太閤転生伝   作:ミッツ

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今回も中々に物議を醸す内容が含まれています。

原作の信玄ちゃんファン、義元様ファンの方は、心して読んでください。


囲まれた虎

「そんなわけがあるかあああぁっ!!??」

 

 駿河某所にある屋敷にて、一人の老父が憤怒の咆哮を上げる。

 目は血走り、顔を真っ赤に染め上げ、怒髪天を衝く様相はさながら狂虎のようであった。

 

 武田軍敗北

 

 その報を老父に伝えた男は、激高する老父の威容を恐れ、顔を下げて震えるばかりである。

 

「太郎が負けただと。有り得ぬっ!氏真はまともに戦に出たことも無い未熟者だぞ!そんな奴に太郎が負けるはずが…」

 

「ですが、市内では既に今川軍が勝利の凱旋をしていると。武田の将は悉く討ち取られ、信玄公も生死不明との事です。」

 

「馬鹿な…太郎が……」

 

 老父はフラフラとよろめき、力が抜けた様子で腰を落とす。

 

 この老父の名は武田信虎。

 武田信玄の父にして、武田家の先代当主である。

 娘の信玄に家督を簒奪され国を追放された信虎だったが、信玄による武田家の躍進を見て娘を認めるようになり、陰ながら武田家を手助けするべく暗躍していた。

 今回の駿河攻めでも、開戦前に駿河の内情を秘密裏に甲斐に流すなどの間諜働きしている。

 その後、決戦を前に住み慣れた屋敷を離れて駿河郊外に隠れ、武田軍の吉報を待っていた信虎であったが、無情にも流れてきたのは武田軍大敗北の悲報であった。

 

「何れにせよ、此処に居てはまずいです!武田が勝ち、駿河が混乱しているならばまだしも、今川が勝ったとならば信虎様の御身を探すは必定!すぐにでも、駿河を離れましょう!」

 

「う、うむ。そうだな。せめて六郎だけでも…」

 

 いまだショックから立ち直れずとも、配下から促され信虎は思うように動かぬ体に活を入れ、何とか立ち上がった。

 しかし、それとほぼ同時に部屋の襖が勢いよく開かれた。

 

「失礼仕るっ!武田信虎殿、我が主の命により、その身捕らえさせていただく!」

 

「くっ!?貴様っ、関口かっ!?」

 

 現れたのは、今川家家臣の関口氏広。庵原の戦いでは留守役として今川館に留まっていた男である。

 その後ろからは、装備を固めた兵が続々と部屋に雪崩れ込み、信虎たちを囲んでいく。

 

「信虎殿、神妙になされよ。敵方に与したとはいえ、貴公は我が主の親族。手荒な真似は致したくない。大人しく下れば、命は保証しよう。」

 

「ぐぐっ、おのれぇ!!」

 

「それと、六郎様は隣の部屋か?」

 

「下郎めがっ!真の狙いは六郎かっ!?」

 

 氏広の問いに信虎は再び激高する。

 近くにあった刀を抜くと、その切っ先を氏広に向けた。

 

「氏真に伝えよ。我は甲斐源氏第十八代当主武田信虎っ!我に拝謁したくば自ら出向いて来いとっ!」

 

「……やむを得ぬ。やれ。」

 

 氏広のその言葉と共に、鎧武者たちが一斉に信虎に切り掛かった。

 

 

 

 それからどれほどの時間が経っただろうか。

 部屋からは虎の咆哮が如き叫び声と、刀が打ち合う金属音、そして悲壮な末期の悲鳴が暫し続いていた。

 だがそれもやがて静まり、部屋には鮮血を浴びた氏広達今川の兵と、物言わぬ二つの躯があった。

 氏広は配下が差し出した手拭いで血を拭い、息を整えると隣の部屋に続く襖を開ける。

 その先では、三人の侍女達が何かを隠すように部屋の隅で固まっていた。

 

「…どけ。お主たちの主に話がある。」

 

 氏広がそう侍女に言葉を掛けると、侍女の一人が短刀を抜いて氏広に向ける。

 一瞬氏広の視線に冷たい殺気が宿るも、短刀を持つ手が震えているのを認めると、ゆっくりと近づいて短刀を持つ手に己の手を重ねる。

 

