戦場に雨が降る。
明朝より降り出した雨は一刻もすると本降りとなり、風を纏って横殴りに人馬の体を叩いた。
秋葉山の山頂に築かれた今川軍の陣、その中心にて今川氏真は物憂げに眼下の光景を見下ろしている。
「……流石、晴信の義姉上。戦のやり方をよくご存じだ。」
武田軍は深紅の波となって今川軍に迫りつつあった。
騎馬の機動力を生かした神速の突撃、されどその隊列は整然とし、足並みに一切の乱れは無い。並の軍隊では止める事は適わないどころか、容易に蹴散らされてしまうだろう。
「なぁ、元信、この天気で鉄砲は使えるかな?」
「恐らく無理でしょう。こうも風雨が強いと、火縄が湿気て火が着きません。」
氏真の質問に、駿河先方衆の一人、岡部元信は無慈悲に答える。
元信は若手なれど幾多もの戦に身を置き、手柄を上げてきた男である。軍事に関して憶測や希望的観測を交える事はなく、現実として目の前にある事実のみを主君に伝えた。
その答えを聞いて氏真は大きくため息を吐く。
「…そうか、分かった。鉄砲隊には後方に下がるように伝えよ。ここから先は我らで対応すると。」
「承知仕りました。そのまま、私は前線の指揮に就いても?」
「ああ、宜しく頼む。」
氏真が許しを出すと、元信は頭を下げ氏真の言葉を伝えるべく天幕の外へ出る。
残された氏真は恨めしそうに曇天を見下げた。
「……分かってはいたさ。戦において晴信の義姉上は容赦をしない。苦しい戦になるに決まっている。」
だが分かってはいても、目を逸らしたい現実は存在する。
戦国最強と恐れられ、天下に名を轟かせる武田軍が氏真の首を狙っていた。
「…本当に、どうしてこんな事になっちまったんだ。大名なんて、俺の器じゃないのに。」
氏真は、望まずして名門今川家の当主となった。姉の義元さえ健在ならば、その弟として悠々自適な日々が送れただろう。例え軟弱と馬鹿にされようと、大名として何十万もの領民の命に責任を負う立場に比べればずっとマシである。
今この瞬間も、氏真は迫り来る武田軍に背を向け、逃げ出したくて仕方無かった。
だがしかし、氏真は逃げ出すわけにはいかなかった。
「…父親に成ったんだ。俺の後ろには、女房と産まれたばかりの姫がいるんだ。下々の者達を見捨てて逃げる姿なんて見せられないだろ。」
為政者としての誇り、そして人の親としての矜持が、氏真を戦場に踏み留まらせた。
「御武運を」と言って送り出してくれた妻の顔。そして自身の小指を握った、娘の小さな手の感触を思いだし、氏真は迫り来る武田軍を睨んだ。
「…掛かってこい、武田信玄。今川と、父親の意地ってものを見せつけてやる!」
これは厳しい戦になるな。
武田軍の先駆けを務める山県昌景は、今川軍の様子を確認すると心中で呟いた。
今川軍の士気が高く、陣形も守りを重視した重厚な構え。同数で攻めるには少なからず味方の損害を覚悟せねばならぬだろう。
「だが、ここで引く訳にはいかない。駿河を奪わなければ、武田はこの先生き残れない。」
昌景の胸中には悲壮な覚悟があった。
今回の戦、武田は多大な悪名を背負っている。血の同盟を結んだ相手を裏切り、一方的に難癖をつけ侵略を行った。如何に力がモノを言う乱世であったとしても、人道を大きく外れた行為と言う他無い。
事実、武田家中にあっても今回の侵攻には疑問を覚える者も多い。
だがそれでも、武田家は盟約を破って覇道を進む道しか選べなかった。そうしなければ甲斐の民を養えなかった。
甲斐の国には海が無く、周りは山に囲まれ、農耕に適した土地はほんの僅か。冬に成れば雪が降り積もり、一部の土地には原因不明の奇病が蔓延している。毎年、数えきれないほどの程の幼子が飢餓に苦しみ、多くが物心つく前に命を失っていった。
