少年指揮官の日常 作:トレモ勢
執務室の空気は冷たく沈み、重く体に纏わりついてくる。肌に触れる冷気が、僕の肉体に通う血液から温度を奪おうとするかのようだ。この世界から、僕の存在が刻一刻と遊離していくような感覚に見舞われる。夜の海に沈んでゆく僕の姿が脳裏を過る。いつも埠頭から眺めていた、あの黒々とした海が、とうとう僕を迎えに来たのだと思った。
恐怖は無かった。高揚感が心の中に立ち昇ってくることも無かった。虚しさすら感じない。ただ、来るべき時が来たのだという開放感が胸を満たしていた。オブザーバーに対峙する僕は、微笑みを浮かべている。自分でも分かるが、この笑みは暗く澱んでいるに違いなかった。誰かに見せるべきではない笑みだと分かる。
ただ、この場に居るのは僕と、オブザーバーだけだ。
僕は彼女に遠慮する必要が無い。行儀よくする必要も無い。
潮水の中に沈んでいくような感覚の中で、僕はオブザーバーへと歩み寄る。いつでも軍刀を抜き放てるよう、柄を握り込む。僕の気持ちは、僕の肉体よりも前に出ている。今日、この日までに過ごして来た日々が胸に浮かぶが、僕はその温かい思い出を打ち消していく。切り離して、薄めていく。代わりに、今まで乗り越えてきた夜の昏さを思い起こす。苦悩の記憶を辿りながら、それらは全てこの瞬間の為にあったのだと確信する。
僕はKAN-SENの皆によって救われた。それは間違いない。だが、自分の存在を疑い続けて暗夜の底を這いずり回った日々の記憶は、無かったことにはならない。ローンさんが言っていた。僕の中にも、彼女と似たようなものがあると。多分それは、今の僕の感情だ。殺意と敵意で心を満たしながら、それを発散する機会があれば、嬉々として暴力に身を預ける僕の狂暴性を、彼女は見抜いていたのだと思う。
「ふふ……、貴方って、そんな顔もするのね」
執務椅子に腰かけたオブザーバーが、うっとりとした声を出した。彼女は頬杖をついたままで僕を見詰めている。僕を迎え撃つ姿勢も見せない。防御姿勢も取らない。泰然としている。彼女は生物型の艤装を召び出すこともせず、頬の傷を愛おしそうに撫でている。
「少し話をしない?」
この期に及んで、オブザーバーは悠長に言う。
「……必要ないでしょう」
僕は応えながら立ち止まる。もうオブザーバーに踏み込める間合いだ。僕は膝を曲げて、すっと重心を落とす。居合切りのように軍刀の柄を腰だめに構え、少しずつ前に体を倒していく。オブザーバーから目を離さない。
「貴方にとって大事な話よ」
僕の殺意や害意を煽るように、彼女は楽しそうに言う。
「なら、首だけになった貴女に訊けばいい」
僕は次の1歩で軍刀を抜きながら前傾姿勢になり、2歩目でトップスピードになり、3歩目で執務椅子に飛び乗って、オブザーバーの細い首を左手で引っ掴んで持ち上げた。僕の左手の指が、彼女の喉首に食い込む。オブザーバーの肌はひんやりとしていて、僕の手の皮膚に吸い付いてくるようだった。「んっ……!」一瞬だけ彼女が苦しそうに呻くが、抵抗らしい抵抗を見せない。
それが不穏だった。圧倒的な余裕を見せつけられているのは明らかだった。執務椅子の上で片膝立ちになった僕は、オブザーバーを片手で宙づりにしながら、右手に握った軍刀の切っ先を彼女の顎先に突き付けた。僕は心の中で念じる。
殺す。殺すぞ。こいつを殺す。いま殺す。もう殺す。今なら殺せる。殺せる。だからそうしろ。殺せ。殺せ。さぁ殺せ。はやく殺せ。なにを躊躇している。躊躇など必要ない。何を迷っている。馬鹿なことを。はやく。はやくしろ。はやく。はやくするんだ。殺せ。殺すんだ。
心の中で念じる声は刹那の間に大きくなる。加速していく。僕が、僕自身に命令する口調になる。明らかな必死さを帯びていく。それは僕がオブザーバーの存在に無意識に気圧されている証に他ならず、同時に警戒の証でもあった。
