相変わらず主人公陣営が登場しませんが、悪しからず。
暗い部屋の中で、二人の人物が対面している。その間は木の格子で遮られていた。
格子の外に立つのは、駿河今川家当主、今川氏真。
口元に力が籠め、自身の感情が表情に現れないように努めている。
一方格子の中にいるのは、甲斐武田家前当主、武田信玄。
悠然とした表情で正座をし、じっと氏真の目を見つめている。
その身には法衣が纏われ、短く刈った頭には頭巾を被っている。
暫し無言のまま見つめあう二人だったが、不意に信玄が口元に笑みを作った。
「初めまして、今川氏真殿。前武田家当主の武田信玄だ。」
「…今川氏真だ。」
信玄は穏やかの声色で、氏真は固い口調で挨拶を交わす。
緊張している氏真の様子が面白かったのか、信玄は小さく笑い声を漏らした。
「そう緊張するな。見ての通り私は捕らわれの身だ。お前に害を為すことなど、到底叶わない。」
「…檻に入れられようと、虎は虎。迂闊に手を伸ばそうものなら、喰い千切られてしまうだろ。」
「ハハッ、分かっているじゃないか!」
氏真の返答に、信玄は歯を剥き出しにして笑う。それを見る氏真の額には汗が浮かんでいた。
「…さてと、色々言いたい事はあったのだがな。何から話したものか…」
「…なんだ、恨み言でも言うつもりだったのか?」
「当たり前だ。」
たった一言、それだけで部屋の温度が急速に落ちる感覚に氏真は捕らわれた。
そこにはもう、機嫌良く笑っている尼僧の姿は無い。
ギラギラとした野心の炎を燃やしながらも、冷徹な殺意を宿した戦国大名の瞳が氏真を見ている。
呼吸さえ忘れそうになる圧迫感に襲われ、氏真は後退りをしそうになった。
「この私からすべてを奪ったのだぞ。父を追放してまで手にした家名。手塩をかけて育てた家臣団。少しでも民が良い生活を送れるようにと開発した甲斐の地。そして…」
怨嗟と憤怒に染まった呪詛の言葉を、信玄は口にする。
「我が弟、武田家の未来となる筈だった義信を、お前達は私から奪ったんだ。恨まずにいられようか。」
「………そうだな。それも当然だ。」
しかし、氏真は呪いの言葉を静かに受け入れた。
顔には相変わらず強張っているものの、どこか安心したような、納得した様子が感じられた。
「乱世だからな。恨まれる事も、疎まれるのも当然だ。俺達はそれら受け止めて、ただ生きていかなければならない。戦国大名で在らんとするならば。」
実際氏真は、少し安心していた。
自分より遥かに多くの修羅場を経験し、負けて尚乱世の強者の風格を損なわぬ戦国最強の一角でも、人を恨み憎しむ感情が有る事に、人間らしさを見出だしていた。
故に冷静さを取り戻し、己の思う戦国大名の在り方を説くことが出来た。
そんな氏真に、信玄は目を丸くするが、程なく氏真から視線を外すと苦々しげに頭を掻いた。
「その様子からして誰かの言いなりのままに、といった訳では無いようだな。まったく忌々しい。」
「なんだ、俺が誰かの操り人形じゃないのが不都合だったか?」
「まあな。もしそうなら、私の傀儡にする術もいくらかあったのだがな、ままならない物だ。」
悪びれる様子も無く嘯く信玄に、氏真は何とも言い難い感情を抱く。
そんな氏真の表情を、信玄は興味深げに眺めていた。
「お前は本当に、姉と似ていないな。」
「それは誉めているのか?」
「どちらでも無い。あの女は、良くも悪くも戦国大名らしく無い女だった。」
そう語る信玄の口調には、どこか羨望に似た感情が込められていた。
「乱世を生き抜こうと思うと、多かれ少なかれ清濁併せ呑む時がある。だが不思議な物でな、正と邪ともに等しく為していても、自然とその者が纏う雰囲気には濁の方が強く残るんだ。このあたし自身のようにな。」
