少年指揮官の日常   作:トレモ勢

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ゆるせない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 深夜。僕は、夜の埠頭を歩いていた。

 

 埠頭設備の照明に照らされ、僕の足元からは影が伸びている。僕の影はやはり、その上半身を黒い海へと投げ出していた。影の半分を海に沈めたままの僕は、潮の匂いを感じながら視線を少し上げた。夜空には月も星も見えず、曇っているのだと分かる。

 

 吹いてくる風も、身体に纏わりついてくるかのように湿っていた。一応の護身用として佩いていた軍刀の柄に触れると、その表面には微かに濡れたような感触がある。

 

 雨の気配を抱えた空気を吸い込んで、視線を海へと戻した。

 闇夜の海は変わらずに無表情で、揺るがずに其処にある。

 

 気持ちが沈んで鬱屈とした時であったり、何か考え事をしたりする時に、僕は一人で夜の埠頭を歩くことが多かった。

 

 今日は悪夢を見て眠気が飛んでしまい、次の眠気が訪れるまでの時間を持て余していたから、此処に来た。気圧の所為か、心理的なものの所為か、目の奥に鈍痛を感じた。

 

 ぼんやりとしている頭を緩く振りながらも、僕の背後から慎重に距離を縮めてきている彼女の存在には気づいていた。

 

「お疲れさまです、ローンさん」

 

 僕は足を止めて振り返る。彼女は、照明が届かない暗闇の中から滲み出すようにして、明かりの下に踏み入って来ているところだった。物々しい鉄血の戦闘装束に身を包んだ彼女は僕を見て、ふんわりとした柔和な笑みを浮かべた。

 

「……はい。お疲れ様です」

 

 ローンさんの優しい声は、暗がりの中に不穏な響きを残した。立ち止まった僕に、彼女が歩み寄ってくる。その彼女の頭が上下していない。そして不気味なほどに、足音も全くしない。まるで影が滑ってくるかのようだった。

 

「よく気付きましたね、指揮官。完全に気配を殺したつもりだったのに」

 

 笑みを湛えたままで、ローンさんは首を少し傾げて見せる。

 

「……何処から気づいていました?」

 

「えぇと、そうですね……。広場の前を通り過ぎたあたりでしょうか」

 

「では、殆ど最初からバレていたんですねぇ」

 

 笑顔のままで眉を少しだけ寄せたローンさんが、お腹のあたりで手を組み合わせながら残念そうに言う。彼女の両手は攻撃的な装甲で覆われており、ギチギチと金属が擦れる音を鳴らした。

 

「それなら、もう少し早く声を掛けて下さっても良かったのに」

 

「すみません。ローンさんが夜の母港を出歩いているのも、何か、ローンさんの目的があってのことだと思ったんです。ローンさんが僕に話しかけて来られる気配も無かったので、僕の方からお声を掛けるべきか、迷っていたんですよ」

 

「あぁ、そうでしたか。私に気を遣って下さっていたんですね。でも、私には特に目的はありません。眠れなくて、なんとなく母港をうろついていたんです。そうしたら、広場を横切る指揮官の姿が見えたので……」

 

「僕と同じですね。僕も眠れなくて。でも気配を消してついてこられるのは、ちょっと怖かったですよ?」

 

「ふふ。すみません。こんな夜更けに指揮官が何をしているのか、少し気になって。何か、私達の知らない指揮官の姿が見られるのではないかと、そう思って、あとをつけました」

 

 ローンさんが笑顔のままで目線だけを動かし、僕の佩いている軍刀をチラリと見ていることにも気付いていた。だが、それを指摘することはせずに、「……少し、歩きましょうか?」と、僕は彼女に半身を向ける。

 

 このまま立ち止まって向かい合っていると、妙な方向に話が進んでいきそうな気配があった。だから僕は、歩きながら話の続きをしようと提案したつもりだった。

 

 一瞬だけ眼を細めたローンさんはすぐに柔和な笑みになって、「はい」と頷いてくれた。だが、動きを見せない。僕の背後を歩きたいのだろう。

 

 僕は一つ頷きを返して、ローンさんに背を向けて先に歩き出す。肩越しに彼女を振り返ると、彼女は音も無く僕の背後に着いてくる。まるで足元に伸びる僕の影が実体を持ったかのようであり、同時に、ローンさんが僕の影の中に踏み入ろうとしているかのようでもあった。

 

 少しの間、二人で黙って歩く。

 

 ローンさんの歩く速度は、僕と全く同じだ。振り向かずとも分かる。歩く速さどころか、歩幅や、呼吸の間隔、深度も、彼女は僕に合わせようとしている。理由は分からないが、僕の動作と一体化しようとしている。先にローンさんが口を開いた。

 

「指揮官は、私を警戒しないのですね」

 

 緩やかな彼女の声が、周囲の暗がりに溶けていく。

 

「まさか。警戒なんてしませんよ」

 

 振り向かないままで、僕は少しだけ冗談めかして言う。背後のローンさんが軽く笑うのが分かった。だが、彼女は相変わらず足音を一切たてない。呼吸も静か過ぎる。先程よりも遥かに気配が無い。振り返って見ると、誰も居ないのではないかと思う程だった。

