一色家との激戦を制し、遂に美濃の国取りを完遂するに至った織田信奈。
年始には『天下布武』の野望を明らかにし、今まさに戦国時代の中心地へと殴り込まんとしていた。
そして美濃平定から一月が経ち、稲葉山城改め岐阜城の執務室で、信奈は現在…
「もう無理。死ぬ。」
死にかけていた。
「姫様、しっかりしてください。寝てる暇なんてありませんよ。二十点です。」
「辛辣すぎないかしら、万千代。ていうかあんた、その調子だとまだ余裕ありそうね。」
「おほほほほほ、……これが余裕のある人間の顔に見えますか。」
「…ごめん、失言だったわ。」
らしくもない笑い声をあげた後、急に真顔になって聞いてきた万千代に、信奈も思わず謝罪の言葉を口にする。
そんな二人の目は血走り、その下には濃い隈が出来ており、髪の毛もボサボサで、体全体からくたびれた雰囲気が醸し出されている。そしてその周りには、山高く積み上げられた書状があった。これらは全て、美濃国の政務に関する重要な資料である。
先の大戦により美濃を制圧するに至った信奈は、今後の天下に挑む戦いに備え主要な拠点を清州から岐阜に移し、家臣達にも岐阜へ転居するように布告した。
それに先立ち、美濃の国人に対して石高をはじめとした土地の情報を記載した資料を提出する旨を命じ、それを基にした新たな国割の作成に勤しんでいた。しかし、広大な美濃国の土地の関連資料は信奈たちの想定を遥かに超える量があり、しかもそこに国人たちからの所領安堵の陳述なども加わり、一月を経過した今も終わりの見えない作業が続いていた。
「正直舐めてたわ。自分の国ならともかく、他国の行政資料を纏めるのがこんなに大変だったなんて。」
「ええ。そもそも枡の大きさや兵糧の集計の仕方が尾張と微妙に違うせいで、尾張の感覚で計算したら明らかに誤差が生まれるんですもの。しかも国人たちが提出してくる資料の書き方もまちまちですし。」
「まあ、マムシの代から守護を追い出してることから見ても、尾張に比べて国人たちの独立意識が強いみたいだしね。とはいえ、国人達にとっても先祖代々の土地を守れるかどうかの瀬戸際なんだし、なんとも遣り辛いわ。」
信奈は国人からの書状に目を通しながら吐き捨てる。
この時代、物の量を計ったりする基準や、物品の集計方法は国によって違うことが多かった。
それらが統一されるのは、史実では秀吉が太閤検地を実施してからである。
また、敗れたからと言って美濃の国人達も大人しく土地を差し出すとは限らず、もし強引に土地を徴収しようならば間違いなくもう一波乱起こるため、信奈達も慎重な対応をせざるを得ない。
そのため、先ずは城に保管してある土地関連の資料を検め、国人衆が提出してきた陳述書と吟味し、配下を現地に送って実地調査を行い、その報告を以て城の資料や陳述書の内容と齟齬があれば問いただし、その上で資料をすべて尾張式の集計方法に直すという、非常に手間の掛かる事務仕事が此処一月の信奈の業務である。
当然その作業には尾張残留組を除いた読み書き計算が可能な家臣は全て駆り出されており、秀吉や犬千代は勿論の事、勝家や良晴でさえ実地調査の為に連日美濃中を計具を背負って駆け回っていた。
この作業が終わったら久しぶりにのんびり相撲観戦でもしたいわね。などという事を考えながら信奈が花押を押していると、執務室の襖が開かれる。
「失礼します、堀秀政に御座います。」
「ん?どうしたの久太郎。また国人からの陳述でも届いたの?」
「いえ。良い知らせと悪い知らせが届いております。どちらからお聞き成されますか?」
「…聞きたくないけど、先に悪い知らせを教えてちょうだい。」
「三河でにゃんこう宗による一揆が起こりました。どうやら松平元康様が寺社町から強制的に年貢を徴収したことに対する反発によるとの事。」
「ったく。何やってんのよ竹千代は。」
「松平様は一揆勢の鎮圧に向け兵を出した模様。しかし、家中より離反者が続出し敗退。逆に岡崎城まで攻め入られています。」