彼女を殺害しようとする意思や、その意思の実現に向けられる強烈な衝動は僕の中で渦を巻き、突き上げるように激しくうねっている。だが、頭の中の冷静な部分から聞こえる『オブザーバーは何かを企んでいるのではないか』という声も、辛うじて僕の意識に届いていた。
「どうして止めるの?」
僕に首を掴み上げられたオブザーバーは苦しげな、しかし、何処か恍惚とした表情を見せながら僕を見下ろしてくる。
「最後までしてくれないのかしら?」
唇を微かに震わせる彼女は艶っぽく言いながら、彼女の喉首を掴み上げる僕の腕に触れてくる。それは気が滅入るほどに婀娜っぽく淫猥な手つきだった。僕が手に力を籠めると、オブザーバーは唾を飲み、薄く喘いだ。肌を重ね合わせる相手を焚きつけるように、彼女の琥珀色の瞳が濡れた光を湛えて僕を見下ろしている。
彼女の目には動揺も焦燥もない。僕の心の内を見透かしているというよりも、こうなることを既に予見していたかのような落ち着きぶりだった。彼女の瞳に映り込んだ僕の顔には、全く余裕が無かった。笑みも消えている。
「……なぜ抵抗しないんです?」
僕は最後まで、オブザーバーの掌の上で踊るしかないのか。その忌々しさと無力感が胸の中で膨らんでくる気配があった。僕はそういった弱気な情動を叩き潰すつもりで、オブザーバーの質問に質問で返す。喉が渇く。唾を飲み込み、オブザーバーを睨み続ける。
「態々抵抗する必要がないもの。物理的に、貴方は私を殺せないわ」
「試してみなければわかりません」
「ふふ……、いつかまた私と遭った時の為に、KAN-SEN達に教えを請い、鍛錬を重ねてきたのね?」
僕は答えず、黙る。その沈黙が可笑しいのか。「隠すことはないわ。私は貴方を観てきた。看視し、注視し、熟視してきたの」オブザーバーは喉を鳴らした。
「でも無駄よ。この頬の傷も、ワザと残してあるだけ」
「何の為に……?」
「貴方が存在した証として」
「反吐が出る」
そこで、オブザーバーがゆっくりと瞬きをした。
「ピュリファイアーやテスター達と、この母港に攻め入る準備はできているわ」
「……この母港のKAN-SENを人質に取ったつもりですか?」
「まさか。この“枝”の彼女たちは優秀よ。練度も高い。人質と言うには物騒よね。……ふふ、貴方は私の言いたいことが分かっているはず」
僕を見透かすように、オブザーバーは唇の端を愉しげに歪める。
「貴方は自身の消滅を恐れていない。一人でこの世界を去る覚悟をしている。……でも、この母港が再び戦場になることを貴方は是としないでしょう?」
彼女の首を掴み上げたまま、僕は沈黙を余儀なくされる。僕の対応次第では、彼女は仲間と共に母港に攻め込むつもりなのだ。KAN-SENの皆が容易く敗北することはないだろうが、母港を戦場にするのは僕が最も避けたいことでもあった。
「それに、貴方が誰かを呼ぼうとしても無駄よ。私はこの場から消えるだけだし、その私を追う術も貴方たちには無い。そうなれば……、貴方が私と接触する機会も永遠に失われる」
オブザーバーは余裕のある喋り方を崩さない。そこに動揺も恐怖も無い。相対する僕は、本当に今更だが、圧倒的に優位に立っているのは彼女の方であることを改めて思い知る。
「ふふ、私と話をする気になった?」
勝ち誇るというよりも、優しく諭すように言うオブザーバーから視線を外した僕は、ため息とも深呼吸ともつかない息を吐くしかなかった。僕は無力だ。彼女の喉首を掴んでいた手を離す。ストンと床に着地した彼女は満足そうな笑みを浮かべながら、僕の指が食い込んでいた自分の喉を右手で摩った。
「話が分かるのね。貴方は賢いわ」
僕は舌打ちをしながら軍刀を鞘に納め、執務机の上から降りる。その時にはもうオブザーバーはソファの方へと歩きだしていて、僕は黙ったままでその背中を見詰めるしかなかった。人の姿をしていながら、明々白々、人間ではない。彼女の纏う得体の知れないオーラが、この執務室を侵食して支配していくようだった。見慣れた執務室が酷く窮屈に思える。
「……話とは何です?」
僕は彼女に半身を向けたままで訊く。
