少年指揮官の日常 作:トレモ勢
自我が芽生えてから覚えている範囲で、僕は泣いたことがない。
僕の記憶の始まりは軍属の孤児院だった。僕は捨て子だったと聞いている。両親や故郷と言ったものを持たない僕は、一体どこから来たのか。
――“プレイヤー”と呼ばれる自分は何者なのか。
それを探るのも、僕はもう倦んできていた。
僕は、得体の知れない自分自身の存在に疲れている。
それを改めて意識すると溜息が漏れた。
真夜中の書斎の空気は冷たく澱んでいて、僕が吐き出した溜息と混ざり合い、微細に振動した。
椅子に深く腰掛けた僕は前かがみになって、机に左肘をつき、左手で額を覆うようにして頭の重さを預ける。右手でセイレーンに関する資料を捲っていく。ビスマルクさんが新たに手に入れてくれたものだ。その内容に視線を走らせていくが、どれだけ探しても僕の存在に纏わる何かや、僕の消滅に関するような内容は見つけられない。
ゆっくりと瞬きをしてから少し目線を上げ、書斎を見回す。そろそろ片付けないといけないなと、苦笑の搾りかすのようなものが漏れた。
今の書斎は酷い有様だ。書斎の机や作業台はおろか床にまで、付箋がいくつも張られた分厚い書籍が何冊も読みかけで放置され、いたるところで積み上がり、その隙間を埋めるようにして資料の束が捲れたままで散乱している。
どれもセイレーン関連のもので、先ほどまで僕が手をつけていたものだ。
今まで読み込んでいたものを含め、改めて全てに目を通し直してみたものの、やはり何らかの成果が得られることは無かった。
膨大な量の資料の中にも、僕の存在を繋ぐような希望の気配が全くないというには、ある意味で清々しかった。希望が無いのなら、そもそも絶望のしようがない。
僕はもう一度だけ息を吐きだしてから開いていた資料を閉じ、背凭れに体重を預けた。俯きがちに瞑目する。そのまま、静寂の中に耳を澄ますような感覚で、ゆっくりと呼吸を繰り返した。
自分の存在が消えてなくなるということに関しては、オブザーバーと戦闘を行い、重傷を負って、目が覚めた時から意識していた。
何かのメロディが頭の中で延々と繰り返される時のように、何をしていてもオブザーバーの言葉が思考の裏でチラつき、消滅の恐怖や不安は僕に付き纏っていた。普段は全く表には出さなかったが、最初のころは夜に一人になると、のたうち回るほどにこの世界を本気で呪った。
消滅から免れるべく自分なりに足掻いてみたが、やはり具体的な解決策は見えてこない。暗い部屋に閉じ込められたかのような気分だった。どれだけ必死に資料や文献を探っても、その部屋から脱出するための鍵は見つけられず、ただ窒息するのを待つだけだった。
恐ろしかった。怖くて怖くて、たまらなかった。
平常心を失う寸前の、綱渡りのような日々が続いた。
誰か助けて。誰か。誰か。誰か──。
僕は毎日、自室で一人蹲り、頭を抱えて、心の内部でそう叫んでいた。
それでも涙は出なかった。
泣くことができない自分が、酷く空虚な人間に思えた。
そのうち、僕の心に変化が兆し始める。
これ以上はないという程に、精神的に疲弊していたからだろうと思う。
誰か。助けて。誰か。誰か──。
……でも、誰かって、誰だろう?