「ほんと何やってんのよっ!?」
同盟国で起こったまさかの事態に信奈は仰天する。
この一揆こそ俗に言う『三河にゃんこう一揆』であった。
「ねえ、万千代。竹千代の奴、年始の挨拶で『今年の主役は私ですぅ~。』的な調子こいた書状を送ってこなかったかしら?」
「はい。『東海地方に嵐を起こして見せます!』てな事も書いてありましたね。文字通り嵐を起こしてくれましたね。自領で。」
昨年、桶狭間の戦いの影響により独立を果たした三河松平家は、その後周辺の勢力を時には武を以て併合し、三河全土をほぼ掌握するに至った。祖父の代からの悲願を達成し、松平元康はまさに有頂天。正月には家臣達とキレキレの動きで『三河伝統海老すくいの舞』を踊っていた。
それがこの様である。付き合いの長い信奈からしても、流石に唖然としてしまう。
「ていうか、確か三河のにゃんこう宗には竹千代の父が守護使不介入の特権を与えてた筈よね?竹千代はそれを無視したって事?」
「はい。どうやら国政の資金が不足していた為、手っ取り早く寺から徴収しようとしたようです。」
「あのバカっ!きっと駿河にいた時の感覚で寺に介入したのね。」
「あのぅ、駿河と三河では寺との関わり方が違うのですか?」
秀政が信奈の言葉に疑問を覚えて口に出せば、信奈は大きく頷いた。
「ええ、大違いよ。そもそもとして駿河で大きく根を張るのは臨済宗の寺よ。そして駿河における臨済宗の最大拠点たる臨済寺の先代住職は、あの太原雪斎。今川家との距離が近く、その繋がりで今川家は門徒たちを統制してたわ。」
臨済宗は鎌倉時代に発達した禅宗の宗派である。禅宗の教義は鎌倉武士の趣向に合ったこともあり、関東在野の武家に広く信仰されていた。
即ち、駿河では鎌倉時代からの名門武家である今川家と最大宗派の臨済宗の関係が深く、宗教勢力の手綱を取るのが容易であったという事である。
「だけど今の三河で強い勢力を持つのはにゃんこう宗よ。で、ここが一番の問題点なんだけど、三河に来たばかりの竹千代は、にゃんこう宗の者とまともに関係を結ばぬ内に先代の頃からの約定を破棄したの。恐らく、駿河では寺社勢力が今川家に良く仕えてたから、三河でも坊主は武士に従うのが当然とでも考えたんでしょうね。」
「なるほど。寺からすれば領主に就任したばかりの若造が、いきなり喧嘩を仕掛けて来たようにしか見えませんね。それは一揆も起こりますよ。」
「それに、にゃんこう宗は庶民向けに分かり易い教えを説いてるから、門徒には生活が苦しい者が多いと聞くわ。その辺りが家臣の離反に繋がってるんじゃないかしら?」
信奈の読み通りである。
三河兵に限らずこの頃の多くの足軽は、そのほとんどが普段は田畑を耕す兼業農兵である。専業兵が雇えるのは財政に余裕がある大名に限られ、今川家でさえ一部を除いて多くの足軽が普段は農業に勤しんでいる。
その為、領民が決して豊かでは無い生活を強いられていた三河では多くの兵がにゃんこう宗を信仰しており、家臣団の離反が続出したのだ。
日々の生活に苦心する者は、その救いを神に求める。
その心理を理解し切れなかった事こそ、元康の最大の失態であった。
「はぁ。尾張に残った地蔵に伝えて。いざという時のための援軍を用意するようにと。」
「承知いたしました。」
「はぁ、竹千代め。今回の件、存分に反省してくれないと許さないわよ。」
一般的に宗教勢力に対して厳しいと思われがちな織田信奈であるが、敵対さえしなければ同時代の他大名に比べても寺社に対しては寛容だったと言われている。
先の桶狭間の戦い後、戦勝を祈願した熱田神宮には戦勝の礼として所謂『信奈塀』を奉納し、『南無妙法蓮華経』と書かれた軍旗を用いていたなど、織田信奈はごく普通の日本人的な信仰心を持っていたとされる。
また、この当時の寺社は冠婚葬祭は勿論、戸籍の管理や地域の教育という行政機関としての役割を担っており、現代よりも遥かに市井の民との繋がりが深い。
