少年指揮官の日常   作:トレモ勢

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※独自解釈を満載にした最終章になります……。
 ご注意をお願い致します……



終編 プレイヤー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 3日目の朝は誰にも会わないつもりでいたので、服を着替えてからすぐに自室を出て、そのまま埠頭へと向かった。

 

 この時間に帰還してくるKAN-SENが誰も居ないことは昨日のうちに確認してあるし、今日の執務は秘書艦をつけず、僕が1人で行うことも各陣営にも伝えてある。

 

 今日1日だけ秘書艦をつけないということに関しては、“このまま優秀な皆さんに仕事を任せていては、自分は楽ばかりする暗愚な指揮官になってしまわないか不安なのだ”と説明した。

 

 完全に納得はしてもらえなかったし、少々不審に思われてしまったかもしれないが、半ば強引に、今日の秘書艦業務は停止して貰った。

 

 幼稚な子供の我儘ぐらいに思って貰えれば、僕としても気が楽だった。僕が消滅することを軍の上層部が知っている様子だったことも、驚くよりも先に、話が早くて有難いと思った。昨夜、携帯用端末に連絡があった。端末の向こうから響いてくる声が、酷く強張っていたのが印象に残っている。

 

 “君が居なくなったあとのことについては、既に準備が整ってある”

 “母港に所属するKAN-SEN達は、可能な限り手厚く遇する”

 

 僕に伝えられた話を要約すれば、この2点だった。

 

 端末の向こうから届く男の声は、何かに怯えるように震えながらも、有無を言わさない口調だった。この時、端末の向こう側で女性が薄く笑うような声が聞こえたのは、絶対に聞き間違えではない。位置的には、男の声の背後から、滑り混むようにして聞こえてきた。

 

 明らかに僕に向けて放たれている筈のその女性の声は、やけに遠くに感じた。僕は、男の声の背後に意識を向けて、舌打ちをしそうになった。聞き覚えのある声だったからだ。

 

 “貴方がアンインストールされても、見捨てられたデータ……、いえ、この世界が消えてしまわないよう、私が細工してあげる。プレイヤーである貴方は私に感謝し、そして安心して、自身の消滅を迎えると良いわ”

 

 たっぷりとした余裕を含ませたその声は、僕を苛立たせたが、同時に、胸の中から暗い戦慄が這い上がってくるのも感じた。軍の上層部がセイレーンと繋がっている。そんな陰謀論めいた噂は今までも聞いたことはあった。携帯用端末越しに、この世界の裏側にある何か重大な秘密らしきものと接触したような、不気味な気配を感じた。

 

 “あぁ、それと……。”

 

 男の声の背後から囁くように響いてくる声は、悪戯っぽく笑うみたいに、ふっと柔らかく膨らんだ。

 

 “もう一度キスをしてほしかったら、このままオブザーバーお姉ちゃんと呼んでみて? ”

 

 僕は即座に通話を終了して、携帯用端末を踏み潰した。まだ男の声が何かを喋っていたような気もするが、それがどうしたという感じだった。

 

 あの通信があって、肩から余計な力が抜けた。退官手続きの準備はしていたが、それらの書類もすべて処分した。もう必要ない。僕の消滅は、上層部の都合の良いように処理されるだろう。行方不明か。失踪か。それは不名誉なことだろうが、仕方がない。誰も憎めない。

 

 セイレーンと通じ合った者達にしか取れない責任や、彼らにしか果たせない役割もあるはずだと思った。その為に、自ら悪徳を担うことを選んだ者だっているだろう。誇り高い選択だ。そんな人たちに、誰が何を言えるのか。

 

 KAN-SENの皆の居場所があり、そこで彼女達が生きる時間も糧も役割も約束されるなら、もう何でもよかった。その重大な約束の履行を、セイレーンという巨大な存在が保証してくれるかもしれないとさえ思えた。

 

 この暗い安堵が、人類に背くような醜い歪みを含んだものであったとしても、僕にとっては希望だった。この母港の基地機能の為に出来ることなど、僕にはもう何もないのだから。

 

 僕が身につけている指揮官服も飾りでしかない。だが、最後の瞬間に相応しい身なりは何かと考えると、この服装しか思いつかなかった。

 

 

 埠頭について、白み始めた空を見上げてみる。

 

