少年指揮官の日常 作:トレモ勢
「指揮官様、お茶が入りました」
今日の秘書艦である赤城さんが、僕の執務机の端に湯飲みを置いてくれる。上品な茶托に載った湯飲みからは湯気が上り、とても良い香りが広がるのが分かった。
「昨日も夜遅くまでお仕事をされていたのでしょう? 少し休憩なさって下さい」
僕の傍に立つ赤城さんは目許を緩め、艶のある声で優しい言葉をかけてくれる。執務用の椅子に座ったままの僕は、恐縮しそうになりながら赤城さんに頭を下げた。
「あぁ、ありがとうございます」
「羊羹もあるぞ。食べると良い」
僕が礼を述べるのと、加賀さんがお茶菓子を用意してくれるタイミングが重なる。「すみません。いただきます」と加賀さんにも礼を述べて腕時計を見ると、いつの間にか午後の3時を過ぎていた。
窓から入り込んでくる陽射しの色にも、僅かに橙色が滲んできている。じきに夕刻だが、片付けなければならない仕事は、赤城さんと加賀さんの御蔭で大方終わっていた。
「書類も殆ど処理できましたし、お二人も休憩を取ってくださいね」
お願いするように僕が言うと、赤城さんは微笑みを深めて「はい♪」と頷き、加賀さんも目許を緩め「そうさせて貰おう」と頷いてくれた。秘書艦としての彼女達の仕事ぶりは優秀というより他なく、未熟な僕が二人の足を引っ張ってはいないだろうかと緊張と不安を感じる程だった。
秘書艦用の執務机に戻った二人も、品のある仕種で自分たちの湯飲みに口をつける。会話が無くなるが、決して気まずい静けさでは無かった。夕暮れ前の陽射しに暖められた執務室に、穏やかな時間が流れ始める。
「……美味しいですね」
赤城さんが淹れてくれたお茶を一口啜り、僕は思わず、そう呟いていた。
「指揮官様の御口に合って、良かったですわ」
僕の呟きが聞こえていたのだろう。赤城さんが僕の方を見て、艶美な微笑みを浮かべていた。ただ、「あぁ、そう言えば……」と、何かを思い出したかのように言葉を続けた赤城さんの目の奥は、笑っていないように見える。
「指揮官様は先日、ロイヤル寮の庭先で行われたお茶会に出られたそうですね?」
赤城さんの声音は穏やかだったが、彼女の紅い瞳は僕をじっと捉えたままだ。
「あぁ、はい。あの日は確か、ベルファストさんと、グロスターさんが秘書艦をしてくれた日で、二人が僕を誘ってくれたんです」
ロイヤルのメイドであるあの二人も、赤城さんと加賀さんに負けない程に──卑屈になるわけではないが、未熟な僕にとっては肩身が狭い程に秘書艦として優秀で、いつも仕事が早い。
「ふふ、そうでしたか。あの二人が……」
声のトーンを落として言いながら、すぅっ、と眼を細めた赤城さんが僕から視線を外し、酷薄そうに唇の両端を釣り上げる。だがそれは一瞬の表情だった。すぐに上品で温和な微笑みに戻った赤城さんは、僕に視線を戻した。そして、力の籠った眼差しで見詰めてくる。
「ロイヤルの紅茶と、この赤城のお茶……、指揮官様は、どちらが美味と感じますか?」
そう訊いてきた赤城さんの声音は穏やかでありながらも、先ほどまでとは違い、何処か剣呑な雰囲気が滲みだしていた。いや、剣呑さと言うよりも、焦燥だろうか。赤城さんの尾がザワザワと不穏に揺れている。
加賀さんが湯飲みを持ったまま目を細め、僕と赤城さんを交互に見たのが分かった。僕は赤城さんの質問の意図が見えずに、「えぇと」と戸惑うが、答えは一つしか無かった。
「そ、そうですね。両方とも、とても美味しいので……、どちらが美味しい、というふうに言い切ることは僕には出来ません」