「何だと思う?」
何がそんなに楽しいのか、ゆったりとソファに腰掛けたオブザーバーは声を弾ませて僕を見詰めてくる。頭に血が上っていく感覚があったが、苛立って見せれば彼女を喜ばせてしまう予感があった。
「さぁ。見当もつきませんが……」
僕は再び出そうになる舌打ちを堪えながら、ゆっくりと鼻から息を吐いて彼女に向き直る。
「取り敢えず、……コーヒーでも淹れましょうか?」
僕は、僕自身の存在を圧倒しようとするオブザーバーに対応すべく、この執務室に日常らしき何かを灯そうと必死だったのかもしれない。「あら、嬉しい」などと、オブザーバーは素直に喜んで見せて、ソファに凭れて寛いだ姿勢になる。ただそれだけで、彼女が纏っている得体の知れないオーラが膨れ上がり、僕を飲み込んでくるかのようだ。
恐怖は無かったが、悔しくはあった。僕が過ごしてきた大事な日常の空気とは、セイレーンである彼女達の前ではこんなにも脆いものなのかと、そういった当たり前のことを改めて突きつけられる気分だった。僕は奥歯を噛みながら、せめてもの抵抗のように彼女の分のコーヒーを用意する。
コーヒーを用意している間も、オブザーバーからの視線を背中に強く感じていた。それは僕を監視するような威圧的なものではなく、好奇心と興味からくる眼差しだった。敵意や憎悪が籠もったものである方が、まだ僕も落ち着いたに違いない。コーヒーをソーサーに乗せ、砂糖とミルクを別に添え、オブザーバーの手前に置く。
「ありがとう」
薄く笑みをつくった彼女は自然と礼を述べてくる。僕に屈辱感を与えるような高圧的な態度を取ることも無い。
「あら、貴方の分のコーヒーは?」
「この時間にコーヒーは飲まないようにしているんですよ。明日も早いので」
「ふぅん、そう……。悪いわね。私だけ淹れて貰って」
行儀よくソファに座り、上品にコーヒーを啜るオブザーバーの姿を見ていると、気を張っている僕が間抜けに思えてくる。場違いな緊張を持て余しているような感覚に見舞われそうになるが、その緊張を維持したままで慎重に言葉を選ばなければならないのが、僕の立場なのだと思い直す。
「……それで、話と言うのは」
僕も、オブザーバーの向かいのソファに腰掛ける。カップを手にしたままの彼女が視線を上げて僕を見た。そして、「貴方は3日後に消滅するわ」と断言し、「正確には、3日後の朝」と付け足した。彼女の言葉に動揺しなかったと言えば嘘になるが、狼狽えるほど自分への執着も残っていなかった。
「私達がこの“枝”を剪定して貴方を殺害するまでもなく、貴方はアンインストールされる」
先を促すように、僕は黙ったままで彼女を見据える。オブザーバーが僕を眺める目を細め、口許を優しく緩めた。
「でも、その消滅を免れる方法が見つかったと言ったら、貴方はどうする?」
彼女の言葉を聞いて、僕は自分の心臓が冷たくなっていくのが分かった。救われる可能性に希望を感じるよりも先に、醒めたような分厚い冷静さが僕の感情に蓋をした。
オブザーバーの琥珀色の瞳は動きを止め、じっと僕を映している。それが、僕の反応を監察する目つきだとすぐに分かった。これは罠だと思った。救済をチラつかせることによって僕の心を釣るための、精神の罠だ。そうに違いないと警戒を漲らせる僕の心を見透かすように、オブザーバーは慈しむような笑みを過らせて見せる。
「貴方だって消えたくないでしょう?」
それは確信の籠った口調だった。
「……えぇ、消えたくはありません」
僕も静かに言い切る。
「でも、貴女と何らかの取引をするつもりもありません」
「生き延びる可能性を捨てるの?」
「僕は、セイレーンと命懸けで戦ってきたKAN-SEN達の指揮官です。……その僕が貴女に頭を下げて、自分の命を救ってくれと求める訳にはいかないでしょう」
今まで誇り高く戦い抜いてきたKAN-SENの皆の貴い名誉や、彼女達と過ごして来た大切な日常に、僕は誠実でありたかった。僕は彼女達の御蔭で自分の人生を得たのだ。僕は、僕自身を裏切るわけにはいかない。無力な僕が執れる、唯一の抵抗だった。