ある時、そう考えた。
この世界が、どこまでも僕に無関心であることを意識し始めたのも、その頃からだった。恐怖や不安というものが、それを新鮮なままで維持するのに、ある程度の集中力や精神力が必要であるらしいことにも気づいた。
自身の消滅というものに対し、鬱屈とした忌避感を燃え上がらせるエネルギーも、僕の中に残り少なくなっていたのだろう。
ある種のそういった倦怠の中で、僕は自分の消滅を受け容れようと思った。
それは、どうせ何をしても無意味であろうという諦観からではなく、KAN-SENの皆と過ごす賑やかな日々が、僕を明確に救ってくれていたからだ。僕には全くの無関心であるこの世界においても、彼女達と過ごす時間の中には、間違いなく僕が存在していた。僕の役割があり、僕が在るべき場所が在った。
暗い自室で一人、のたうち、呻き、この世界を呪っていた時間に代わり、その日一日にあったことを噛み締めるようになった。過ぎていく日々の時間を目で追いながら、その光景を心に焼き付けていく作業に没頭した。それは幸福な時間だった。
秘書艦であるKAN-SENとの会話や、彼女達の表情や、一緒に食べたお菓子や、コーヒー、紅茶の味、僕に向けてくれる真摯な優しさや思いやり、或いは、彼女達の間にある信頼や友情、過去の因縁を拭いながら新たに友好的な関係を築こうとする、力強い彼女達の精神の息遣いを具に想い、自分の記憶にしっかりと縫い留めていった。
陣営を超えた彼女達の貴い正義感や慈しみは、僕が自室や書斎で一人になって思い出すとき、より大きな波紋を僕の内部に広げた。そういった彼女達の暖かい記憶が堆積し、消滅に対する僕の恐怖心は希釈されていった。
もちろん、全く何も感じないということは無かったが、以前と比べれば遥かに落ち着いた。今はもう、一日一日を心に彫り込む思いで、指揮官としての自分の役割をこなし、粛々と日常を過ごすことができている。
意識して呼吸をしてみる。
書斎の空気が静寂を保ったままで、また微かに震えた。
身体を動かすのが酷く億劫だった。
僕はぼんやりとしたままで、僕は机の上に広げていた資料を揃えて置いた。そろそろ書斎を片付けようと思ったが、まぁ、朝までに片付ければいいだろうと後回しにした。
此処を使うのは僕だけである。散らかっていても誰にも迷惑を掛けないし、KAN-SENの誰かが訪れて来ても、入室して貰うのではなく僕が退室して対応すればいいのだけのことだ。
そこまで考えてから、僕は何となく、引き出しの中からゲーム機を取り出した。
先日、愛宕さんや高雄さんが秘書艦であった時に、明石さんに届けて貰ったものだ。ゲーム機の電源を入れる。立ち上がってくるゲームは、“●●の森”だ。僕のアバターが画面の中に現れ、ゲーム内の牧歌的な島の中を歩き回る。
僕のアバターは、僕とは無関係にゲーム内の暮らしを楽しんでいる。
僕の島は、この母港を模してある。ユニオン、重桜、鉄血、ロイヤルなど、各陣営領の土地を広げて寮舎を模した建物を作り、埠頭や講堂、演習場、広場などを拵えてある。
ユニオンの広大な領地と、それに比例した巨大な寮舎や、お茶会などが開かれるロイヤル領内の美しい庭園、鉄血寮内の豪奢で重厚なホール、そして、重桜領内にある絢爛な桜並木など、実際の母港の施設や光景を、可能な範囲で再現した。
ただ、KAN-SENの誰も存在しない。無人の母港である。
僕だけが存在しているこのデータは、愛宕さんや高雄さんと共有しているものとは別のものだ。想い出の詰まったこの母港の姿を何処かに映し、それを、僕が消滅する際に一緒に持って行けないかと思い、このデータを作った。
ゲーム内の母港を、僕のアバターは暢気にテクテクと歩いている。ゲーム内の時間も夜だ。その暗がりの中を目的も無くアバターを歩かせた僕は、ふと思い立って、重桜領の方角へと向かわせた。
しばらく母港内の敷地を歩いていくと、見事な桜並木が見えてくる。エフェクトとしての桜吹雪が画面を走った。細かい桜の花弁がヒラヒラと優雅に待っている。ゲームの設定により、常に桜が咲いているのだ。
ゲーム内の月明かりと、その仄かな光に照らされた満開の桜は、本物には遠く及ばずとも美しく、僕の記憶を揺り動かした。毎年開かれる重桜での花見の光景が胸を過る。
重桜では、人の一生であったり生き様であったり、その境涯などを花に喩えることが多いと、三笠さんから聞いたのを思い出す。確かあれも、花見の席だった筈だ。喜ばしい結果を表現する際に用いられることが多いという話だった。