「ひっ!?」

 

 侍女は氏広の手を振り払おうとするが、どれほど力を込めても掴まれた手は全く動かない。

 氏広は侍女の指を一本一本短刀から離していくと、短刀を奪い取って遠くへ投げる。床に刃が刺さった音に、侍女が小さな悲鳴を上げた。

 

「…安心せよ。我らが用があるのはそちらの御方だ。」

 

 氏広は出来るだけゆっくりと、優しく声を掛ける。

 侍女たちが隠していたのは一人の女性であった。質の良い着物を纏った姫である。

 そしてその姫もまた、怯えながらも身を挺して氏広から何かを隠そうとしていた。

 

「…大丈夫です。貴方の身も、六郎様の御身も、決して傷付けないとお約束します。我々はあなた方を御迎えに参ったのです。」

 

 姫が抱きかかえていたのは幼子である。母である姫にしがみ付き、口を一文字に結んで潤んだ瞳で氏広を見ている。

 

「…さあ、共に参りましょう。貴方様を、武田家当主にして差し上げます。」

 

 氏広は、そう言って手を幼子に向けて差し出した。

 幼子は、武田信虎の息子『武田六郎信友』は、恐る恐るとその手を握った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 岐阜城の広間、そこで信奈は秀吉からの報告書を読んでいた。近くには良晴もいる。

 報告書を読み終わった信奈は、疲れた様子で目を揉むと小さく息を吐いた。

 

「今川が武田に勝ったわ。信玄は討ち取られたって噂もあったみたいだけど、何とか甲斐に逃れたみたいね。どうやら妹の信廉が影武者として身代わりになったそうよ。家臣団も山本勘助、三枝守友、真田信綱、真田信輝、原昌胤らが討ち死。山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、土屋昌続らが捕らえられ、武田騎馬隊は壊滅状態。これ以上に無い大惨敗ね。」

 

「や、やべぇな、おい。今川が武田に勝っちまったよ。しかもそんな圧倒的に。」

 

 武田の被害状況を聞いて、良晴は顔を引き攣らせる。

 某人気歴史シミュレーションゲームを愛好していた良晴からすれば、この時期の武田家に義元亡き後の今川家が勝つのがどれ程難しい事か想像すらできない。

 況してや、現代でも有名な武田家武将の被害状態を聞く限り、史実における『長篠の戦い』と同じか、それ以上に悲惨な状態である。

 これを成すのに裏で糸を引いていたのが秀吉だったと信奈から聞いて、良晴は改めて豊臣秀吉という天下人の恐ろしさを実感したのであった。

 

 何より恐ろしいのは、これで完全に歴史の流れが変わってしまった事であろう。

 本来であれば武田家は今川家を滅ぼし、その後徳川家、そして織田家と戦うことになる。

 しかし駿河侵攻が失敗に終わった事により、今後武田家と織田家が戦う可能性はかなり低くなったと言わざるを得ない。

 これは即ち、良晴の持つ未来知識が、また一つ使い物にならなくなったことを意味していた。

 

「ていうかこれ、よく考えたら武田家はかなりヤバい状況じゃないか?」

 

「よく考えなくてもヤバいわよ。同盟破りをした上でこのザマよ。武田信玄の名声は地に落ちたと言っていいわ。国人達の動揺も凄まじいでしょうね。」

 

「あっ、そういや聞いたことがあるな。甲斐は武田家が盟主となっているけど、実態は複数の国人達による寄り合い所帯で、武田家は歴史と国力が他の国人よりも大きいから中心になっているだけだって。だから、国人達も独立意識が高くて、一旦崩れ始めると一気にバラバラになってしまうんだってな。N○Kの番組で言ってたぜ。」

 

「何よ得鵺一系って。でも間違っては無いわね。武田信玄が家督の簒奪を成しえたのも、家臣である国人達の支持を集められたからよ。先代の信虎が国人達への求心力を失ったから、信玄は武田家の当主に成れた。逆を言えば、国人達からの支持を失うと、信玄も容易に家督を奪われる。それが甲斐国の実情なのかもね。」

 