信玄は、そんな厳しい運命を強いられる甲斐の民の生活を変えようとした。
金の鉱脈を掘り、堤を建設し農地を増やし、戦を仕掛けて他国を併合し、三国同盟を結んで安定した商業路を確保した。
だが、それでも甲斐の民を救うだけの富は得られない。いまだ多くの民は飢え、明日をも知れない生活の中にいた。
足りない分は、他から奪わねばならない。
それが、武田軍の正当なる義。民を喰わせるのが甲斐武田家の大名としての責務であった。
「………前線を守るのは、岡部元信か。」
今川の前衛に難敵を認めた昌景は、思考を中断して手綱を握る手に力を籠める。
相手は腐っても名門、東海の覇者たる今川家。それを強く意識し、頭を目の前の戦に切り替えた。
例えどれ程悪逆無道と罵られようと、戦に勝ちさえすれば空気は変わる。
御屋形さまが背負う悪名も、幾分か軽くなる。
昌景はそう信じて槍を振るう。そう信じる他無いのだから。
「敵方の先駆け、左翼に展開しています!」
「孕石の部隊を向かわせろっ!決して後方に廻らせるな!」
「中央に敵方の増援!鬼美濃です!」
「此方も増援を向かわせる。それまで踏み留まれ!」
「畜生っ!風が強すぎて矢の狙いがさだまらねぇっ!?」
「だったら代わりに石でも投げつけてやれっ!」
武田軍の猛攻を受ける今川軍の最前線で、岡部元信は必死に指揮を取っていた。
戦線は膠着。或いは、やや武田軍が優勢である。
騎馬隊の機動力を駆使した突撃と、縦横無尽に陣形を変え立て続けに攻め手に変化を与える用兵術に、今川軍は着いて行くだけでも一杯一杯だった。
守りに専念する事で何とか戦線を保っているが、何かの拍子に一気に陣形を崩されてもおかしくない。
「何とか、士気だけは持ちそうだが…」
今川軍は武田軍の恐ろしさをよく知っている。
武田軍の蹂躙を受けた村や街がどの様な惨状になるのか、父祖の代で武田家と戦ってきた先達から教わっているからだ。
だからこそ、今川の者達は武田軍を恐れながらも、決してこの場を通す訳にはいかなかった。守るべき者達の為に。
「ん?」
そうして元信が檄を飛ばしていると、一騎の騎馬武者が元信目掛けて疾走してくる。
「ハッハァー!!てめぇが岡部元信だなっ!?奥近習六人衆が一人、土屋昌続だっ!!勝負っ!!!」
そう言うが否や、昌続は元信に向かって槍の一撃を撃ち込む。
「くっ!?」
元信は勢いに乗った昌続の刺突を何とか自身の槍で受けて逸らすと、衝撃を逃がす為に後ろに飛んで距離を開けた。
「…此方に名乗り返しもさせずに首を狙うとは、些か無粋が過ぎるのではないか?」
「ハハハハッ!そう言ってくれるな。今川の武の要として名高い丹羽守を相手にすると思うと気持ちが急いてしまったんだ。許せ。しかし、俺の一撃をこうも簡単に捌いて見せるとはなぁ。よしっ!」
昌続はポンッと手を叩くと、元信に向かって期待を籠めた視線を向ける。
「元信、お前武田の家臣になれ。」
「…何を言うかと思えば、どういう了見だ?」
「お前ほどの猛将を死なせるは惜しいっ!お前の武才は武田家でもかなり上に入るぜ。それに、御屋形さまは心の広い御方だ。敵将であれど、実力があれば召し上げて下さる。今川氏真なんて軟弱者の下より、よほどお前に手柄を挙げさせて下さる筈さっ!!」
「……一応、誉められたと思っておこう。だが、やはり御主は無粋だ。戦場のど真ん中、それも部下達が大勢いる前でする話じゃ無いだろうに。」
「ありゃ、ダメだったか?」
「当たり前だろ。もう少し調略について学んでこい。それと…」
元信は昌続から目線を逸らさぬまま、後ろに向かって槍を振るうと、元信を背後から切りつけようとしていた足軽の首をへし折った。
「俺に不意打ちを食らわせたかったら、もう少し遣り方を考え直してこい。刺客から殺気が漏れてるぞ。」
