今回の主役は、美濃編でほとんど出番の無かったあの子。時期的には美濃編が始まる少し前、秀吉が良晴を故郷に連れて行く少し前あたりの話です。
時は八月。
蝉の鳴き声が騒々しく鳴り響く田園の畦道を、三人の人物が歩いていく。
秀吉、良晴、そして犬千代の三人だった。
背中に荷物を背負った犬千代を先頭に、照り付ける夏の日差しを受けながら、三人は黙々と歩を進めている。
「ふぅ、現代の猛暑に比べればマシだけど、夏の暑さがしんどいのは戦国時代も変わらねぇな。犬千代、まだ歩くのか?」
「あと、もう少し。そろそろ見えてくるはず。」
額の汗を拭いながら良晴が尋ねると、犬千代は普段通りの抑揚の無い声色で返す。すると、犬千代はおもむろに後ろから付いてくる二人の方を振り向いた。
「良晴、藤吉郎。この一月の間犬千代に付き合ってくれて本当に助かった。だから、無理に着いてこようとしなくても…」
「水臭いことを言うでない!むしろ此処まで付き合ったからこそ、物事の終結が気になるというもの。この一ヶ月の成果、しかとこの目に焼き付けねば気になって夜も眠れぬわ。」
「そうたぜ、犬千代。それに、お前の実家にも興味があったからな。俺達はただただ好奇心で付き添ってるだけだから、思う存分こき使ってくれよな。」
申し訳なさそうにする犬千代の言葉を遮り、良晴と秀吉の二人が慮る言葉を述べると、犬千代は恥ずかしげに、しかし嬉しそうにハニカミながら小さく「ありがとう。」と返事をした。
話は一月前に遡る。
「家に帰ろうと思う。」
その日、仕事終わりに相談があるから部屋に来てくれと犬千代から頼まれた秀吉と良晴は、着いて早々に犬千代から告げられた
「家に帰るって、犬千代の家ってここじゃんか。」
「違う。犬千代が帰ろうとしてるのは実家の方。」
「犬千代の実家と言うと、荒子城の事じゃな?」
「そう。犬千代は姫様から家を継ぐように命じられたけど、まだちゃんと引き継ぎが出来ていない。」
「ああ、そういえば。確か、お前の兄貴を慕う家臣達の反対にあってるからって聞いたけど、本当なのか?」
良晴の質問に犬千代はコクりと頷いた。
「兄上は凄く優しい人。体は弱いけど、一生懸命領地のために働いてきた。みんな兄上の事を尊敬してる。」
そう語る犬千代の口元が少しだけ緩む。犬千代もまた、一領主として兄を尊敬していることが窺えた。
しかし、犬千代は「だけど」と呟き顔を引き締めた。
「兄上から正式に家督を頂こうと思ってる。」
「……その故は?」
「前田家が高みへ昇るため。」
端的に、然れど強い意志を持った言葉であった。
その様相は良晴が思わず息を飲むほどの真剣味がある。
「今川との戦で姫様は天下に武威を示した。いまや織田家全体がこの勢いに乗り、更なる高みに昇らんとしている。だけど兄上が当主のままじゃ、前田家は今以上にお役にたてない。」
犬千代は拳を握りしめ、絞り出すように話す。それに秀吉達はじっと耳を傾けた。
「このままでは、前田家は織田家中から取り残されてしまう。そうならない為には武功を上げ、姫様のお役にたち続けるしかない。」
「…故に肉親と争ってでも、家督を簒奪すると?」
秀吉の問いに、犬千代はゆっくりと頷いた。
「それが、姫様と前田家の為だから。」
「…………」
犬千代の返答に秀吉達は黙する。犬千代の決断が、並々ならぬ葛藤の末に導き出した物だと理解出来たからだ。
以前、家督の件を家中の者に誹謗され激昂したように、犬千代にとって前田家の家督継承は非常にデリケートな話題である。
肉親への情と、尊敬する主君からの命に板挟みにあった当時の犬千代が選んだのは、自ら生まれ育った城を去るという、結論の先送りに等しい現状維持であった。
だが、そうして問題から目を逸らし続けた結果が、敵方の挑発からの家中分断の計であった。