僕が赤城さんに答えると少しの沈黙が在り、すぐに「私の思った通りの答えだな」と、加賀さんが喉を低く鳴らして笑った。
「優柔不断のお手本のようだぞ、指揮官」
大人びた姉が、年の離れた弟の悪癖を嫌味無く笑うような口振りだ。それが妙に気恥しく、くすぐったかった僕は「そ、そうでしょうか」と歯切れ悪く言いながら、頬を指で掻きながら加賀さんから目を逸らす。
優柔不断と言われても、それは濁りけのない僕の本心だった。赤城さんは何かを言いたげな顔をしていたが、一つ息を吐きだしてから視線を落とした。
「……そうね。指揮官様なら、そう御答えになるわよね」
自分に言い聞かせるように小さく洩らしてから、赤城さんは僕に向き直る。そして、一瞬だけ視線を彷徨わせたあと、何かを決心するかのように一つ息をつき、僕の眼を真っすぐに見詰めてきた。
「この赤城、指揮官様にお願いが在ります」
赤城さんの眼差しには、僕の瞳の中にある何かを確かめようとする真剣さに満ちている。思わず背筋が伸びた。
「は、はい。何でしょう?」と頼りなく答えながら、僕は手にした湯飲みを茶托に戻して、居住まいを正す。
微笑ましい光景を見守る表情になった加賀さんが、ずずっとお茶を啜る音が聞こえた。
「今夜、少しだけお時間を頂けませんか? 重桜寮の、私達の部屋で、その、ぉ、お話したいことが在るのです」
言葉の途中で、真剣な表情のままの赤城さんが僕から視線を逸らす。声も少し揺れていて、最後の方は掠れて小さく萎んでいた。沈黙が訪れ、僕が何かを話す番だと気づく。赤城さんは、きゅっと下唇を噛んでいる。僕はその様子を見て、これはきっと深刻な内容の相談だぞ、と思った。
重桜陣営の中でも赤城さんは、長門さんや三笠さん、それに天城さんに引けを取らない重要な人物であり、人望も厚く周囲への影響力も大きい。
そんな赤城さんが、わざわざ時間を調整して話し合いたいという内容であるから、これは執務室で済ませるような仕事の話ではなく、更に込み入った事情を含んだ深刻な相談なのだろうと予想できた。僕が暇であろうとなかろうと、是が非でも今夜のうちに話は聞いておくべきだろう。僕はすぐに赤城さんに頷く。
「僕はいつも赤城さんのお世話になっていますし、僕が力になれることなら、何でもしますよ」
「えっ!?」前のめりになって目を輝かせた赤城さんが高い声を出し、キラリと眼を光らせた加賀さんが「ん?」と重厚な低い声を出すのが聞こえた。
「えっ」と僕は、加賀さんに振り返ってしまう。
加賀さんは僕を鋭い視線で射貫きながら、「指揮官、今、何でもすると言ったな?」と、僕の覚悟を確かめるような妙に圧力のある口振りで訊いてくる。そんな加賀さんに僕が何かを答えるよりも先に、赤城さんが秘書艦用の執務机から離れ、此方に駆け寄って来た。
「ではっ、では今夜、私達の部屋に足を運んで頂けるのですね!?」
感激した様子の赤城さんは僕の手を両手で握り、ぐっと体を近づけてくる。高級な石鹸にも似た清潔感のある甘い香りが、赤城さんの体温と共に押し寄せてきた。
くらくらしそうになる。ぼんやりすると赤城さんの胸元に目が行きそうになり、僕は慌てて視線を横に向けた。
「え、えぇ。僕に協力できることがあるのなら、助力は惜しみません」
僕がそう答えたのと、執務室の扉がノックされたのは殆ど同時だったろうか。入室してきたのはエンタープライズさんだった。
「指揮官。この前の演習報告、届けに来た……、ぞ……」
エンタープライズさんは執務室に入ってきた瞬間は凛とした笑みを浮かべていたが、僕と赤城さんと、赤城さんの両手に包まれた僕の手を高速で見比べながら、すぐに表情を強張らせていった。
