少年指揮官の日常   作:トレモ勢

14 / 22
今までと、今と、これから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日の執務が終えてから僕は、執務室の応接スペースのソファに腰掛け、自分で淹れたコーヒーを飲んでいた。腕時計を見れば、もう夜更けと言っていい時間である。廊下からも窓の外からも、何の音もしない。コーヒーカップから昇る湯気が、執務室の静寂に寄り添うように揺れている。僕は準備した退官手続きの書類の確認をしていく。

 

 書類に目を通していると、頭の隅の方で加賀さんの姿が浮かんできた。この数週間は加賀さんも演習や任務で忙しい筈で、僕は彼女に殆ど会っていない。会いたいと思う気持ちと、少し戸惑う気持ちが僕の中に同居している。脳裏を過ろうとする彼女の姿を意識すると、僕の思考はすぐに引き摺られていく。泣き喚いてしまった夜のことを思い出す。少し恥ずかしいような、それでいて、ほっとするような気持ちになる。

 

 加賀さんの前で、僕は正直になれた。消えたくない。皆と一緒に居たいと思えた。あの言葉を加賀さんが汲んでくれたお陰で、僕は冷静に自分自身を見つめ直すことが出来た。僕は、消えたくない。だが、消滅は受け容れざるを得ない。免れる方法はない。消えたくなくとも、消えるしかない。

 

 

 その事実を受け止める気持ちの、強度が増したのだ。

 

 

 オブザーバーとの戦闘を終えてから僕は、自身の消滅に向けて気持ちを造り替えてきた。誰もが他人に思える夜や、自身の過去に目を凝らし続ける長い夜を何度も乗り越えてきた。自分はいったい何者なのかという自問自答を、気が遠くなるほどに繰り返した夜もあった。涙が流れるような健全な心の動きが壊死しそうなほどに、この世界を本気で呪う夜もあった。そんなどうしようもない時間の中にあった僕を、KAN-SENの皆と過ごす時間が救ってくれた。そして加賀さんは、行き場のない僕の感情が救われることも肯定してくれた。

 

 あの夜から、僕と加賀さんの関係に大きく変わったところは無い。今まで通りであり、それは他のKAN-SENの皆に対しても言えることだ。僕と彼女達の間には、指揮官とKAN-SENとしての距離感と、家族愛や兄弟愛に似た感情が介在した距離感が並列している。ただ、関係は変わらなくとも、その距離自体が縮まったように思う。この世界は僕に無関心ではあったが、無慈悲なわけではなかったのだと分かった。

 

 飲みかけのコーヒーを置いて、僕は書類を執務机の引き出しに片付ける。執務椅子から立ち上がり、窓際へと歩いた。窓を少しだけ開けてみる。夜風が僕を誘うように薄く吹いてきた。涼やかで心地よい風が、頬をそっと撫でてくる。窓から外を眺めると、晴れた夜空が広がっていた。満目の星々の中に、遠慮がちに欠けた月が浮かんでいる。

 

 窓枠に切り取られたこの実景は、僕にとっては見慣れたものだった。ただそれは、生活に根付いた親近さとは無縁の慣れだ。自身を捕える檻を眺める囚人のような、無機質な感覚だったように思う。だが最近は、この執務室から見える景色も違って見えるようになった。僕自身が気付かないうちに抱えていた未練や後ろめたさのようなものを、加賀さんの御蔭で手放すことが出来たからかもしれない。

 

 僕は、暗がりの窓に反射する僕自身と眼を合わせたあとで、その僕の向こう側にある夜空を眺める。月も星も澄んでいて、ただ綺麗だと思った。僕の消滅を是とするこの世界も、僕が憎いわけではないのだろう。そう考えると、僕を置き去りにしていこうとする景色や日常の惨酷なほどの頑丈さにも、妙な信頼感が湧いてくる。

 

 窓に映る僕が、頼りない笑みを口許に小さく浮かべていることに気付いた時だった。執務室がノックされる。こんな夜更けに誰だろうと思いつつ、退官手続きに関するものを片付けたのを確認してから、「どうぞ」と返事をする。入室してきたのは加賀さんだった。

 

「……お前、まだ起きていたのか」

 

 加賀さんは酷く疲れた様子だった。顔色が悪いし、目の下のクマも凄い。不機嫌そうに細められた眼は物騒な光を抱えていて、ザワザワと揺れる尻尾も不穏だ。足取りも若干ふらついている。

 

「だ、大丈夫ですか? 顔、真っ青ですよ」

 

「ふん……。私は色白だからな。照明の加減で、そう見えるだけだ」

 

 加賀さんは険しい眼つきのままで天井を指差した。それが強がりであることぐらいは誰にだって分かるだろう。この数週間の激務と出撃で精神力と肉体を酷使したうえで、更に睡眠まで削り続けているのは明白だった。いくらKAN-SEN達の肉体が頑丈であるからと言っても限度がある。

 

「ちゃんと休んでください。ウェールズさんも言っていましたが、休息も戦闘のうちです。無理は禁物ですよ」

 

 心配して僕が言うと、加賀さんはそこで漸く口許に笑みを浮かべ、「その台詞、そっくりお前に帰してやる」と肩を揺らした。

 

「夜更かしは寿命の前借だぞ」

 

「……すごい説得力ですよ」

 

 加賀さんは欠伸を噛み殺しながら応接スペースのソファに近づき、そのままボフーンと俯せに身体を投げ出した。その状態で10秒ほど、全く身動きをせずにじっとしていた。モフモフとしてボリュームのある彼女の尻尾も動きを止めて、ぺちゃっと潰れている。執務室に静寂が戻ってくる。加賀さんは動かない。僕は心配になってソファに近づき、加賀さんの肩を少し揺らす。

 

「あの、大丈夫ですか……?」

 

 声を掛けると、加賀さんはもぞもぞと動いて顔を僕の方に向けた。

 

「……枕が欲しいな」

 

「えっ」

 

「ちょっと此処に座れ。私に膝枕をしろ」

 

 加賀さんは俯せの姿勢から状態を起こし、さっきまで自分の頭のあった場所を手で軽く叩いた。今の加賀さんの態勢だと豊かな胸元が強調されるどころか、零れ落ちそうになっていて、僕はドキっとしてしまう。僕のその動揺を感じ取ったのだろう加賀さんは、疲れた顔に悪戯っぽい笑みを浮かべた。そして、両腕で挟むようにして自分の胸を寄せて見せる。