 今日は曇りだと言っていた筈だが、よく晴れていた。埠頭に立った僕を包むようにして、潮の匂いのする風が通り過ぎて行った。薄く紫がかった彼方の彼方に、朝焼けの迫る水平線が僅かに赤く燃えている。夜には黒々としていた暗い海が、澄んだ蒼さを取り戻そうとしている。

 

 綺麗だなと、平凡なことを思う。

 

 自分の感情に蓋をするようにして夜の海を眺めることは多かったが、この時間の海や空を眺めたことは無かった。今まで見たことのない、海と空の表情だった。

 

 ……いや。そうじゃない。違う。

 

 多分、僕は今までも、この景色を眺めた事が在るはずだ。でも、この場所から朝の海を落ち着いて眺めて、綺麗だと思うような心の動きを、自分で握り潰していたのだろうと思った。

 

 少し強めに、風が吹いていく。

 足元のコンクリートの感触に意識を向ける。

 手を握る。開く。呼吸をする。海の匂いだ。

 陽が昇ろうとしている。朝がくる。

 瞑目して、この母港での日々を振り返る。

 

 今までも何度もしてきたように、ゆっくりと記憶を辿り直す。瞼の裏の暗がりに目を凝らす。そこには、僕が過ごしてきた時間は幸福であったのだと、自分自身に証明できるだけの贅沢な思い出が、ぎっしりと詰まっている。

 

 余すところなく味わうには、時間が足りない程だ。KAN-SENの皆を置き去りにしていくくせに、身勝手な幸福だと自分自身でも思う。

 

 消滅を待つ今の僕は、徹底的に自由だった。

 この世界のあらゆる関係性を剥奪されて、引き剥がされ、遊離している。

 寄る辺なく大海を漂う小舟のような、そんな感覚だった。

 

 だが、頼りない希薄な感覚の中でも、やはり自分自身に嘘はつけない。

 消滅を待つだけだった筈の僕は、KAN-SENの皆に救われた。

 

 そして、自分の人生を得た。彼女達から貰ったのだ。

 その幸福は、例え誰であっても、僕から引き剥がせない。

 

 消滅を前に、僕は泣くのだろうと思っていた。

 でも、涙は出てこない。不思議と落ち着いている。

 目の前の海の穏やかさに応えるように、僕の心は静かだった。

 

 だからだろう。

 

「指揮官。此処に居たのか」

 

 背後から彼女に声をかけられても、動揺はしたものの怯まずに済んだ。誰にも会うつもりはなかったが、誰にも会いたくないわけではなかった。

 

 僕は、彼女を追い払うべきなのだろうか。それとも、ただ流れに任せて、最後の日常をこの場に灯すべきなのか。どんな表情をしていいのかさえも分からない。

 

 優柔不断の手本のようだと、いつか加賀さんに笑われたことを思い出しながら、僕は曖昧な笑みをつくって振り返った。

 

「おはようございます。……エンタープライズさん」

 

「あぁ。おはよう」

 

 颯爽としたエンタープライズさんは僕に短く挨拶をしてから、周囲を見回した。

 

「こんな早朝に、埠頭に用事でもあったのか?」

 

 エンタープライズさんは不審そうに言いながら、僕に向き直った。彼女の声音は硬い。尋問するような響きがある。白みかけた空が見下ろす埠頭には、僕とエンタープライズさんの2人だけだ。冷えて澄んだ風が、僕たちの間を通り過ぎて行った。

 

「いえ、用事が在ったわけではないのです。ただ、母港の中でもこの場所には思い入れがあるので。時間があると、つい足を運んでしまうんです」

 

「む、そうか……。それなら、いいんだが」

 

 微妙に歯切れ悪く答える彼女は、今の状況に不自然さを感じているのか。眉根を絞っている。

 

「エンタープライズさんは、どうして此処に?」

 

「あぁ。少し、指揮官のことが心配になってな」

 

 彼女の言葉に、軽く息が詰まった。

 それでも、僕は曖昧な笑みを保っている。

 

「秘書艦を外すと言い出したのも急に思えたし、昨日の夜から携帯用端末も繋がらなかったからな。それに……」

 

 エンタープライズさんは、そこで言葉を探すような間をつくった。水平線からの光は明るさを増し、僕と彼女の影を、少しずつ伸ばしていく。

 