「………」
「だが、あの女は、今川義元はどこまでも太陽のような姫武将だった。能天気で、明るくて、愛くるしくて、乱世を生きる戦国大名とは対極に在るような人柄だった。だからこそだったのかもな。皆が義元に手を貸した。」
血で血を洗う乱世において、今川義元という姫武将は異質だった。
武将としての才は無いに等しく、常に自分本意で空気を読むという事を知らず、自らの命を掛けるどころか泥を被る事さえ惜しむような、我が儘で育ちの良いお姫様そのものである。
とてもではないが、一人で乱世を生けていく事など不可能だ。
だがそんな人物で在ればこそ、今川義元は多くの人から手を差しのべられたのかもしれない。
「手の掛かる子供こそ構いたくなる、というのとはまた違うのかもしれないが、義元には自然と人々が集まってくる光があった。或いはそれを『徳』と呼ぶのかもしれないな。あれを見てるとな、私のような人間は後ろめたさと、羨ましさを感じてしまうんだ。」
「……だから、姉上に天下を取らせようと思ったのか?」
「ああ。私だけではなく、北条氏康も同じ気持ちだったと思うぞ。そうするのが、乱世を終焉させるのに最も効果的だと思ったのだからな。」
「乱世の終焉…」
戦乱の申し子とも言える信玄の口から出てきた予想外の言葉に、今度は氏真が目を丸くする。
「応仁の乱から既に百年、この日ノ本で争いが途絶える事は無かった。民は皆疲れ切り、大名もまた終わる事の無き闘争の日々に心を消耗し、遂には私達のような女まで戦場に出なくてはいけなくなった。これは日ノ本の歴史を見る限り明らかに異常な状態。私達は、それを終わらせたかった。」
「そのために姉上を…」
「ああ。今川を頂点とし、その権威を以て国内の武家を従わせる。従わない者は将軍の勅命により仕置きする。その為の政治工作や内務の統括は北条が、実行部隊は武田が務める。朝廷との折り合いは、今川の仕事だ。」
「なるほど。考えられる限りで盤石の布陣という訳か。今川の上洛が成功していればな。」
「まったくだ。結局貧乏くじを引いたのは武田だけだとはな。完全に織田にとって代わられてしまった。全てはお前の事を甘く見過ぎてしまったからか。」
信玄の視線が真っすぐに氏真を射抜く。
そこにあるのは、果たしてどのような感情だったのか。氏真には窺い知れなかった。
「どうやら私は、お前を義信や義元に重ね合わせてしまっていたらしい。まさか私に近しい人間とは思っても見なかった。」
「…どうだろうな。本当であれば、俺も姉上と同じように在りたかった。心に鬼など、飼いたくなかったよ。」
「誰だってそうだ。好き好んで修羅に飛び込むイカレなんて、そうそう居るものでは無い。誰しもが自分の命より大切なものを背負うとき、心に鬼を住まわせるのだ。」
「生きる為にか?」
「いいや、生き残るためだ。」
生き残るため、其の為に戦国大名は奔走する。
人の命が吹けば消し飛ぶ塵のように軽い乱世において、血筋を残すのがどれ程難しく、どれ程尊い事か、この時代を生きる戦国武将たちは重々に承知していた。
そして生き残るという行為の陰で、数多の悪逆が為されている事も。
「松殿、嶺松院殿はどうしている。」
「………松の姉上は、嶺松院は駿河に帰ってきて間も無く、夫と子供がいる楽土へと旅立たれた。」
「っ!?そうか…」
氏真の返答に信玄の目が見開かれ、そして力なく頭が下を向く。
氏真もまた、何かに耐えるように唇を嚙んだ。
「………彼女には本当に悪い事をした。彼女はただ、今川と武田の縁を取り持ちたかっただけなのに。」
「…姉上は甲斐でどのように?」