 

「ほら。早くしろ。さもないと上を脱ぐぞ」

 

 からかい口調で脅すようなことを言う加賀さんは楽しそうだ。本気ではないのだろうが、既に彼女は、はだけた胸元をさらに広げようとして襟に指を掛けている。僕に突き付けた銃の引き金に指を添え、ゆっくりと力を籠めていくような風情だ。ほら、撃つぞ撃つぞとせっつかれている気分になり、僕は焦ってしまう。

 

「わ、分かりました。だから、脱がないで下さいよ」

 

 僕は加賀さんから目を逸らしつつ上着を脱いで、それを加賀さんの肩から掛ける。これで万が一、加賀さんの装束がこれ以上はだけてしまっても問題ない。全部隠れている筈だ。加賀さんが少し驚いた顔をして僕を見上げてきた。僕は肩を竦めながら、加賀さんの傍に腰を下ろした。ソファが軋む。

 

「さっきまで空調を効かせていましたから。あまり薄着になって横になると、本当に体調を崩しますよ」

 

「……そうだな。すまん、借りるぞ」

 

 ふいっと僕から視線を外した加賀さんは、急に素直になった。肩にかけた僕の上着をぎゅっと掴むようにして横向きになり、僕の膝の上に頭を乗せてくる。その遠慮の無さは僕に甘えてくるようであり、いつもと少し雰囲気が違う。

 

「お前の体温が残っていて、温かいな」

 

 彼女は僕の上着を強く掴んでいる。無防備に身体を預けてくる加賀さんは、ほっとしたように大きく息を吐いた。加賀さんは横向きに寝て、僕のお腹に後頭部を向ける態勢だ。彼女の口許は、僕が掛けた上着の袖あたりに隠れて見えない。

 

「それに、……お前の匂いがする」

 

 彼女の横顔を見下ろすと、疲労の色が滲んでいた目許が微かに緩み、その頬に薄く朱が差していた。口許が隠れているので表情は分からない。だが、彼女の身体や呼吸の強張りが解けて、少しはリラックスしてくれているのだと分かる。「臭かったら、すみません」と僕が謝ると、「臭くなどない」と加賀さんが寝ころんだままで鼻を鳴らした。

 

 それきり会話が途切れた。僕も加賀さんも何も喋らない。だが、険悪さや気まずさは無かった。穏やかに流れる時間を、ゆっくりと二人で味わうような沈黙だった。僕は何かを話さなければと思うことも無く、この静けさに身を預けていく。加賀さんとソファに座っているだけの時間が、とても贅沢に感じられた。暫くして、加賀さんが口を開いた。

 

「……最近になって私も、セイレーンについて色々と調べてみたんだがな」

 

 僕の膝の上で横顔を見せる加賀さんは、瞑目したままで言う。

 

「やはり、お前の消滅に関わるような内容は見つけられなかった」

 

 加賀さんの声は最後の方で、憔悴に溺れながら懺悔するような響きを宿した。加賀さんの呼吸が揺れていることに気付く。今の加賀さんの疲労困憊した様子が、僕を救うために足掻いてくれたからだと分かり、胸の奥を掴まれる気分だった。

 

「覚悟はしていたが、恐ろしい。お前の存亡に関わる全てが、何も分からないままだというのは……」

 

 僕の苦悩は、僕のものであると言ってくれた加賀さんの言葉を思い出す。僕が過ごして来た無数の夜を、加賀さんなりに辿り直してくれようとしたのかもしれない。僕は自分の苦しみに誠実であろうとしたが、加賀さんは、僕のその姿勢をも肯定してくれているのだと思った。

 

 だから加賀さんは僕の消滅について他の誰にも口外していないのだろうし、その事実を受け止めようとしてくれているのだろう。そしてそれは、ローンさんも同じだった。二人の優しさに改めて触れて、僕は感謝の思いをより深める。温かい気持ちが体に広がっていく。

 

「えぇ。でも、もう慣れました」

 

「馬鹿者」

 

 少しだけ語気を強めた加賀さんが、ぐるっと寝返りを打った。ボリュームある白い尻尾が大きく弧を描き、執務室の空気を掻き混ぜる。この話題が抱えた重苦しい雰囲気が、充満してくるのを払うようだ。加賀さんは肩にかけた僕の上着を抱き込むようにして、僕のお腹へと顔をくっつけてきた。

 

「前みたいに、消えたくないと言え」

 

 くぐもった加賀さんの声は、涙の気配を含んで霞んでいた。それきり、また加賀さんが黙り込む。水位が上がって来た感情を鎮めるように、潤んだ呼吸を繰り返している。加賀さんの横顔は、僕の上着でほとんど隠れている。表情は見えない。だが身体が強張っている。震えと涙を堪えている気配があった。

 

「消えたくないですよ」

 

 それは僕の本心だった。

 加賀さんが、それを口にする勇気をくれたのだ。

 

「でも、自分の消滅を受け容れる心の準備を、僕はずっとしてきましたから。怯え続けるよりも、皆さんと過ごす時間を喜ぶことに気持ちを向けていたいんです」

 

「……そういう諦めの良い言葉ばかり使う子供は、本当に可愛くないぞ」

 

「甘えさせて貰っているつもりですよ。申し訳ないぐらいです」

 

「……本当に可愛くないな、お前は。気に喰わん」

 

 僕の上着を被ったままで洟を啜った加賀さんは、また寝返りを打つ。また僕のお腹に後頭部を向ける姿勢なったかと思ったら、「今日は此処で、このまま寝る」などと、拗ねたように言い出した。僕は苦笑してしまう。

 

「勘弁してくださいよ」

 

「私は眠いんだ。もう一歩も動かんぞ」

 

 不貞腐れ気味に言う加賀さんは、横になったままでモゾモゾと身体を動かし、眠るのに最適な頭のポジションを僕の膝の上に探し始めている。更に僕の上着を掛布団よろしく肩に掛け直し、本格的に眠る態勢に入ろうとしていた。

 

「ちゃんと睡眠をとるなら、自室に戻った方がいいですよ」

 

「やだ」

 

 加賀さんが鼻を鳴らす。

 

「やだ、って……、そんな子供みたいな」

 

