龍を介抱していた側近の言葉に、龍興は弾かれたように義龍へ駆け寄る。

 見ると、義龍の目蓋が僅かに開かれ、その奥には弱々しい光を宿す瞳があった。

 

「おい、親父!大丈夫か?」

 

「………う…ああ。」

 

 龍興の呼び掛けに応じるように義龍の喉から唸り声が聞こえる。

 そして、何か訴え掛けるような目で龍興を見つめた。

 

「うん?どうした、親父?」

 

「…ううぅ………き……」

 

「き?」

 

「き……きたろぉ……」

 

「っ!?」

 

 喜太郎。ハッキリとしない発音で、確かに義龍は息子へそう伝えた。

 それを最後に義龍の目は再び閉じられる。

 果たしてこの時、義龍は何を思い長らく呼んでいなかった我が子の幼名を口にしたのか?

 それは最早、本人以外誰にも知るよしは無い。

 だがしかし、義龍のこの言葉が、一人の若者に取り返しのつかない決断をさせてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 伝令を帰らせた後、一鉄は再び采配を振るって万千代の攻勢を凌いでいた。

 義龍が倒れた以上、本体の後詰めは絶望的。ならば今日のところは無理に勝ちを急がず、日没まで敵の攻勢を躱す。

 そして本陣へと戻って義龍の病状を確認し翌日以降に仕切り直す、というのが一鉄が思い描いた青写真であった。

 

 しかし、そうした一鉄の思惑は、戦場に響いた重厚な法螺貝の音色により崩れ散った。

 

「なんだとっ!?この音色はっ!」

 

 一鉄はこの音色の意味を知っている。

 だが現実主義者の一鉄をして、その音色の意味を理解するのを脳が拒絶し、愕然とその場で立ち竦む。

 配下の兵達も同様だ。ほとんどの兵は混乱した様子で互いに顔を見合せ、聞こえてきた音についてざわめいた。

 

「なあ、今の音って…」

 

「ああ、だけど何でいま?」

 

「いったいどういうことだっ!?どうして…」

 

 撤退の合図が掛かるんだ………

 

 

 

 多くの美濃兵が理解できぬ様子で呆ける中、心当たりの有る一鉄は顔を歪ませ本陣を振り返る。

 視線の先では、潮が引くように本隊が後方へと下がって行っていた。

 

「…クソったれ!!あの大馬鹿者があああっ!!!」

 

 怒りの咆哮が戦場に木霊した。

 

 

 

 

 

 

 一色軍の異変は即座に織田軍も知ることになる。

 だが、織田もまた一色軍の行動に戸惑いを覚えていた。

 

「は?いったい彼奴らホントなにやってんの?」

 

 信奈もまた、突如として動きが変わった一色軍に唖然としていた。

 いずれも混乱した様子で緩慢となり、その場に留まろうとする部隊や後退しようとする部隊が入り混じり、意思統一を完全に欠いていた。

 その奥の方へと目を向ければ、目指していた敵本陣が前線の味方を置き去りにして撤退を始めていた。

 

「どうして今ここで撤退を始めてるの!?何かの罠?いや、前線の兵の様子からして少なくともここにいる兵たちはとって不測の事態なんだわ。という事は…」

 

 敵本陣で撤退をせねばならない事情が発生した。

 

 信奈は詳細は分からずとも、一色軍に起きた異変の理由に見当をつけた。

 そしてそれは、敗北を覚悟した戦に勝機を見出す光であった。

 

「皆の者っ、敵は混乱し烏合の衆と化したわ!今が好機っ!敵の背に食らいつき散々に追い立てるわよっ!」

 

 味方を鼓舞する号令をかけ、信奈は先頭に立って混乱する敵集へと槍を突き立てる。

 母衣衆がその後ろに続く。

 敵将の氏家直元は混乱する配下を何とか立て直そうとするが、大所帯の軍に広がった動揺を完全に抑えきる事が出来なかった。

 この戦で最も大きな被害を受けたのが直元が率いた部隊であり、混乱の中織田軍に打ち取られたもの以外にも撤退しようとする兵とその場に留まろうとした兵同士がぶつかり密集状態になり、戦場の真ん中で圧死した兵も数多に上ったと言われている。