今回犬千代が決意を固めたのには、こうした問題の先送りに対する信奈へのケジメという意味もあるのだった。
「犬千代、御主がそう決断したのなら、儂等からは何も言うことは無い。そして友が助けを求めるなら、心配御無用。いくらでも手を貸す所存ぞ。」
「そうだぜ犬千代!俺達に任せとけって。つっても、いったい何を手伝えばいいんだ?」
「二人とも有り難う。犬千代が二人に頼みたいのは…」
そう言って犬千代が口にした頼みに、良晴は目を丸くさせ、秀吉はニンマリと濃い笑みを浮かべたのであった。
斯くして必要な準備に二十日、手紙で近々帰郷する旨を伺い、返事が届いたのが三日前、そして身具足を整え清須の城下を出て今日に至る。
こうして月日を数えると意外にも時間が掛かったな、などと良晴が思っていると、遠くに見張り櫓が見えた。
近づいていくと周囲を堀で廻らし、その内は茶色い壁で敷地全体が囲まれている。
よく見ると厚みのある木の板に土を塗り付けた物のようだ。
後に良晴が知るところによると、火矢を射掛られた際に炎上を防ぐのと、虫食いを防ぐ為の工夫らしい。
門構えもそう大きな物ではなく、城と言うよりかは砦か少し大きめの屋敷だな、という感想を良晴は胸の内で呟く。
すると、三人が門前に辿り着いくのを待っていたように、外開きの門がゆっくり開く。
その先から現れたのは、大人のような子供であった。
矛盾しているが、そうとしか表現できない。
背の高さは軽く秀吉を凌ぎ、現代人にして戦国の世の平均身長を大きく越える良晴に迫るほど。
しかし、その顔からは幼子特有のあどけなさが残っており、愛らしささえ感じる笑顔を三人に向けていた。
「よくぞお出でくださいました。本日は城主たる利久が病に臥せってます故、拙者が荒子城の案内を勤めさせて頂きます。若輩者ならば、何卒ご容赦を。」
そう言って恭しく頭を下げつつも、上目遣いの視線は好奇心の輝きが隠しきれてない。
しかし、ほんの一瞬であるが瞳の輝きの奥に猛獣の鋭さが宿り、良晴の背筋に寒気が走る。
こいつ只者じゃない。
そう悟ると同時に、良晴の脳裏に前田家から連想される一人の戦国武将の名がこの若侍と重なる。
そして、その予感は正しかった。
「申し遅れました。拙者は前田利久が嫡男、前田慶次郎利益に御座います。伯母上に置かれましてはお久しぶりに御座います。」
のちに、天下一の傾奇者と称される男の若かりし頃の姿であった。
慶次郎の案内で門をくぐった三人は、そのまま座敷へと通される。
そこで慶次郎は暫し待つよう三人に伝え、部屋を出ていった。
襖が閉じられると良晴は大きく息を吐く。
「ふう、緊張した。流石前田慶次郎、貫禄があるぜ。」
「なんじゃ良晴、信奈様の前でも緊張しない御主にしてはらしくないのぉ。」
「いや、だって前田慶次郎だぜ。天下御免の傾奇者って言えば、未来じゃ漫画やゲームで大人気なんだぜ。」
「ほう、あの慶次がのう…」
「…なんだか不思議な気持ち。慶次が有名人なんて。」
良晴の前田慶次郎評に秀吉と犬千代はそれぞれ違った反応を示す。
前世で前田慶次郎の数々の武勇と奇行を見聞きした秀吉はさも有なんと。
一方で今現在の慶次郎しか知らない犬千代からすれば、甥っ子が四百年後まで語り継がれる大人物になるとは、なかなか実感し難い話であった。
そうこうしている内に襖が開かれ、盆に黒光りする三つの茶碗を乗せた慶次郎が現れた。
「お待たせ致しました。粗茶にございますが、どうぞこちらを。外は暑う御座いましたでしょう。」
そう言って慶次郎は三人の前に茶碗を置く。細かな水滴が表面に着いた厚手の器に、新緑の茶が並々と満たされている。
「おっ、気が利くな。ずっと歩いて来たから喉がカラカラだったんだ。ありがとう。」