そのため、地域の宗教組織と上手く付き合うことは、その土地の領主にとって非常な重要なことでもあった。
閑話休題
「それで、もう一つの良い知らせってのは何?本当に良い知らせなんでしょうね?」
「…はい。武田信玄の弟、武田義信が謀反の疑いで蟄居され、その後蟄居先の屋敷で自害した模様。同時に傅役であった飯富虎昌をはじめとした親今川派の武将も連座して処断されました。」
「……デ、アルカ。」
秀政から知らせを聞き、信奈は筆を置く。そしてその手を組んで額を置くと、思案の面持ちで万千代に視線を送る。
「万千代、これはもう武田の駿河侵攻は時間の問題かしらね。」
「はい。義信の奥方は今川の姫。これを断ち切るのは三国同盟の破棄と同義です。北条の反発も必須でしょう。」
「それを受けてもなお、武田は今川を喰らおうとする。これってやっぱり、武田は余裕が無いわね。」
「恐らくそうかと。上杉との戦いでは重臣を失い、ここ数年は新たな領地を得られずにいます。ですが聞くところによると、軍備の拡張は辞められず、甲斐の灌漑工事にはかなりの銭を投じているとも。外面は取り繕っていますが、懐事情はあまりよろしくないのでは?」
「頼みの綱は甲斐の金山と信濃からの搾取か。信濃の民も気の毒ね。大分恨みが溜まってるんじゃないかしら?」
信濃国は現在武田家の占領下にあるが、かつては諏訪大社大祝の諏訪頼重が要所を押さえ大きな力を有していた。武田家の先代、武田信虎は複数回に渡り諏訪家を攻めたが攻略する事は適わず、信玄の姉である禰々を嫁に出し婚姻同盟を結んでいた。
ところが信玄が信虎を追放し当主に就くと、騙し討ち同然に頼重を攻め、これを討ち取った。
この時の心労で禰々は床に臥せり、ほどなく病死する。そして頼重と禰々の娘である四郎は、信濃豪族を押さえつける為の人質として甲斐に送られたのだった。
その後、信濃は武田家の軍資金の為に過酷な負担を担うことになり、領民たちは大いに苦しんでいる。その胸中は決して穏やかざるものであろう。
「武田にとっては負けられない戦いになるわね。今の武田家が纏まっているのは常勝の将、武田信玄が上に立っているからよ。もしここに敗北という傷が付いた時、武田はどうなるかしらね?」
「いずれにせよ、今川の動き次第です。今のところ国力の回復に力を入れているようですけど、果たして手負いの国同士どこまで対抗できるか。」
「武田と今川、もはやこの二か国が手を携える未来は無く、関東三軍師の尽力により締結された三国同盟はここに破綻。果たして生き残るのは武田か、今川か。まぁ、こっちとしては虎囲いの第一段階は完了したのは喜ばしい事ね。」
甲斐武田を滅ぼさんとする『虎囲いの計』。その第一段階は武田と今川の敵対を以て成った。
それと同時に、たとえこの策謀の成否に関わらず武田家は長く無いであろう事を信奈は察した。
「もしかして、いま私の話をしてましたか。」
不意に場にそぐわぬ能天気な声が聞こえてきた。
声のした方に顔を向けると、秀政の後ろからひょっこりと首を出す女がいた。
その顔を見た信奈は苦々しく顔をしかめた。
「あんたの弟について話してたの。誰もあんたの事なんて呼んで無いわよ。」
「まぁっ、龍王丸の事を!つまり今度産まれる御子についてですわね!私の所にもなんと名付けるべきか相談の手紙が来ましたわ。大切な甥っ子ですし、私も良い名を付けてあげねばと悩んでますの。でもそれ以上に大切なのは、如何にして私を叔母上様では無く、御姉様と呼んでくれるようにするかでして…」
突然乱入してきたかと思えば、何やら愉快な勘違いをしはじめたのは今川義元。以前は背中を隠すほどの長さを誇った美髪は今は肩口の辺りで切り揃えてあるが、その高貴な雰囲気は嘗てと変わらず。
扇子で口元を隠してホホホと笑えば、信奈も頭に手をやり溜め息を吐く他無い。