「加賀ちゃんは妹キャラ重桜代表だからな。これぐらいの我儘は許されるんだ」

 

「か、加賀ちゃん……?」

 

「とりあえず、子守唄を頼む」

 

「要らないでしょう、そんなの……」

 

「しょうがないだろ、赤ちゃんなんだから」

 

「えぇ……、加賀ちゃんの年齢設定、ずいぶん低いんですね……」

 

「ごちゃごちゃと煩いヤツだなお前は」

 

 此方を見上げる加賀さんの横顔は、『可愛い妹が甘えてきているのに文句しか言わんとはどういうことなのか』と、僕に訴えてくるような渋面だ。その破天荒で奔放な振る舞いが、加賀さんなりの優しさであることを僕は知っている。打ちのめされる思いで僕は苦笑を維持した。油断すると涙が出そうだ。

 

「あぁ。子守唄の代わりなら、アレでいい」

 

 寝ころんだままの加賀さんが、ソファテーブルの上へと顎をしゃくった。そこにはタブレットが置いたまましてある。タブレットを見せろという事なのだろうか。僕は腕を伸ばしてタブレット手に取り、画面が加賀さんに見える位置でスタンドに立てる。

 

「子守唄の代わりって、将棋でもするんですか?」

 

 タブレットの将棋アプリを立ち上げようとする僕に、寝ころんだままの加賀さんが「やらんわ!」と慌てた声を出した。

 

「こんな時間にお前と将棋をやって、ギッタギタされてみろ。眠気が飛んでしまう」

 

「もう気持ちで僕に負けてるじゃないですか」

 

「えぇい……! やかましい! 今日はアレだ、ほら、オンラインで明石や不知火の奴が人を集めて、何か配信するんだろう?」

 

「あぁ、そういえば、そんなことを言っていましたね」

 

 加賀さんに言われて思い出した。今夜は確か、あるレースゲームのオンライン大会が母港で開かれている筈だった。僕はタブレットを操作し、明石さんがライブ配信している動画に接続する。動画が再生されると、ちょうど準決勝のレースが始まったタイミングだった。優勝賞品は秘書艦交代券10回分が贈られるということで、なかなかの盛り上がりを見せていた。ちなみに、2位には秘書艦交代券5回分、3位には3回分である。

 

 表示されているコメント欄の流れも速く、この母港のKAN-SENのかなりの人数が視聴しているようだ。画面の端の左下で、大会主宰者である明石さんが白熱した実況を披露している。

 

「……加賀さんは参加しなかったんですか?」

 

 ふと気になって、僕は視線を下げてみる。僕の膝枕に頭を乗せた加賀さんは鼻を鳴らした。そして横目で僕を一瞥してから、「私は予選敗退だ」と唇を尖らせて画面に視線を戻した。

 

「ゲームが達者な綾波やロングアイランドの奴も敗退しているからな。……この企画を知ってから、相当にやり込んだ奴だけが残ってるんだ」

 

 加賀さんの話によると、この大会を企画したのはエリザベスさんらしい。秘書艦を10日連続でやりたいと考えた彼女に、それを合法に行う口実として秘書艦交代券なるものを何らかの賞品としてはどうかという提案をしたのが、ウォースパイトさんだったという話だ。そしてこの話に他陣営が乗っかって、このレースゲーム大会の実現に至る流れだった。ただ、残っている面子を見ると、エリザベスさんの姿は無かった。

 

 この準決勝レースに出場しているのは8人。

 

 鉄血からは1名。ツェッペリンさん。

 ユニオンからは2名。エンタープライズさんと、アルバコアさん。

 重桜からも2名。赤城さんと、大鳳さん。

 ロイヤルからは3名。モナークさんと、シリアスさん、そして、シェフィールドさんだった。

 

 指定されたコースは、ピー●サーキット。

 彼女達のボイスチャットが聞こえてくる。

 

『御覧になっておいでですか、指揮官様ぁ~! 秘書艦交代券は、この大鳳がいただきますわ~!!』

 

『図に乗らないことね大鳳……、交代券は、この赤城こそが……!!』

 

 1位、2位を争うトップ集団でも、更に先頭を走るキャラクター達のカートが、ガッツンガッツンと攻撃的な体当たりをブチかましあっていた。あれが恐らく、大鳳さんと赤城さんの操作するカートなのだろう。彼女たちの闘気がゲーム内へと伝播し、可愛いはずのゲームキャラクター達が炎を纏って燃えているかのようにも見える。火花を散らす2人。その2人を背後から亀の甲羅の連射で蹴散らした別のカートが、颯爽と先頭に躍り出ていく。

 

『そうやって仲良く下位争いをしていると良い。交代券は私のものだ』

 

 エンタープライズさんの落ち着きのある声が、ボイスチャットで聞こえた。それに喰いつくようにして、『“最速”は、このモナークだ!』エンタープライズさんのすぐ背後まで迫るモナークさん。たが、コーナーに差し掛かったところで、緑甲羅3連を纏った別のカートが突っ込んできて大クラッシュした挙句、一緒にコースアウトしてしまった。

 

『ぬぁぁあっ!?』 モナークさんが呻く。

 

『も、もも、申し訳わりません! モナーク様!』

 

 モナークさんの横っ腹に突っ込んだのは、シリアスさんが操作するカートのようだ。

 

『同士討ちとは、……これは後でお仕置きですね』

 

 淡々と言うシェフィールドさんのカートが、復帰してくるモナークさん達のカートの脇を通り過ぎて行く。

 

『わー、皆やるなー!』

 

 レースは混乱を極めているが、中ほどの順位を走るアルバコアさんは落ち着いて楽しんでいる。ツェッペリンさんはアイテム運に恵まれないままコース障害物に執拗にスリップを誘発され、大きく出遅れていた。準決勝まで進んだものの、不運さが彼女の技術を殺している様子だ。『憎んでいる、すべてを……』と、最後のほうで聞こえてくるツェッペリンさんのボイスチャットは、若干の半泣きだった。

 

『大鳳のコース取り、えげつねぇ』

『エンタープライズもやばい』

『どんだけやり込んだの姉さん……』

『赤城さんも負けてないわ!』

『大鳳めちゃくちゃ上手いな』

『アルバコア負けるなー!』

『泣くのは早いわ、ツェッペリン!』

『まだ勝負は始まったばかりですよ!』

『急げモナーク! 巻き返せなくなるぞ!』

『シリアスの妨害アイテム運やばい。周り巻き込みすぎ』

『まるで戦車みたいだぁ……』

『シェフィールドも安定してるなー』

 