 

「ローンさんも、よく夜に散歩をされるんですか?」

 

 確かめるつもりで肩越しに振り返って見ると、ちゃんと彼女は居る。優しげで柔和な笑みを湛えて、無音のままで僕と一定の距離を保っている。本当に僕の影のようだった。

 

「そう頻繁にではないですよ。時々、夜の海を眺めたくなって、ふらっと出歩いているんです」

 

「……僕も同じです。夜の海は見ていると落ち着きますよね」

 

 僕はローンさんに言いながら、視線を隣に向けて海を眺めた。視界の焦点が曖昧になるほどに、茫漠とした黒い海がそこにある。

 

 夜の海は気が滅入るという大鳳さんに言葉を思い出す。この暗い海を見て落ち着くという僕の精神作用というのは、結局のところ、自分の感情に浮かんでくるものや、喜びや悲しみといった心の動きを深く沈め直しているからなのかもしれない。

 

 背後でローンさんが頷く気配が在った。

 

「でも、あまり長く眺めていると、自分が飲み込まれてしまうような感覚になります」

 

 まぁ、それが心地よくもあるのですが。そう小声で付け足したローンさんと、夜の海を眺めながら他愛の無い話をした。今日の演習の内容であるとか、鉄血寮で流行っているものなど。

 

 そういった何気ない世間話を重ねるついでのように、「あぁ、そういえば……」と、ローンさんが笑みを含んだ声を出した。

 

「……指揮官は、誰を専属艦になさるおつもりですか?」

 

 僕は一瞬、言葉に詰まる。肩越しにローンさんを窺うと、彼女は薄い笑みを浮かべていた。優しげであるはずなのに、今は随分と印象が違って見える。僕は彼女から目を逸らし、前を向き、そして俯きながら、口許にだけ笑みを作った。

 

「“誓いの指輪”については、色々と考えているところです」

 

 ローンさんに答えている途中から、意識の隅にオブザーバーの言葉が膨らんでくる。それを遮る思いで、努めて明るい声を出した。……僕には多分、KAN-SENの皆に誓えることなど何もない。

 

 ローンさんが背後で、「ふぅん……」と、僕の言葉の真意を探るような相槌を打つのが聞こえる。これ以上、この話はあまりしたくなかった。「あの、こういう機会にしか訊けない話なのですが」と、僕は少々強引に話題を変える。

 

「この母港での生活に、何か大きな不満はありませんか?」

 

 肩越しに振り返ると、ローンさんは変わらずに笑みを湛えている。

 

「えぇ。ここの皆さんは、とても親切ですし。でも、少々平和過ぎるでしょうか。こうも穏やかな日々が続くと、色々と発散したくなりますね」

 

「……それはやはり、居心地が悪いということですか?」

 

 僕は訊ねながら、KAN-SENとしての彼女の姿を思い返していた。

 

 母港での生活の中でのローンさんは、鉄血陣営の他のKAN-SEN達がそうであるように、礼儀正しく、他者への心配りや、他陣営への敬意も忘れることはない。心優しい彼女は間違いなく母港の平穏さに馴染んでいた筈であるし、そんな彼女を必要として慕う者も多い筈だった。

 

 だが一度出撃すると、ローンさんは自身の価値を証明すべく、戦闘を強く求める傾向があった。それはモナークさんと似て非なるもので、ローンさんの場合は戦闘に於ける破壊行為を楽しみながら、残忍な興奮と快楽を見出し、そこに没頭したがるのだ。

 

 母港で仲間たちと過ごす穏やかな時間と、海の上で戦闘行為に溺れる時間の狭間で、ローンさんが自分自身を調節することに疲れ、苦悩しているのならば、僕に何かできることが在ればと思った。僕の気遣わしげな視線に気づいたのであろうローンさんは、緩く首を振って見せる。

 

「居心地が悪いだなんて、そんなことはありませんよ。ただ、何か物足りない……と、いった感じですね」

 

 笑みを崩さないローンさんの声音には、柔らかい温もりが籠っている。そして同時に、自分の感情を調節しているような響きを感じた。

 

「……でも、この物足りなさこそが、私の本質なのでしょう」

 

 諦観とも自嘲ともつかない声で言いながら、ローンさんが小さく笑う気配がした。僕は振り返ろうしたが、出来なかった。音も無く距離を詰めてきた彼女が笑顔のままで、すぅっと僕の隣に並び、身を屈め、僕の顔を覗き込んできたからだ。

 

「指揮官は、私のことをどう思います?」

 

 優しい声で言いながら、ローンさんは僕の顔を両手で包み込んでくる。彼女の手を覆う黒いガントレットは夜の湿り気を帯びて、ひんやりと冷たかった。その鋭い親指の先端が、僕の両目のすぐ近くにある。

 

「私は指揮官と一緒に居ると、戦場で敵を殺すよりも充実感を感じます。それでも、私は満たされませんでした。ぽっかりとしたこの心の穴を、この隙間を埋めたものは、……“嫉妬”という憎悪なのだと確信しています」