その時のことを、花見の騒がしさと一緒にぼんやりと思い起こしながら、立ち止まった僕のアバターを見詰める。KAN-SENの皆が思い思いに楽しむ、あの時のような賑やかで華やいだ空気は、当然だがゲームの内側にはない。
僕一人だからだ。
僕は、アバターをその桜の前に立たせた。
アバターは無機質な表情で満開の桜を見上げている。その僕の分身を眺めながら、果たして僕の消滅とは、どのように訪れるのだろうと思った。
この呼吸と拍動の合間を縫うようにして、ふっと、僕は消え去るのだろうか。その時の光景を想像する。このゲーム内のアバターが突然、僕の意思とは関係なく消失する場面を想う。
このアバターが居た場所には、何の後腐れもなく時間が過ぎて、桜の花弁が舞い散り続けるのだろう。ゲーム内の“日常”は僕のアバターを置いて、そのまま進んでいくだけだ。
そこまで考えて、画面のアバターから視線を外した。書斎は静まり返っていて、散らかったままで置かれた書籍や資料だけが無表情に並んでいる。誰も僕を感知していないことを思う。
僕は、ゲーム機を持つ自分の手をじっと見る。今この場で、僕自身が消滅することを想像しようとしたところで、ゲーム画面に変化が起こった。
「……えっ」
思わず声が漏れた。さっきまで僕のアバターだけしか居なかった筈の画面に、違うアバターが存在している。
そのアバターは、桜の前で立ち尽くす僕のアバターの隣に立ち、奇妙なダンスを踊ったり、怒った顔文字を出したり、悲しそうに俯いたり、お辞儀のために頭を下げたりと、忙しくアクションを取っている。いったい何事かと思う。
新たに登場したアバターは白い着物を着ていて、ボリュームのある尻尾が特徴的だった。狐のお面らしきもの頭の横に乗せている。もう、それが誰を表しているのかは、すぐに分かった。
加賀さんだ。だが、どうやってこの島に上陸したのだろう……。誰にも許可を出していない筈だ。驚きと不審の半々を籠めた眼差しで、動き回る加賀さんのアバターを眺めていると、メッセージが表示された。
『いつまでげーむをしている』
全部ひらがなのメッセージはたどたどしくも温度が籠っていて、この画面の向こうで加賀さんが必死にコントローラーを操作する、ちょっと微笑ましい姿が浮かんだ。
僕は椅子に座ったままで身体を捻り、背後にある窓へと視線を向けた。ちょうど、重桜寮がある方向である。僕は少し笑みを零しながら、メッセージを返す。
『どうやってこの島に? 誰にも許可を出していない筈ですが?』
僕のアバターが、加賀さんのアバターに向き直る。加賀さんのアバターは、僕に見せつけるかのようにして、所持していた食料をムシャムシャ食べ始めた。メッセージを返すのに慌てて、操作ミスでもしたのだろうか。
『あかしにかいぞうしてもらって、おまえのげーむでーたにもぐりこんでいるんだ』
とんでもないことを言いながら、加賀さんのアバターは喜びを表すように可愛らしく両手をあげ、キラキラとしたオーラを放ち始めた。表示されたメッセージとアバターの愛くるしい動作の落差が、妙な物騒さを醸し出している。明石さんもいったい何をやっているのかと思う。
『こんな平和なゲームでハッキング紛いの侵入をしてくるなんて、勘弁してくださいよ』
僕はメッセージを送りつつ、僕のアバターに驚いた動きをさせる。
『おどろいただろう』
鷹揚に頷いた加賀さんのアバターは、またムシャムシャと何かを食べながら喋りだす。
『何を得意げに言っているんですか』
僕はメッセージをすぐに返す。少しの時間を置いてから、加賀さんのアバターから返事が返って来た。
『おまえがげーむばかりしているのではとしんぱいになってな。だが、せいかいだった。こんなじかんまでげーむをしているのはかんしんしないぞ』
加賀さんのアバターは喋りながら、泣きだし、また怒り、今度は虫取り網を装備し、僕のアバター目掛けてしつこく振り回してくる。なんて忙しい操作ミスなのだろう。いや、それとも意図的なのか。加賀さんの真意は不明だが、確かに、こんな時間にゲームをしているのはよろしくないのも事実ではあった。
『しかしおまえ、こんなものをげーむのなかにつくっていたんだな』
『ちょっとずつ作っていたんですよ』
『ひみつのうちにつくって、しょうたいしたやつをおどろかせようとしたのか?』
『いえ、公開するつもりはありませんでした』
僕がメッセージを送ったところで、加賀さんのアバターが動きを止めた。そして、じっと僕のアバターを見詰める。どちらも喋らない時間が少しだけ続いてから、加賀さんのアバターが、軽快に踊り始めた。
『どうしてだ?』