「貴女が僕の何を観測しようとしているのかは知りませんが、貴女に用意された救済を受け取るわけにいきません」
オブザーバーは少しの間、僕の目の中を覗き込むような眼差しを向けたままで黙り込んでいた。沈黙の隙間に、彼女が手にしたコーヒーカップからの湯気が揺れる。
「……そう、それは残念ね」
そのうち、オブザーバーは微笑みを崩さないままで僕から視線を逸らした。彼女の声が僅かに揺れていた所為か、本当に残念がっているようにも見える。それすら演技なのかもしれない。どうでもいい。余計なことを考える必要は無い。僕は無力なりに、ただ毅然と彼女の誘惑を跳ね退け続けるだけだ。
「他の“プレイヤー”なら、身を乗り出して私の話に喰いついてくるのに。貴方は可愛くないわね」
「……よく言われます」
「ふふふ、本当に可愛くないわ」
楽しそうに笑みを零したオブザーバーはコーヒーを一口啜ってから、何かを思い出すように視線を下げた。
「今日までに、多くの“プレイヤー”達のアンインストールを何度も観測してきたけれど、貴方のように泰然として消滅を受け容れている者は初めてよ」
彼女の口振りは賞賛とも呆れとも取れ、それでいて少し寂しげな口調だ。そこで僕は思う。恐らくだが、僕の消滅を阻む方法など、本当は無いのではないか。ただ、救済の存在を仄めかし、希望を与え、僕をぬか喜びさせたあとで、そんなものは無い突き放し、より深く絶望させるための罠だったのだと確信する。だが、どうやら真実は違うようだ。僕が黙っているのを見たオブザーバーは、クスクスと可笑しそうに小さく笑う。
「私の言うことを疑っている様子ね。貴方の消滅を他の“プレイヤー”と取り換えることで、貴方の存在を維持することは可能よ。……まぁ、前にも言った通り、貴方のアンインストール自体を阻むことはできないけれど」
「僕が生き永らえる為に、他の誰かを犠牲にし続けなければならないのなら、猶更そんな方法は選べませんよ」
突き放すように僕は言って、オブザーバーを睨んだ。
「……結局、貴女は何がしたいのですか? この“枝”を剪定すると言ってこの母港に攻め入って来た時とは、明らかに態度が違う。どうして僕に執着するのです?」
恐らくだが、僕がオブザーバーの内面について訊ねるのは初めてのことだった。彼女の企てや目的を知りたい思いで発した問いだったが、その意図が全く違って彼女に伝わったようだ。僕の質問自体は彼女も予想していたに違いないが、その受け取り方を誤り、ありもしない文脈とニュアンスを汲み取ったらしい。オブザーバーの態度に大きな変化が起きる。
「それは」
ソファに座ったままのオブザーバーが、一瞬だけ身を引いた。見る見るうちに、彼女が纏っていた異質で巨大なオーラが萎んでいくのが分かった。僕から視線を逸らしながら口許にカップを近づけた彼女は、「貴方のことが、気になって……」などと、急にモジモジとして乙女のようなことを言い出した。
僕はオブザーバーの心情を訊き出したかったわけではないし、セイレーンから好意らしきものを向けられている気配には、困惑や嫌悪したりするよりも疲労感が勝った。本当につい先程まで殺し合い寸前の遣り取りをしていたのに、あれが随分と前のことのように思えてくる。僕は瞼を指で押さえ、「違う。そうじゃない」と言い掛けて、代わりに細い吐息を絞り出した。そういった僕の反応を見ていたオブザーバーが、ムッとした顔になる。
「……何よ、その反応は?」
「いえ、別に」
不機嫌そうに言ってくるオブザーバーに緩く首を振って見せると、彼女は軽く鼻を鳴らした。
「貴方が特異点の因子たり得るかを見極めるのも、私達の役目なのよ」
「その特異点とやらが何なのか僕には分かりませんが、僕の観測を続ける意思が貴女には在った……。だから、僕の消滅を免れる術を授けに、ここへ現れたということですか」
「端的に言えば、そうなるかしら」
