太閤転生伝   作:ミッツ

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駿河の鬼

 美濃の動乱を終息させ、道三を救出した秀吉一行は長良川を船で下り尾張へと帰還していた。

 しかし、その船中の空気は来た時と同様に最悪なものであった。

 その原因は言うまでもなく秀吉と光秀であった。

 

「……………。」

 

「……………。」

 

「……………。」

 

「……………あ、あの、木下さん。」

 

「…なんじゃ?」

 

「ええと、この度は義龍様を説得して頂き、本当にありがとうございました。お陰で道三様のお命を救うことができ、叔父上たちも喜んでいました。」

 

「別にお主らを喜ばせるために道三様をお救いしたのではない。我らはあくまでも信奈様の願いを叶えるために働いたのじゃ。」

 

 文字だけ見ればツンデレ発言とも読み取れなくもない秀吉の返事だが、それを言う当の本人の表情は苦虫を噛んだようであり、光秀と話すのも嫌というのを隠そうとしていなかった。

 それでも健気に光秀は秀吉の関心を得ようとする。

 

「そ、それでも感謝の言葉だけは言わせて下さい。木下様の秘策、まさに見事でした。経済力と御所のつながり、この二つを持つ織田家だからこそ出来た策であり、私などでは中々思い付かないものですぅ。今回は本当に勉強をさせて頂いて…」

 

「失礼、少々疲れていますので尾張に着くまで休ませていただきたい。」

 

 そう言って光秀との会話を無理やり打ち切ると、光秀から離れた場所に腰を下ろし瞼を閉じる。こうなった以上、流石に光秀も話しかけることは出来ず落ち込んだ様子で膝を抱えた。

 その様子を見ていた道三は横にいる良晴に耳打ちする。

 

「のう、あれはいったいどういうことじゃ?何故あの男は、ああも露骨に光秀ちゃんを避けておるのじゃ?」

 

「ええと、話せば長くなるし色々と話せないところもあるんだけど、簡単に言うと前世の因縁というか、なんというか、光秀は悪くないんだけど秀吉さんがああいう態度をとるのも仕方ないんと思うし…。」

 

「ううむ、複雑な事情があるということか。そういうのは得てして部外者が安易に関わろうとするのもいかんしのぉ。本人たちで折り合いをつけるか、時間が解決するのを待つしかないじゃろ。」

 

 事情が事情だけに良晴も曖昧な説明しか出来ないが、道三も込み入った事情を察しそっとしておいた方が良いと判断する。

 実際問題、秀吉が光秀に向ける感情の根源を知る者は今後の歴史を知る良晴しかいない。

 そんな良晴だからこそ、今後の事を考え少しでも光秀に対する秀吉の態度は軟化させておいたほうがいいと思い、秀吉の隣に座る。

 

「なあ、秀吉さん、前世の事を考えれば秀吉さんが明智光秀と仲良くするなんてすごく難しいことだとは思うけど、歴史通りに進むとしたら明智光秀は織田家の家臣になるわけだし、少しくらい心を開いてもいいんじゃないかな?」

 

「…此度の世では必ずしも以前と同じようにあやつが織田の家臣になるとは限らん。」

 

「だったら、本能寺の変だって起きるとも限らないだろ。」

 

 そう言い返され秀吉は良晴を不機嫌そうに睨むが、良晴も動じずにその視線を見つめ返す。すると根負けしたのか秀吉が小さくため息を漏らす。

 

「儂だってわかっておる。女子となった明智が以前のやつとは全くの別人であると。あやつが信奈様に謀反を起こすのを回避する方法も、何度も検討しておる。だがのぉ、儂にとって明智光秀の名はそう簡単に割り切れるものではない。」

 

 織田信長に仕え、その天下取りを大いに助け、最後には殺した男。秀吉はその背中に憧れ、尊敬し、嫉妬もしていた。そして、光秀が信長を殺したからこそ、秀吉が天下人に至る道が開けたのだ。

 決して感謝など出来ないし、許すことなど到底不可能であるが、単なる憎き敵とするには余りにも言葉が足らない人物、それが秀吉にとっての明智光秀であった。

 

「単に恨みをぶつけるだけの相手だったらどんなに良かったことか。明智光秀は間違いなく織田の天下取りの助けとなる。だからといって、信奈様の側にあやつを置くのは不安なのじゃ。」