桶狭間の戦いで捕縛され、その後の会談にて今川義元の身分は織田の客分、実質的には今川からの人質として落ち着いている。
敗軍の将とはいえ他国の姫。人質とはいえ粗末に扱うのは憚れる身分のため、当初から義元は清州の一画に屋敷を用意されるなど、手篤い持て成しを受けていた。無論、その周囲には警備の名目で常に監視の目は有るのだが。
そうした状況下で義元も最初の内は大人しくしていた。
しかし、一月もすると生来の気ままさを発揮するようになる。
警備の兵たちを巻き込んだ蹴鞠大会に始まり、商人たちを屋敷に招いて歌会に茶会、織田家の女房達に対する生け花の指導、さらには自身の舞踊の披露会など、とにかくやりたい放題やって織田家中に文化の新風を吹き込んだ。
武将としては色々と足りない部分が多い義元だが、こと芸事に関しては当代きっての文化人である。義元その強みを存分に振い、人質で在りながら文化の伝道者としての立場を短期間のうちに織田家中で確立したのだった。
また、義元は積極的に城下に繰り出し清州の民と交流した。
敵対した国の元大将とはいえ、見た目はまさしく目麗しい高貴な姫である。当初は警戒していた清州の民も、その容姿と高飛車なれど憎めぬ性格に惹かれるようになり、いつの間にか受け入れられるようになっていた。
しかもこれらの行動、義元に何か思惑があって起こしたものではなく、単に自分がやりたい事をやった上での結果である。かの太原雪斎をして『周りに支えられる将』と称された才は、尾張にあっても健在だった。これには信奈も頭を抱えるしか無い。
「申し訳ありません、信奈殿。義元様、信奈殿は政務中です。邪魔をしてはなりませんよ。」
義元に続いて部屋に入り忠言するのは、今川軍本隊で指揮官を務めていた朝比奈泰朝である。
義元と共に捕らえられた泰朝は、戦で負った怪我が癒えた後も義元の元に残り、側近として日々の生活の世話をしていた。
「謝るんだったらさっさとこの馬鹿姫を連れて帰って頂戴。本当に仕事の邪魔。」
「まぁっ!失礼ですわね。せっかく名城と言われる稲葉山城に来たんですから、少しくらい中を見学してもいいじゃないですか。あら、それってもしかして石高表?」
「ええそうよ!お察しの通りこの国の石高について検めているところなの。だからあんたの相手をしている暇は…」
「信奈さん、たぶんそこに書かれてある石高、数が間違ってますわよ。」
「…は?」
唐突な義元からの指摘に、信奈は柄にもなく呆けてしまう。
義元が指さすのは、国人衆の一つから送られてきた石高表である。信奈も一通り検め、特に内容に不備は無かったため花押を押そうとしていた所である。
だが義元の顔には冗談の色は無く、その口調は何気ない様でいて確信めいたものが込められていた。
「…ねぇ、なんで石高が間違っていると思ったの?」
「何でって言われましても、その石高表の紙は随分と質の良い物ですわよね。今川でも重要書類や他国へ書状を送る時に使う物で、そんじょそこらの国人がおいそれと普段使いする物ではありませんわ。にも拘らず、その書状に書かれてる石高の数が使われてる紙の質と全く釣り合ってなかったので変だなって思いましたの。なのでちょっと頭の中で計算してみたんですけど、やっぱり数が合ってませんでしたわ。多分その石高表を書いた人が、間違って過少に書いてしまったのではなくて?」
「……万千代、久太郎、ちょっと来て。計算し直すわよ。」
「「は、はい。」」
万千代と秀政を呼び寄せると、頭を突き合わせて再計算を始める。一つ一つ慎重に数を確認しながら、城にあった資料と比較していくと、ほどなくして信奈は大きく息を吐いた。
「本当だわ。よく見たら城に毎年納められてた年貢と、提出された資料の数が全然違うわ。万千代、この資料あれよね?」
「ええ。明らかに実態より過少に記載され、巧妙に数が誤魔化されています。間違いなく確信犯です。」