「……昨夜、私の端末に妙なメッセージが届いたんだ。“明日のこの時間に、埠頭の隅に向かった方がいい。行かねば必ず後悔する”とな」

 

「そう、ですか」

 

 僕は自分の表情が僅かに歪むのが分かった。そのメッセージとやらは、きっとオブザーバーの仕業だろう。嫌がらせかと思った。或いは、この世界を持続させるために必要なプロセスなのか。判然としない。最後の最期まで、僕は無力の象徴ではないか。

 

「なるほど……。それで、此処に来られたんですね」

 

 零れかけた失笑を飲み込み、僕はエンタープライズさんから視線を外した。身体の半分を海に向ける。ちょうどその時、水平線から光が溢れ出してきた。その瞬間を待ちわびていたかのように、空は青く澄み渡り、海も蒼さを深めて輝きを宿していく。

 

 地上を横薙ぎに照らす陽の光の美しさは、圧倒的に平等で、容赦も無く、穏やかで、どこまでも無差別だった。誰も逃げられない。明け方の彼方から差してくる光は、僕に掴み掛かるように半身を照らした。

 

 この世界が、僕を迎えに来たのだと思った。

 

「指揮官。あのメッセージは、どういうことなんだ?」

 

 そう言って僕を見下ろすエンタープライズさんの目は、酷く強張っていた。声も硬く、不安が滲んでいる。悪い予感を抱いている様子だった。

 

「何か知っているのなら、私にも教え──」

 

 そこまで言ったところで、エンタープライズさんは目を見開き、身体を硬直させた。彼女は僕を凝視している。僕も、自分の身体を見下ろしてから、両の手を順番に眺めてみた。

 

 僕の身体が、陽の光に透けていこうとしている。いや、ただ透明になり始めただけではなかった。

 

 エンタープライズさんの眼差しを受け止める僕の身体は、柔らかい朝の陽の光を受けながら、光の粒子となってサラサラと風に塗されていこうとしている。

 

 エンタープライズさんの影は光の中で濃さを増すのに、僕の影は逆にだった。コンクリートの上に垂れ落ちる日光に、僕の足元の影は、白く、少しずつ溶かされていく。それも、嫌味なほどにゆっくりと。

 

「……そのメッセージは多分、僕の大嫌いな人からのものですよ」

 

 彼女に応えた声が震えていなくて、僕はこっそりと安堵した。

 

 今の僕が最後にすべきことは、エンタープライズさんに動揺や恐れを見せないことだと思ったからだ。それはただの幼稚な意地であり、無意味な振る舞いかもしれない。

 

 だが、この去り際にこそ僕は、僕という存在の結論として、この母港の“指揮官”として在らねばならないと思った。

 

「し、指揮官……、身体が、手が……ッ!」

 

 エンタープライズさんの声音には狼狽が見えた。だが、彼女は取り乱したりはしなかった。彼女は自分のすべきことを即座に見つける。そこに善悪も正誤もない。殺戮も撤退も躊躇しない。厳粛な戦場で培われた冷静さなのだと思う。

 

 彼女は僕に駆け寄り、僕の肩を掴もうとした。何か、見えないものから僕を奪い返そうとするかのような、必死な手つきだった。だが、エンタープライズさんの手は、僕の肩をすり抜けていった。彼女の態勢が前に泳いだ。咄嗟に彼女を支えようとした僕の手も、彼女の肩や腕を通り過ぎていた。

 

 本来なら有り得ない現象だ。だが、僕は驚かなかった。驚いてはいけないと思った。ただ、自分に起きていることを観察して、“指揮官”として在るための言動を意識した。

 

 感情を抑え込むことには、もう慣れていた。この場で眺め続けていた夜の海が、夜に浸かりきっていたあの暗い時間が、僕を支えてくれていた。

 

 あの暗鬱とした時間もまた、僕の人生なのだと思った。

 

 僕は透けた身体を引くようにして、エンタープライズさんから少し離れる。僕の身体に埋まっていた彼女の腕が抜けていく。その途中で、彼女と目が合う。顔色を失った彼女が驚愕し、浅い呼吸を繰り返していた。彼女の瞳の中には戦慄と怯えが混ざり合い、激しくうねっているのが分かった。

 

「……し、指揮官」

 