「回りくどいことしますね。問答無用で有無を言わさず、僕を拉致するなり方法もあったのではないですか?」
「……他の“プレイヤー”と貴方の存在を取り換えるには、貴方の意思が必要だから。これは、貴方の生命を扱うという話ではないわ。自我や記憶、人格、精神、それら全てを包括する貴方と言う存在を、次元を跨いで維持する……、そういう膨大な規模の精密作業の話よ。貴方の協力が無ければ、それは実現しないのよ」
「キューブ関連の絶大な技術力を持つ貴女たちでも、人の意思までは自由にできないという話ですね」
「……そうやって屁理屈を駆使して、勝手に寓意を捏造するのはやめなさい」
オブザーバーは不機嫌そうに眼を細めた。
「そもそも、神秘の深さというのはスケールに比例しないわ。月や火星にだって行ける人類が、深海の底までを調べ尽くせないのと同じよ」
「なるほど……。次元を跨に掛ける貴女方の深遠な目的などより、この世界にこれから流れる時間の方が、僕にとっては大事であるのと同じですね」
「……同じではないわよ」
「仮に違っても、相似関係にあるとは思います」
自分の意見だけを一方的に言って、僕はソファに凭れて息を吐いた。セイレーン達について調べるうちに、彼女達が僕の想像も及ばないような使命を背負っている可能性は、薄らとではあるが感じていた。だが彼女達の目的に寄り添って協力する姿勢を見せる訳にいかなかった。僕の消滅を誰かと取り換えるということは、僕の代わりに消滅する“プレイヤー”が居るということだ。
その“プレイヤー”が、僕と同じ指揮官であり、僕と同じように母港での任務をこなしながら、所属するKAN-SENの皆との日常を紡いでいることを想う。それと同時に、“アンインストール”、“枝”といった、オブザーバーの語っていた単語が思考を過っていく。僕は、いや、僕たちは、世界という言葉ですら追いつかない、もっと巨大な流れの中の、ほんの小さな雫の一滴を構成する、さらにその一部の粒子に過ぎないのではないか。
此処ではない幾つもの世界が無数に重なりあって、何らかの因果を形成し、その中心を貫くようにして、何か、“オリジナル”とでも言うべき歴史の時間が流れているような、そんな途方もない気配を、オブザーバーの背後に僕は感じていた。
だが、神秘の深さは、そのスケールに比例しないという彼女の言葉に勇気づけられた。僕は、僕自身が過ごしてきた“日常”の尊さは、もう誰にも奪えないのだという確信を得ることができた。
「消える前に、貴女に会えて良かった」
僕は本心から、オブザーバーに言う。消滅を恐れていた頃の、あの暗夜に頭まで浸かる時間も、今日の為に在ったのだと改めて思った。
「えっ」
彼女は驚きの表情を浮かべたが、すぐにそれを誤魔化すようにカップに口を付けた。もう中身は無い筈だが、彼女はしばらくカップを口許に近づけたままで僕を見ていた。
「自分の属する世界に謙虚な感謝を捧げながら、着々と希望や理想を放棄していく貴方の姿を観測していたけれど、……まるで、何かの神に祈りを捧げているようだったわ」
「そんな風に見えましたか?」
「えぇ。熱心に祈りを捧げる、敬虔な巡礼者そのものよ」
彼女たちから見れば、僕は“プレイヤー”の一人に過ぎない。僕が何かに祈りを捧げていたのだとすれば、それはKAN-SENの皆との出会いであり、この世界そのものに対してだろう。彼女達にとっては無数に存在する次元の一つに過ぎないのかもしれないが、僕にとっては、大切な人たちが住まう、掛け替えのない世界だった。
「神に祷る人々は、その日々の感謝を捧げているのだと聞いたことがあります。……多分、僕もそうだったのでしょう」
いずれ消え去るしかない僕が、何らかの役割を引き受けられる幸福は、本当に両手で抱えきれないほどだ。それは胸を張って言える。断言できる。その感謝を、僕はこの母港の日々そのものに捧げていたのだろうと思えた。
「……どうします? もう僕を殺しますか?」