 直元自身も顔に刀傷を受け重傷となるも、命からがら戦場を抜け出し本領へと離脱した。

 

 中央の安藤隊も直元隊同様大いに混乱するが、相対した信盛は敵が追い詰められた結果死兵と化すのを懸案し、逃げ道を敢えて残しそこから逃げていった敵兵を程よく追撃するに留めたおかげで、守就をはじめとした重鎮は撤退に成功した。

 

 稲葉一鉄の部隊は事態を把握するとすぐさま撤退を選択し、間誤付く兵を置き去りにして脱兎の如く戦場から離脱。それを見た配下達は兎に角この場から逃げ出さなければと理解し、自ら殿を志願した一部の兵たちを除いて多くの兵が撤退に成功し、三人衆の中では最も被害を少なくする事が出来た。

 

 一色軍を蹴散らした織田軍は勢いに乗り、戦場周辺の砦や支城を攻めてこれを陥落させた。

 これにより、織田軍は美濃南部から一色勢力を一掃し、ここに通る街道を押さえる事に成功する。その結果、織田軍は当初の目標通り美濃南部における勢力の確立、並びに中央と西部の一色勢力を分断させるに至り、美濃制圧に大きく前進することとなった。

 

 一方で、大敗を喫した一色家は大きく戦力を低下させた。

 本隊自体は大きな被害こそ無かったものの、有力豪族の多くが犠牲となり、その一族からの信を失う羽目となる。何より街道を獲られた戦略的失地はあまりにも大きく、この戦以降一色家は美濃の豪族たちへの影響力を著しく落とす事となった。

 そして、一戦にして御家を滅亡の淵にまで堕ちぶれる大失態を犯した一色龍興は、この中濃の戦いを以て後世でこう呼ばれるようになる。

 

 戦国史に残る大敗北を招いた、戦国時代最低最悪の愚将、と…

 

 今宵はこれまでに致しとう御座りまする。




・引き佐久間
 作中の通り、史実でも織田家の武将たちを評した歌で引き戦の得意な武将と評さてれいる信盛だが、少なくとも撤退戦で大きな成果を上げたという記録は残っていない。
 一応三方ヶ原の戦では本人含め主要な家臣に被害は出ていないが、救援する筈の徳川家は大きな被害を受けているので、これで撤退戦が得意と言うのは無理があると思う。

・稲葉一鉄
 「頑固一徹」の異名で知られる人物で、その逸話から頭の固く融通の利かない脳筋武人として創作物で描かれることも多い。
 しかしながら当時の資料から実情を見ていくと、非常に教養が深く時世を読む事に長けた頭の切れる人物像が浮かび上がってくる。
 その上で、一地方の豪族として故郷を守らんとする断固とした信念を持つ人物ではなかったかと作者は推測し、本作でのキャラ付けとしました。

・安藤守就
 史実では竹中半兵衛の舅という事からか、創作物では穏やかな理知的な人物として描かれることもある人物である。
 ただこの人、信長の勘気を被り後に追放されている。そして本能寺の変のどさくさに紛れて反乱を起こそうとするも、一鉄に察知されあっさりと討ち取られる最期を迎えるなど、同じ西美濃三人衆でも機微を悟るのに劣る印象を受ける。
 本作ではそうした史実の実情と、一徹との差別化を図るため腕っぷしは強く統率力はあるが、好き嫌いが激しく短慮で乗せられやすい人物像にしました。

・氏家直元
 ぶっちゃけ史実から拾おうにも割と早い段階で離脱するのでキャラとして描き難く、三人衆最大兵力という部分くらいしか特徴を付けられなかった。
 本人よりも子供の方が大坂の陣で活躍するなどキャラが立っている。
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