 

「だからこそ、俺たちがこの時代にいる意味があるんだろ。明智光秀に裏切らせずに信奈に仕えさせる。未来を知る俺たちだからこそ出来る事だろ。」

 

「…なるほど、明智を裏切らせぬ道を探るというわけか。すまんの良晴。少し心の靄が晴れた。」

 

 小さく笑って感謝の言葉を告げると、秀吉は立ち上がって光秀のもとへ近づく。

 目の前に立たれた光秀はビクリと肩を跳ねさせた。

 

「明智殿、道三様を送り届けた後は如何する?」

 

「え?あっ、ええと、一先ずは叔父上達が近縁を頼って越前に行くそうなのでそれに着いて行こうと思います。主君と敵対した以上、美濃に居続ける事も出来ませんし。」

 

「ほぅ。では、間も無く明智殿とはお別れとなってしまいますな。」

 

「はい。散々助けて頂いて、録なお礼も出来ず申し訳ないですぅ。」

 

「いえ、構いませぬ。越前での明智一族の御武運、お祈り申し上げます。然れど、もし向かい先の家風が合わず、難儀されましたら…」

 

 秀吉は膝を着き、光秀と目線を合わせる。

 

「遠慮なく織田を御頼り下され。その際には拙者からも口添えさせて頂きまする。」

 

 秀吉の言葉に光秀は驚き、慌てて居ずまいを正す。

 

「は、はいっ!ありがとう御座います!その暁には、改めて私も木下様にお礼申し上げますぅ!」

 

 その言葉に秀吉は苦笑いをしつつも頷く。

 完全に胸中の蟠りが無くなった訳ではないし、警戒をしなくなった訳でもない。

 それでも、秀吉は今世の明智光秀に対し、一つの落とし所を見つけられた。

 明智光秀が織田信奈に謀反しない道を探す。それは信奈の天下を目指す上で、未来を知る者にしかなし得ない事であった。

 

 秀吉が光秀への対応を変えたからか、船中の雰囲気が僅かに和らいだ。

 そうして間も無く船は織田家領内に入り、船着き場に到着する。

 親戚のもとに戻らなければならない光秀とは、ここで別れる事となる。

 

「道三様、今まで本当にお世話になりました。十兵衛はこの御恩、一生忘れません。」

 

「これこれ、今生の別れと言うわけでもあるまいに。まぁ、お互い生きておれば、いずれ再び見える事もあろう。その時まで、元気でのぉ。」

 

「はいっ!道三様もお元気でっ!それと、木下様、相良様、今川は手強いでしょうが、お二人の御武運をお祈り申し上げます。」

 

「ああ、任せとけ!今川なんか軽く捻ってやるからさ。なっ、秀吉さん。」

 

「うむ。我らが織田は、これより天に飛び立つ。今川との戦は、その第一歩じゃ。全てが終わった時には信奈様の名は日ノ本中に響き渡るであろう。」

 

「ふふっ、吉報お待ちしてますぅ。それでは。」

 

 光秀は再び昇りの船に乗り込むと、秀吉達に向け深々と頭を下げた。その姿は船に連れられ小さくなり、やがて見えなくなった。

 

「よし!じゃあ清洲に戻るか。」

 

「…待った。そこに誰か居る。」

 

 号令をかけた良晴に犬千代が指摘し、素早く近くの藪に向かって槍を構える。

 秀吉達も瞬時に身構えた。

 

「お待ち下されっ!五右衛門に御座いますっ!」

 

 慌てた様子で藪から姿を表したのは、忍装束の小柄な少女、蜂須賀五右衛門であった。

 

「あれ、五右衛門?お前どうしてこんなところに?てか、ここ最近ずっと姿を見なかったけど、どこに行ってたんだ?」

 

「主の命に従い、色々とやっておりました。家中のうりゃぎり者の屋敷に忍びきょみ、うりゃぎりの証拠をにゅすんだり、おきゃじゃきとのくにじゃかいで敵のうぎょきをしゃぐったりと…」

 

「うん、まあ何となく五右衛門は五右衛門で忙しかった事はわかった。」

 

「それで五右衛門、儂の前に現れたという事は、何か今川に動きがあったのだな?」

 

 五右衛門に命を授けていた秀吉が鋭い視線を向け尋ねると、五右衛門は神妙な面持ちで頷いた。

 