 彼女の震える唇から漏れたのは、掠れながら零れる呼吸に混じった、弱々しい声だった。エンタープライズさんは、潤むような瞳を盛大に揺らし、僕を見つめている。

 

「指揮官、待ってくれ……」

 

 今の状況を理解することも覚束ない様子の彼女だが、何が起ころうとしているのかは、もう察しているようだった。そうでなければ、“待ってくれ”という言葉は出てこない。

 

 僕は、この場で何らかの感情を選んではならないと思い、出来るだけ穏やかな表情を浮かべようとしていた。和やかな笑みでもなく、悲痛な悲しみを見せるでもない。どの感情にも分類されない種類の表情を探しながら、緩く首を振った。

 

「すみません。出来れば、僕もずっと皆さんと一緒に居たいと思うのですが」

 

 言いながら僕は、無表情と笑顔の中間にあるような表情を浮かべていたと思う。この曖昧な無表情を維持することで、何か、僕が過ごして来た日常らしい時間が、少しでも流れるのではないか。そんな浅はかな期待もあった。当然だが、そんな筈も無かった。

 

「指揮官は何処に……、何処に行くと言うんだ」

 

 小刻みに揺れる声で言うエンタープライズさんは、もはや狼狽することすらできないまま、強張りきった目を僕に向けてくる。動揺から懸命に立ち直ろうとしている途中なのかもしれない。

 

「……正確には、どこにも辿り着かないのかもしれません」

 

 はぐらかすような答えしか、僕は持っていない。でも、嘘は言いたくなかった。消えた僕が何処に行くのか。それは、ロウソクから消えた火がどこに行くのかという問いかけに似ている。答えようがない。僕は曖昧な表情のままで沈黙するしかなった。

 

「私達を置き去りにするつもりなのか……」

 

 エンタープライズさんが、僕を責めるように言う。恨みがましくて、それでいて、縋るような声音だった。僕は答えず、ただ、彼女の視線だけを受け止めていた。僕が黙っていても、僕の身体は消散を続けている。

 

「……僕自身、もう随分と抵抗してきたのですが、この現象を止める術がないというのが現実でした」

 

 僕という存在は薄れながら光の粒となって零れ落ち、吹いてくる潮風に混ざって溶けていく。その速度は、やはり嫌味ったらしく、ゆったりとしたものだった。まるで、僕の消滅をエンタープライズさんに見せつけるかのように。

 

 朝の光が差し始めた埠頭の景色は美しいはずなのに、僕とエンタープライズさんの間には、どうしようもなく陰鬱で、片付けようのない悲痛な気配が立ち込めている。

 

「また、会えるんだろう?」

 

 エンタープライズさんは、浅い呼吸を繰り返している。彼女の声の隙間には、泣き出す寸前のような、か細い吐息が紛れていた。多分、今の僕が何を言っても嘘くさくなるだろうし、真心が籠っているようには聞こえないだろう。

 

「そう……、ですね。会えるといいですね」

 

 不真面目な答えかもしれないが、僕は真剣だった。間違いなく本心だった。今にも泣き出しそうな彼女の横顔を、水平線から差す陽の光が照らしている。僕は、嘘を吐きたくなかった。誠実でありたかった。

 

「どうしてだ……」

 

 俯き、呟くように言ったエンタープライズさんが、ぎりりと奥歯を噛み合わせる音がした。彼女は肩を震わせ、両手の拳を握っている。爪が食い込み、指の隙間から血が流れていた。彼女の足元の影は、その血を吸いながら、朝日に染まる埠頭のコンクリートの上で濃さを増していく。

 

 代わりに僕の影は、より薄くなっている。

 陽の光さえも、僕を素通りしていく。

 

「どうして、貴方はいつも……、そんな他人事のように……!」

 

 エンタープライズさんの声の中に、静かな怒気が灯った。

 

「貴方は私達の指揮官なんだ。勝手なことは許さないぞ」

 

 こちらを鋭く睨み据えてくるエンタープライズさんの姿を、僕は懐かしいと思った。初めて会ってすぐの頃、僕はよく、作戦や指揮に関して、こうしてエンタープライズさんに詰め寄られていたように思う。

 

 僕には、勇気が足りないのだと。

 

 あの頃のエンタープライズさんは、他の追随を許さないほどに、KAN-SENという戦力であろうとしていた。そんな彼女にとってみれば、僕のような未熟な者が指揮官であることに耐えがたい苦痛を覚えていたとしても自然ではあった。僕も納得していた。