要するに、この資料を提出してきた国人は粉飾決済を行った資料を作成し提出したのだ。これは明確な裏金作りの証拠である。おそらく一色家時代、あるいはそれ以前から行われ常態化していたのか、一目では信奈達にも分からないほど巧妙で年季の入った改竄であった。
「さすが義元様。この手の不正は主代わりの時によく行われます。駿河でも最初は大分苦労しました。」
そうしみじみ語り、義元を称賛するのは泰朝である。しかし、当の本人には自分が大事を行った自覚は無いのか、いまいち反応に薄い。
「別に大騒ぎする事では在りませんわ。こういう書類を見るときは、まず紙と墨に注目するように師匠から教えられてましたの。別に注意深く読めば誰でも気づくことでしょうに。」
「いや、確かに最初から不正があると身構えていたら気づくでしょうけど。えっ、なに?あんた石高表の計算とかしてたの?」
「ええ、してましたわよ。師匠も太守なら最低限最後の確認くらいはしておくようにと教えてくださいましたの。あまり面白い作業ではありませんでしたけど。」
今川義元は本人の気質もあり、師である雪斎をして武将としての才は無いと断じられ、軍事を含むおよそ戦国武将に必要とされる教育はされなかった。
その一方で、大国の支配者、即ち大名として必要な教養は不足なく施され、特に内政分野や外交に必要な文化芸術における叡智はこれでもかと詰め込まれている。
何より義元は、最盛期には駿河、遠江、三河の三国を従えた大大名である。為政者としての実績と経験値はこの時点の信奈を大きく上回っていた。
「…ねえ、あんたいま客将の身分よね。一応我が家の将というのなら、手伝って欲しい事があるのだけど。」
「な、なんですの信奈さん?目が怖いんですけど。」
まるで『絶対に逃がさない。』とでも言う様にガッシリと義元の肩を掴んで怪しく微笑む信奈に、義元は恐怖に顔を引き攣らせる。だがもはや時すでに遅し。部屋の入口は万千代と秀政に抑えられ、逃げ場は完全に閉ざされていた。
その後、織田家は何とか美濃全土の検地を終えた。その際、いくつかの国人は石高の計算の不備を突かれ、その内容を検めざるを得なくなる。
また、資料検めをしていた者達がようやく事務仕事から解放された時、睡眠の幸せを噛み締めながら机に突っ伏す者たちの中に、今川の姫がいたのは言うまでもないことだ。
ここ最近、今川氏真は一人で夜を過ごしている。寝床を共にする妻が産み月であるならば、それも当然の事であった。なので寝る前に愛する妻の無事を祈るのが日課に成りつつあったのだが、今日ばかりは別の想いが胸中に渦巻いていた。
「………武田…義信。」
口から呟かれたのは、先日自害した義理の兄弟の名。
氏真は義信と直接顔を合わせた事は無い。ただ駿河と甲斐の間で楽市楽座を行う際、文のやり取りをした仲である。氏真の手元には、その時の義信からの手紙があった。
書かれている文字は少々乱雑で、言葉も決して教養に富んだものでは無いが、文章からは義信の実直な人柄と、姉である信玄への敬愛の情が感じられた。
「…すまぬな、義信。」
だからこそ、武田義信に狙いを定めた。最初から死なすつもりで友好を結んだ。
川中島の戦いで武田家は信玄の妹、信繁だけでなく甘利、板垣といった古参の重臣を失う大損害を被った。その立て直しは急務であり、だからこそ今川との交易を活発化させるのにも同意した。
交易は実利を出し、両家とも完全にとは言わないが先の戦の損害を回復する事が出来た。
ただし、それによって武田家中には不和が生じた。
駿河、甲斐の間で楽市楽座を行う上で、氏真と義信の間を取り持ったのは飯富家をはじめとした親今川派の豪族である。彼らの領地は駿河と近く、交易による利潤を直接的に受ける者達であった。
一方で、駿河から離れた場所に領地を持つ豪族は交易による利を得られず、不満を募らせた。
彼らの多くは甲斐北部、即ち対上杉の最前線に領地を持つ者達であり、先の戦いの被害が大きかった者達である。
なぜ多くの血を流した我らにその対価が与えられ無いのか?