加賀さんのアバターの能天気な動きと、その問いに籠められているだろう微かな緊張が上手く繋がらない。ちぐはぐだ。
『特に理由はありませんよ』
『そうか』
加賀さんのアバターは、また少し時間を掛けてから答えた。そして今度は、アバター達の傍に立つ桜の木へと体の向きを変える。桜吹雪のエフェクトの下で佇む加賀さんのアバターが、まるで加賀さん本人のような貫禄を備え始めているのを感じた。デフォルメされていながらも、黙り込むと妙な迫力がある。
『加賀さんも、まだ寝ないんですか』
無言を許さないアバターの存在感に、僕もアバターにそう喋らせた。そして加賀さんのアバターと並ぶように立って、桜の木を眺めるようにして立たせる。また少しだけ間があって、加賀さんのアバターが喋った。
『まぁな』
ほぼ同時だった。窓を閉めていた筈の書斎の中に風が吹き込んできて、広げたままで置いていた書籍や資料のページをパラパラと捲った。
えっ、と思い振り返ると、加賀さんが窓から書斎に入ってこようとしているところだった。ぎょっとして僕が身体を強張らせていると、窓枠からするりと足を下ろして着地した加賀さんが、唇の端を歪めて見せる。
「遊びに来てやったぞ」
窓枠の向こうの闇を背負った加賀さんは嬉しそうに言いながら、窓枠に引っかかりかけた尻尾をモフモフと揺すった。彼女は右手の指にゴーグルらしきものを二つ吊るすようにして持っている。
「遊びに来たって……、どうしたんですか? こんな夜更けに」数秒の間、僕は言葉を失ってから笑ってしまった。「しかも、窓からなんて」
「重桜の寮からだと、この窓から出入りする方が近道なんだ」
飄々と答える加賀さんは窓を閉め、僕に向き直る。それから書斎の散らかり具合を見回しながら、「おいおい」と眉間に皺を刻んだ。
「お前、執務室や自室は綺麗に使う癖に、この書斎はどういう状況なんだ?」
「……ついさっきまで、色々と引っ張り出していたところなんです」
「そうなのか?」
加賀さんは首を伸ばすようにして、開かれている書籍や資料の中身を覗こうとしていた。セイレーンのことを調べているということについて特に負い目は無いものの、加賀さんに探られるような眼差しで今の書斎を眺められるのは居心地が悪かった。
「まるで野戦病院のようだな」
ぼそっと言う加賀さんに、僕は「どういうことですか?」と苦笑を返す。
「いや……、散らかっているというよりも、機能性を感じるんだ。何らかの必要性があって、本や資料がそこに在るように見える」
加賀さんの声は真面目なものだった。もしかしたら加賀さんは、この書斎に吹き溜まっていた何かを察知しているのかもしれない。
「……そんな風に見えますか?」
僕は加賀さんの方を見ないままで曖昧に言いながら、椅子から立ち上がった。妙に落ち着かなくなって、書籍や資料を片付けようしたのだが、そこで加賀さんに肩を掴まれる。
「おいおい、せっかく遊びに来てやった私をほったらかして、部屋の片づけか?」
僕が肩越しに振り返ると、加賀さんは悪戯に誘うような不敵な笑みを浮かべ、僕を見下ろしていた。
「片付けは後にして、これを付けろ」
ほとんど命令口調で言う加賀さんは、手に持っていたゴーグル型の装置をずいっと僕に差し出してくる。僕は受け取ったそれを手の中に眺めてから、加賀さんを窺った。
「これって……」
「そうだ。明石から貸し出して貰ったVRのゴーグルだ」
にいっと唇の端を持ち上げた加賀さんは、「遊びに来たと言っただろう?」と言いながら、自分もゴーグルを装着し、額の部分で止めた。ゴーグルを鉢巻のようにした状態の加賀さんは僕の肩を両手で掴んで、椅子に座らせようとしてくる。こうなったらもう抵抗しても無駄だ。
「さっきまではメッセージで、“いつまでゲームをしているんだ”って言ってたのに」
僕は横目で加賀さんを見上げると、彼女はいつものクールな笑みを作る。そして懐から、僕が持つものと同じゲーム機を取り出した。
「あぁ。言ったな。だが、“そろそろやめろ”とは言っていない筈だ」
「まぁ、そうですけど」
僕は軽く肩をすくめてから、観念してゴーグルを装着する。そう言えば、このゴーグルを使うのは初めての事だった。
ゴーグルの内部から見える視界は真っ暗で、これから何が起こるのだろうと思うと、少しの緊張と共に、ワクワクとした気持ちが湧いてきた。僕は、このゴーグルの内部に広がる暗がりが、夜の海が湛えた茫洋としたものとは全く異なっていることを意識していた。心の動きが重く沈むのではなく、逆に弾んでくる。
「さて、準備はいいな。機能を立ち上げるぞ」
椅子に座る僕のすぐ近くで、加賀さんもゴーグルを装着する気配があった。