 

 その上で、仲間を想いながら、誇り高く戦いつづけるエンタープライズさんを尊敬していたし、無事な帰還を願っていた。

 

 “強力なKAN-SEN=エンタープライズ”ではなく、彼女という“個人”を眩しくも思っていた。

 

 今の彼女の怒りの出発点は、エンタープライズというKAN-SENのものか。それとも、彼女自身のものなのだろうか。どちらにせよ、消滅の最中にある今の僕にはとっては、嘘偽りのない真心の籠ったものに感じた。

 

「やはり貴方は一人にしておけないな。見ていられないんだ。これからは私が傍に居て、その悠長でのんびりとした態度を矯正してやる。悪いが、私は本気だ。厳しくいくぞ。さぁ、そろそろ仕事の時間だ。戻るぞ」

 

 口調を引き締めたエンタープライズさんの頬に、涙が伝っていた。彼女は僕の腕や肩を、再び掴もうとした。だが、血に濡れた彼女の掌は、やはり僕の身体をすり抜けていく。

 

「くっ、……ぐうぅぅっ……!」

 

 奥歯を噛みしめ、獣のように唸るエンタープライズさんは、諦めようとしない。何度も何度も両手を動かし、僕を掴もうとしている。

 

「エンタープライズさん、もう、やめて下さい」

 

「駄目だ……っ! まだ、私には貴方が必要なんだ!」

 

 彼女の声の中にあった怒気を塗り潰したのは、恐怖か、悲しみか。

 

「せっかく、指揮官が私達に心を開いてくれたのに……! 何もかもが、これからじゃないか!」

 

 彼女の手が、透けていく僕の身体の中をかき回す。それでも、接触することはない。僕の体温も、彼女の体温も、徹底的に空回りしている。噛み合う気配が一切ない。

 

 エンタープライズさんの必死さを肯定するでもなく、憐れむでもなく、嘲笑うでもなく、陽の光は温もりを増していく。

 

 僕が消滅したあとの、新しい“日常”が始まろうとしている。

 

 今まで越えてきた陰鬱な夜に、僕はもう引き返せない。

 

「エンタープライズさん」

 

「黙っていてくれ……! 私は……!」

 

「もう、やめましょう」

 

「断る! せめて、助けてと言ってくれ!」

 

「……やめるんだ。エンタープライズ」

 

 僕は表情を消して、“指揮官”として少しだけ語気を強めた。

 

 ビクッと身体を震わせたエンタープライズさんが、息を詰まらせて後ずさる。行き場を失って彷徨う彼女の両腕は、咄嗟に敬礼の姿勢をとろうとしていたようだが、すぐに力なく下がっていった。

 

 打ちのめされたように怯んだ彼女の目は、潤みながら僕を見ている。下唇をぎゅっと噛んだ今のエンタープライズさんは、小さな子供が叱られて、しゅんと小さくなる寸前のようだった。僕は、緩く首を振る。

 

「この体が消えても、僕は、この母港のすぐ近くに居る」

 

 僕の言葉には、やはり嘘くさくて仕方なかった。こんなことしか言えない自分が不甲斐ない。だが、ここで僕まで感情のバランスを失えば、エンタープライズさんの感情まで行き場を失ってしまう気がした。

 

 あのVRの桜吹雪の中で、加賀さんが僕にくれた優しさを、エンタープライズさんに手渡す思いで言葉を続ける。

 

「だから泣くな。これが、最後の命令だ」

 

 そこまで言葉してから、僕は何を偉そうなことを言っているのかと、自己嫌悪に近い恥ずかしさで顔が歪んできた。失笑の絞り滓のような息が漏れる。溜息と深呼吸が、一緒に漏れたような感覚だった。威厳と言う言葉は、本当に僕に似合わない。

 

「……偉そうなことを言ってしまいましたね」

 

 僕が苦笑を浮かべると、エンタープライズさんは腕で涙をぞんざいに拭い、それから僕を睨みつけ、何かを言いたそうに唇を動かした。だが結局、何も言わずに、強く唇を噛んで俯いた。自分の唇を噛み千切ろうとするかのようだった。彼女の両手も、羽織ったコートを万力のように握り締めて、ぶるぶると震えていた。