どんどん真顔になっていくエンタープライズさんが立ち尽くしている間、加賀さんが可笑しそうに小さく笑うのが聞こえる。そんな中で僕は、エンタープライズさんが硬直している理由も、加賀さんが何を面白がっているのかも、よく分からなかった。
「あら、ご苦労様」
エンタープライズさんの方へと首を曲げた赤城さんが、艶っぽい笑みを湛え、妙な優越や余裕を隠そうともしない雰囲気であることの理由も、イマイチ掴めなかった。だが、ぼんやりしている訳にもいかない。
「お忙しいところ、わざわざありがとう御座います」
僕は赤城さん手を包まれたままで、エンタープライズさんに礼を述べて頭を下げる。
「こ、これくらいは別に……」
明らかに動揺した様子のエンタープライズさんは、視線を彼方此方へと泳がせた。その様子は、いつも凛々しくリーダーシップを発揮し、ユニオンにその人在りと言わしめる彼女らしくない。どうしたのだろうと思っているうちに、エンタープライズさんは真っ直ぐに僕の執務机の前まで歩いてきて、演習報告書を机の上に置いてくれた。
「確かに受け取りました。有難うございます」
赤城さんに手を握られたままの僕は、実際に手で受け取ることは出来なかったが、重ねて礼を述べる。
「あぁ、いやっ、礼を言って貰うようなことでは、全然……」
用事は済んだ筈だが、エンタープライズさんは僕の執務机の前から動こうとしない。難しい表情を浮かべて、赤城さんと、赤城さんが握っている僕の手を、飽きることなく交互に睨んでいる。
その真剣な様子はまるで、薄暗い遺跡の奥深くで、壁面に刻まれた象形文字を解読する考古学者のようだった。声を掛けるのも憚られる気迫に満ちている。
「どうしたんだ? 戻らなくて良いのか?」
エンタープライズさんに気圧される僕の代わりに、愉快そうに声を掛けたのは加賀さんだった。低く艶のあるその声音は、明らかに普段よりも弾んでいて、今の状況を面白がっている様子だった。
「そうね。貴女も忙しいのでしょう?」
赤城さんが僕の指に、自分の指を絡めながら言う。ひんやりとした赤城さんの手は嫋やかで、細く、しなやかだった。赤城さんの長く奇麗な指が、強く、強く絡んでくる。僕は顔が熱くなる。
「あ、あの、赤城さん、そろそろ手を……」と、僕が言いかけたところで、エンタープライズさんが完全な無表情になっていることに気付く。
「……これは、どういう状況なんだ?」
エンタープライズさんが僕や赤城さんではなく、加賀さんへと訊いた。感情を潰したようなまっ平な声だった。ちょっと怖い。「まぁ、見ての通りだな」と加賀さんが肩を揺らす。次の瞬間だった。エンタープライズさんが動いた。
いや、動いたというよりも、踏み込んできた。明らかに戦闘の時に見せる身のこなしであり、赤城さんも反応が遅れていた。目にも止まらぬ早業だった。気付いた時には、エンタープライズさんは半ば執務机の上に乗り上げるような態勢で腕を伸ばし、僕の手を包む赤城さんの手を、さらに包んでいた。しかも、もの凄く優しい手つきで。
「私も混ぜてくれ」
地の底に続く洞穴のような眼をしたエンタープライズさんが、冷気そのものといった感じの声で言う。
一瞬、赤城さんが呆気に取られたような表情でエンタープライズさんを見ていたが、すぐに、「えっ、えっ!? 何っ!? 何っ!??」と、怯えた声を出し、エンタープライズさんの手を振り払い、後ずさった。
赤城さんから手を放して貰ったものの、僕も硬直してしまう。加賀さんが俯いて震えている。前髪で隠れて表情が見えないが、笑っているのだろうか?