数秒の間があってから、ゴーグルが小さく駆動音を鳴らし始める。低い振動音にも似ていた。その微かな揺らぎに呼応するようにして、僕の目の前の暗がりから、数枚の桜の花弁がひらりひらりと舞い来て、僕を通り過ぎて行った。
それが映像だと分かっていながらも、その花びらを目で追うようにして僕が振り返ると、書斎とは全く違う景色が広がっていた。
此処は。夜の、母港だ。
重桜領内にある、桜並木の一画に違いなかった。首を巡らせて周りを見る。舗装された足元の地面や、確認できる建物の並び方も、やはりこの光景は母港のものだ。僕自身の肉体は書斎にあるのに、僕の視覚は全くの別世界を覗いている。自分の体の感覚から、視覚だけが切り離されたかのような錯覚を覚えた。
周りの建物には、そのどの窓にも明かりが点いていない。静まり返っている。まるで母港の土地そのものが眠っているかのようだ。
暗闇の静謐に沈んでいる僕たちの周囲を、月明かりだけが優しく照らしていた。ただ、この風景が虚像であることを示すように、海からの風の気配も、潮の匂いも、夜気の感触も存在していない。
これが映像であることを再認識するのに、少し時間が掛かった。
とんでもないクオリティに僕は圧倒される。
以前に明石さんが用意していたゴーグルは、映像特化型だとか言っていたのを思い出す。明石さんの職人魂と技術力は凄いなぁと純粋に感動していると、背後から僕を包み込むようにして、桜吹雪が吹いてきた。振り返って、また僕は言葉を失う。
月明かりを淡く塗された満開の桜の木々が、宵闇の中から浮かび上がってくるかのように聳え、僕を見下ろしていた。それは間違いなく、重桜領内でしか見ることができない桜並木の光景だった。
夜桜から舞い散ってくる花弁は、ただ安らかに僕に降り注いでいる。圧倒的な静けさの中に一体化した桜吹雪を前に、僕は自分がゴーグルをしていることすら忘れる。
「仮想の眺めとは言え、なかなかのものだな」
茫然としていた僕の隣で加賀さんの声がする。穏やかな声だった。彼女は腕を組むようにして顎に触れながら、ゴーグルを装着した顔を桜の木々へと向けていた。散ってくる桜の花弁は僕と加賀さんをすり抜けている。こうして二人で並んでいる状況に既視感を覚え、その正体にもすぐに気づいた。
「これってもしかして、僕のゲームデータに入り込んでいるんですか?」
僕が訊きながら、先ほどまで僕が操作していたゲームの画面を思い出す。“●●の森”で僕が作った無人の母港で、僕と加賀さんのアバターも、重桜領内の桜並木の前に並んでいた筈だ。加賀さんは身体を桜の方に向けたままで首だけを動かし、見下ろしてきた。
「あぁ、そうだ。いい気分転換になるだろう?」
恩着せがましい声で言う彼女の口元には、薄く笑みが浮かんでいる。
「私のデータ内の島に誘うつもりだったんだが、侵入したお前の島の出来が良くてな。こっちにしたんだ」
「……そういえば、加賀さんもやっていたんですね。“●●の森”」
「まぁな」と短く答えた加賀さんは、桜の木へと視線を戻した。
「お前が始めたと聞いて重桜では……いや、他陣営でもこのゲームは流行の兆しを見せているな」
「そ、そうなんですか?」
「あぁ。そのうち、お前を自分の島に招待したがるKAN-SEN達が次々と現れるぞ」
くっくっくっと低く喉を鳴らした加賀さんは、面白がる口調で僕を脅すようなことを言う。その遠慮の無さが今は心地良かった。
「招待して貰えるのは有難いことです。そうなったら順番にお邪魔させていただきますよ」
「そうか。忙しくなるな」
茶化すように言う加賀さんだったが、そこから言葉が続かなかった。慎重に言葉を選びなおすようにして数秒だけ口を噤んでから、加賀さんは緩く息を吐いた。ひらりひらりと舞い落ちてくる桜の花弁は、相変わらず無音のままで月明かりに照らされている。
「……“この母港”には、誰も招待しないのか」
その問いかけが、先ほどまでアバター同士での会話を辿り直すものだとはすぐに分かった。
「そう、ですね。……このデータのことは、誰にも秘密にしておくつもりでした」
「何故だ?」
加賀さんは僕を逃すまいとするように肩に手を回してくる。
いつもは自然と身を寄せて肩を抱いてくるのに、今は少し強張った手つきだった。それが緊張によるものか、何らかの躊躇によるものなのかは、僕には分からない。ただ、僕が適当なことを言って誤魔化そうとしても、今の加賀さんが納得して引き下がるとも思えなかった。
桜の木々を見上げたままの加賀さんが、細い溜息を漏らした。
「お前、少し様子がおかしいぞ」