 本来家督の継承とは、先代が次代に家督を譲ることを内外に示すことで成しえるものである。

 信玄が家督の簒奪を成しえたのは、他ならぬ国人達の支持があったからだ。

 信虎より信玄の方が我らが盟主に相応しい。そうした国人達の意向が反映された結果なのだ。

 武家社会という絶対権力者を頂点にする構造にありながら、どこか民主的な政治構造を内包した組織。

 それが武田家という武家の内情であった。

 

「とにかく、こうなったら秀サルの案に乗るしかないわね。正直実現する可能性は高くないと思ってたけど、今川が武田に勝利した以上やるしかないわ。良しサル、付いて来てっ!」

 

「お、おう。でもどこに?」

 

 そう尋ねる良晴に、信奈はニヤリと笑って行き先を告げた。

 

「兄貴のところよ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 尾張国には那古屋城と鳴海城の丁度間に、古渡城という城がある。

 良晴を伴って古渡城に到着した信奈は、取り次ぎもそこそこに門をくぐる。そうして勝手知る様子でズンズンと城内を進んでいくと、大広間に当たる場所に着く。

 そこには、口髭を生やした精悍な顔つきの男が待っていた。

 

「久しぶりだな、信奈よ。お前の噂は聞き及んでいる。何でも、美濃を上手く統治しているようだな。父上を散々に苦しめたマムシの国が、今や織田の領地に成ろうとは。父上が生きていればきっと「口上が長いっ!」痛っあー!?」

 

 長々と一人語りを続ける男に、信奈は持っていた扇子を投げつける。扇子は男のでこにクリーンヒット。男は痛みのあまり叫び声を上げた。

 

「おい、何すんだ吉っ!?いきなり人に向かって扇子を投げつける奴があるかっ!!」

 

「知らないわよ。兄貴の口上に長々と付き合う時間は無いの。」

 

「ぐぬぬ、相変わらず兄への敬意が無い妹だ。だが吉、話をするのは構わんが、この男は?」

 

「ああ、コイツは私の家来の良しサル。良しサル、これは私の腹違いの兄貴の信広よ。知ってる?」

 

「信広ってあれか?小豆坂の戦いで今川の罠に嵌って生け捕りにされて、竹千代と人質交換されたっていう。」

 

「ぐはぁっ!!」

 

 良晴が信広について知っていることを語っていると、当の本人は胸元を抑えて膝を附いた。

 

「こ、このガキッ、人が気にしていることを容赦なく抉りやがって…」

 

「事実なんだからしょうがないでしょ。ていうか、何年前の話よ。何時まで引きずってんだか。」

 

「うるせぇ。ていうか、良しサル?ああ、これが一色義龍や北畠具教を口説き落としたとか言う相良良晴か。ほう、コイツがか…ふーん…へー…。」

 

 信奈から良晴を紹介された信広は、興味深げに良晴の顔を覗き込むと、ニヤニヤとした笑みを浮かべた。

 

「な、何だよ?」

 

「いや。兄として、妹の好みというのは以前から興味があったが、なるほどこういうのが吉の…痛ってぇっ!?」

 

「くだらない話しするんじゃないわよ。さっ、本題に入るわよ。」

 

 信広の足を踏みつけた信奈は、不機嫌な様子でドカリと腰を落とした。

 

「今川が武田に戦で勝った事、兄貴も知ってるわよね。」

 

「…ああ、既に尾張中、いや、東海地方はその話で持ちきりだろうな。」

 

「そうね。武田は強大だった分、周辺諸国への影響力も半端ないわ。中部、北陸、関東、東海。そして日ノ本の中枢たる近畿も、おのずと荒れるでしょうね。」

 

「まったく面倒な事だ。で、お前はそんな荒れ狂った坩堝に、手を突っ込もうとしていると?」

 

「そうよ。前に手紙で伝えたでしょ。兄貴にも協力して貰うって。」

 

「あれやっぱり本気だったのか……はぁ……」

 

 信広は肩を下ろし、ガシガシと頭を掻く。

 そして、表情を一変させ剣呑な視線を信奈に向けた。

 

「吉、返答をする前に一つ腹を割って話をしよう。俺はな、吉、親父の跡目を本気で狙っていた。」

 