 

 僕の頭部を両手で包み込んだ彼女は、陶然とした面持ちでありながらも力強い声で言う。

 

「指揮官。私は貴方を愛するよりも、もっと深く、深く、他の子たちを憎悪していますよ? この感情が膨れ上がる感触は、今まで味わったことがないほどに甘美で、どうしようもない程に私の心を捉えています」

 

 徐々に彼女の声が大きくなっていく様子は、彼女の抱えた感情によって穏やかな口調に負荷がかかり、軋みを上げるかのようだった。僕の眼を見詰めたままのローンさんは、その鈍色の瞳孔を開きながら息を荒くしている。

 

 ガントレットの指先が、僕の眼球に迫ってくる。だが、僕は不思議と恐怖を抱かなかった。もしかしたらそれは、命の危険が迫っている瞬間なのかもしれず、悲鳴を上げて助けを求めるなり、佩いた軍刀でローンさんを攻撃すべきなのかもしれなかった。

 

 だが僕は何もせずに、自分の命を彼女に預けたままで、その眼をじっと見つめかえしていた。

 

 彼女の周囲にある夜の闇が、彼女を少しだけ自由にしているのだと思った。

 

 雨の気配を含んだその暗がりは、ローンさんが一人で背負っているようにも見える。夜の海も、雲が敷き詰められた夜空も、僕たちを見ていながら完全に無関心だった。

 

「指揮官。私は、まだ足りないのです」

 

 ローンさんは唇を舐めて湿らせてから、僕を呼ぶ。

 

「私は指揮官に愛されたい。残忍な殺戮に浸る私のままで、指揮官に愛されたい。そして、他の子たちに嫉妬もしていたい……。憎悪を募らせていたい。えぇ。今まではそれで満足でした。満足できていると、思っていたんですよ。でも、やっぱり駄目ですねぇ。……次から次へと欲しくなって……。ふふふ、こうやって言葉にしてみると、私は何て欲深いんでしょう」

 

 僕は、黙って彼女の語る声を聴く。

 

「指揮官は、綺麗な顔をしていますねぇ……」

 

 彼女は僕に顔を近づけ、その鈍色の瞳で、僕の眼の中にある感情の動きを全て捉えようとするかのように覗き込んでくる。

 

 僕と、ローンさんの吐息が抱き合う。体温を感じる。あれだけ巧みに気配を消して見せていたローンさんの全存在が、今は、僕の眼の前にある。僕の鼓動と呼吸は乱れていない。夜の海を眺めている時と同じように、僕の心は落ち着いていた。

 

「美しいものは、それが二目と見られないほどに粉々に砕かれる瞬間にこそ、その尊さや儚さが永遠になると思いませんか……?」

 

 ひゅるっと呼吸を震わせたローンさんが、僕の頭部を抱えた両手に力を籠めてくるのが分かった。彼女の力を持ってすれば、無抵抗の僕の頭など容易く潰せることだろう。

 

 今のローンさんが浮かべる笑みは、美麗な絵画に穴が空き、それが徐々に広がっていくような不吉さに満ち、狂暴で残虐な悦びの予感に打ち震えているようだった。

 

「指揮官も、この母港の皆も、築き上げてきた交流や信頼も、全てが頽れて、地面に叩きつけられ、無残に砕け散ったそれらを足元に見下ろすとき……、私の物足りなさは完全に満たされるのではないかと、……そんなふうに思います」

 

 ローンさんは凄絶な笑みを浮かべたままで、煮え滾るような黒々とした情熱を吐露する。そして恐らく、その破滅的な願望は、僕以外の誰かに曝されることのなかったものだろうと思えた。彼女の心の奥底で息衝いていたものが、生まれて初めて、彼女の外部と接触している。

 

「こんな私を、指揮官は……、どう思いますか?」

 

 僕の答えを待つローンさんは、ゆっくりと顔を傾けた。ローンさんはその瞳を通して、僕の内面から何かを引き摺り出そうとしているかのような、力の籠った眼差しだった。

 

 彼女の瞳の中に、黙り込んだ僕の顔が映っていのが見える。そこに映る僕は、穏やかな笑みを浮かべていた。

 

「僕は、ローンさんのそういった欲望や感情を、善悪や正誤で語るべきではないと思います」

 

 答えながら、彼女の眼差しを受け止める。

 

「良いんですか? 私がこのまま、指揮官の頭を潰しちゃっても」

 

 顔を傾けたままのローンさんが喉を鳴らし、肩を揺らした。

 

「この場で指揮官を無茶苦茶にしてしまえばきっと……、私は永遠に、指揮官を独り占めできますね」

 

「……たとえ、そういった願望を抱いていたとしても、それだけがローンさんを表しているわけではないでしょう。僕は、出撃しているローンさんだけではなく、母港で穏やかに過ごすローンさんの姿を知っています」

 

「“これ”が私の本性だとは、思いませんか?」

 

「ならば尚の事、僕はローンさんの“本性”を尊重したいと思います」

 