 阿鼻叫喚のコメント欄も速度を上げていく。

 

「この熱狂ぶりは、もはや代理戦争だな」

 

 ニヒルな笑みを浮かべた加賀さんが、タブレットの画面を見詰めて寝ころんだまま、愉快そうに肩を揺らした。

 

「他の対戦アクションにしようという意見もあったらしいが、レースゲームにして正解だったな。この盛り上がりっぷりを見るに、タイマンで勝負をするようなゲームだったらリアルファイトになりかねん」

 

「そんな恐ろしいことを嬉しそうに言わないで下さいよ……」

 

「くくく、悪い悪い」

 

 全く悪びれずに言う加賀さんは、そこで欠伸を漏らした。眠い眠いと言っていたのを思い出す。そろそろ消しましょうかと僕が声を掛けようとしたところで、タブレットが明滅して歓声が聞こえた。

 

 見れば、ツェッペリンさんが下位救済アイテムを引き当て、他の全てのカートに雷撃を与えたところだった。この効果によってツェッペリンさん以外のカートが低速化する上に、小さくなってスリップしやすくなる。逆転とはいかないまでも、大きく差を縮める好機だった。最下位だったツェッペリンさんが、前を行くカートを追う。その途中で、更に雷撃アイテムを引き当てる。しかも4回。

 

『痺れさせている、すべてを……』

 

 ツェッペリンさんは最終ラップに差し掛かっても最下位だったが、ボイスチャットの声音は御満悦だった。

 

『雷 帝 降 臨』

『に く す べ』

『サ ン ダ ガ』

『終 焉 の シ ン フ ォ ニ ー』

 

 コメントが加速する。

 

『ジャンプ台のあるコースだと、マジでサンダーが怖いんだよ』

『引かれたタイミングによっては完全に足が止まるからな』

『そうそう』

『ジャンプ台の手前だと飛べなくなるからね』

『このコースのサンダーはドラマを生みがち』

 

 コメント欄の熱量が、ゲームコースにも飛び火する。

 

『引き過ぎィ!?』雷撃を浴びまくった大鳳さんも、流石に悲鳴を上げる。彼女のカートが雷撃のスリップでコーナーを曲がり切れず、池にコースアウトした。『撃ち過ぎィ!?』ほぼ同じタイミングで、赤城さんもそれに続いて池に落下する。『くそっ、こんなに連発できるゲームなのか!?』縮んだカートで善戦を続けるモナークさんに、再びシリアスさんが甲羅を纏って激突した。

 

『ぐわぁっ!?』

 

『あぁっ!? 申し訳ありませんっ、申し訳ありません!!』

 

『……何をやっているのです』

 

 此処でシェフィールドさんが2位に躍り出る。

 サンダーの効果が切れる。

 

『逃がしませんよ。もう捉えました』

 

 シェフィールドさんの操るカートは華麗なドリフトを連発し、先頭を走るエンタープライズさんに迫る。だがそこで、エンタープライズさんは1位なのに救済アイテムである筈の無敵スターを引いて見せた。ボイスチャットの音声から、シェフィールドさんが舌打ちをしたのが分かった。『悪いな。負ける気は無いぞ』冷たく言い放つエンタープライズさんのカートは、キラキラと煌めきながら他を突き離していく。豪運にモノを言わせるエンタープライズさんへのコメントが殺到する。

 

『こ い つ ホ ン マ』

『L u c k y E』

『ヘ ビ ー レ モ ン』

『い つ も の』

『勝 ち た が り』

 

 コメント欄も盛り上がりを見せるが、エンタープライズさんは涼しいものだった。

 

『好きに言うが良い。正義と愛は必ず勝つ。あと、ヘビーレモンとかコメントを打った者は、あとで絶対に突き止めて演習に付き合っても貰うからな』

 

 エンタープライズさんのボイスチャットの、まさにその直後だった。潜水艦が海面に浮上するがごとく、アルバコアさんが音もなくシェフィールドさんに並んでいた。『独走はさせないよー!』彼女はゴースト化するアイテムによって、最後の雷撃を免れていたのだ。さらに彼女は、エンタープライズさんの無敵効果が切れるタイミングに合わせ、一位を狙い撃ちするトゲ甲羅を既に放っていた。

 

『ぐっ……!』

 

 トゲ甲羅はあっという間にエンタープライズさんのカートに食らい付き、無敵の切れた彼女のカートを盛大にクラッシュさせる。その場所は、このコース最大の特徴である特大ジャンプ台の手前だった。エンタープライズさんの足が止まったところで、更に雷撃が来る。ツェッペリンさんだ。こんなに雷撃を連発すると、彼女だけ違うゲームをしている風情すらある。

 

『くそ……っ!!』

 

 雷撃による縮小効果により、エンタープライズさんがジャンプ台を飛べなくなった。完全に足が止まる。いや、足が止まるどころか、カートを逆走させてアイテムを獲得しに行く事態だった。そのあいだに、シェフィールドさんやアルバコアさんだけでなく、モナークさんやシリアスさん、それに赤城さんや大鳳さんが、エンタープライズさんに追い付いてくる。

 

 各順位の間隔が潰れていく。もう団子状態だ。雷撃の縮小効果が切れた時に、どんなアイテムを持っているかで勝負が決まりかねない。そんな状況で更に、最下位のツェッペリンさんが更にサンダーを引く。もう無茶苦茶だった。

 

『いい加減にしろ、ツェッペリン……!!』

 

 エンタープライズさんが呻く。他の面々も動揺だった。ツェッペリンさんは更に無敵アイテムを引き当てている。

 

『置き去りにしていく、すべてを……』

 

 他のカートがジャンプ台の前で立ち往生しているのを尻目に、ツェッペリンさんのカートは軽やかな音楽と煌めきを引き連れ、颯爽とジャンプ台から飛んでいく。逆転劇と言うにはあまりにも暴力的で大味だったがその分、大きく順位が動いた。

 

『待ちなさい……っ!』

 