夏の日差しに参り気味だった良晴は笑顔を浮かべ慶次郎に礼を言うと、己の前に置かれた茶碗を手に取った。
水滴の冷たい感触を覚えた良晴は、躊躇なく茶を口に運ぼうとする。
「それじゃ、いただき」
「まてっ!良晴!」
茶碗の縁に口を付けようとした良晴の手を、秀吉が鋭い一声と共に掴んで止める。
「えっ!?どうしたんだよ秀吉さん?」
「…利益殿、茶筅は御座いますか?あれば御借りしたく。」
「…少々お待ちを。」
秀吉の言葉に少し眉を跳ね上げさせた慶次郎であったが、腰を上げると部屋を出ていき、間もなく茶筅を手に戻ってくる。
「此方でよろしいでしょうか?」
「忝ない。」
慶次郎から茶筅を受け取った秀吉は自分の前に置かれた茶碗を手に取ると、皆が見え易いように掲げ、茶筅を浸けて軽く一掻きする。すると…
「えっ!?」
「はぁっ!?いったいどうなってんだこりゃ!?」
犬千代と良晴の口から驚きの声が上がる。
彼らの視線の先には、突如としてモクモクと湯気を上げ始めた茶碗があった。
「沸騰した湯で点てた茶を、直前まで冷水に浸けていた茶碗に注ぐ。黒土で作った厚手の茶碗は熱が伝わり難いからのぉ。短い間なら触っても熱湯が入っているとは解らぬわけよ。あとは茶の表面に油を滴して油膜で湯気が立たぬよう細工し、茶碗の表面に霧吹きで水滴を吹き掛けてやれば、見た目は涼しげな茶の出来上がりというわけじゃ。」
「ほう、そこまでお見通しでしたか。なるほど、信奈様も認めた知恵者という噂、偽りでは無かったようですなぁ。」
秀吉から企みの全容を明らかにされながらも、慶次郎は誤魔化すどころか先程よりも楽しげに笑みを浮かべていた。
その様子は秀吉がよく知る前田慶次郎のそれと同じであり、安心感を覚えると同時に何とも言い難い渇いた笑いが込み上げて来るのを感じざるを得なかった。
秀吉の知る限り、前田慶次郎という男は普段は豪快にして細かい処は気にしないくせに、人をからかう事に関しては細かなところまで気を配る困った性質を持っている。
それこそ、叔父を真冬に水風呂に入れる為に妙に気合いの入った仕掛けを施したのは利家本人から聞いていた。
そんな男が人目につかぬ所で茶を用意してきたのだ。警戒せぬほうがどうかしている。
「おい、ちょっと待てくれ。つまりこいつは俺達を騙して熱々のお茶を飲ませようとしたって事か?」
「如何にも、その通りに御座います。」
「その通りですじゃねぇよっ!危うく火傷するところだっただろうがっ!どういうつもりだ!?」
「どうもこうも、敵方を欺き陥れるは兵法の基本にて。」
慶次郎がそう口にした途端、部屋の襖が一斉に開かれる。
それと共に武装した兵が雪崩れ込むと、秀吉達を囲んで槍の穂先を向けた。
「なっ!?」
「っ!慶次、犬千代達は曲がりなりにも姫様の使者。武器を向けるのは反逆の意思有りと見られる。」
「無論承知の上。しかし、この地を長きに渡り治めたるは我が養父、利久に相異無く。これをただ主君のお気に入りというだけですげ替えるは到底納得出来るものでは無く、荒子勢一同これに抗議する所存にございます。」
「…前田家だけで召集出来る兵は多くて八十人くらい。姫様が一声掛ければ、少なくとも五百の兵がこの城を囲む事になる。」
「はっはっはっ、五百程度で我が城を落とせるとお考えか。せめてその十倍、いや百倍の兵を寄越したところで返り討ちにしてやりましょうぞ!」
豪快な笑い声と共に放たれた挑発に、強がりの色は一切見えない。
これが前田慶次郎。
あまりにも無謀、然れど『この男ならやりかねない』と思わせるだけの雰囲気が確かにあった。
実際に良晴は慶次郎の威容に言葉を失い飲み込まれつつある。
その一方で、前田慶次郎をよく知る秀吉と犬千代の二人は、朧気ながら慶次郎の狙いを察し始めていた。