 

 僕とエンタープライズさんの沈黙の間を素通りするように、また海から風が吹いてきた。透明な風は僕を無視するように通り抜けてから、俯くエンタープライズさんの銀髪を優しく揺らした。

 

 僕と彼女は同じ場所に立っていても、もう違う場所に居るのだと改めて思った。

 

 僕は海の方へと視線を向け、透けていく掌を片方だけ翳した。その透けた掌から見える水平線は眩しかった。僕の消滅など、この世界にとっては大した事ではないのだ。そのことが心強く、頼もしかった。

 

「指揮官」

 

 エンタープライズさんが顔を上げて、僕を呼んだ。

 

 声も揺れていない。強力なKAN-SENとしての使命を背負った、凛然とした声だった。彼女は僕を睨んでくる。身勝手に消えていく僕を責めて、憎悪するかのように。彼女の濡れた目が、じっと僕を映している。エンタープライズさんは、きっと僕を許さないだろうと思った。彼女が呼吸を整えるような間があり、その間も、澄んだ静寂が埠頭を押し包んでいた。

 

「指揮官」

 

 普段の落ち着きを取り戻した様子のエンタープライズさんが、もう一度、僕を呼んだ。その言葉の響きを、確かめ直すようだった。

 

「そんな命令は、きけない。ぅ、だっ……、だって……」

 

 そこで、僕を睨み据えるエンタープライズさんの凛とした表情が、くしゃくしゃになった。

 

「泣くな、だ、なんて、……む、無理。だっ。そ、んな、のっ……!」

 

 ぽろぽろと大粒の涙を溢れさせたエンタープライズさんは、お腹のあたりでコートを両手で握り締め、全身を強張らせて、しゃくりあげるように言う。鼻水も、よだれまで流して、エンタープライズさんが泣いている。

 

 さっきまでの凛然とした、軍属のKAN-SENとしての雰囲気など、完全に崩れ去ってしまった。まるで、小さい女の子のような泣き方だった。

 

 その余りに激しい感情の発露には、僕も為す術がなかった。消滅に際している筈の僕の方が狼狽えてしまう。何か声をかけようとしても、あたふたとしたものになってしまいそうだ。

 

 彼女にかけるべき言葉も見失っている僕は、最後の最期まで無力の象徴だった。

 

「指、揮官の。所、為だぞ……!」

 

 新しい涙を流し続けるエンタープライズさんは、咽び泣きながら言う。

 

「私が……、純粋に。KAN-SENとして、生きて……、いたら、こんな命令、は……簡単に、遂。行できたんだ……。仲間が、沈むこと……にも、覚悟が。出、来ていた……。私は、エンタープライズとして、在り続けることが、……出来て、いたんだ。なのに。今は、出来な、くな……ってしまった」

 

 彼女の涙声をそっと包むように、また海からの風が吹いた。この美しい朝焼けの景色が、エンタープライズさんを慰めようとしているようだ。そう思いたいのは、ただ突っ立ってることしかできない無力な僕の、軽率な妄想だろうか。

 

 エンタープライズさんは頬を伝う涙を拭わず、洟を啜ることもせず、全身をひきつらせて、必死に言葉を紡いでいる。

 

「指揮官の、所為で、私は、こ、……んなに、泣き虫に、なっ……てしまった。貴方の、所為で……!」

 

 魂を吐き尽くすかのように声を絞り出したエンタープライズさんは、自分の涙に引き摺られるように俯き、そのあと、崩れ落ちるようにして両膝をついた。

 

 “私をこんな風にしたのは貴方だ”。

 

 その言葉は、“KAN-SENとしてのエンタープライズ”さんのものであり、あの涙こそが、KAN-SENという属性から切り離された、“彼女という個人”のものなのだと思った。

 

 今まさに、僕はエンタープライズさんの全てを受け取っていた。愛情も憎悪も、感謝も恨みも籠っていた。複雑な感情を複雑なまま、僕は受け止めなくてはならないと思った。

 

 僕は、膝をついたエンタープライズさんに、何か言葉をかけようとした。だが、この沈黙に背を押されるようにして言葉をかけるのは憚られた。朝の光は、もう十分に世界に満ちている。僕の呼吸までもが、薄い光の粒子なって溶け始めていた。

 