 泥仕合に様相を呈している状況から、赤城さんが2位に躍り出る。アイテムは赤い甲羅を3つ纏うものだ。射程から見ても、まだツェッペリンさんを狙い撃ちに出来る。赤城さんはそのつもりだったに違いない。だが、ジャンプ台直前には、シリアスさんが撒き捲ったバナナが散乱している。赤城さんはそれを踏んだ。赤甲羅が2つ削られ、スリップする。

 

『ぬぅぅううううううう……!!』

 

 赤城さんの攻撃的な呻き声が聞こえてくる。かなりおっかない。その隙に、エンタープライズさんが赤城さんの脇を追い抜いていこうとした。『行かせないわよ!』赤城さんは透かさず、赤甲羅をエンタープライズさんへと撃ち込む。

 

『くそっ……!』

 

 エンタープライズさんのカートがクラッシュする。甲羅を防御できていないところから見て、エンタープライズさんが引いたアイテムは加速系のキノコだったようだ。

 

『邪魔をするな赤城!』

 

『行かせないわよ!』

 

 エンタープライズさんと赤城さんが火花を散らしているうちに、大鳳さんが二人を抜き去って行く。大鳳さんが引いたアイテムは金色キノコで、連続で加速できる強力なアイテムだった。最終ラップである今のタイミングだと、かなり有利なアイテムの筈だ。一位は難しくとも、2位、3位は確定しただろうか。大鳳さんが高笑いを上げる。

 

『見て下さいまし! これが日頃の行いですわぁ~!!』

 

 御満悦な様子でジャンプ台に差し掛かる大鳳さんだったが、そこで悲劇が起きる。無敵スターを引いて猛追してきたアルバコアさんと、ジャンプ寸前で接触したのだ。

 

『あっ、ごめん大鳳!』

 

『ちょっ……!?』

 

 悲鳴を上げた大鳳さんのカートが、ズガァン! と盛大に吹き飛ばされて、ジャンプ台の下へと落下していく。このコースの性質上、ジャンプ台から落下すると半周ほど戻されてしまう。不幸なことに、この最終ラップで大鳳さんだけが全員よりも半周遅れ状態になってしまった。上位入賞は絶望的だろう。

 

『うぎぃぃいいいいいい──!!』

 

 縊り殺される猫のような絶叫を木霊させながら、大鳳さんのカートがジャンプ台の下へと消えていく。そのあいだに、しれっとシェフィールドさんがジャンプ台から飛んでいく。それにモナークさん、シリアスさんも続く。これは争っている場合ではないと判断したエンタープライズさんと赤城さんもジャンプ台に続いたところで、僕は気付く。

 

 寝息が聞こえるのだ。

 

 どこからだろうと思ったが、そんなのは決まっている。僕はタブレットから視線は外して膝の上を見下ろす、すると、僕のお腹に後頭部を向ける態勢の加賀さんが、完全に眠りに落ちていた。加賀さんの寝顔を見ることなど初めてであるから、僕は戸惑ってしまう。ど、どうすればと焦り出す僕を置いて、タブレットの画面の中では実況の明石さんが、決勝レースの開始を告げている。動画内の盛り上がりは伝わってくるが、まったく内容に意識がいかない。

 

 とにかく、動けない。

 なんとなくだが、今の加賀さんを起こすべきではないと思った。

 いや、起きないで欲しいと思ったのかもしれない。

 

 僕はドキドキしている。すぅ、すぅと規則ただしく穏やかな寝息を立てる加賀さんの横顔を、じっと見詰めてしまう。綺麗なひとだと素直に思いながらも、僕は首を緩く振る。駄目だ駄目だ。いけない。ひとの寝顔をじっと見るなんて、あまり良くない。僕は指揮官として、紳士的にあるべきだ。僕は静かに深呼吸をしてから、加賀さんの肩に掛けてある上着を、そっと掛け直した。

 

 加賀さんがこんなに無防備な姿を僕に曝しているのは、僕を信頼してか、それとも、僕のことなど何とも思っていないからだろうか。或いは、僕の膝枕の上で安心してくれたのか。ただ疲れていただけか。それら全部なのか。答えは分からない。分からなくてもいい。“今”が、僕にとっての宝物であることに変わりはない。

 

 ソファテーブルの上に置いたタブレットの画面では、この母港の賑やかで楽しげな日常が流れている。そして今の執務室では、穏やかな日常がタブレットと並走し、同時に流れている。それを余すところなく僕は通過することができている。本当に贅沢な幸福だと思った。事件が起こったのはその時だ。

 

「んん……」

 

 寝苦しそうに唸った加賀さんが身体を大きく動かして、仰向けになるように寝返りを打ったのだ。肩に掛けていた僕の上着がずれて、もともとはだけさせていた艦船装束の胸元が更に危険な状態になって露わになった。

 

 僕は吹き出しそうになる。

 これはいけない。夢に出るヤツだ。

 

 加賀さんはワザとやっているのか。それもと寝相が悪いだけか。もう何でも良いが、視界に飛び込んでくる肌色の面積が一気に増えてしまって、もう僕は加賀さんを見ることができない。とにかく、このままでは駄目だと思った。

 

 上着。そうだ、指揮官服の上着だ。僕の上着を掛けなおさないといけない。使命感と共に、頭の中の変なスイッチが入ったのかもしれない。混乱と焦りの中にある僕の内側で、何故かアヴェ・マ●アが流れ始める。美しくも優しさの漲る、あの荘厳なメロディを想起しながら僕は、息を殺して顔を逸らし、視界の焦点を暈し続け、加賀さんの方を見ないように細心の注意を払う。

 

 自分の上着を加賀さんに掛け直そうとする僕の手つきは、爆弾の解体に臨む処理班のそれと同じだったことだろう。手元に集中力を注ぎ込み、何とか加賀さんの胸元を隠すことに成功する。加賀さんは穏やかに寝息を立てていて、起きてくる気配は全くない。僕は全身の力が抜けるような安堵を味わいながら、絞り出すような溜息を吐き出しだそうとしたところで、「……楽しそうなことになってるわね、指揮官?」などと声を掛けられた。

 

 執務室の扉の方からだ。僕は飛び上がりそうになりながら慌てて顔を向けると、オイゲンさんが扉の縁に凭れ掛かっていた。いつの間にと思った。普段なら気付いていたはずだが、加賀さんに上着を掛けようとして意識を集中していたため、オイゲンさんの気配を完全に捉え損なった。彼女は携帯用端末のカメラを向けたままで、僕を眺めて薄く笑みを浮かべている。