「……そうですか?」
「あぁ。今までもお前の態度は、全く子供らしくない従容としたものだったが……、今はそれに輪を掛けて恬淡としている。まるで死期を悟ったかのようにな」
桜の花弁が、ゆらゆらと僕の視界に霞をかけていく。
「最近のお前は、何かを見納めるような顔で私達を見ている。……自分で気付いてないだろう?」
僕の肩に手を回した加賀さんの声もまた、少し掠れて聞こえた。
「前に、お前の苦悩や抱えているものを無理に訊きだすつもりはないとは言ったが、気が変わった。お前のような奴が黙って覚悟を決めた時が一番怖いんだ」
「……僕の苦悩は僕のものだと、そう言ってくれたのは加賀さんじゃないですか」
僕は反論のつもりでは無く、軽口を言うつもりだった。だが、僕の声は自分で思っているよりも尖っていた。そんなつもりはないのに、加賀さんを責めるかのような鋭さが滲んだ。
一瞬、加賀さんが怯むような気配が、僕の肩を抱いた彼女の手の強張りから伝わって来た。だが、加賀さんはすぐに強く肩を抱きなおしてくる。
「そうだな。確かにそうだ。だが、お前を想う自由は私にもある」
大事なものを抱えなおすかのような、慎重な力の籠め具合だった。強張りきった加賀さんの声が伝染したかのように、加賀さんの尻尾も動きを止めているのが分かる。加賀さんは僕を見ようとしない。僕たちの遣り取りを他人事として見下ろす桜を、じっと見上げている。
「日が昇れば、もう何も言わん。追及もしない。今だけだ。……今だけ、お前に鬱陶しく訊かせてくれ」
僕は、加賀さんのこんな縋るような声音を聞いたのは初めてだった。
「お前は、何を隠している?」
僕は黙り込んでしまった。
即答できないこの沈黙こそが、僕が何かを抱えていることの証明だった。以前も、こんな時があったように思う。確かあれは、埠頭で大鳳さんと話した時だった。あの時の僕は、悩みごとがあるかと問われても、悩みなどないと即答できた。
だが、今はできかった。大鳳さんの時のように、瞬時に自分を取り繕いきれない。この精神作用はやはり、僕が加賀さんに対して気を許し、甘えたいと思っているからなのだろうか。自分では判然としない。何か答えなければと思いつつ、僕も加賀さんに倣い、暫くのあいだ桜の木々を見上げていた。
1分か2分ほど黙っていると、「もう疲れた」と思った。
自然と口が開いて、言葉が出ていた。
「オブザーバーが言っていたのですが……、僕は消滅するそうです」
僕は桜を見上げたままで言う。加賀さんの方は見なかったが、息を詰まらせて絶句している気配がありありと伝わって来た。桜の花弁が僕たちを通過していく。
「な、に……?」
ようやく加賀さんが口を開いた。動揺を鎮めきれていないのは明白だった。僕は桜の木々から視線を逸らさないままで、自分の把握していることを加賀さんに語った。
僕が、セイレーン達から“プレイヤー”と呼ばれていることや、並行世界の可能性、これを語るタイミングを逸していたことなどを、滔々と。
その時の僕の声には僅かながらも、加賀さんを突き放すような冷酷さが宿っていた。僕は加賀さんに嫌われようとしているのかもしれないと、頭の隅の方で思った。もうここで失望してくれていたほうが僕も気楽だという心理が、無意識のうちに働いていたのかもしれない。
加賀さんに語りながら僕は、自分の内面が冷たく澄んでいくのを感じていた。
今までの母港での思い出が、後から後から胸を過っていく。その一つ一つを注意深く目で追い、自分の人生が幸せなものであったと再確認しながら、僕は自身の消滅について語る。
頬を強張らせた加賀さんは何度も唾を飲み込みながら、じっと僕の話を聴いてくれていた。
僕が語り終えたあとの暗澹とした沈黙を濯ぐように、桜の花弁たちは優雅に揺れながら落ちてくる。加賀さんが震えながら俯いている。ゴーグルをしているから、顔の上半分の表情は分からない。僕の肩を掴んでいる彼女の手も、僕の筋肉に食い込んでくる。痛い。切ない痛みだった。
「……そういえば、三笠さんから教えて貰ったのですが、人の生き様を花に喩える重桜の言い回しは綺麗ですよね」
沈黙を取り繕う必要も無かったが、ずっと黙っている訳にはいかないと思った時には、僕はすぐ目の前で舞い落ちていく桜の花弁を見ていた。
此処は重桜寮を模した一画であるし、先日には花見についての話を三笠さんとしたばかりだったので、それらが僕の記憶と結びついて、取り留めもない話題として僕の口から零れていく。
「何か大きな結果を出すことを“一花咲かせる”であるとか、自分の持っている力を発揮するのも“才能の開花”なんて言ったりしますし」