「…皆が納得出来ないから犬千代が当主に成ることを認められない。だったら、どうすれば荒子の皆に犬千代が当主に着くことを納得して貰える?」
犬千代の問いかけに慶次郎は笑みを濃くする。
「そこはやはり、当主として相応しい器を示す以外に無いでしょうな。それこそ、この前田慶次郎利益を越える武威を見せつけるとか。」
「………要するに何がしたいの?」
「叔母上、槍を交わしましょうぞ。」
それは明確な一騎討ちの申し出であった。
慶次郎の返答に犬千代は珍しく大きく溜め息を吐いた。
「最初からそれが目的だったんでしょ?こんな物々しくしなくてもよかったのに。」
「いやぁ、久々に叔母上と会えると思うと気持ちが高ぶってしまいましてなぁ。ここは一つ拙者なりの持て成しをするのが良いかと。」
「だからって、城の皆まで呼び寄せる必要は無かったと思う。下手すれば本当に反逆と判断される。」
「いやいや、皆も久々に拙者と叔母上の立ち会いを見たがっておりましたので、全員で一芝居のが良いかと。それに今川を破った一軍と一戦交えるのも、それはそれで一興であります故。」
「………笑えない冗談はやめてほしい。」
「おっと、これは失敬。」
さして反省した様子もなく軽く返す慶次郎に、犬千代は再び大きく溜め息を吐いた。
「な、なぁ秀吉さん。いったい何がどうなってるんだ?」
「何もどうにも見ての通り、遊んでおるのよ、こ奴らは。」
戦であろうと何であろうと、何処かに必ず遊び心を加える。それが前田慶次郎という男である。
今回もその一つ。
何やら久しく顔を見せてなかった親族が男連れで帰って来るのでからかってやろう。家督の相続話はそのついでだ。
戦であろうが、遊びであろうが、全身全霊真剣にふざけて魅せる。
まさに乱世の傾奇者を体現した男なのだ。
秀吉はそれをよく知っている。
何せ前世において慶次郎は、太閤となった秀吉をはじめとした有力大名達の面前で猿真似踊りを披露した挙げ句、その場で秀吉を暗殺しようとした男なのだ。
しかも動機は、なんとなく面白そうだったから、と言うのだから開いた口が塞がらない。
にも拘らず、そんな慶次郎を秀吉は間違いなく気に入っていた。
理由は?と聞かれれば、こう言う他無い。
『見てて飽きない。』
これ程までに目が離せぬ男が二人と居ようか。
傾きも極めれば華と成る。正しくそれを体現した存在なのだ。
結局のところ、秀吉は好きなのだ。常識を屁とも思わず、伊達と酔狂に身を捧げ、己れの矜持を真っ直ぐに貫く輩が。
だからこそ、現世でも相変わらずの慶次郎の傾きっぷりに、秀吉は懐かしさと安心感を覚える。
「ささっ、叔母上、早く表に出ましょう。武具はちゃんと準備してあります。ほらっ、いざ、いざ。」
当の本人たる慶次郎はと言うと、今度は遊びたがりな子供の如く、犬千代の袖を引っ張って外に出ようとする。
そんな甥の誘いを、犬千代はやんわりと手で制す。
「慶次、犬千代達はあくまでも家督継承の話をしに来た。槍の相手はその後。まずは本題を片付けてから。」
「つれないですなぁ、叔母上。しかし、武威を示さずして如何に我らを納得させてくれるのですかな?」
慶次郎は不服そうに口を尖らせ、挑発の言葉を投げ掛ける。
それを受け、犬千代は清須から背負ってきた風呂敷をほどく。
その中から現れたのは、膨大な数の紙の束だ。
「叔母上、これは?」
「清須城や近くの寺に保管されていた荒子周辺の土地に関する資料。秀吉と良晴に頼んで集めて貰った。」
そう答えると、犬千代は懐からおもむろに算盤を取り出した。
唐突だが、前田利家という戦国武将の最大の長所は何だろうか?
槍の又左の異名をとった武力か?
加藤清正が戦の手本にすべし、と説いた統率力か?
或いは、混迷を極めた乱世の中で、巧みに権力者の元を渡り歩き家名を後世に残した世渡り術か?