 

「指揮官と加賀って、仲が良かったのね」

 

「あぁ、いや、加賀ちゃんも疲れていたみたいで」

 

「……加賀ちゃん?」

 

「ぃ、いえ、加賀さんに膝枕をしてくれないかと言われたんですよ」

 

「それで眠った加賀に、すけべな悪戯をしようとしてたのね?」

 

「違いますよ……」

 

「冗談よ。冗談」

 

 オイゲンさんの声は低く、少し険があるように聞こえるのは気のせいではなさそうだった。僕の膝の上で眠る加賀さんと僕を何度も見比べる彼女は、笑顔のままで不機嫌そうだ。オイゲンさんは執務室の扉を後ろ手にゆっくりと締めてから、僕たちの方へとゆっくりと歩み寄ってくる。

 

「でも、羨ましいわ。指揮官に膝枕をしてもらえるなんて」

 

 囁くように言うのも、やはり眠っている加賀さんを起こさないようにするためだろう。オイゲンさんはソファに座るのではなく、加賀さん膝枕している僕の後ろに、ソファの背凭れを挟むようにして立った。

 

「ねぇ指揮官。お願いしたら、私も膝枕をしてくれる?」

 

「えぇ。それくらいでしたら」

 

「本当?」

 

 僕の耳に唇を近づけて囁くオイゲンさんは、その囁き声に過剰な艶を含ませた。そして僕の後ろからしな垂れかかりようにして腕を回してくる。彼女の胸が、僕の背中と肩のあいだあたりで潰れているのが分かる。僕はできるだけそこに意識を向けないようして首を緩く振った。

 

「嘘は言いませんよ」

 

「信じていいのね? 指揮官は嘘つきじゃないって」

 

 甘えるように囁くオイゲンさんの唇が、僕の左耳のすぐ近くで動くのが分かる。「じゃあ、訊いてもいい? 」彼女の呼吸が、僕の首筋を微かに撫でていく。

 

「……ローンと何が在ったの?」

 

「ローンさんと、ですか?」

 

「えぇ。最近、ちょっと様子が変でね。……指揮官のことを遠くから眺めているときとか、凄く悲しそうな顔をしているのよ。ローン」

 

 オイゲンさんの囁き声は柔らかいものであったが、その柔らかさの奥には僕を責めるような険があるのが分かった。

 

「そう、なんですか」

 

 曖昧に答えながら、僕はローンさんとの埠頭での出来事を思い出す。だが、あの時のことをオイゲンさんに話すつもりは無かった。ローンさんと僕の間には何も起こらなかった。ただ、お互いの気持ちを理解した上で、事実の確認をしただけだ。

 

 やはりローンさんは、鉄血陣営の誰にも僕の消滅を明かさず、秘密にしてくれているのだと分かった。それは彼女が加賀さんと同じように、僕の今までの苦悩や覚悟を肯定してくれた証だと思えた。

 

 僕が消滅することなど今更だ。不毛な議論であり、今の母港全体で話し合うことではない。僕は、この母港の基地機能の一部に過ぎない。僕が消えても母港は無くならない。以前、ツェッペリンさんが言っていたことを思い出す。僕が居なくなれば、母港の在り様は一変するだろうと。だが、母港の基地機能がそれで止まることはない。僕の存在の有無に関わらず、継続されるべきものだ。

 

 その為に必要なのは、KAN-SENである彼女達の存在であり、彼女達の間にある絆や友好的な交流だった。つまりは、今の“日常”よって育まれたものだ。僕ではない。それを、ローンさんも加賀さんも理解してくれている。僕が黙っていると、その沈黙の意味を色々と想像したのか。

 

「ねぇ、どうなの?」

 

 オイゲンさんが囁き声を甘く尖らせて、僕の耳に息を吹きかけてきた。僕は思わず背筋を伸ばしてしまうが、すぐに彼女と同じように囁き声で答えた。

 

「何もありませんよ」

 

「……信じていい?」

 

「えぇ。もちろんですよ」

 

 僕は肩を竦めて見せようと思ったが、肩を動かすとオイゲンさんの胸を持ち上げてしまいそうなので、緩く息を吐くに留める。「ふぅん……」と洩らした彼女は、そこで更に強く僕を抱きしめるようにして、身を寄せてきた。オイゲンさんは僕の横顔を窺うような姿勢になる。

 

「指揮官は、ローンのことが好き?」

 

「え、えぇ、好きですよ?」

 

 妙な質問だと思い、僕は視線だけでオイゲンさんを窺う。彼女は口許こそ緩めていたが、その眼差しには僕の内面を見定めようとする真剣さが在った。

 

「数字で言ったら、どれくらい?」

 

「数字って……」 

 

 僕が戸惑うと、僕の横顔を見詰めるオイゲンさんが、また囁く。

 

「答えて。指揮官が嘘つきかどうか、それで分かるわ」

 

 オイゲンさんの囁き声には、いつもの余裕が無かった。僕が嘘つきであるかどうかを見定めたいと言っているが、彼女の真意が僕には分からない。ただ、オイゲンさんがふざけている訳でも、僕をからかっている訳でもないのだとは分かる。だから僕も、これは真剣に答えるべきだと思った。

 

「好きという感情を数字で言えば、……90くらいでしょうか」

 

 僕が囁き声で言うと、オイゲンさんが少しだけ息を止める気配があった。

 

「僕はローンさんのことを尊敬していますし、感謝もしています。戦闘の時に見せる彼女の苛烈な顔や、鉄血の仲間に向ける穏やかな顔も知っています。……でも、ローンさんの全部を知っているわけではありません。ローンさんの全部を好きだという資格を持っているのは、いつか彼女と想いを通わせ合うようになった方だけでしょう」

 

 囁き声でそう続けた僕に、オイゲンさんは何かを確認し終えて安堵するかのように、ふっと笑みを零した。

 

「それじゃあ、私は?」

 

 嬉しそうな顔になったオイゲンさんが、僕の耳元でまた囁く。僕は眉を下げて答える。

 

「やはり、90ですよ。これ以上、感情の枠を広げようがありません」

 

「……そう。よく分かったわ」

 

 オイゲンさんは満足そうに言ってから、更に強く抱き着いてくる。そして僕の体温を確かめるように、僕の耳の後ろあたりに頬ずりまで始めた。くすぐったい。それに、気恥ずかしい。僕が慌てるよりも先に、オイゲンさんが緊張した声を出した。