 僕が言うと、笑みを消して怪訝な表情になったローンさんがゆっくりと眼を窄めた。僕の言葉の真意を測りかねているかのようだった。ただ僕の語った言葉には、深読みして貰うような大した意味などない。その言葉通りだった。黙り込んだローンさんを、僕は見上げる。

 

「ニーミさんやドイッチュラントさん達と一緒に過ごしているローンさんは、あれは、偽りのローンさんというワケでは無かった筈です。作戦行動において、ローンさんは幾度となく身を挺して彼女達を助け、また、助けられている筈です」

 

 事実として、そういった報告も受けている。それに、ローンさんを中心とした交流関係を見ても、大きな軋轢や摩擦を生んでいることは無かった。

 

「戦闘を強く望み、破滅主義的な哲学を“本性”としてのローンさんが持っていたとしても、その“本性”の欲望を抑えるローンさんもまた、真実だと思います」

 

 感情も思想も一面的なものではなく、常に立体的なものだ。表があれば裏もあり、側面もある。心の奥底に暗い想いを宿していたとしても、それを抑え、他者に優しさや気遣いを向けることが出来る尊さは、たとえ仮面的な行いであったとしても、それは間違いなくローンさ自身のものだ。

 

「もしもローンさんが、この母港に被害を齎し、誰かを傷つけようと本気で考えているのなら、それは悲しいことです。……でも、今まで自分を律してきたローンさん自身が、それを自分に許さないのではないかと思っています」

 

「いくら何でも、それは楽観が過ぎるのでは無いですか? 私のことを美化し過ぎだと思いますよぉ?」

 

 眉を顰めたローンさんは苛立った口調で言い、僕の頬を包む手に力を籠めてきた。それでも僕は抵抗を見せない。死という言葉が脳裏を過る。だが、やはり恐れは無かった。

 

 ここで僕が命乞いをすれば、ローンさんは喜ぶだろうか。それとも、落胆するだろうか。僕は、自分の命が失われるその瞬間を目前に控えてなお、ローンさんの心の動きに注視しようとしていた。

 

 ローンさんは僕を殺して、その刹那的な満足感と高揚を、その精神の中で永遠に出来るのだろう。だが、僕を殺害することによって彼女はこの母港に居られなくなるだろうし、鉄血陣営にも還ることはできなくなるだろう。そうなったとき、漂泊の身となった彼女は先ほど僕に語ったように全てを敵に回して、戦い抜くつもりなのか。

 

 自らの手で僕を亡き者にした、その事実だけを友にして、自らの破滅的な願望を、この世界に遠慮なく振り下ろすために──。

 

 そういった未来の可能性を、僕は瞬きの合間に想像した。僕が死に、ローンさんが母港から外れ、他の陣営が反逆者としてローンさんを追撃する。何の捻りもない陳腐な想像だ。だが、陳腐であるがゆえに、妙な現実性を備えていた。

 

「この場で僕が殺されることで、ローンさんの心に寄り添うことが出来るのなら……。僕は抵抗しませんよ」

 

 ローンさんが、威嚇するように僕に近づけていた顔を僅かに引いた。細められた彼女の眼は、怯んだようでもある。

 

「ローンさんが自分の欲望と幸福を信じ抜いた結果として、この母港のKAN-SENの皆を敵に回したとしても、僕はそれを責めるつもりはありません。……そもそも、そこまでの覚悟を決めたローンさんの行動を、完全に阻むことが出来るひとなど居ないでしょう」

 

 僕は自分が生きることよりも、孤独となったローンさんの姿や、鉄血陣営や、この母港の未来を想う。ローンさんと戦う、エンタープライズさんや赤城さんを想う。あの二人が負けるところを思い浮かべることが出来ない。能天気で楽観に満ちた希望的観測なのかもしれないが、彼女達の存在は僕を冷静にさせてくれる。

 

「しかし、ローンさん一人では、複数の陣営からなるこの母港の戦力には絶対に敵いません。必ず、ローンさんは敗北します」

 

 僕がそこまで喋ったところで、ローンさんの両手が動いた。つつつと僕の頬を滑り落ちて、僕の喉首に絡まって来る。そろそろ黙れと言わんばかりだ。僕を見据えるローンさんの眼も、これ以上、僕に何かを語らせるべきでは無いといった緊張に満ちている。ちゃぷちゃぷと海の表面が揺れる音が響く。

 

「ローンさんが選び取った未来に於いて、……ローンさんは孤独です。それでも、この母港の日常は続いていくでしょう。仮に、この母港が解体されるような事態になったとしても、KAN-SENの皆の日々は続いていきます。僕とローンさんを弾いたまま……。この暗い海と同じように、穏やかで、誰にも止められません」

 

 僕は黙らない。

 

「ローンさんだけが、ひとりぼっちです」

 

 伝えねばならない。

 

「でも……。ローンさんが誰かに討ち果たされる、その最期の時に、僕の記憶がローンさんに寄り添えるなら、その孤独も少しは紛れるのではないかと思います」

 

「だから、私に殺されても良いと? ……どうして私に、そこまで肩入れをするのです?」

 