 信広の告白に良晴は目を見開くが、信奈は神妙な表情のまま無言を貫く。

 それを見た信広は、小さく笑った。

 

「知っての通り、俺の母は身分が低い。親父が正室を得る前に、女の扱いを勉強出来るように宛がわれた侍女の一人で、唯一父の子を孕んだのが俺の母だ。だから俺は生まれた時から継承権を持たぬ庶子で、最初から妹弟の家来になることが定められていた。」

 

 信広は、信奈よりも五歳年上である。だが、正室である土田御前が産んだ信奈や信澄に比べると、家中での扱いは大きな差があったと言われている。

 

「丁度、物心がついた頃だったな。それまで俺の側にいた者たちが、目に見えてお前や勘十郎をチヤホヤし始め、俺の側から離れていった。今じゃあれも家中に示しを付ける為に必要な事だと理解できるが、当時は結構きつかったぞ。毎日のように癇癪を起こしてな。」

 

「…それで、家督を継ごうと思ったのか?自分を認めさせようと思って。」

 

 思わず良晴が尋ねると、信広は声を出して笑った。

 

「まぁその通りなわけなんだがな。俺に家督を継承を促したのは、親父だったんだ。」

 

「お、親父って、信奈達のかっ!?」

 

「ああ、そうさっ!ある日フラッと俺の前に現れてな。『除け者にされていじけるくらいなら、手柄を立てれるように鍛えておけ。いっその事、三郎五郎こそ織田家を継ぐに相応しい、と言われるくらいになってみせろ。』ってな。」

 

 その日の事を思い出してか、信広は楽し気な口調で父の言葉を諳んじて見せた。

 

「多分、親父は親父なりに俺の事を気に掛けていたんだろう。腐ってる息子に活力を入れてやりたかったのかもな。ともあれ、俺は親父の言葉を本気にした。抜群の手柄を上げて周りに認められ、織田家の家督を継ぐ。それが俺の夢になったんだ。」

 

 そうして信広は織田家の当主に相応しい武将となるべく、日々鍛錬に打ち込んだ。

 コツコツと努力するのを苦にはせず、勤勉に調練や勉学に励む姿勢は次第に家臣たちの間で評判になった。

 元服して初陣を飾ると、周囲の助けもあり中々に目覚ましい戦果も挙げられた。

 また、上に立つ者として下の者たちへの振舞にも気を使い、妹や弟たちにも良い兄として接するように心掛けた。

 根が真面目な性格であったのだろう。

 こうして、大名の後継者はかくと在らんという姿を磨き続けた結果、信広は織田家の後継者として少なからず支持を集めるように成れたのである。

 

「だが、小豆坂の戦いで全てが変わった。俺は今川の策略に嵌り、無様にも生け捕りにされた。そして親父は俺を助けるため、竹千代との人質交換に応じたんだ。」

 

 竹千代、当時の松平元康を手放したことにより、信奈達の父親、織田信秀の東海に商業航路を作るという夢は潰えた。まさに織田家の拡大戦略の転換期になる出来事であった。

 

「俺は挽回せねばと思った。失敗を取り返し、親父の夢を取り戻さなければとな。だが、結局挽回の機会は訪れず、親父は死んじまった。そしてお前が織田家の当主となった。」

 

 不意に信広の視線に強い感情が籠り、良晴は信奈の前に出ようとした。だが信奈は手を横に伸ばすと、良晴の動きを制した。

 

「……まあ、親父なら吉を選ぶだろうな、とは思ってたがな。それでも、俺は自分の気持ちに蹴りを付けたくてな。一度だけ、家督の簒奪を試みた。」

 

 信広は、信奈が出兵した時を狙って兵を起こし、援軍の名目で清州城に入り、そのまま城を乗っ取ろうとしたことがあった。

 

「しかし城の門番は俺を城に入れようとしなかった。つまり俺を信頼していなかったんだ。いや、信用していなかったんだろう。どちらにせよ、結局俺は城に入る事すら叶わず、スゴスゴと撤退するしかなかった。そこでようやく得心したのさ。俺の夢は、今川の人質となった時に、終わっていたんだってな。」

 