 

「指揮官に、お願いがあるの」

 

 お姉さん然とした余裕をたっぷり含んだ、普段の声とは全く違うものだった。僕の左肩の後ろあたりに圧しつけられた柔らかな感触から、駆け足になりつつある彼女の鼓動が伝わってくる。耳元で震える息遣いからは、オイゲンさんが何かを決心しようとしている気配も。

 

 オイゲンさんはすぐには喋り出さず、唾を飲み込むような沈黙を作った。執務室の空気は、その静けさの中に冴えて、冷えた空気が循環している。タブレットの画面はいつのまにかスリープ状態になって、真っ暗になっていた。加賀さんが起きてくる気配はなく、その規則正しい寝息だけが緩やかに執務室に響いている。

 

「セイレーンとの戦いが終わったあとの話なんだけど」

 

 優しい沈黙に勇気を貰うようにして、オイゲンさんが再び口を開いた。

 

「セイレーンから海を取り返した世相の下で、其々の陣営が対立関係になるか同盟関係を結ぶかは、まだ分からないわ。でもきっと、この母港も今のままじゃいられないでしょう? 全ての陣営が全部バラバラに分かれて、新しい時代を歩んでいくことになるかもしれないし」

 

「……えぇ。現段階では、何も確定していない範囲の話ではありますが、世界情勢によって、いかようにもなるでしょうね」

 

 僕はオイゲンさんに相槌を打ちながら、この話の行方が何処に向かうのか少し警戒した。僕は、自分が消滅するまでと、自分が消滅したあとの母港のことをずっと考えてきた。だが、このセイレーンとの戦争が終わった後のことについては、あまり想像したことが無かった。

 

 そういった未来への考えに手を伸ばさなかったのは、僕がKAN-SENの皆の勝利を信じ切っていたからかもしれない。こういう僕の悠長さは、そのまま僕の視野の狭さでもある。

 

「この戦いが終わっても、私は指揮官と一緒に居たいわ。ねぇ、指揮官。……全部終わったら、鉄血に来てよ」

 

 オイゲンさんの囁き声に、熱が籠り始める。

 

「言っておくけど、ビスマルクも指揮官を誘うつもりよ。指揮官に十分なポストを用意する為に、準備も始めているわ。……あぁ、これは秘密にしておいてね」

 

 囁き声をさらに潜めるようにして言うオイゲンさんは、寝息を立てている加賀さんを一瞥してから、悪戯っぽい口調になった。僕が反応に困っているのを分かっていながら、オイゲンさんは言葉を続ける。

 

「指揮官。私はね、指揮官のことが好きよ。愛してる。だって、指揮官は命を懸けて私とビスマルクを助けてくれたんだもの。この感謝は一生忘れない。私は指揮官に尽くしたい。この感情を陳腐だと笑うヤツが居たら、その背骨を圧し折って鉄血寮のロビーに飾ってやるわ」

 

「それは、……怖いですね」

 

「私は本気よ。命を懸けてくれた恩人を想うことに、私も命を懸けてみたい」

 

 言われなくとも分かった。オイゲンさんの語る言葉が、冗談でも言葉遊びでもないことは、この場に居れば誰だって分かるだろう。だが、そのオイゲンさんの気持ちに応える術は、消滅を待つ僕には無いのだ。オイゲンさんの情熱を受け取るわけにはいかない。そして、嘘を吐くわけにもいかない。

 

「そのお気持ちは、とても嬉しいです。こうしてオイゲンさんに求められることも、本当に光栄に思います。でも、……申し訳ありません」

 

 息を詰まらせたオイゲンさんが、強く唇を噛むのが分かった。再び、執務室に静寂が訪れる。オイゲンさんは諦めきれないかのように、ぎゅうぎゅうと僕を抱きしめてくる。痛いほどだった。彼女の息が拗ねるように揺れていることに気付く。僕は控えめに苦笑を浮かべて、気まずくなりそうな空気を何とか有耶無耶にできないかと試みたが、無駄だった。

 

 僕は以前、“日常”というものは編まれた糸のようなものだと聞いたことがある。幾人もの人生が縒られて集まり、その一本一本が切れたり離れたり、また別の糸が縒られたりしながら紡がれるものなのだと。もしかしたら今のこの瞬間こそが、その繊維の一本が切れるときなのかもしれない。つまりは、この“日常”の途切れ目の、最初の一つなのかもしれないと思った。加賀さんの寝息だけが変わらずに穏やかだった。

 

「もう先約があるのかしら?」

 

 そのうち、オイゲンさんが寂しそうに囁きながら、僕の膝枕で眠る加賀さんを一瞥した。

 

「例えば、……重桜とか?」

 

「違いますよ。先約なんてありません。ただ、……この戦争が終わったあとのことについて、僕は誰かと、何かを約束できないんです」

 

 それが、今の僕が答えられる全てだった。何かを隠しながら、別の何かを信じて貰おうする僕自身の傲慢さに、自嘲的な苦笑が漏れそうになる。だが、他に言葉が思いつかない。

 

 オイゲンさん達が勝ち取った未来において、消滅を運命づけられた僕は完全に疎外されている。この戦いが終わって新しい時代が訪れ、どのような政治的、軍事的な企てのなかでKAN-SENの皆が動くことになっても、僕は関与できない。

 

 ゲーム大会で盛り上がる“日常”でもなく、言葉すら必要とせずに穏やかに過ぎていく“日常”でもなく、今とは全く違う未来の“日常”へと皆が進んでいく。僕はそれを見送ることも出来ない。ならば僕は、消滅するまでの時間の全てを、指揮官としての役割を全うする為に使うべきだと思う。この場で、オイゲンさんと未来に於ける何かを約束する資格は、僕には無いのだ。

 

「でも先約が居ないのなら、まだ希望はあるわね」

 

 ふふっと軽く笑みを零したオイゲンさんは、いつもの飄々とした調子に戻って言う。だが、その声音はどこか自分を奮い立たせるようにも聞こえた。僕の横顔を覗き込んでくるオイゲンさんは笑みを浮かべていたが、その瞳は潤むような光を湛えている。

 

「僕はもう、何も言いませんよ」

 

 僕は苦笑を返す。それしかできない。

 