「余計なお世話でしたか?」

 

 僕の首を絞める姿勢のままで、不可解そうに眉を絞ったローンさんが、僕の内面を探るように訊いてくる。僕はゆっくりと息を吐きだしてから、両手を無抵抗に垂らしたままで笑みを浮かべようと思ったが、途中で失敗した。困ったような顔になってしまったと思う。でも口許にだけは何とか笑みを乗せることができた。

 

「僕にとって、ローンさんが大事なひとだからですよ」

 

「御自分の命よりも、私の方が大事だと?」

 

「えぇ。そうです」

 

「……私と同じぐらい、他の子たちも大事なのでしょう?」

 

「勿論ですよ。皆、僕の大事なひと達です」

 

 平静な口調で応じ続ける僕に、ローンさんが息を一つ吐いた。そして、僕の喉首を掴んでいた手をゆるゆると離してくれた。

 

「指揮官は本当に、御自身に執着をお持ちではないのですね」

 

 これ以上の問答は無意味だと悟ったかのように、ローンさんは何とも言えない、参ったような笑みを過らせている。「どうやら、そのようです」と、他人事のように答えた僕も、似たような表情を浮かべていることだろう。

 

 ローンさんは再び、ガントレットを嵌めた手を伸ばし、僕の頬に触れてくる。その手つきは先ほどのように、僕を破壊するためのものではなく、僕の肌に傷がないかを確かめる為の優しいものだった。

 

「今まで、指揮官の中には私と似たようなものがあると感じていましたが……。それが何なのか、分かった気がします」

 

 眉尻を下げたローンさんの声音には、先ほどのような高揚も興奮は見られなかった。僕の良く知る。優しく落ち着きのある声だった。

 

「自分の命を容易く捨てるような、自身への冷酷さ……。それを抱えて居ながらも、穏やかな日常を大事に想う指揮官の姿は、随分とひずんで見えます。でも、……その“ひずみ”こそが、私が抱いた親近感の正体だったのですねぇ」

 

 ローンさんは何かを確かめるような口振りで、僕の眼の中を再び覗き込んでくる。僕の瞳を通して、ローンさんは今の自分の表情を確かめているふうでもあった。

 

「……指揮官、私、本当は知っているんですよ?」

 

 ローンさんの声が、明確に僕の内部に入り込んでくる。僕が一瞬の戸惑いを見せる間に、彼女が言う。

 

「指揮官はそう遠くないうちに、……この世界から消えてしまうのでしょう?」

 

 彼女の言葉の意味を理解するよりも先に、夜風が僕に纏わりついた。それでいて、僕の存在には無関心であり続けている。雲の詰まった空も、暗い海も、無機質なほどに、僕とは繋がりを持たないままで、ただ存在していることを感じた。

 

 僕の頬の触れているローンさんのガントレットだけが、この世界に僕を繋ぎとめてくれているかのような感覚だった。差し迫った自分の死に対して動揺は抱かなかったのに、僕はローンさんの言葉に明確に狼狽していた。

 

「……どうして、それを?」

 

 彼女の視線から逃れるように俯くと声が揺れた。ローンさんは僕の動揺が鎮まるのを待ってくれているのか、少しの間、黙っていた。僕が自分の爪先を見詰めていると、ローンさんが、僕の頬に触れていた手を動かし、僕の髪を梳くようにした。暗がりの足元で、彼女の影も動くのが分かった。

 

「以前、この母港の鉄血領にセイレーンが襲撃した時、指揮官はオブザーバーと戦闘し、瀕死の重傷を負いましたよね」

 

 僕はローンさんに頷きだけを返した。足元から響くちゃぷちゃぷとした水音がやけに大きく聞こえる。軽い眩暈がして、意識が遠のいていく。その意識を掴み止める思いで、腰に佩いた軍刀の柄を握り締めた。海風に湿った金属は冷たく、その感触に導かれるようにして、頭の中でオブザーバーの声が響いてくる。

 

 あの時のことは、よく覚えている。不気味に微笑むオブザーバーに斬りかかっていった。ビスマルクさんとオイゲンさんを助けなければと思った。あの時の光景は、何度も夢に見る。つい先程も見たところだ。僕に語り掛けてくるオブザーバーの声は、生々しく僕の記憶にこびりついていて、引き剥がせない。鳴りやまない。

 

「重傷を負った指揮官を回収した私に、指揮官は丁寧に礼を伝えに来てくれましたね」

 

 懐かしむように言うローンさんを見上げる。僕を見下ろす彼女の眼差しは、もの悲しく澄んでいた。

 

「私が指揮官を回収するのと同時に、オブザーバーは撤退していきました。その際に、オブザーバーは笑みを湛えながら私にこう言ったんです。“この枝の……、いえ、貴女たちの指揮官は中々に面白いわね。消滅させるには惜しいわ”、と」

 

 ローンさんを見上げたままで、僕は唾を飲み込む。

 

「そして彼女は、楽しげにこう続けました。“自身が消え去る存在であることを伝えられても、恐れも惑いも見せない者は珍しいもの”……」

 