「今川が動き出しました。駿河に兵を集め侵攻の構え。しょの数、二万五しぇんに御座いますりゅ!」

 

 運命の決戦が、いま始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今川義元という姫大名の人生は、決して順風満帆とは言えなかった。

 駿河の名門、今川家当主、今川氏親の娘として生まれるも、その時既に上には母を同じにする兄が二人おり、義元には姫武将としてよりも武家の妻としての役目を求められた。

 その為、幼くして礼儀作法や文化教養を修めるために寺へ預けられた。

 そのまま行けば外交の道具として他大名に嫁ぐか、家中の結束を高めるために家臣の妻になるか、いずれにせよ義元が戦国武将として世に出る機会は訪れぬはずであった。

 

 転機となったのは、義元が髪結いの義を終えて暫くした頃である。

 名君として知られた氏親の死後、家督を継いでいた兄の氏輝が急死した。

 更にその葬儀の翌日には、次兄の彦五郎が変死する。

 相次ぐ後継者の早逝に家中が混乱する中、新たな当主として名乗りを上げたのは氏親の側室の子であり、義元と同様に寺に預けられていた義兄の玄広恵深であった。

 恵深は還俗し今川良真と名を改めると、祖父である今川家家臣、福島正成の後押しを受け今川家の新たな当主になると宣言した。

 これに猛然と反対したのが、氏親の正室であり、氏輝と彦五郎の母であった寿桂尼である。

 予てより息子達の死を不審に思い、その死から間髪入れずに家督を得ようとした良真達の振る舞いに策謀の匂いを感じ取った寿桂尼は、我が子を手にかけたかもしれぬ良真の家督相続を頑として認めず、寺から義元を呼び戻し当主に担ぎ出した。

 

 こうして始まったのが家督を巡って駿河を二分した今川家の御家騒動、俗に言う『花倉の乱』である。

 

 この内乱において、女である上に武将として何一つ教育を受けていない義元は不利と見られていた。

 そんな義元を補佐したのが、義元の教育係である一人の禅僧であった。

 その僧侶、僧籍にありながら軍事に通じ、策謀の限りを尽くして福島正成を討ち取ると、良真の逃げ込んだ館を包囲し自害に追い込んだ。

 そうして瞬く間に敵対者を排除し、今川家の正当な後継者となった義元を、僧侶は軍師として支え続ける事になる。

 その僧侶こそ、後北条家を初代の頃より外交面で支えた『相模の妖女』こと北条幻庵、築城と軍略の才で信玄の片腕となった『隻眼の軍師』こと山本勘助、この二人と共に関東三軍師に並び称された『今川の黒い宰相』、太原雪斎である。

 

 

 

 

 

「のう、泰朝。お主、儂と初めて会った時の事を覚えておるか?」

 

 まだ冬名残の寒さが身を冷やす縁側にて、雪斎は庭に咲く梅を眺めながら隣に座る朝比奈泰朝に話し掛ける。

 問われた泰朝は暫し顎に手を当て考え込むと、やがて苦笑いを浮かべた。

 

「和尚様と初めて会ったのは、確か墓場ではなかったでしょうか?」

 

「その通りじゃ。氏親公の求めに応じ、姫様を教育するため京より国に戻ったところ、宛がわれた部屋の真ん中に『夜半寺の墓場に来い』と書かれた紙が置いてあってのう。無視するのも芸が無いと思い行ってみれば、幼い姫様が一人でおってこう言うのじゃ。」

 

『私の養育係となるからには、相応の方でなければ認めませんわ。とりあえず、この地に眠る亡者を成仏させなさい。』

 

「すると人魂やら死装束の亡者やらがぞろぞろ現れてのう。最初は驚いたが、一人一人喝を入れてやって馬脚を現させたがの。」

 

「あの時は申し訳ありませんでした。ただ、我ながら姫様はよくやったものだと思います。」

 

「うむ。儂もそう思う。何せ、五つそこらの幼女が、『一緒に遊びましょう。』の一言で、大人子供合わせ五十人も集め肝試しの用意をしたのだから。」

 

 あの時、大名の娘とは言え義元は家督を継ぐ権利さえ持たない娘である。遊びの誘いを断ったところで主君の覚えが悪くなる訳でも無い。

 にも関わらず、義元は銭や家の権威を使う訳でもなく、雪斎をからかう為だけに老若男女問わず五十人もの人間を集めたのだ。

 彼らが義元の求めに応じたのは、たった一つの理由からだった。

 