「……指揮官」
エンタープライズさんは、瞳に光を無くした笑みを浮かべて、小刻みに体を震わせていた。夕暮れに近づく陽の光が、彼女の横顔に影を作っている。
「別に、私を選んでくれなくても構わないんだ。指揮官の意思こそが重要だからな。指揮官の選択を責めるつもりは無い。本当だ。ただ、ただな……、どうか私を置いていかないでくれ。お願いだ。頼むよ。私を、指揮官の傍に置いてくれることを赦してくれないか。……なぁ、赤城?」
全く抑揚のない、しかし、暗く澱んだ情熱が溢れてくるかのような声で言いながら、エンタープライズさんはグルンっと首を曲げて赤城さんを見た。
赤城さんが小さく悲鳴を上げるが、僕は、エンタープライズさんの言葉を頭の中で反芻し、納得するものを感じた。つまり、エンタープライズさんも赤城さんの相談の相手になり、力になりたいのだろうと思い及んだ。
赤城さんの手を包み込んだのも、その意思表示だ。指揮官の意思が重要で、僕の選択を責めないというエンタープライズさんは、赤城さんの相談相手として自分を選んでくれなくてもいいが、今回は、どうしても赤城さんの力になりたいということに違いない。
エンタープライズさんは他のKAN-SENとの交流も広く、情報網も深く正確だ。赤城さんが僕に相談したいらしい重要な何かについても、もう既に十分な情報を得ていると考えられる。
エンタープライズさんと赤城さんの仲が悪いという話を聞いたことはあるが、秘書艦が交代制になってから、二人が言い争いをしているというようなことも聞かなくなった。演習でも顔を合わせることが少なくない二人の間に、確かな友情が芽生えるだけの時間と切っ掛けが在ったのだ。
「赤城さん、今夜の件ですが、エンタープライズさんに同席して貰っても構わないでしょうか?」
僕は、エンタープライズさんと赤城さんの間にある、深い友情を羨ましく思いながら訊ねる。
「えぇぅっ!?」
赤城さんが今まで見せたことがない表情で高い声を出し、僕とエンタープライズさんを交互に見比べた。その間、赤城さんは「ぉ……!」とか「ほ……!」とか言いながら口をぱくぱくと動かし、何とか自分の混乱を鎮め、状況を飲み込もうとしている様子だった。
「赤城。そう心配しないでくれ。私の事は、部屋の隅にでも置いてくれればいい。無視してくれ。観葉植物のようにな。余計なことはしない。約束しよう。ただ、指揮官の傍に居させてくれればいいんだ。まぁ断られても、地獄の果てまで着いていくつもりではあるんだが」
幽鬼のように佇むエンタープライズさんが、薄い笑みを浮かべながら言う。地獄まで付き合う心意気を見せるなんて、やっぱりエンタープライズさんは、友達想いのいい人なんだなぁと改めて思う。
……さっきから秘書艦用の執務机に突っ伏し、笑い疲れたかのようにヒーヒーと息を乱している加賀さんのことが気になった。
「ゾっとするようなことを言わないでよ……」
信じられないものを見る顔になった赤城さんも、エンタープライズさんから向けられる熱い友情には内心では大きく喜びつつも、表面上は戸惑いを見せているのだろう。
「くっくっく……、このままだと、エンタープライズが居る場所が地獄になりそうだな」
目の端に浮かんだ涙を拭った加賀さんが、執務机から顔を上げた。面白いものが見れたという満足が浮かんだ、清々しい表情である。「何がそんなに面白いのよ……」と、赤城さんが恨めしそうに加賀さんを睨んだ。
「そう怒らないでくれ、姉さま。すまなかったな、エンタープライズ。勘違いさせるようなことを言ってしまったようだ。まぁ、茶でも飲んで落ち着いてくれ」