 オブザーバーが語った言葉は間違いなく、僕たちに無関心なこの世界において、明確に僕に向かって意味を持っている。

 

「指揮官がオブザーバーと斬り結んでいる際も、何か、言葉を交わしている様子だったとツェッペリンさんは言っていました。それがどのような内容であるのかは、私には分かりませんが……。きっとそこに、今の指揮官の内面を形作る何かがあったのだと、私は勝手に思っています」

 

 微笑みとも泣き顔ともつかない表情のローンさんは、黙ったまま連続で唾を飲み込んでいる僕の髪を梳いてくれていた。埠頭の設備照明の位置関係により、俯いて見た足元に燻ぶる僕の影が、ローンさんの影と部分的に重なり、溶け合っている。

 

「この事は誰にも口外していません。ビスマルクさんにもです。全く確証を得られない情報ですし、オブザーバーが仕掛けてきた精神的な罠である可能性を疑っていましたから。それに……、何事にも誠実な指揮官が、私達に何も語らないという事実は、私に沈黙を選択させました」

 

「そう……、だったんですね」

 

「えぇ。これは意識しておいて欲しいのですが、ビスマルクさんとオイゲンさんの二人を、命を賭して守った指揮官の存在は、仲間を第一とする鉄血の者達に沈黙を強いるのですよ」

 

 少しだけ声を明るくしたローンさんは笑みを浮かべようとしていたが、険しく眉間を絞ったままで唇を横に開いた表情は、泣き笑いのようだった。

 

「指揮官が語らないということは、それは翻って、指揮官にとって語られたくない、語りたくない内容であると判断したんです。……余計なお世話でしたでしょうか?」

 

「いえ、……そんなことはありませんよ。有難うござまいます。あの時は、襲撃された母港の機能回復こそが最優先でしたから。僕の消滅がどうだなどと、不確かな情報で皆さんを振り回すべきでは無かった筈です」

 

 基地機能を取り戻した後も、海の上でのセイレーンたちの活動は活発であったし、激しい戦いが続いた。その日々の中で、多くのKAN-SENが陣営を超えた仲間意識を共有するようになっていった。彼女達の心の変化と交流の深化こそが、今に続く日常を築くための、最初の一歩だったように思う。

 

 意識を取り戻した僕も、日々の業務に忙殺されていた。だが、この母港に流れる時間が生まれ変わっていく様子を間近で眺められる幸福は、何物にも代えがたかった。僕の存在を必要としない、慌ただしくも美しい時間が流れ始めているのを感じていた。それを濁らせたくなかった。

 

 だから僕は、自身の消滅というこの深刻な問題を、新しく始まる日常の中に埋没させてしまうことを選んだのだ。事実、もう僕が居なくとも、基地の機能は死なない。

 

 主体性に溢れた各陣営のKAN-SENの皆が、それぞれにリーダーシップを発揮し、協力することで、運営も戦果も変わらない筈だ。僕が消滅しても、彼女達の日常が保証されている。闇夜の濃淡の中に、僕が絞り出した吐息が解けていく。以前、加賀さんや、エンタープライズさんが言っていた言葉を思い出す。

 

 重要な話は、それを打ち明けるにも、受け取るにも、タイミングが必要であると。そして、そのタイミングとは、僕が話したいときに、話すべき相手にすべきだと。それが、今なのだと思った。

 

「……オブザーバーが言っていました」

 

 俯いたままで僕が口を開くと、僕の髪を梳いていたローンさんの手が止まった。

 

 彼女の手は、これからどうするかを迷うように宙を撫でたあとで、また僕の頬に触れ、そのまま首筋に滑り降りてから、肩の上で止まった。僕という存在を確かめ、掴み止めるかのようだった。ローンさんは黙ったままだ。僕は顔を上げることが出来なかった。

 

「僕のような存在は、彼女達の間で“プレイヤー”……、祈る者という意味で、揶揄されているようです」

 

 地面を見詰めながら、僕は下手糞な苦笑を浮かべるのがやっとだった。

 

「……消滅を前にして、挙って何かに祈り縋る様になることから、そう呼ばれているそうです。悪趣味な呼び方だと思いませんか」

 

 震えや強張りを、僕は自分の声から必死に引き剥がしていく。

 

「“枝”という表現から察するに、やはり彼女達は、この世界とは違う何処かを観測しているのかもしれません。荒唐無稽な話かもしれませんが、キューブに纏わる高い技術を持つ彼女たちのことですから、可能性は捨てきれません」

 

 僕はそこまで言ってから、失笑とも溜息ともつかない、微かな息を吐きだした。

 

「……僕たちの居るこの母港も彼女達から見れば、無数に重なった枝葉の一つに過ぎないのでしょうね」

 

 語り終わると、不穏な沈黙が僕たちを取り囲んでくる。参りましたね、とでも言うように、僕は少しだけ肩を竦めて見せた。だがそれは、空虚な沈黙を取り繕うための空元気でしかなかった。

 

「その消滅から、免れる方法は……」

 

 瞳を揺らすローンさんの声が、僅かに震えていた。僕は彼女から目を逸らし、また自分の足元を見詰めた。

 