「……ご忠告痛み入る。しかし、本気で御前を勧誘したくなってきたな。一応聞いておくが、どうだ?」
「そういう事は勝ってから言え、だ。」
槍を握り直すと、今度は元信から走り仕掛けた。
戦場は動き続ける。多くの人間の思惑を孕んで。
ある者は領民の為。
ある者は主君の為。
ある者は我欲の為。
ある者は誇りの為。
そこに善悪は無い。殺し合いに正と邪は無い。
有るべきは勝者と敗者のみ。それによってもたらされる結果のみである。
だが、史実における今川の滅亡を正史とするならば、正義は武田にあった筈だ。今川の大名としての命運は、ここで途絶える筈だった。
それは、姫武将が罷り通る歴史においても同じであった。正史と同じく、今川は武田に滅ぼされる運命にあった。
違いがあるとすれば、一人のイレギュラーの存在。
正史においては関係なく、織田信奈の本来の運命では既に死没した人間が、何の因果か前世の記憶を持って謀を成した。
その結果、正史とも、姫武将の歴史とも違う運命が動き始める。
今まさに、歴史が動くその時が訪れようとしていた。
戦闘が始まって一刻が経ち、武田信玄はいまだ陣中を動かない。
その視線は前線へと向けられ、真剣な眼差しで戦況を見守っている。
「…思いの外、今川が粘り強いな。」
「はっ。将兵共に戦意が高く、よく鍛えられています。」
信玄の呟きに山本勘助が素早く答える。感嘆する口調には、素直に今川の兵を称賛する様子が見て取れた。
「一方此方は、少し動きが固いな。雨でぬかるんでいるのもあるが、将の命令に対する騎馬隊の反応が遅い。」
「此度の戦が初陣の者も少なく無いですので、それも仕方無いかと。いずれにしろ、戦後に調練をし直す必要が有りますな。」
武田騎馬隊の全盛期を知る者からすれば、今の騎馬隊の錬度は物足りない。
速やきこと、風の如く
静かなること、林の如く
侵略すること、火の如く
動かざること、山の如し
『風林火山』の名を体現し、幾多の戦場で猛威を奮ってきた武田騎馬隊は、川中島の戦いと義信事件を経て現在再構築の途上にある。
今はまだ不十分な箇所も多い。だが、今後実戦を重ねて経験を積めば、以前の騎馬隊を越える真の最強軍団と成り得る。
それを考えれば、今回の戦で少なからず苦戦を強いられているのは悪くない経験である。
「…氏真の奴も、中々やるな。」
信玄は口元に小さく笑みを作りながら、そう呟く。
姉に似た軟弱者という評もあった氏真であるが、実際に戦ってみると良く配下を纏め上げ、堅実な策を以て真正面から武田を相手にして見せた。
このまま行けば武田が押し切るであろうが、劣勢に成ろうとも本陣に立ち続け、逃げる様子を見せない姿勢は信玄にとって好ましい。
出来ることなら、配下として取り立てたいものだ。
信玄は既に氏真の事を気に入っており、胸中には死なせたく無いという想いが芽生えていた。
或いは、不本意ながら死なせてしまった義信の残像を、義理の弟である氏真と重ね合わせてしまっていたのかもしれない。
「至急っ!至急ですっ!!」
「なんじゃ騒がしいっ!」
唐突に、信玄の陣に伝令の兵が慌てた様子で転がり込んでくる。
あまりの狂騒に勘助が一喝するが、伝令は尚も顔を青くしたまま信玄の前に平伏する。
「後方より兵団が近づいて来ています!旗の家紋から、今川の兵ですっ!」
「なにっ!?」
伝令の報告を聞き、信玄の視線が一気に鋭くなり、同時に口角がニッと吊り上がった。
「ここに至って伏兵を使うか。ふんっ、氏真の奴め、最期まで徹底的に武田とやり合うつもりだな。」
ああ、氏真よ。やはりお前は軟弱者などでは無い。この武田信玄に真っ向から立ち合い、あらゆる策を以て勝利を掴もうとするは紛れもなく戦国大名の在り方だ。願わくばもっと早くお前と出会いたかった!