「面白そうだと思ったんです、姫様と遊ぶのが。いきなり幽霊ごっこをするから夜半に墓地に来なさいと言われた時には、なぜ?と思いましたが、なんだかとても心引かれたんです。」

 

「儂もじゃ。部屋に置かれた手紙を読んだ時、馬鹿らしいと思いながらも妙に心がざわついてのぅ。思えばあの時既に、姫様に心を捕まれておったのかもしれん。そういう不思議な魅力を姫様は持っておられる。」

 

 昔を思い出して、二人は互いに笑う。

 出会った場所こそ場所だが、あの出会いが雪斎の運命を大きく変えたのは間違いない。

 

「姫様には武将としての才は無い。それこそ、武田晴信や北条氏康に比べるべくも無く。然れど、あの二人には持ち得ぬ才を秘めておられる。即ち、周りから支えられる才じゃ。」

 

「皆を導くのでは無く、皆から支えられて国を造る才。まるで漢の高祖のようですね。」

 

「まさにそれよ。きっと、姫様の元でなら築けると思ったのだ。上に立つ者に武才無くとも、民と共に笑える国が。仮名目録の再編もその為よ。」

 

 今川家仮名目録は氏親の代に制定された三十三条からなる今川家独自の分国法であり、東国最古の分国法として周辺諸国の分国法にも影響を与え、今川家の戦国大名としての立場を他家に先駆け明確にしたものとされている。

 雪斎はこれに二十一か条を追加し、現在の社会保障制度にも通じるシステムを今川領内に行き届かせていた。

 

「あともう少し、そう遠く無い内に上洛を果たし、今川の御旗を京に立てれる筈であった。しかし、儂はそれを見ることは叶わぬようだ。」

 

「和尚様…。」

 

「故に泰朝、御主にこれを託す。」

 

 雪斎は懐から真新しい書物を取り出すと、それを泰朝に差し出した。

 

「これには、今川が天下へ至る為の道筋が記されておる。無論全てが思い通りになるとは思っておらぬが、きっと御主達の助けとなろう。」

 

「………はっ!有り難く頂戴致します。」

 

 書物を受け取り頭を下げる泰朝に雪斎は満足そうに頷く。

 だが、その表情が突如として冷たく、そして鋭いものに変わった。

 

「それともう一つ、御主に言わねばならぬ事がある。尾張の織田信奈、あれは確実に殺せ。」

 

「えっ!うつけ姫と呼ばれる、あの織田信奈をですか?」

 

「うつけの姿に惑わされてはならぬっ!儂は一度だけ、戦場であの女を見た。あれは虎じゃ。とても誰かの下に付く事を良しとする者では無い。今はまだ爪は短く、牙も生え揃って無いが、いずれ姫様の喉元に届きうる力を得よう。故に殺せ。」

 

「…降伏して来てもですか?」

 

 姫武将に対しては、降伏を選んだ場合その身の安全を保証するのが、この戦国での習いであった。

 戦が終わった後、解放するか剃髪させ寺に入れるか等は個人の裁量によったが、基本的には姫武将は必要以上に傷物にしないのが暗黙の了解である。

 しかし、雪斎は泰朝の問いに躊躇無く頷いた。

 

「無論じゃ。よいか泰朝、人の上に立つ者は、心に一匹の鬼を飼わねばならぬ。だが、姫様の気性ではそれは難しい。故に御主が鬼と成れ。今川を守る、護国の鬼と。」

 

「今川の鬼に…」

 

「そうじゃ。それが儂から御主への最後の願いじゃ。」

 

 雪斎から向けられる切実なまでの言葉と眼差しに、泰朝の覚悟が決まった。

 脇差しを鞘ごと自分の前に立てると、僅かに刃を抜いた。

 

「これより拙者は鬼になります。今川と姫様を守る鬼へと…。」

 

 そう誓って泰朝は脇差しで金打する。

 ここに一つ、決して破られぬ誓いがたてられた。

 

「あら、師匠に泰朝さん。こんなところにいらしたのですね。」

 