「それに関しても、オブザーバーは言っていましたね。“貴方の消滅は、私達の力の及ぶ現象ではない”と。恐らく、彼女達を討つことで解決できるようなものではなさそうです」

 

 そこには変わらず、やはり僕の影が黒々と燻ぶっている。

 

「……ビスマルクさんからセイレーンに関する資料や文献を幾つも用意して貰ったのですが、どこにも、それらしい内容は在りませんでした」

 

 以前、ブレマートンさんに何か協力できることが無いかと聞いて貰った時は、嬉しくも在ったが、それ以上に、自分が何について調べているのかを悟られる動揺の方が大きかった。他にも、早朝にベルファストさんやシリアスさんが書斎に訪れた際にも、僕は内心で大いに焦りながらも、何事も無かったことに安堵していた。

 

「この母港を襲撃したのは、彼女達にとっての何らかの調整作業なのかは分かりませんが、僕を消すつもりだったのは間違いないでしょう。“剪定に来た”と、彼女自身が言っていましたから。……今も僕を生かしているのは単なる気紛れか、それとも、僕が何かに縋るような様を見物したいのかは分かりませんが」

 

 悪趣味な知人を揶揄するような自分の口調に、僕は少し戸惑う。僕はオブザーバーに対して、憎悪や敵意以外の何らかの感情を抱いているのだろうか。分からない。僕は右の掌で顔を覆い、緩く頭を振った。

 

「……オブザーバーは、僕が消滅する時になれば、また逢いに来ると言っていました」

 

 まるで死神のように、決定事項を語るような口振りの彼女を思い出す。

 

 自身の消滅が、どのような現象の下に訪れるのかは全く予想できない。ただ、その時を待つしかない。この運命は、誰とも取り換えることはできない。

 

 僕は一体、何者なのか。

 消滅を運命づけられた僕には、誰かを愛し、愛される資格があるのか。

 その問いかけに答えてくれる者は誰も居ない。

 

 そもそも、そんな問いは発すべきではないとも思えた。

 

 ただ、ローンさんと過ごすこの今の時間が、何よりも貴重であることを改めて思う。僕を見下ろし、僕の肩を掴んだままのローンさんは、言葉を探すように瞳を揺らしている。つい先ほどまで、ローンさんは自身の全存在を曝け出し、僕を圧倒していた筈だった。

 

 だが今は、僕の存在がローンさんを組み伏せ、無力感の中にゆっくりと沈めていこうとしているような、そんな気がしていた。足元に澱んだ僕の影もまた、ローンさんの影の上に覆いかぶさり、浸食しているようにも見えた。

 

 先ほどまでのローンさんの真剣さが、僕の消滅と無関係である筈がないと、今更ながらに気づく。

 

「……ローンさんは、僕を“生かそう”としてくれていたんですね」

 

 僕は、左の肩を掴んでいるローンさんの手に頬を寄せ、両手で触れる。僕の体温を受け取り続けていたガントレットの装甲は、そこまで冷たくは無かった。

 

 ローンさんは自身の暴力や残忍さを理解している。同時に、それを誰かに理解して貰おうという姿勢は見せない。自身の愛する信条や理念や哲学を他者に押し付けることもない。

 

 索漠とした孤独にも、一切の恐れを見せない。そんな強靭な彼女が、僕を愛していると言ってくれた。家族愛か兄弟愛かは、僕には判然としない。だが、愛する誰かを失うことが分かって──、それが、絶対に逃れられない今生の別れならば猶更、全身全霊を掛けて抵抗してくれたのだと、分かった。

 

「ローンさんは、やっぱり優しいひとですよ」

 

 彼女は僕の消滅という事態を知りながらも、それを誰にも打ち明けず、たった一人で抱えてくれていたのだ。

 

 ローンさんが僕を殺害する意思表示とはつまり、消滅するしかない僕の存在を、何とか自分の中でだけでも永遠にしたいという、歪んでいながらも、何処までも切実な彼女の願いに違いないのではないか。

 

 僕を殺害したローンさんは、自身を縛るあらゆる帰属から解き放たれる。それは、ローンさんが大事にしていたもの全てを、僕の為に投げ出す行為に等しい。ローンさんは、その覚悟を完了させていた。

 

 だからこそ、僕を埠頭までつけてきたのだ。彼女はひとりぼっちになっても、自分が抱いていた破滅的な願望に己を全て預けることによって、僕を“生かそう”としてくれたのだ。

 

 それは狂気的な試みかもしれないが、自身の命を賭してまで籠められた彼女の真剣な愛情は、混じりけのない真実を宿しているのだと思えた。

 

 そして、僕の、僕自身への執着心の無さが、彼女は踏みとどまらせた。それが正しいのか、間違っているのかは分からない。もしも僕が、泣きわめき、死にたくない、死にたくない、殺さないでと懇願したら、どうなっていたのだろう。

 

 やはりローンさんは、僕の生きることへの執着を永遠にすべく、僕の頭を粉々に握り潰していたのだろうか――。

 