感激と郷愁の両方に心の内を乱しながらも、信玄は威厳ある態度で伝令に聞く。
「それで、伏兵の数は?五百か?千か?」
「そ、それが…」
信玄の問いに伝令は言い淀むが、ゴクリと唾を飲み込むと答えを口にする。
「い、一万です。」
「………すまん、聞き漏らしたようだ。後方から向かって来る敵兵は何人くらいだ?」
「約一万に御座いますっ!後方より一万の大軍が、此方に向かって来ていますっ!!」
「っ!?馬鹿なっ!!」
伝令の言葉に血相を変えた信玄は、周囲が愕然とするのを他所に天幕から出る。
そのまま後方へと向かい、物見が良い場所に登ると富士川方面を注視する。そこで信玄が見たものは…
「なんということだ………」
伝令の報告は正しかった。
風雨をものともせずに突き進むは、『今川赤鳥紋』を旗にする約一万の軍団。
その大軍が、秋葉山を攻め立てる武田軍の背中に、猛然と喰らい付こうとしていた。
「何故だ?何故これ程までの大軍が我らの後ろにいるんだ!?誰も気が付かなかったのかっ!?」
信玄の問いに答える者はいない。
誰も現実を直視出来ていない、いや、現実を認めたくなかったのだ。
後方の敵が進むのは武田が侵攻路上。即ち、武田軍は退路を断たれ、挟み撃ちにされた袋の鼠となってしまっていた。まさしく、絶対絶命の危機である。
どうして背後を取られたのか?
いや、そもそもあれ程の大軍を今川はいつの間に用意したのか?
今川は西にも戦線を抱え、この戦には既に東西合わせて三万五千の兵を動員している。
ここに更に一万を追加招集するのは、いかに今川が裕福とはいえ不可能だ。
仮に招集をかけたとしても、侵攻に合わせて駿河に忍ばせた乱波達が気が付かない訳が無い。
絶対に有り得ない筈の絶望的な状況を前に、信玄ですらも言葉を亡くしてしまっていた。
「そんな……まさか…やりよったのか…」
そんな中、信玄に追い付いた勘助は、目の前の状況を確かめると呆然と天を見上げる。
そして両手で頭に手をやると、低い唸り声をあげて頭を掻きむしった。
「おのれ、おのれ、おのれえぇぇぇっ!!!クソッ!なんて事をしてくれたんじゃっ!!!」
「おい、勘助っ!いったい何が起きているんだ!!何故このような状況になってしまったんだ!?」
何かに気付いて悪態を吐く勘助に、信玄が絶叫めいた問いをすれば、勘助は血走った目を向け答えを出す。
「御屋形さま、我々は嵌められたのです。あのタヌキ娘は、最初から今川と繋がっていたので御座いますっ!」
ところ変わって、西遠江は天竜川の西岸側に面する『曳馬城』。
その一室で、松平元康は紙に字を書いていた。
「よしっ、できました~。曳馬城の新たな名前は『浜松城』です~。今日からこの城は、浜松城に改名します~。」
「誠に良い名かと!やはり曳馬ですと、『馬を引く』、即ち退却を連想してしまい縁起が良くないですからなぁ。」
そう言って手を叩くのは、元康の家臣の酒井忠次。
松平家では筆頭家老として、文武万能の働きを見せる重臣である。
元康にとっては産まれた時から側で仕えている、育ての親と言っても良い存在だ。
「城の名前も決まりましたし~、今度は三河守としての名前を考えなければなりませんね~。やはり無難に源氏の流れを汲む名字が良いと思いますから~、ここは我が家系図にある徳川というのが…」
「失礼、よろしいでしょうか?」
元康が新たな家名に想いを馳せていると、石川数正が姿を表せる。
「ん?どうしました、与七郎?」
「西遠江の国人達が催促に来ています。そろそろ川を渡って東遠江に行ってはどうかと。」
「うーん、兵が疲れているから当分無理だと伝えて下さい~。」
松平軍は三河で挙兵すると、猛然と西遠江へと侵攻した。
その途上にある井伊家をはじめとした西遠江の国人達は、あっさりと松平に対して従順を示し、その戦列に加わった。
そうして勢力を増しながら天竜川にたどり着くと、対岸の今川軍を認め侵攻を一旦停止。陣形を整えてから即時開戦するものと思われていた。
ところが、松平と今川は睨み合ったまま一切動かない。それどころか、翌日には今川軍は松平軍に背を向けると撤退を開始したのだ。