秀吉に言わせれば、そんなもの犬千代という武将を構成する一部分に過ぎない。
乱世を共に駆け抜けた秀吉思う前田利家最大の長所、それは…
「それじゃあ、今から荒子城下の収支現状、並びに今後の発展性についての説明を始める。」
戦国随一の領地経営能力。それこそ前田利家最大の武器である。
「この資料の通り、前田領の石高は尾張の他領地と比較しても平均を越える収穫がある。その一方で、在庫管理が不十分なせいで、毎年一定数の兵糧がカビや虫食いで廃棄されてる。まずは兵糧小屋に納められてる兵糧を収穫時期毎に整理して、廃棄される兵糧を極力削減する。こうすることで、ほら、廃棄してた兵糧を売ることでこれだけの軍資金が見込める。」
資料を横目にパチパチと算盤を弾き、導き出した収益を示す犬千代の顔は実にイキイキとしている。
そんな犬千代の様子に前田家の家臣団はあんぐりと口を開けた。
「次に領内の灌漑工事についてだけど、現在田畑に引いてる水路の整備を田畑の規模や最後に整備した時期など参考にして、優先して整備する水路を改めたいと思う。また、工事にかかる人足についても規模や時期ごとに少しずつ調整していく。これについては姫様からも許可を得て、村井貞勝様の御助力を取り付けてあるから、皆の負担が大きくなる事は無いので安心して欲しい。むしろ効率的に人とモノを回せる様になるから、以前に比べれば余裕が出ると思う。」
サラリと領主にとって最大の義務ともいえる公共事業についての改善案を出し、上役への根回しまで済ませている手際の良さに、慶次郎でさえも刮目した。
「あと、ここ数年の人口増減について、前田領は他領に比べて多きく増加しているけど、人口の増加に比べて田畑の開発が追い付いていないから、このままだと飢饉の時の対応が難しくなるかもしれない。ただこれは、兄上が病気でここ数年一部の政務が滞っているのと、派兵が出来ないから一時的に戦死者が出なくなったことが複合的に影響しているからだと思う。今後は新田の開発を再開するとともに、武具の新調が必要。」
そこまで言うと一旦言葉を切り、犬千代は慶次郎の淹れたお茶で口を潤す。
熱々のお茶は、冷めて程よい温度になっていた。
その様子を見つめる秀吉は、流石犬千代じゃ、と笑みを濃くする。
一月前に犬千代が『家臣達を納得させる為の行政資料を作成したいから、参考文書集めを手伝って欲しい。』と言われた時、良晴は驚いた様子だったが、秀吉は今日の光景が現実に成る事を既に予想していた。
何せ前世の前田利家は、戦乱により荒廃仕切った加賀国を僅か数年の内に復興させ、日ノ本有数の富める国へと立て直した希代の内政上手だったのだ。
その魂を引き継いだ犬千代が、総兵数八十人ばかりの小領地の運営に苦労するわけが無い。
「…あ、あのぅ、利家様。正直、学の無い儂らにはよう分からんところもあるんだぎゃあ、ようするに利家様は前田家を豊かにしようとしてんでしょうか?」
「前田家だけじゃない。前田家に仕えるみんなが今よりも余裕を持って生活出来るようにして、姫様の信頼を得られる働きが出来るようにする。つまり、荒子の兵達をより強くする事が最終目標。」
「じゃ、じゃったらっ!うちの具足なんかも新しく買い換えられるかにゃー?なにぶん爺様が落武者狩りでぶんどったもんそやから、とっくの昔にボロボロだきゃあ。」
「うん。具足に関しては将来的に統一した物を纏めて用意したいと思ってる。槍も長さを均一にして、集団戦に対応できるよう部隊を組織化する。」
犬千代の言葉に家臣団から『おお~!』というどよめきが生まれる。
彼らは皆、先祖代々前田家に仕えてきた地侍であるが、本職は専ら田畑を耕す百姓であり、用意できる武具も基本的には安く買った中古品や落武者狩りで得た略奪品ばかり。
武具の統一化など夢のまた夢であった。
だが、そんな彼らに犬千代は理を以て夢を見せた。
故に彼らは、ピカピカの鎧を身に纏い、整然と進軍する勇壮な自分達を夢想し胸を高鳴らせる。
家臣団が犬千代を見る目が、最初と明らかに変わっていた。
ただ一人、慶次郎だけが詰まらなそうに膝に肩肘を立て顎を乗せている。
「…伯母上、変わられましたなぁ。まるで織田の姫様みたいじゃ。」