 今の僕は、エンタープライズさんに触れることもできない。彼女の涙を拭うことも出来ないし、彼女達の未来からも疎外されている。

 

 今日から先の日々は──新しい“日常”は、彼女達のものだ。僕の居場所などない。ならば、無能な指揮官としての僕の最後の言葉は、さっきの命令で十分ではないか。

 

 また風が吹いてきた。今度は、一際強い風だった。まるで、僕とエンタープライズさんの会話が終わるのを、待ち侘びていたかのようだ。

 

 ゆっくりと目を閉じてみると、KAN-SENの皆の顔が浮かんだ。限りない感謝の気持ちが胸に満ちた。僕だけが未練から解放され、気儘に消滅するような今の状況は、本当に申し訳なく思う。

 

 ありがとう。

 ごめんなさい。

 

 熱く湧いてくる感情と温かな思い出が、僕の頭の中で渋滞している。

 

 さようなら。

 お元気で。

 

 そんな単純で素直な言葉が、次に脳裏を過っていく。

 僕はこの場で、泣きたくなかった。

 

 僕はエンタープライズさんに背を向けて、海の方へと埠頭を歩く。

 

 エンタープライズさんが立ち上がり、僕を呼ぶ声がした。彼女の悲愴な声は、透明になった僕の背中に突き刺さった。痛いと思った。でも、力が入った。そうだ。僕には勇気が足りなかった。

 

 でも、今はどうだろう。

 

 僕はエンタープライズさんの声を背中に突き刺したままで、駆け出す。

 

 僕の身体は、もう殆ど消えかかっている。身体の感覚も、ひどく遠い。それに、なんだか眠い。僕は意識を搔き集める。薄れていく思考を握り締める。

 

 彼女が、また僕を呼ぶのが分かった。

 僕は振り返らない。振り返ってはいけないと思った。

 

 エンタープライズさんは、僕が消えたあとの、続きを生きるのだから。こんな時に、彼女の──いや、彼女達の人生が幸福であって欲しいと祈るのは、卑劣で、臆病なのかもしれない。でも、そう願わずにはいられなかった。

 

 消滅を前にした僕以外のプレイヤーも、──セイレーンから“祈る者”と揶揄された指揮官たち──も、消え去る刹那には、KAN-SENの皆の未来を切実に祈ったのではないか。彼女達の未来を祈りながら其々にアンインストールされ、己の存在を、この世界に明け渡してきたのではないか。

 

 僕の身体も、もうすぐ消える。

 澄んだ朝の光と、潮風の中に塗されて、崩れていく。

 一歩足を出すたびに、僕は、僕でなくなっていく。

 蒼い海が近づくにつれて、僕の大切な想い出と記憶が――。

 ばらばらに解けて、曖昧になる。

 

 僕は、誰だ。

 そうだ。僕は、プレイヤーだ。

 それは、分かる。まだ……。

 

 でも、この声は……? 

 誰かの声が後ろから聞こえる。

 この女性の声は、……誰の、声だろう?

 いったい誰が、こんなにも必死に僕を呼んでくれているのだろう?

  

 濡れるような、悲痛な涙声。

 追い縋ってくるような、懸命な声で。

 

 僕にとって、とても大事なひとの声だったはずだ。

 でも、それが誰のものなのか分からない。

 

 立ち止まって、振り返って確かめたい。

 でも、駄目だと思った。

 

 立ちどまってはいけないということだけは、分かった。

 もう、戻ってはいけないのだ。

 

 足を動かす。重力が消えそうになっているのを感じる。

 走る。呼吸が消える。身体の感覚が消えていく。

 それでも、僕は走った。埠頭の縁から、海に向かって跳躍する。

 この景色そのものの中に、僕の祈りを叩きつける思いだった。

 

 晴れた空が、光の粒となって解けていく僕を見下ろしている。

 

 埠頭から跳んだ僕は、肉体の輪郭を失いながら、空中で目を閉じた。

 自分自身を握り締めるつもりで、遠のく感覚の中で拳をつくる。

 足元に漫然と広がる海面との距離を、やけに遠くに感じた。

 あの冷たい潮水の感触は、もう永遠にやってこない気がした。

 

 遠くで、誰かが僕を呼び――。

 新しい日常が、彼女に応える。

 

 













最後まで読んで下さり、ありがとうございました!


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