まさに追撃の絶好の好機。にも拘らず、松平軍はまったく動こうとせず、黙って今川軍の撤退を見送った。
「それにしても、西遠江の国人達も節操が無いですな。仮にも今川の家臣であっただろうに、それを攻めるように進言するとは。」
「まあまあ、忠次さん。小領主が乱世を生き残るのは大変なんですから~。それに~、主家を見限った事を私達がとやかく言う立場にはありませんよ~。」
「…はっ、失礼いたしました。」
「とはいえ~、少し国人さん達の動きが気になりますね~。何だか私達に早く遠江を支配して欲しそうにしてるんですよね~。」
「その予想、間違いではありませんぞ。」
そう言ってヌッと襖の陰から現れたのは服部半蔵である。半蔵は懐から書状を取り出すと、皆の前に放り投げる。
「半蔵さん、これは~?」
「西遠江の国人達が武田とやり取りしていた証拠です。どうやら国人達は、武田軍から調略を受けていたらしい。松平が侵攻を開始したら、下手な抵抗はせずに松平に付けと。そして、武田が松平と戦をする際に武田に付けば、所領安堵の上に武田での地位を約束するとな。」
「あやつら武田と繋がっていたのかっ!?」
半蔵の報告に数正は激怒する。
武田は初めから駿河だけでなく、遠江までを支配下に治める事を目論んでいたのだ。駿河の侵攻に合わせて松平に遠江へ侵攻するように唆す一方で、後々の松平との戦を見越して遠江の国人達に唾を付けていたのである。
「…やっぱり、信玄さんは信用できませんね~。吉姉さまの提案を受けておいて正解でした~。」
「…今頃、今川の兵は駿河に着いているでしょうかな?」
「多分もう着いてるんじゃないですか~。氏真さんは世間で言われるほど暗愚ではありませんから~、きっと上手くやってくれるはずです~。」
そう言った元康の瞳に、不意に黒い陰が帯びる。
「……聞いた話によれば~、武田の支配を受ける信濃の民は~、武田の圧政に大変な苦労をしているとのことでしたね~。」
「……はっ、武田は他国を攻めるために、甲斐以外の領国から搾取の限りを尽くしていると。」
「可哀そうですね~、助けてあげたいですね~。」
のんびりと、されど何処か腹黒さを感じさせる言葉を紡ぎながら、元康の視線は既に北を向いていた。
「…信玄は撤退を選んだようだな。」
今川軍の本陣で、戦況を見つめていた氏真は静かに呟いた。
「我ら今川本隊の兵力は二万五千。別動隊の兵力は一万。此方がガチガチに守りを固めているから、このまま無理に本隊を攻めても、攻め切るには時間が掛かり、その間に別動隊から挟み撃ちにされる。それならば全軍を一気に反転させ、別動隊を打ち破って撤退するのが被害は少ないと判断したか?」
「恐らくそんな所でしょうなぁ。こういった判断を即座に出来るのは、武田信玄が名将である証左で御座います。」
氏真の分析を、隣に立つ猿顔の小男が肯定する。
この小男は今川の人間ではない。この戦に際し、とある筋から氏真が雇った鉄砲隊の隊長、とされている男である。開戦初日に武田の先遣隊を撃退する働きを見せるも、それ以降は特に目立った動きは無く、今日に至っては雨で鉄砲が使い物にならなくなったので、氏真の命を受け後方に下がっていた。
そんな小男に対し、氏真は呆れたような視線を向ける
「…その名将を手玉に取る策を講じた者が言うと、皮肉にしか聞こえんがな。」
氏真は薄々感づいている。今川を武田に勝たせる策を、いったい誰が考えたのかを。
この戦で今川は前もって、松平と密約を結んでいた。
その内容とは『松平が西遠江に侵攻するのを見逃す代わりに、天竜川以東の地域には手を出さず曳馬城に駐留する』というものである。
これにより西の戦線に兵を割く必要が無くなった今川軍の別動隊は、松平軍が曳馬城に入城したのを確認すると港に向かい、船に乗って駿河湾を横断。富士川沿いの港で下船すると、武田軍の侵攻路を通って武田本隊の背後に現れたのであった。
この作戦は、一年前に臨済寺で行われた会談で既に話されており、武田が駿河侵攻に松平を巻き込む事を見越して練られたものである。