ソファに凭れていた身体を起こし、僕はオブザーバーに向き直る。
「僕は貴方の役に立ちませんよ」
「そのようね。残念だわ」
オブザーバーはコーヒーカップをソーサーに置いてから、ゆっくりとソファから立ち上がる。同時に、彼女の不穏な空気が濃度を増して、執務室を飲み込んでいく。彼女が無遠慮に放つ澱んだ威圧感は、周囲の全てを押し流すかのようだった。僕も軍刀を掴んで立ち上がろうとしたが、それよりも早かった。彼女の背後の空間から青黒い触手が伸びてきて、僕をグルグル巻きにした。手から軍刀がこぼれて床に落ち、硬い音を立てる。僕の身体が宙に浮いていく。
オブザーバーは刹那の間に、あの大型の生体艤装を召びだしていたのだ。触手に捕らえられた僕は俎板の上の鯉よろしく、ただ処理されるのを待つ材料だった。そんな状況でも、執務室のセキュリティは作動しない。母港全体に侵入者を知らせる警報が響くこともなく、静かなものだった。母港の防衛機能に対しては、オブザーバーも何らかの対策を取っているのだろう。
自分の命が、ここで消える予感が在った。やはり恐怖はない。消滅する運命を告げられたあの日から、もう使い果たしてしまったのかもしれない。
「こういう時、将棋では“王手”と言うのかしら」
触手で捕まえた僕を目の前に持ってきたオブザーバーは、頬の傷に触れながら寂しげに微笑んだ。
「もう一度だけ訊くわ。……私達と来る気はない?」
「何を今更」
僕は特に表情を作らずに言う。
「……そう。分かったわ」
オブザーバーはすぅっと眼を細めた。次の瞬間、僕を捕えていた触手がグイっと動いて、彼女の方へと近づく形になる。それと同時だった。薄く目を閉じたオブザーバーが、すっと顔を近づけてくる。全く予想していなかったから反応が遅れる。彼女の冷たい両手が、僕の両頬を包んだ。驚く間も無かった。気付けば、僕は唇を奪われていた。
理解が追い付かず、頭がフリーズする。身体が硬直する。我に返って首を後ろに引こうとしたところで、僕の身体に巻き付いていた触手が動いて、また宙づりにされる。
「ふふ、可愛い顔をしているわ」
僕は、自分の唇に残る柔らかい感触を持て余しながら視線を下げると、ほんのりと頬を染めたオブザーバーが、悪戯に成功した少女のような、それでいて照れを誤魔化すような柔らかい笑みを浮かべていた。上目遣いで僕を見上げてくる彼女は、この執務室に現れた時と同じように頬の傷跡にゆっくりと指を這わせている。
「そういう素直な反応の方が、子供らしくて良いわよ?」
楽しそうに言う彼女を見ると、鎮まりかけていた殺意が蘇ってくる。この触手が解けたら軍刀を拾い上げ、即刻斬りつけてやろうと思った。いや、その前に文句の一つでも言ってやろうとしたが、それも出来なかった。僕の身体を捕まえていた触手がビュンと動いて、僕の身体を執務机の方へと放り投げたからだ。
自分が空中を移動しているのが分かる。視界がブレる。
「あと3日。せいぜい大事に過ごすことね」
オブザーバーの声が聞こえた次の瞬間には、僕は受け身も取れずに執務机の上に叩きつけられ、そこでワンバウンドしてから窓際の壁に背中を強打した。その衝撃で、机の端に固めていた書類の山が崩れ、万年筆などの筆記具や予備のタブレット端末などを床にぶちまけてしまう。
「くそ……っ!」
僕が悪態を付きながら立ち上がると、そこにはもうオブザーバーの姿は無かった。苛立ちを堪えながら首や肩を回すと、ゴキゴキと音が鳴った。痛みはそれほどない。鍛えていてよかったと思うと同時に、物が散らかって悲惨な状況になった執務机の周りを見回して、思わず舌打ちが出た。文句を言ってやろうとしても、その相手はもう居ない。次元の隙間に隠れてしまった。僕の言葉も届かない。
もう一度舌打ちをしいようとした時、僕の頬を撫でるように風が吹き込んできた。なんてことのない、ただの夜風だ。それがどうしようもなく愛おしく感じて振り返る。少し開けていた窓に近づき、夜空を見上げた。そこに在る星々の瞬きは、加賀さんとタブレットで動画を見る前と変わらない。