 不意に気の抜けたような声がしたかと思えば、今しがた守ると誓った主君が木の影から顔を覗かせていた。

 泰朝は慌てて脇差しを直そうとするが、雪斎は何事も無かったように頭を下げる。

 

 

「これは姫様、如何なる用向きでしょうか?」

 

「何を寝惚けてらっしゃるのです。もうすぐ会談の時間でしてよ。」

 

「おやっ!もうそんな時間でしたか。これは失敬、すぐに向かいましょう。おっとっと…」

 

 義元から促され雪斎が立ち上がろうとするが、バランスを崩しよろめいてしまう。

 慌てて泰朝が体を支えようとするが、それよりも早く義元が側に行き、倒れそうになった雪斎の体を支えた。

 

「師匠、急がずとも大丈夫です。私の手をとって下さいまし。」

 

「………忝のう御座います。」

 

 義元は雪斎に手を取らせると、歩調を合わせ目的の場所へと向かった。

 まるで実の親子のような二人の後ろ姿を眺め、泰朝は胸の前で脇差しを強く握り締めていた。

 

 この後、駿河の今川義元、甲斐の武田晴信、相模の北条氏康という東国の三か国の主が一同に会し、三国間で血縁を交わす盟約が結ばれるに至る。

 世に言う、甲相駿三国同盟である。

 これによって、今川は背後を憂う事無く西に注力できるようになった。

 太原雪斎がこの世を去ったのは、それから間も無くの事であった。

 

 

 

 

 

 

 

「おーい、泰朝!そろそろ評定が始まるぞ。」

 

 その声に泰朝は瞑想を止め、ゆっくりと瞼を開く。

 目の前にいたのは主君を同じとする同年代の武将、岡部元信であった。

 泰朝は座禅を解くと、肩を鳴らして服装を整える。

 

「もうそんな時間か。すまんな元信。手間を掛けさせた。」

 

「構わねぇよ。それにしても、そうやってお前さんが座禅を組んでるのを見ると、和尚様に似てきたと思うぞ。」

 

「……それは誉めておるのか?」

 

「おや?そう聞こえなかったか?」

 

 からかうような元信の言い種に泰朝は口を歪ませるが、それすらも面白い様子で元信はクスクスと笑う。

 

「そう言えば聞いたぞ。我らに寝返った鳴海城の山口親子、実は最初から織田と通じておったそうだな?」

 

「…ああ、その様な噂が流れておったのは事実だ。故に先日、誅した次第だ。」

 

「そうか。まあ、あの裏切り者がどうなろうと知ったこっちゃないが、果たしてその噂、どこから流れたものだろうな?」

 

「……それが何か気になるのか?」

 

「まあな。真偽はともかく、一体どこの誰がそんな事を言い出したのかと。尾張の人間か、それとも駿河の人間か…。」

 

「………俺が思うに、山口は己を賢いと思っておる魚だ。」

 

「己を賢いと思っておる魚だと?」

 

 泰朝の例えに元信は頭を捻る。

 

「ああ。目の前に落ちて来た餌に何の疑いも無く食い付く。そうやって腹を肥やし、自分は生き賢いと思い込んでいる魚だ。」

 

 泰朝は蔑んだように鼻を鳴らした。

 

「そういう魚は別の餌を前にしたらまた食い付く。故に、釣り易かった魚は早々に捌くに限るのだ。」

 

「………改めて言うが、最近のお前はますます和尚様に似てきたな。」

 

「…そうか。」

 

「ああ。故に言わせてくれ。あまり一人で背負い過ぎるな。少しは俺達にも、背負わせろ。」

 

「………忝ない。」

 

 小さく感謝の言葉を告げる泰朝に元信は言葉を返さず、ただ口許に笑みを浮かべると軽く肩を叩いた。

 そうして二人は無言のまま肩を並べ、評定の間に入る。

 そこには既に、具足を着けた戦武者達が揃っていた。

 泰朝達も彼らに倣って所定の場所に付くと、間も無く彼らの主君、東海一の弓取り、今川義元が姿を現した。

 

「皆々様、準備はよろしいですね。泰朝さん?」

 

「はっ、兵の支度、万事抜かり無く。」

 

「よろしくてよ。では皆様、命じます。」

 

 口許に扇子を当て、義元は楽しげに命じた。

 

「天下に至る、戦を致しましょう。」

 

 

 今宵はこれまでに致しとう御座りまする。


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