すまないと言いながらも、加賀さんは飄々とした様子で湯飲みに茶を注ぎ、エンタープライズさんに手渡した。
「……どういうことだ?」
光の無い瞳をしたエンタープライズさんは、手にした湯飲みを覗き込むついでのように加賀さんに訊いた。相変わらず感情を窺わせない平板な声で言う彼女の湯飲みの中では、茶柱が4本立っていて、縁起が良いのか不吉なのか分からない。
「あぁ。別にな、指揮官と姉さまの間に、特別な進展が在ったわけではないんだ」
「! そ、そうなのか!?」
加賀さんが言うと、途端にエンタープライズさんが嬉しそうな顔になって、その瞳にも光が戻った。対照的に、赤城さんが面白くなさそうに眉間に皺を刻んでいる。
僕は若干の混乱を覚える。赤城さんは、僕に何らかの相談が在ったというワケではないのか……? 僕は今までの経緯を頭の中で辿ろうとしたが、それよりも先に、加賀さんが肩を竦めた。
「あぁ。ただ指揮官が、今夜、私達の部屋で何でもしてくれると言ってくれたのでな。姉さまが舞い上がってしまっていただけだ」
加賀さんが言うと、落ち着きを取り戻しつつあったエンタープライズさんが、啜りかけていたお茶を「ぶふぉっ!?」噴き出した。傍に居た赤城さんが「熱っ!?」と短く悲鳴を上げて飛び退り、その拍子に足を滑らせて後ろにひっくり返った。
倒れていく赤城さんの尻尾が、執務机の端に置いてあった書類を巻き込み、ばさばさっと派手に紙の山が散らばった。赤城さんは尻餅でもついたのか。声も出ない様子でお尻を抑えて俯いている。
「あ、赤城さん、大丈夫ですか!?」
僕が赤城さんに駆け寄ろうとしたが、誰かに横から肩を掴まれた。乱暴な手つきではなく、むしろ優しいほどだったのだが、ただ、もの凄い力だった。「指揮官」と呼ばれ顔を上げると、出撃前のような引き締まった表情をしたエンタープライズさんが僕を見下ろしていた。
「何でもしてくれるとは、本当か……」
「えっ」
僕は間抜けな声を出してしまう。確かに僕は、赤城さんが何らかの問題を抱え、それを解決するためにならば、僕に出来る範囲で助力を惜しまないという意味で、“何でもする”とは言ったが、こうも熱の籠った口調で詰め寄られると返事に困るというか、身の危険を感じた。
「指揮官」
僕の肩を掴んでいた手を放してはくれたものの、今のエンタープライズさんには異様な迫力が在り、僕はたじろいでしまう。思わず二歩下がった。
「詳しく聞かせてくれないか?」
すると、エンタープライズさんが三歩寄ってくる。
「私は今、冷静さを欠こうとしている……!」
「そ、そんな力強い宣言を僕にされても……」
僕は本気で弱ってしまう。エンタープライズさんの声には相当な迫真性が籠っており、頬も紅潮し、息が荒い。普段は澄んだ輝きを宿している彼女の瞳にも今は、ぬめるような暗い光が蹲っている。
「待て待てエンタープライズ。執務室で指揮官に襲い掛かるのは流石にNGだ」
僕を庇うように、すっとエンタープライズさんとの間に割って入ってくれた加賀さんは、やれやれと緩く首を振った。ただ、エンタープライズさんは此方にも正当な言い分があるといった堂々とした態度のまま、僕と加賀さんを順に見た。
「しかしだな、指揮官も悪いんだぞ。いつも私の夢の中に出てきて、いやらしい恰好で誘惑してくるから……!」
まるで自分が被害者のような物言いをするエンタープライズさんは、かなり本気の顔だった。僕の不安が加速する。
「いや、あの……、夢の中に現れた僕と、実在する僕を同一視されても……」