唐突で的外れな話題ではあったが、沈黙そのものが加賀さんを圧し潰す前に、何かを言わなければと思った。
「とても美しい表現だと思います」
俯いていた加賀さんが、下唇を少し噛み千切る音がした。
「……お前は、咲かなくていい」
血を吐くような低い声を揺らし、加賀さんは言う。
「咲いた花は必ず散る」
加賀さんは、ゴーグルを付けた僕を抱きすくめるような態勢になる。加賀さんの胸に抱かれた僕は、両手を下げたままで彼女の鼓動を聞いた。
「だから咲くな」
加賀さんの声には、調子が外れるほどに力が籠っているのが分かる。自分の感情を必死に抑えつけようとしている。その加賀さんの傍に居る僕は、普段通りであるべきだと思った。
「なんだか、意地悪なことを言われている気がしますね」
「……そうか?」
「えぇ。ずっと咲くなだなんて」
「お前は蕾のまま、ずっと私の傍で瑞々しく在ればいい」
「でも」
「黙れ。あまり五月蠅いと、頭から喰ってやるぞ」
僕は、加賀さんに出会えて本当に良かったと思う。
「そもそも、オブザーバーの奴が適当なことを言っているのかもしれん」
「……それは考えにくいですよ」
「何故だ?」
加賀さんの声に一際の力が籠った。
「何故、そう思う?」
「だって、彼女達は母港を襲撃しておきながら、絶好のタイミングで僕を見逃したんですから。どんな目的や意図があるのかは知りませんが、僕を観測対象として捉えなおしたのは間違いないでしょう」
僕が言うと、また加賀さんは黙り込んで俯いた。加賀さんが洟を啜るのを聞いたのも初めてだった。ゴーグル越しの僕の視界は、加賀さんの一航戦装束で埋まっている。その布地以外のほとんど何も見えないが、加賀さんが懸命に平静さを装おうとしているのは分かった。
「……もっと早くに、お前からこの話を聴き出すべきだったな」
加賀さんは穏やかな口調で言いながら、僕の頭を撫でてくれる。
「怒らないんですね、加賀さん」
僕が言うと、加賀さんは「馬鹿者」と笑みを零すついでのように小さく鼻を鳴らした。手の掛かる弟に、まったくしょうがない奴めと、呆れるようだった。
「お前より先に私が心のバランスを崩したら、お前は私に気を遣う。そして、過剰なまでに冷静になるだろう。そうしたら結局、お前の感情は行き場を失ったままだ」
加賀さんが必死に冷静さを保とうとしていたのは、僕を想ってくれてのことだと分かった。
「自分の感情を押し殺すのは、いつもまでも他者本意のお前の悪い癖だ。もう少し我儘になっていい」
「……前にも、そんなことを言ってくれましたね」
「あぁ、そうだな。覚えているぞ。お前が私のことを『加賀お姉ちゃん』などと呼んだ日だ」
「ありましたね、そんなことも」
そんなに昔ではない筈なのに、やけに懐かしく、遠くに感じた。此処は平和で良いなという、あの日の加賀さんの言葉が頭の奥で響く。エンタープライズさんや赤城さんも居て、執務室がちょっと騒がしかった日だ。
刻一刻と僕から遠のいていく、“日常”の風景だった。
「思えばあの日から、お前に一度も将棋で勝っていないな」
加賀さんも加賀さんで、突拍子もない話題を持ち出してきた。
「そう言えば、そうですかね」
「2勝23敗だ。……今は私が負け越してはいるが、勝負はこれからだ。勝ち逃げは許さん」
加賀さんがフンと鼻から息を噴き出す。僕は控えめに言う。
「えぇと確か、……1勝24敗ですよ?」
「ぇえっ」
「だって僕、初めて将棋を教えて貰った時には負けましたけど、それからは一回も負けていない筈です」
「な、なにを馬鹿な」
「いや、よく思い出してくださいよ」
加賀さんは暫く黙り込んだあと、ふ──ーん……と長い鼻息を吐き出してから、すっとぼけたような神妙な声で「そんな気もするな……」と零した。僕は軽く笑ってしまう。
「なんで2勝目を捏造したんですか?」
「えぇい……! いちいち細かいことを言うな!」
加賀さんは唇をへの字にひん曲げて、可愛くないヤツめ……と洩らす。
僕は、今のこの会話に灯った“日常”らしい空気に、胸がぎゅっと詰まった。息が震えてくる。鼻の奥が痛くなってくる。何なのだろう。この感じは。僕は黙ってしまう。また沈黙が訪れる。加賀さんが、僕の髪を梳くように手を動かした。
「しかし、まぁ……、よく話してくれた」
優しい声が、花弁と一緒になって僕の頭上から降ってくる。
「自分が何者であるかを疑い続ける苦しみは、並大抵では無かった筈だ」
ゆったりとした加賀さんの声は、今の書斎の散らかり様を思い出しているかのようだった。
「……お前も疲れただろう?」