 話を終え、信奈から目線を外した信広の瞳の奥には、疲れと達観の色が見えた。

 それに気づいた良晴は、いつの間にか肩の力を抜いていた。

 

「まっ、長々と語ったが、今ここにいるのは己の力量も分からず誇大な妄想を抱き、そして盛大に失敗しちまった男の成れの果てだ。今更重大な役目を背負わされたところで、荷が重すぎる。それが俺の偽らざる本心だよ。」

 

「………私にとって最大の敵は、兄貴だと思ってたわ。」

 

「は?」

 

 思わぬ信奈の言葉に、信広は唖然とする。

 信奈は相変わらず鋭い視線を兄に送りながらも、口元に小さな笑みを湛えていた。

 

「兄貴がさ、子供の頃から努力していたこと、私も知ってるわ。正直言うと、内心馬鹿にしてた。どうせ家督が欲しくてやってるだろうって。今思うと、兄貴の事を警戒していたんだと思うの。だから兄貴が今川に捕まった時も、ほれ見た事か、化けの皮が剝がれた、って思ったくらいよ。ああもう本当に、とんだ自惚れね!」

 

 その時の事を思い出したのか、信奈は恥ずかし気に顔に手をやる。

 

「父上の跡目を継いだ時、凄い苦労をしたわ。ほら、私って兄貴や勘十郎と違って、よく勉学の時抜け出してたじゃない。だから、知識が足りない部分が多くて、万千代や平手の爺やがいないと出来ない事も多かったわ。その時ようやく悟ったの。兄貴みたいに、真面目に勉強してたらよかった、って。その時初めて、私は兄貴に対して敬意と、畏れを感じたの。」

 

 その言葉に、信広は目を丸くする。

 傍若無人、天上天下唯我独尊を地で行く信奈が、自分に対してそのような感情を抱いているとは思いもしなかったのであろう。

 

「庶子の身分で家督を継ぐ。その一心で自分を鍛え続けるなんて、なかなか出来る事じゃないわ。普通はどこかで諦め、保身の為に正室の子に媚びを売るわ。だけど兄貴は一度たりとも私達に遜ろうとしなかった。ただ只管、織田家の当主として相応しい姿を求め続け、良い兄であろうと私たちに接し続けたわ。だから私は、兄貴だけは油断できないと思ってた。もし私が不在の間に兄貴が来ても、絶対に城の門は開けちゃダメだって家臣には言ってたわ。もし、私以外に織田家のかじ取りが出来る人間がいるとすれば、それは間違いなく兄貴だから。」

 

 生まれた時から継承権を持たぬ庶子が、己の才覚のみで家督を得るに至った例は決して多くは無い。

 しかし、少ない例の中でそれを成した者たちは、例外なく時代を動かすに相応しい英雄の気質を持つ者たちである。

 確かに、織田信広は英雄になることは出来なかった。

 それでも、己の生まれを悲観することなく、謀略や暗闘に頼ることなく、自分の力を高めて周囲に認められる形で当主に成らんとしたその精神は、英雄と呼ばれた者たちに決して劣るものでは無い。

 

「兄貴が腹を割って話してくれたなら、私も本心を曝け出すわ。私には兄貴の力が必要よ。私が夢を叶えるために、織田家が天下を取るために、兄貴の力を貸して欲しいの。御願いっ!」

 

 真っすぐに信広の目を見つめ、信奈は力強く頭を下げた。

 息を呑んで体を震わした信広は、気持ちを落ち着かせるべく大きく深呼吸をし、照れた様子で頭を掻いた

 

「まったく、我儘な妹様だ。そんな風に言われちゃ、断れないじゃないか。」

 

 憎まれ口を叩きながらも、心底嬉しそうに信広は笑う。

 だが次の瞬間、笑みを引っ込めると居住まいを正す。

 

「吉、お前の策に乗るにあたり、一つ条件がある。妹としてではなく、主として俺に命を下してくれ。」

 

「兄貴、それって…」

 

「分かってるだろ。俺はお前の兄貴だが、お前は俺の主。そこは徹底するんだ。天下を目指すんならな。」

 

 信広の言葉に信奈は一瞬固まる。

 だがすぐに顔を引き締めると、背筋を伸ばし威厳を出した。

 