「……こんな方法しか、思いつかなかっただけですよ」

 

 僕の肩を掴むローンさんの手が、微かに震えていることに気付く。彼女の唇も震え、そこから零れるようにして紡がれた声は、笑みを取り繕おうとしながらも潤み、涙を兆しながら掠れていた。

 

「余計なものを背負わせてしまって、本当に申し訳ありません」

 

 僕の謝罪の言葉に、ローンさんは一度、いつもと変わらない柔和な笑みを作った。だが、その笑顔はいかにも無理矢理にといった感じで、顔全体を強張らせていた。

 

「……私の心の隙間を埋めたのは、“嫉妬”という憎悪です。でも、その“嫉妬”は、指揮官が居なければ起こり得ない感情です。不和と緊張に満ちた日常を望む残忍な私を、私は否定しません。悪いとも思いません。誰かに理解されようとも思いません。今も、他の子たちを強く、強く、強く、憎んでいますよ? でも……」

 

 血を吐きだすように語る彼女の目尻から、透明な雫が零れた。抱えて居た荷物を、ようやく下ろすことを許されたように。彼女の笑みが崩れる。

 

 彼女は左手で僕の肩を掴みながら、空いていた右手で僕の胸倉を掴み上げた。その生々しい暴力の気配に、彼女の本質と余裕の無さと、僕に対する真摯な想いを感じた。

 

「指揮官が消えてしまう喪失の感覚は、……この憎悪と同じくらい大きく、現実的で、耐えがたいのです。私は、こんな感情を知りませんでした。これこそが、……恐怖でしょうか?」

 

 声を震わせるローンさんは、涙を零しながらも、震える口許に力を籠め、笑みを作ろうとしている。一方で彼女の鈍色の眼は鋭く細められて、僕を睨みつけていた。今の彼女は、自身の感情をどういった表情に預ければ良いのか分からず、激情に任せた混乱のままに言葉を紡いでいる様子だった。

 

「ローンさんの感情を、僕が定義することはできません。でも、その憎悪も、恐怖なのかもしれない感情も……、戦闘や破壊を望むローンさんの哲学と一緒に、大事にして欲しいと思います」

 

 僕は彼女の視線を受け止めながら、緩く首を振るしかなかった。誰かの涙を、こんなに近くで見たのは初めてだった。

 

 ローンさんは歯を食い縛り、渾身の憎悪を籠めて僕を睨みつけてくる。「こんな感情を私に植え付けるなんて……」 その憎悪によって、自身のうちに膨れ上がってきている、恐怖らしき感情を払おうとしているのが分かった。

 

「指揮官……、赦せない……」

 

 戦場では思うままに残虐な破壊を振り撒き、殺戮を撒き散らし、KAN-SENとしての価値を証明し続けた彼女にとって、“恐怖”などという感情は不要で、唾棄すべきものであり、全くの無縁だったに違いない。

 

 彼女は、自身の持つ憎悪で抵抗している。必死だ。彼女が泣いている。「許せない……、赦せないっ……!」 と、自分に言い聞かせるように繰り返している。ローンさんは、僕を睨みながらも、ぶるぶると身体を震わせていた。

 

「赦せない……! 赦せな……、ぃ、ぅ、ぐっ、ぐ、ぅ……うっ……!」

 

 彼女の憎しみの声は次第に、彼女自身の呼吸の自由を奪うほどの嗚咽に覆われて、形を成さなくなった。今の彼女の心を埋めているのは、憎悪ではなく悲哀なのではないかと、ぼんやりと思った。彼女の眼から零れた涙が頬を伝い、ボロボロと地面に落ちていく。その涙を、僕の影が飲み込んでいく。

 

 彼女の震える体が折れ曲がり、僕の前に膝をついた。まるで何かに圧し潰されるかのように、ローンさんは僕の胸に額を預けるようにして頽おれていった。ローンさんの嗚咽は時折、何らかの言葉らしい輪郭を持つ。それはやはり「赦さない」というふうにも聞こえるし、「消えないで」とも聞こえた。

 

 僕は自分の無力さを想いながら、ローンさんの泣き崩れる姿に、為す術もなく打ちのめされていた。

 

 “誓いの指輪”という言葉が、不意に頭にチラついた。

  馬鹿馬鹿しい。こんな僕が一体、誰に何を誓えるのだろう。

 

「僕が消えることで多少は形を変えるかもしれませんが、この母港の日常は続いていきます。僕は、そこにローンさんも居て欲しいです。ひとりぼっちは、きっと寂しいですよ」

 

 立ち尽くす僕は、ローンさんを抱きしめることも出来なかった。そんな資格などない。ローンさんの肩の手を添えるのがやっとの僕は、やはり、無力の象徴だった。暫くの間、何かに抵抗するかのようなローンさんの必死な鳴き声だけが、夜の埠頭に物悲しく響いていた。

 

 

 

 






最後まで読んで下さり、ありがとうございます!

キャラクターの解釈は、CWなどのストーリーも参考にさせて頂いています。
どうしても違和感を与えてしまう解釈であれば、申し訳ありません……。
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