そんなことはないですよと答えようとしたが、今度は言葉が出なかった。加賀さんの声は僕の心に染み入ってきて、今まで僕自身も触れ得なかった何かを激しく揺らしてきた。
僕がずっと考えないようしてきた感情が、音を立てて胸の中で膨らんでくるのが分かる。
もうとっくに摩耗させていたと思っていたのに、僕の気が緩んだ隙をついて、いろんなものが僕の内部から溢れてきた。そのどれを選び取っていいのか分からない。足元が消えたような感覚だった。次に、自分の呼吸と喉が震えていることに気付く。そのことを自覚して、更に僕は狼狽えた。
「あ、あの……、いえ、そんなことは……」
僕の声は、みっともなく潤んで振動していた。
「何だ? 言いたいことがあるなら、この『加賀お姉ちゃん』に言ってみろ」
加賀さんの優しい声が、必死に自分を落ち着かせようとする僕の心を更に揺さぶってくる。自分の手に負えない感情の水位が、みるみるうちに上がってくる。僕は慌てる。必死に冷静になろうとする。笑みを作ろうしても、頬が強張ってしまって無理だった。
「お前の作ったこの母港には、私とお前だけだ。誰にも遠慮はいらんぞ」
止めてくださいと言おうとしたが、やはり喉が震えてすぐに言葉が出てこない。今、そんなふうに優しくされたら、もう限界だった。眩暈がする。喉と横隔膜が震えてきた。鼻の奥がツーンとして、身体が強張る。不味いと思った時には、水の中に飛び込んだように視界がぐちゃぐちゃになった。
皆と一緒に居たい。
頭の中に不意に浮かんできたその言葉は、僕が絶対に考えないようにしていたものだった。一度抱くと、もう取り返しがつかなくなる予感がしていたからだ。指揮官としての僕が最も遠ざけなければならない感情であり、追い縋るべき願いは無かった。
違う。違うんだと、自分に言い聞かせる。僕は消えても良い。怖くない。怖くなんてない。母港は大丈夫だ。ただ、僕が欠落するだけで、頑強な“日常”は続いていくのだ。
消えたくない。
必至に抵抗しようとする僕の内部で、容赦なく次に浮かんできたその感情は、恐怖に引き摺られて出てきたものではなかった。恐怖は無い。これは、恐怖ではない。もう僕は恐怖を感じてはいない。
これは悔しさだ。悔しいのだ。どうして僕なのだと、その理不尽さが悔しくて堪らない。無力な自分が悔しくて、悲しい。それらの感情の雫は、土砂降りの雨の、阻みようのない最初の一滴だった。
「消えたくない、です」
潤みかけた声に包まれたその言葉は、冷たく水漬いていた僕の心の殻を突き破って、震える喉から飛び出して来た。高い所から落下していく感覚だった。僕の意思を引き剥がし、独りでに飛び出したその言葉に追いつき、捕え直すことは、もう僕にはできなかった。
気付けば、僕は加賀さんに強く抱き着いていた。
そして僕は、初めての経験をする。
「消え、た……く、な。い」
その言葉を自らの意思で口にするのは、短い自分の人生の中で蓄えてきた勇気を、全て使い切る思いだった。ぶつ切りになって苦しげに絞られた声は嗚咽に他ならず、僕は自分が泣いていることに気付く。
「まだま、だ。……みん、なと、い。っしょに、いたい、です」
涙に塗れた声が、ちゃんとした言葉にならない。すぐに霧散してしまう。何も伝えられない。胸が跳ねて苦しい。自分の身体がバラバラになって、崩れてしまいそうだ。突き上げられるようにして、しゃっくりが出てくる。涙が止まらない。ゴーグルの中が水浸しだ。何も見えない。
「あぁ。……私もだよ」
加賀さんが頭を撫でてくれる。暖かい温度に、僕は必死にしがみつく。僕は、もっと上手に泣けないのだろうか。溺れて喘ぐような激しい泣き声は、みっともないを通り越して、醜いほどではないか。ただ、そんなことを真剣に意識できるほど、僕の心に余裕などなかった。
涙が止めどなく溢れてくる。まるで僕の視界を洗うかのようだ。
加賀さんに抱き着いたままで俯いた僕は、その何もかもが滲んだ視界で足元を見る。そこに僕の影は無かった。この虚像の世界では、僕と加賀さんの体温と感情だけが真実を語っている。僕は、自分自身の感情にまで無関心であろうしたが無理だった。
あ──……。あ──……。あ──……。
蹲りかけた僕は身体を震わせ、幼児のように泣いた。そんな僕の頭上からは、安らかな時間が、桜の花弁と一緒に降り注いでくる。涙の所為か、目の前に薄い膜が張ってあるかのような感覚だ。僕と加賀さんだけが、仮想の景色の中の鼓動を維持している。拍動の一拍一拍を、僕は加賀さんと通過している。その感触に縋りつくように腕に力を籠めながら、僕は加賀さんが洟を啜るのを聞いた。