「分かったわ。織田家当主として、織田信広に命ずる。」

 

 そうして信奈は、『虎囲いの計』の要となる命令を、信広に対して下したのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今川に大敗した武田信玄は、命からがら甲斐に帰還していた。

 最強と言われた騎馬隊が壊滅し、軍師である山本勘助を失い、自ら取り立てた新生武田四天王の内の三人を捕らえられる大損害を出しながらの敗走である。胸内の失意は計り知れないものであった。

 それでも、信玄は嘆く事すら許されない。甲斐の国人達を纏める、武田家当主という立場であるが故に。

 今川の逆侵攻に備えるため、軍を再建するため、とにかく先ずは時間を稼がねばならなかった。

 そこで北条に書状を送り今川との仲介を依頼すると共に、国人達へは安堵状を配って領内の動揺を抑えようとした。

 

 しかし、そんな信玄の奮闘を嘲笑うかのように凶報が舞い込んだ。

 

「御屋形様、また商人から問い合わせが来てます。武田家が製造している小判の、金の含有量が減らされているという噂は本当かと。」

 

「そんな事実は一切ないと答えておけ。それと、その噂の出どころはまだ分からないのか?」

 

「それが、最初は行商人の間で広がったというのは分かっていますが、大元となった商人は他国の者らしく、その足取りは分かっていません。」

 

「大方今川が送り込んだ間者だろうな。クソっ!厄介な真似をしてくれる!」

 

 ここ最近甲斐では、甲府金山の金の採掘量が減り、武田家が製造している金の小判の質が落ちているという噂が広がっている。

 無論信玄の言う通り、小判製造時における金の含有量を減らしているという事実はない。

 しかし、金山の採掘量が著しく減少しているというのは、まぎれもない真実であった。

 

「いったい何処から漏れたんだ。金山の内情については家中でも極秘中の極秘だったのに…」

 

 信玄は苦悶の表情で頭を抱える。

 庵原での敗戦は、国人衆のみならず甲斐の領民や行商人たちにも大きな衝撃をもたらした。

 そこに今回の貨幣不安である。武田家に物資を下ろしていた商人たちは、潮が引くように武田家から離れていった。

 軍の再建が急務の武田家にとってはあまりにも痛すぎる。

 

 そんな時、慌てた様子で伝令の兵が部屋に入って来た。

 

「御屋形様っ、駿河から知らせがっ!先代様が、今川に討たれたと!」

 

「っ!?そんな、父上が…」

 

 部下からの報告に、信玄の顔が悲壮に歪む。

 武田軍の駿河侵攻を支援すべく、信虎が駿河の内情を武田に流していたことは信玄も知っている。

 信虎は信玄と対立した末に甲斐を追放されたが、当主だった頃から変わらず甲斐の国と武田の家族を愛していた。

 勘助という師父、そして信虎という実父を立て続けに失い、信玄の心は大きく傷ついている。

 

 

 

 が、無情なる運命は尚も信玄に残酷だった。

 

「大変ですっ!信濃の国人達が兵を起こし、代官の館を襲撃したとの事っ!周辺の砦も次々と落とされていますっ!」

 

「なんだとっ!?」

 

 信玄の口から悲鳴が漏れる。

 

 信濃国は武田家に占領されて以降、一部の国人を除いて武田家の圧政を受けており、領民達は武田に対する憎しみを募らせていた。

 それでもこれまで大規模な反乱が起きてこなかったのは、武田軍が最強の名を馳せていたこと、そして武田家に滅ぼされた諏訪家の遺児である『諏訪勝頼』が武田家の人質になっていたのが大きい。

 いつか自分達の主である勝頼が帰ってくることを希望にし、信濃の民は圧政に耐え続けてきていたのだ。

 

 ところが『義信事件』の後、信玄は自分の後継者に勝頼を指名した。

 信玄は勝頼に自身を超える武将としての才を見出しており、その可愛らしい容姿も相まって勝頼を溺愛していた。勘助が勝頼を強く敬愛していた事も、彼女が後継者になる事を強く後押ししたのだ。

 