「うん。犬千代は姫様みたいになりたい。その為にたくさん勉強して、政についてもっと知りたい。そして犬千代は、大名になる。」
「大名、ですと!?」
「そう。姫様の元で手柄を上げ、国一つを預かる領主となり、尾張にも負けぬ立派な国を作る。それが今の、犬千代の夢。」
真っすぐに慶次郎の目を見つめ、己の決意を弟と領民に聞かせる。
領民は誰も声を上げない。
誰もが次に慶次郎が何を言うかを待っていた。
だがその慶次郎でさえ犬千代の発言に戸惑った様子を見せ、何かを口にしようとするが上手く言葉に出来ず、らしくもなく視線を迷わせていた。
その姿には、年相応の少年らしさがあった。
「そうか、よい夢を持ったな、犬千代。」
穏やかな、そよ風に似た声が部屋に流れる。
いつの間にか部屋の入口に、頭の半分が白髪になった痩せ気味の中年男性が立っていた。
その口元に浮かべた笑みは、慶次郎の微笑とよく似ている。
「親父殿。」
「…兄上。」
慶次郎と犬千代がほぼ同時に口にする。
この男性こそ、慶次郎の養父にして犬千代の実兄、前田利久その人である。
利久は犬千代の前に静かに座ると視線を合わせる。
「…久しいな犬千代よ。良くぞ戻ってきた。元気そうで安心したぞ。」
「…はい。兄上も御元気そうで。」
「ああ、最近は調子が良いのだ。それにしても、あの小さかった犬千代がこれほどまでに立派になるとは。清州での活躍、噂に聞いているぞ。」
目を細め、嬉しそうに語る利久。
その言葉に犬千代はハッと息を呑むと、目を潤ませた。
「思えば犬千代には苦労をさせた。儂が当主として不甲斐ないばかりに家を傾け、姫様の信認を失うは武門の恥。犬千代に家督を譲るのは当然の事だ。」
「そんな事は無い!兄上は荒子の為に頑張ってきた!ここにいる皆も、みんなよく知ってる!」
「ああ、ありがたいことだ。だが犬千代よ、いざという時槍を持って戦場に行けぬ武士に、何の価値があろうか。主君の窮地に命を張れぬ者に、誰が力を貸してくれようか。姫様がお主を前田家の家長にした事は、何も間違ってはおらぬ。」
そこだけは譲ってはならぬとばかりに利久は断言する。それは利久の武士としての矜持であり、同時に利久ではどうしようもない自身のコンプレックスの発露であった。
その言葉の内にある兄の苦しみを感じ、犬千代は膝に当てた掌をギュッと握りしめる。
「実を言うとな、口では姫様のご裁断に従うとしながらも、心の内に承服しきれぬ思いもあったのだ。いっそのこと姫様に逆らい、慶次郎に家督を譲ることも考えた。だが今日お主の話を聞いて心が決まった。皆は感謝してくれたが、儂は自領の体制を維持するのに必死で、領民の生活を豊かにし自領を発展させようなどと考えたことも無かった。犬千代、お前にはとても敵わぬ。」
利久はそう言うと、多くの家臣と息子のいる前で、犬千代に向かって手を着き頭を下げた。
「今日より、この前田利久、前田利家さまの傘下に降り、命ある限り御家の為に働きたい所存にありまする。何卒、宜しくお願い致します。」
「っ!?忠節、感謝いたす!どうぞ、これからも犬千代、いや、この利家にお力を!」
犬千代は己でも気づかぬ内に兄の両手を握っていた。両目からは止めどなく涙が溢れていた。
泣きじゃくる妹に対し、利久は慈愛に満ちた優しい笑みを向ける。
そんな養父を、慶次郎はじっと表情を消して眺めていた。
その日の晩、荒子城では新たな城主を祝する宴が行われた。
犬千代の家督相続に反対していた者達も、犬千代へ詫びを入れると犬千代もそれを笑って許した。
それどころか、犬千代は長年に渡る利久への忠義を感謝し、今後も前田家への変わらぬ忠孝を願えば皆一様に忠誠を誓った。
そして始まった酒宴の席では、良晴と秀吉が稲生と桶狭間での犬千代の活躍を大いに語り前田家臣団を喜ばせた。
特に犬千代が顔に矢を受けながらも城を落とした話をすると、流石利家様と大きな歓声が上がった。
そんな中にあって、宴を抜け出した者が一人。慶次郎である。
厠へ行く、と言って部屋を抜け出した慶次郎は、その足で馬小屋へと向かうと、予め用意していた旅装に着替え、槍を携え愛馬に股がり正門へと向かう。
夜空を見上げると、満月の下半分に雲が掛かっていた。
「…悪くない夜だ。」
「…どこが悪く無いの?」