「武田信玄は海を知りませぬ。故に海上輸送の輸送能力を知らない。このようにして背後を取られるのは理解の範疇外にあったでしょうな。」
「初日に鉄砲隊の存在を示して容易に攻め入れぬようにし、時間を稼いで遠江から駿河に別動隊を輸送し背後を取る。鉄砲に海上輸送。どちらも信玄がよく知らない物だった。信玄にとって未知の存在を使う事で、この状況を作る事が出来た。それにしても、武田軍の動きが急に悪くなった気がするんだが。」
氏真が指摘した通り、反転撤退の指令が出た直後から、それまで整然としていた武田軍の動きが急に緩慢になっていた。
まるで命令の内容が理解できていないように、ぎこちなく、バラバラに、どこか戸惑った様子で陣形を変形させており、結果として陣形が歪になり一向に撤退が進まない。
「予想通りでありますな。集めた情報によれば、武田軍は現在再建途上。経験の浅い兵が多く、即座の対応が難しいのでしょう。そして何より、武田信玄が常勝の大名であった事。それが足を引っ張っておりますな。」
「常勝であることが足を引っ張っているだと?」
「信玄は常なる勝利を目指し、慎重に戦準備を進め、万全を期して戦に臨む者。故に武田軍は常勝を極め、最強の軍団と成り得たのでしょう。しかし、それは言い換えるなら敗北の経験に乏しいという事。負けた事が無いというのは、勝った事がない事より遥かに悪しき事でありまする。」
武田信玄は常勝の将であるが、決して無敗の将というわけでは無い。
父親から家督を簒奪する以前、まだ大名として経験の浅かった頃、武田晴信と名乗っていた時には少なからず敗北というのを経験している。
幾多の勝利と敗北を積み重ね、その経験を糧にして出来上がったのが武田信玄という名将なのだ。
しかし、その下に付く者は違う。
彼らの多くは、常勝となった武田軍しか知らない世代であった。
敗北を知るのは、家督簒奪前後の苦しい時期を生き抜いた古参の兵のみ。地獄のような撤退戦を経験しているとなると、更に少なくなった。
故に、武田軍は戸惑うばかりで一向に撤退できない。或いは、目の前に迫った敗戦という現実を受け入れられないでいるのかもしれない。
そんな敗者たちを、猿顔の小男は虫けらでも見るような冷たい表情で見下ろし背を向けた。
「さて大勢は決しましたので、儂はこれで失礼します。駿河での後始末、滞りなきよう願います。」
「…ああ、大丈夫だ。すでに配下を向かわせている。」
「それは良きかと。ああ、儂の配下の忍びは残しておきます。彼の者には甲斐への工作も命じておりますので、そちらに要件があればどうぞお申し付けください。少々舌足らずな所は有りますが、優秀な女子です。」
「…そうか、助かる。」
猿顔の小男に氏真は短く答える。その顔にはどこか苦悩めいたものが見えた。
「…氏真さま。」
そんな氏真に、小男は無表情になって告げる。
「戦国大名に、成られよ。」
それだけ言うと、小男は陣から出ていった。
氏真は暫し無言のまま、じっと戦場を見下ろす。
だが暫くして大きく息を吐くと、スッと力を込めて顔を上げる。
そして、味方全員に聞こえるように声を張った。
「皆のものっ、あれなるは我らが駿河の地を踏み荒らさんとする侵略者であるっ!我らが親兄弟を殺し、子孫を拐わし、女どもを犯し、財を奪い、先祖が積み上げてきた誇りと歴史を穢し尽くさんとする悪鬼が如き輩共だっ!!」
氏真は顔に力を籠める。
瞳に怒りを宿し、口元を侮蔑に歪ませ、顔色を紅潮させ、己の全ての憎悪と憎しみをただ一心に一人の女へと向けた。
「信玄許すまじ。」
氏真は願った。この憎悪が、将兵達に伝播することを。将兵達が、修羅と成ってくれることを。この憎悪が、本心であってくれることを。
「殺せ、殺せっ、殺し尽くせっ!憎き武田のクソ共を一人たりとも生きて駿河から返すなっ!!さあっ―」
東海の、新たな覇者の采が振るわれた。
「いざ皆の衆、前へ。」
庵原の戦いの顛末について、後年記された『今川家略記』において、次のように記されている。
氏真公、武田を散々に打ち払いこれを退散す
信玄の将兵数多討ち取られ姫武将共捕えらる
之を以て今川大勝す
今宵はこれまでに致しとう御座りまする。