「夫婦仲は良かったぞ。義信には想い人がいたのだが、松殿の事を愛そうとしていた。きっと松殿も、そんな義信の胸中を知っていたのだろうが、それでも気にした素振りを見せず、義信の事を愛してくれた。子供が生まれた時は、二人とも本当に嬉しそうだった…」
「…子供だけでも助けてやることは出来なかったのか?」
「駄目だ。諏訪の時とは違い、今川が健在である以上、残しておけば争いの種になる。あの子は、武田にとって生きていてはいけない命だった。」
「っ!?貴様っ、よくもそのようなっ!!」
あまりの言い様に思わず格子に手を掛けそうになる氏真だったが、寸での所で動きを止めると、苦渋に満ちた表情で信玄を睨みつけた。
そんな氏真の様子に、信玄は哀しみを帯びた笑みを浮かべた。
「心に鬼を飼うとはそういうものだ。吐き気のするような邪悪を飲み込み、心にもない事をさも当然の如く宣い、心を殺して罪なき命を奪わねばならない。それを素面の内にやり遂げる者が、この乱世を生き残れるのだ。なあ、氏真…」
信玄は慈愛に満ちた眼差しで、幼い弟を諭すかのように優しく語り掛けた。
「今ならまだ、間に合うぞ。」
その言葉の意味を、氏真はどう捉えたのか。
顔を下に向けた氏真の表情を、信玄は知ることを出来ない。
ただ、血が出らんばかりに強く握りしめた拳が、心の内の葛藤を物語っていた。
「……………俺はもう、戦国大名だ。」
長きに渡る沈黙の後、氏真は絞り出すようにそう口にした。
独り言のように呟かれた言葉だったが、そこには確かな決意が込められている。
そう感じさせる一言だった。
「……そうか。なら良い。存分に生きよ。」
氏真の言葉に、信玄は静かに答えた。その表情はどこか安心したようであった。
だがすぐに背筋を伸ばすと、戦国武将としての顔に変わって氏真を見つめた。
「今川氏真、甲斐源氏武田氏第十九代当主として命ずる。乱世を終わらせよ。」
「っ!?何を…」
「この私から全てを奪ったのだぞ。だったらついでに、我が野望も引き継げ。中途半端は許さぬからな。思うがままに生き、乱世の終焉に必要なことは全て為せ。そうしたら全部チャラにしてやる。」
それは、名門武家としての矜持だったのか。或いは誇りある敗者としての姿を貫こうとしたからなのか。
武田信玄は尊大に、然れど何処か気品と剛健さを感じさせる声色で、今川氏真に命じた。
その姿はまさに『甲斐の虎』。戦国時代、貧しく持たざる国であった甲斐国で、戦国最強の一団を築き上げた稀代の名将がそこにいた。
信玄の言葉に氏真は固まる。
己より遥かに高みにある人物が、己への恨み辛みを赦す条件として、この世で最も難解な使命を告げたのだ。
このような馬鹿げた難題、無視した所で何一つ問題ない。
そもそも氏真は勝者であり、信玄は敗者なのだ。敗者が勝者に命ずることこそ、道理に合わない。
だが氏真は、その場に膝を附き、手を前に着くと武田信玄に向けて頭を下げ告げた。
「心得た。」
その後、武田信玄と今川氏真が再び顔を合わせる機会は、二度と訪れなかったという。
後年氏真は、次のような歌を詠んでいる。
「なかなかに 世をも人をも 恨むまじ 時にあはぬを 身の科(とが)にして」
今宵はこれまでに致しとう御座りまする。
・今川による上洛作戦
本作では今川義元による尾張侵攻を、原作と同じく上洛を目指した物としていますが、史実では朝廷や道中の他家への工作をした形跡が無いこと等から、少なくとも義元は桶狭間時には上洛をしようとしていなかったという説が有力とされている。
・心に鬼を飼う
以前感想欄で触れられている読者もいましたが、此処の台詞は大河ドラマ「葵徳川三代」で家康が息子の秀忠に語った言葉が元ネタです。
上に立つ者としての心構えを説いた名台詞で、数多くの大河ドラマで作者が特に好きな台詞である。