慶次郎の独り言に、不意に問いが帰ってきた。
驚いて振り替えると、腕を組んだ小さな影があった。
「叔母上、どうしてここへ?」
「……多分、そろそろ慶次が出ていくんじゃないかと思ってたから。」
「……止めようとは思わないのですか?」
「………慶次は雲の子。決して誰にも縛られず、自由に風に乗って、自分の行きたい所で生きる事を望むから。」
犬千代の言葉に慶次郎は苦笑する。
なるほど、幼い頃から同じ屋敷で暮らしていただけに、この血の繋がらない叔母は実に自分の事を理解している。
同時に慶次郎もまた、この小さな叔母の事をよく理解していた。
「本当に、叔母上はズルい。いつも一足早く大人に成られる。」
「…犬千代は慶次のお姉さんなんだから、当然のこと。」
「だとしても、やっぱりズルい。俺は昔のように、叔母上と遊びたかったのに。共に行きませぬか、と誘っても無駄でしょうなぁ。」
「…犬千代は姫様の家臣。姫様の元で仕える事を喜びとし、姫様のお役にたつ事に命を掛けたい。」
「はははっ、本格的に犬のようですなぁ。」
「…うん。それで良い。犬千代は姫様の後ろに付き従う犬。それがきっと、犬千代の武士としての在り方だから。」
かつて秀吉は、信奈を笑わせる猿で在りたいと願った。
ならば犬千代は、主人に周りを駆け回る忠犬に成る事を望んだ。
だがその在り方は、自由を愛する風流人とは決して相容れない。それが分かるからこそ、犬千代は慶次郎を止めなかった。
「お互い、難儀な性格をしておりますな。」
「……そうかも知れない。だけど、これが自分で選んだ生き方だから。」
「……ですな。それでは叔母上、拙者はそろそろ。親父殿の事、宜しくお願いいたします。」
手綱を操り、慶次郎は背を向ける。
その背中に向かって、犬千代は叫んだ。
「慶次っ!もし道中苦労をし、どうしようも無く難儀した時は、遠慮無く犬千代を頼って!いつでも、臣として迎えるから!」
その叫びに馬が止まる。
暫くして慶次郎が振り返った時、犬千代の頬を爽やかな夜風が撫でた。
「この前田慶次郎利益、いずれ日ノ本の行脚を終える時、比類無き天下無双の武人と成る所存!然らばこれを臣と迎えるは、並みの大名では非ず!少なくとも百万の石高を押さえる大大名こそ我が仕えし主と定めれば、利家殿にその御覚悟はお在りかぁっ!!」
「っ!?成る!成って見せるっ!!姫様の元で手柄を上げ、百万石の大名に成って、いつか必ず慶次を迎え入れる!慶次に相応しい戦国武将に成って見せるっ!!」
「あいわかったっ!ならばその誓い果たされるまで暫しの別れ。いざっ、さらばっ!!」
「慶次っ!!」
己の名を呼ぶ愛しき女の声を背に、前田慶次郎は月夜を行く。胸に秘した想いを抱き、若き傾奇者は旅立った。
月に掛かった雲は風に流され、いつの間にか闇夜に消えていった。
今宵はこれまでに致しとう御座りまする。
・前田慶次郎
言わずと知れた『天下無双の傾奇者』。
元服して間もないにも関わらず、身の丈は戦国時代の大人を大きく越え、身に纏う闘気は歴戦の強者に勝るとも劣らぬ大器の若武者。
一方で、性格は豪快で悪戯好きなガキ大将そのものであり、既に稀代の傾奇者としての片鱗を見せつつある。
元は利久に子供が出来ないので、利久の妻の親族から貰われた養子なのだが、利久からは愛情深く育てられた。
また、犬千代からは弟のように可愛がられ、小さい頃から数え切れないほど槍を交わし鍛えられた。
慶次郎も二人を敬愛しており、家督相続で家中が揉めた時には板挟みになり苦心していた。
モデルにしたのは『だがそれが良い!』と言う慶次。謂わば今作の慶次郎は、利家と仲違いしなかった慶次と言える。
・前田利久
病弱を理由に信奈から家督を犬千代に譲るように命じられた犬千代の兄。
体は弱いが穏やかで人心を慮る性格のため、領民や家臣達からは慕われていた。だが一方で、器量としては決して人より優れたものではなく、病弱も相まって政務に滞りがちになり、領内を穏やかに衰退させつつあった。
年の離れた犬千代を大変可愛がっていた一方で、養子の慶次郎の将器にも大変期待していた為、家督相続を承諾しつつも内心では信奈への謀反すら考えるほど追い詰められていたが、犬千代の成長を目の当たりにして覚悟を決めた。