「えぇ。何も言わないで。今優しくされたら、多分泣いちゃうから」

 

 冗談めかした笑みを含ませて言うオイゲンさんは、何を思ったのか僕の耳に息を吹きかけてきた。突然のことに、僕はビクリと体を震わせてしまう。抗議しようとオイゲンさんに振り返ろうとしたところで、「むぅ……」なんて低い声が聞こえた。僕が身体を揺すってしまったせいで、加賀さんが眼を覚ましたのだ。

 

「あぁ、す、すみません、加賀さん」

 

 僕は謝りながら、自分の膝へと視線を落とす。眠そうな加賀さんは眼を薄く開けて、僕を見上げていた。そして、僕がオイゲンさんに抱きすくめられていることに気付いたようだ。加賀さんの視線が僕の顔から横へとずれて、オイゲンさんへと移る。

 

「オイゲンか。どうしたんだ、こんな時間に」

 

「私も加賀ちゃんと同じで、指揮官に会いたくてね」

 

「……誰が加賀ちゃんだと」

 

 にこやかにオイゲンさんが言うと、加賀さんが不機嫌そうに顔を歪めて身体を起こした。その拍子に、加賀さんに掛けていた上着がずれ落ちる。オイゲンさんが固まる気配を背中に感じたものの、この時の僕は冷静だったし、状況判断も迅速で的確だった。要するに、僕は俯いて眼を閉じたのだ。そう。僕は何も見ていない。加賀さん上半身が露わになっていても、僕には何も見えない。

 

「ちょっと加賀、上、上」

 

 いつも落ち着いている筈のオイゲンさんの声が、引き攣るように上擦って硬直していた。

 

「んん? 何だ、上?」

 

 加賀さんは寝ぼけた声を返している。僕は無言のままで俯いて、瞑目を貫く。気分は地蔵様だ。何も考えないようにする。やはりこれも瞑想だ。ブレマートン瞑想が役に立つ時が来たのだと思った。役に立つ時など、本来なら訪れるべきではないのではないかという自問も同時に浮かんだ。オイゲンさんが慌てる気配があった。

 

「胸よ。指揮官の前だから隠しなさいって」

 

「ぉ…………!」 

 

 加賀さんが焦ったように動いたのと、衣擦れの音がした。はだけた一航戦装束を整えているのだろう。そこから、加賀さんとオイゲンさんが何かを言い合うのが聞こえた気がするが、僕はそれらを意識に留めず、瞑目した視界に広がる闇に眼を凝らす。“彼女”の存在を感じていた僕は呼吸を整え、集中力を高めながら心の動きを殺しておく。そのうち、「もう部屋に戻るからな!」と、声の調子を外した加賀さんが僕の頭をグリグリと揺らした。目を開いて顔を上げると、顔を赤くした加賀さんが不機嫌そうに僕を見下ろしていた。

 

「えぇ。ちゃんと自室で休んでくださいね」

 

 僕が苦笑まじりに言うと、オイゲンさんも僕を抱いていた腕を解いてから、ひらりと加賀さんに並んで僕を見下ろした。

 

「私も寮に戻るわ。……指揮官も、もう休んでね」

 

「えぇ。オイゲンさんも、おやすみなさい」

 

 僕もソファから立ち上がって、二人へと順に頭を下げる。加賀さんとオイゲンさんは妙な気まずさを引き連れながらも、仲良さげに何かを言い合いながら執務室を出ていく。彼女達の纏う空気は、やはりこの母港の日常のものであり、僕が慣れ親しんだものだった。僕の日常とは、彼女達から貰ったものなのだという思いを強くする。僕は拳を強く握り、開いた。乱れそうになる呼吸を整えつつ、二人の背中を見送る。

 

 執務室の扉が閉まる。

 僕は取り残される。

 この世界が、僕を置き去りにしていこうとしている。

 

 いや、もしかしたら本当はその逆で、僕が世界を置き去りにしていくのかもしれない。僕の消滅とは何か。どのような本質を持っているのか。“彼女”なら、その答えを知っているのではないか。

 

 自身の内面に積み上がっていく自問と憶測を見詰め直しながら、僕はソファの脇に置いていた軍刀を持ち上げる。この鋼の重みと柄の感触だけは、間違いなく真実だと思えた。

 

「久しぶりね。元気そうで何より」

 

 もう何度、この声を頭の中で再生しただろう。“彼女”の声はもう僕の一部となっていて、激しい嫌悪や敵意と同時に、馴染み深い親近感のようなものすら感じた。“彼女”は何もない空間から滲み出すようにして存在を現し、この執務室に割り込んで来ていた。“彼女”は、僕が消滅する前に会いに来ると言っていた。その言葉通り、“彼女”は母港に攻め入って戦うのではなく、あくまで僕に会いにきたのだろう。

 

 今の“彼女”からは、戦意も殺意も、害意も威圧も感じない。ただ、此方に緊張と畏怖を強いる佇まいであり、油断も隙も無い。人智を超える力や技術を従える“彼女”は、やはり冷静な観測者であり、傍聴者だった。

 

「会いたかったわ」

 

「えぇ。僕もですよ」

 

 僕は、自分の執務机を振り返る。“彼女”は──オブザーバーは優雅に執務椅子に腰かけ、コーヒーカップを傾けていた。僕が飲みかけていたコーヒーだ。彼女はそれを美味しそうに啜っている。僕の存在をせせら笑うようでもあり、この場で戦闘するつもりはないという意思表示にも見える。とにかく、忌々しいほどに余裕綽々の態度だ。コーヒーを飲み干した彼女は唇をゆっくりと舐めながら、執務机に身を乗り出すようにして頬杖をついた。

 

「貴方も私に会いたかったの? 嬉しい」

 

 オブザーバーは嫣然として微笑む。彼女の右頬には傷跡がある。あれは以前、僕がつけた傷の筈だ。オブザーバーは頬杖を突いた手で、その頬の傷を愛おしそうに撫でながら僕を見詰めてくる。熱っぽい眼差しだった。ヤンデレという言葉が頭の隅を過るが、どうでも良かった。

 

「えぇ」

 

 僕も知らず知らず、オブザーバーに微笑みを返していた。

 軍刀の柄を握る感触が、僕の存在を証明している。

 

「本当に、貴女に会いたかった」

 


















最後まで読んで下さり、ありがとうございます!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。