 そうして『諏訪勝頼』は『武田勝頼』と改名し、正式に信玄の後継者に納まったのであるが、この事実は勝頼の帰還を待ち望んでいた信濃の民を失望させた。

 何より信濃の民が落胆したのは、勝頼が自分の父母の仇である信玄を深く敬愛しているという事実である。信濃の民からすれば、苦しい生活をする自分たちを見捨てるに等しい行いである。

 

 結果、信濃国の領民達は更なる憎悪を武田家、信玄、そして勝頼に向けるようになった。そして、武田家の大敗北を切っ掛けに、ついに溜まりに溜まった憎しみは爆発し、今回の蜂起に繋がったのであった。

 

「真田に、幸綱様に鎮圧してもらうのはどうでしょうか?」

 

「いや、真田は嫡子と次女が戦死し、幸綱も大怪我をしている。とてもではないが兵を起こせる状況ではない。」

 

 配下の提案を退けながら、信玄は状況の悪さに歯噛みする。

 真田は武田に降った経緯から、信濃の中でも特に武田家に近い国人であり、信玄からの信頼も篤い一族である。信濃の動乱を座視することは出来ないが、此処で真田に無理を強いては更なる離反を招きかねない。

 信玄は必死に思案し、何とか鎮圧部隊の兵を捻出する算段を立てようとする。

 しかし、そこに顔を真っ青にした高坂昌信が現れた事で、信玄は思考を一旦止めた。

 

「おい、どうしたんだ?」

 

「…御屋形様、やられました。」

 

 昌信は声を震わせながら言う。その続きを信玄が促そうとすると、昌信の瞳から一滴の涙が零れる。

 

「今川と松平が、織田の仲介で和睦を結びました。そして、織田と今川は婚姻同盟を締結。」

 

「は?婚姻同盟だと?」

 

「はいっ!織田信奈の兄、織田信広と、今川家前当主、今川義元の婚約が発表されました!」

 

「なっ!?」

 

 昌信の言葉に信玄は目を見開く。

 

 そんなことあり得ない!嘘に決まっている!

 

 そう口から発したいのに、衝撃のあまり喉を鳴らす事しか出来ないでいた。

 

「さらに信奈は義元を旗頭にして上洛を行い、義元に将軍宣下を行うと発表!松平、浅井、北畠、そして北条がこれを支持しており、既に京の公家にも根回し済み。準備が出来次第上洛の兵を、御屋形様っ!?」

 

 信玄の耳に、昌信の声が遠く聞こえた。

 

 ああそうか。織田信奈。お前が糸を引いていたのだな。

 

 真なる敵の存在にようやく気付き、体が崩れていく感覚を感じながら、信玄の意識は急速に闇の中に落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 駿河から尾張へと向かう船の上。そこに猿顔の小男がいた。

 

「…人は城、人は石垣、人は堀、じゃったかな?なるほどよく言ったものじゃな。結局人を守るものは人でしかない。じゃからこそ崩す方法は無限にあり、やり方次第で容易に崩せるというものよ。」

 

 男は武田の滅びを一度見ている。だからそれをなぞってやればいいだけだった。

 

「それに儂は城攻めが大の得意。武田の城は、落とすのが楽な方であるしのう。」

 

 男は、秀吉は機嫌よさげに鼻歌を歌う。その眼は既に西を見ていた。

 

 今宵はこれまでに致しとう御座りまする。




・武田信虎
 信玄の父で武田家前当主。
 原作同様、陰の軍師として暗躍するムーヴも見せていたが、動きを察知され敢え無く退場となる。
 史実だと、甲斐を追放された後に駿河で妻を迎え、信玄の弟を産ませている。その子供は、後に甲斐に行って信玄の家臣となった。

・織田信広
 信奈の5歳年上の異母兄。顔立ちは父親に似ており、昔は割と本気で後継者候補と見られることもあった。
 史実でも信長に対して謀反を試みるが赦され、その後は信長を支え続けた。
 兄弟の中で年長だったので信長不在間は一族のまとめ役となり、その立場を生かして京の公家や将軍家との交流を担当するなど、外交官として重宝されていた。
 因みに嫡男はいなかったが娘が一人おり、後に信長の養女として丹羽家に嫁いだ。その血筋は、現在の皇室にも繋がっていると言われる。
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