窮屈さとは無縁の暗い空の彼方を見上げながら、僕は奥歯を噛んだ。僕が消滅に恐怖に駆られ、のたうち回っていた夜も、こんな風に素知らぬ顔で星々は輝いていたのだと思うと、失笑になり損ねた鼻息が漏れた。この世界は頑丈だ。僕が消えようがどうしようが、容赦なく朝は来る。今は夜が更ける途中なのだ。
僕は眼を細めて夜空を眺める。忙しなく瞬くこの星の数と同じくらい次元が並んでいて、その数だけ母港が在って、そこには僕と同じように“プレイヤー”──“指揮官”が居るのだと想像してみる。星の大きさや輝きが其々に違うように、その“指揮官”達の年齢や性別は僕と違うのだろう。もしかしたら、人ではないかもしれない。彼らに会ってみたいと思った。
そして、彼らの母港には、どんな“日常”が流れているのかも想像してみる。のほほんとした平和な時間が流れているのだろうか。それとも、KAN-SENの皆が陣営ごとに対立し、殺し合う世界なのか。セイレーンが『敵』ではなく、味方である世界も存在しているかもしれない。特異点とは何か。その因子とは何か。僕には分からないことばかりだが、僕がどれだけ努力をしても知る由もないことだ。
この母港に僕が存在しているのは、セイレーン達から見れば他愛もない偶然かもしれない。でも、僕にとっては愛すべき奇跡だった。つい先程に聞いた、“大事に過ごせ”というオブザーバーの言葉が、馴染みのある声で頭の中に響いてくる。好きなことを言ってくれると思う。言われるまでもない。
あと3日もある。あと3日しかない。半々の思いで、僕はKAN-SENの皆の顔を思い浮かべる。みんなに会えて僕は本当に幸せだった。僕が消えることで余計な迷惑を掛けないようには準備はしているが、何も言えないままこの母港から去ってしまうことを申し訳なく思う。
僕が最後に言葉を交わすのは誰なのだろう。その最後の最期に、僕は何と言って別れるのだろう。恐らく、『さよなら』とは言わない気がする。『お疲れ様でした』であるとか、『今日も有難うございました』や、『またよろしくお願いします』などだろうか。多分、そんな気がする。もう二度と会えない別れに相応しい言葉を考えてみるが、全く思いつかない。仮に思いついても、それをさりげなく渡すように告げることなど、不器用な僕にはとても出来そうにない気がする。
色々と考えていると、抑えていた感情が静かに溢れてきた。呼吸や体が強張らせる暇もなく、すっと涙が出てきた。加賀さんに涙を見せてから、僕は泣き虫になったと思う。腕で乱暴に涙を拭ってから、僕は夜空から執務室に視線を戻した。散らかりまくった執務机の周りをもう一度眺めてから、この場に居ないオブザーバーに向けて溜息を吐き出した。
「まったく、誰が片付けると思ってるんだ……」
明日も早いのにと悪態を溢してから、僕は無意識のうちにもう一度、深い溜息を吐き出していた。いや、深呼吸かもしれないが、どっちでもよかった。床に散乱した書類を拾いながら、明日の秘書艦はエンタープライズさんと赤城さんだったことを思い出す。この面子だと、途中で加賀さんも執務室に顔を出しに来るだろう。またいつかの時のように、明日の執務室は賑やかになりそうな予感がした。
今回も読んで下さり、有難う御座います!
少し駆け足になってしまいましたが、今回の更新で一応の完結という形にさせて頂きたいと思います。読者の皆様から暖かい応援を頂き、支えられ、こうして最後まで続けることが出来ました。本当にありがとうございます!
強引な内容や描写については、また御指摘、御鞭撻を頂ければ加筆・修正をさせて頂きます。誤字も多く、御迷惑をお掛けしております……。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました!
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