そんな声が甲斐で聞こえ始めるようになる。
それと同時に、今こそ今川を攻めるべき時と言う声も聞かれ始めるようになった。
これに焦ったのは親今川派である。
彼らは自分達の利権を守る為、今川家当主と義兄弟であり親しく手紙のやり取りをする義信を担ぎ出し、武田家次期当主の威光を以て反今川派に対抗しようとした。
こうして家中が二つに別れる中、信玄は義信に蟄居を命じ、寺に幽閉した。
真実を言うと、信玄はこの時点で早急に今川を攻めるつもりは無かった。仮に攻めるならば三国同盟破棄による影響を加味し、正当な大義名分を得て、何処からも文句が出ない磐石な状況を作ってから今川を攻めるつもりだった。
義信を幽閉したのも、家中が落ち着くまで表舞台から離し、急進派による暗殺から守る為の処置であった。事が成れば改めて義信を後継者に指名する予定ですらあったのだ。
しかし、信玄の思惑は義信の自害により消し飛んだ。
義信は信玄が優しさから自分を切り捨てられないのだと勘違いした。
そう勘違いするように仕向けられた。
「すまぬな義信。だが武田家を、姉君を想うなら、お前は死ぬべきではなかったぞ。」
義信には「信玄殿は性根の優しいお方。きっと事を丸く治めてくれる筈。」と囁くだけでよかった。予想通り義信は自分が姉の覇道の枷になっているのだと短慮し、姉の背を押してやらねばと勝手に判断して自害した。それが滅亡の淵へと繋がるものとは夢にも思わずに。
義信が自害した事により、信玄は親今川派の家臣達を粛清せねばならなくなり、今川領を早急に侵さねばならなくなった。
甲斐の虎は、身内によって追い立てられ、一歩一歩と致命の罠へ誘われている。
「すまぬな晴信の義姉上。これが今川が生きる術にて。」
自分は地獄に落ちるな、などと自嘲しつつも、氏真は手を緩めるつもりは一切無い。
それが、今川氏真という戦国武将が生きる意味である故に。
今宵はこれまでに致しとう御座りまする。
・今川義元
本作の義元は原作同様、芸術的な素養に富んでるのに加え、史実に合わせて内政にも優秀という要素を加えています。
何気に原作でも重要な時に限ってクリティカルな活躍をしてるんですよね、このお姫様。
・武田信玄
直接的な登場はしてないが、既に滅亡フラグがビンビンに立っている甲斐武田のお館様。ネタバレすると、原作や史実に比べても不憫な目にあうことが確定しています。
それもこれも、自分で家の最盛期を築いたくせに、全てをブッ壊す爆弾をいくつも精製しといて放置した挙げ句に死んでしまった史実の信玄入道が悪いんや。
・相撲観戦がしたい信奈
史実の信長は大変な相撲好きと伝えられており、現在の土俵の原型を作ったり、対戦する力士を西と東に分け始めたのも信長だとする説もある。そのため、両国国技館には相撲観戦をする信長の絵が飾られている。
・三河にゃんこう一揆
史実における三河一向一揆。この一揆により多くの三河兵が元康から離反したため、三方が原や伊賀越えに並んで「神君三大危機」に数えられている。
・三河伝統海老すくいの舞い
今年の大河ドラマで踊られ、一部で話題になった実在する三河の伝統芸能。史実でも酒井忠次が宴会の席で踊ったと記録されている。