弱った声で僕が言うと、目の前で加賀さんが「その言い分も、わからんでもないんだがな……」と、エンタープライズさんの言う無茶苦茶な理論に一定の理解を示したので、僕は思わず「えっ」と素の声が出てしまう。
「エンタープライズ……!」
さっきまで座りこんでいた赤城さんが、埃と書類の紙束をバサバサバサーっと巻き上げ、お尻を摩りながら勢いよく立ち上がったのは、その時だった。立ち上がった赤城さんは間髪入れず、射貫くような鋭い視線でエンタープライズさんを睨みながら、ずんずんと距離を詰める。凄い気迫だった。
「むっ、な、なんだ……」
エンタープライズさんが僅かに身を引きながら、赤城さんに向き直る。取っ組み合いの喧嘩でも始まるのではないかと思い、「あの、暴力はいけませんよ……!」と、二人の間に割って入ろうとしたのだが、「なぁに、心配はいらない」と、加賀さんに襟首を掴まれた。
結果的に、本当に心配は要らなかった。
赤城さんはエンタープライズさんに対して、殴りかかるでも掴み掛かるでもなく、ただ強く握手を交わしただけだったからだ。突然のことに、エンタープライズさんも訝し気に握られた手と赤城の顔を交互に見ていた。
だが赤城さんが、「分かる……!」と力強く頷いたところで、エンタープライズさんも「そ、そうか、分かってくれるか……!」と、熱い何かを共有できた喜びを見せた。
二人の固い握手を見守る僕は、遠い異国に置いてけぼりにされたような薄ら寒さを何故か感じていた。
「姉さまもエンタープライズも、盛り上がっているところ悪いんだがな……。執務室をこうも散らかすのは感心しないぞ。まずは片付けてくれないか」
溜息交じりに言う加賀さんの言葉に、赤城さんとエンタープライズさんは顔を見合わせて頷き合い、散らかった書類や資料を素直に片付け始める。
「あぁ、構いませんよ。僕が片付けますので……!」
慌てて僕も、書類や資料を拾うのを手伝おうとしたのだが、やはり加賀さんに襟を後ろから掴まれた。
「構わないさ。騒いだのはあの二人だ。指揮官はゆっくりしているといい。ふふ……、せっかく羊羹も用意したのに、食べる暇も無かったな」
愉快そうに言った加賀さんは、「少し温めの茶を淹れてやろう。喉を潤すといい」と付け足し、僕が使っていた湯飲みを持ち上げた。「あぁ、すみません」と礼を述べたところで、赤城さんとエンタープライズさんが何やら声を潜めて話し合っていることに気付く。
耳を澄ますつもりは無かったが、その内容が薄らと聞こえてくる。
「ほう、夢の中に入り込める装置を、明石に頼んでいると……?」「えぇ。近いうちに完成すると思うわ」「ふむ。成程、これで私の夢の中に出てくる指揮官にも、ようやく分からせ……、いや、オシオキが出来るというワケだな」「ただ、使用するとIQが120程低下するらしいわ」「リスクが甚大過ぎるだろう……。夢から帰ってこれなくなるじゃないか……」「装置が完成した暁には、貴女にも協力して貰いたいの」「私の脳を差し出せとでも言うのか?」「そうよ」「何だと?」
仲が良いのか悪いのか分からない話をしている二人は、床に散らばった書類を拾い集める為に四つん這いの格好で、お尻をこっちに突き出している態勢である。二人の長く奇麗な脚と、その付け根に下着が見えそうだ。
はち切れそうな程にエッチな光景を前に、僕は興奮よりも疲れを感じ、すぐに目を逸らした。窓に近づいて空を見上げた。雲はなく、よく晴れている。
「さて。そろそろ仕事を再開するとしよう。指揮案を招くにしても、このままでは間に合わん」
空を見上げながら深呼吸しようとすると、後ろから声を加賀さんに声を掛けられた。振り返ってすぐに湯飲みを手渡される。
「少しずつ飲むと良い。気持ちが安らぐぞ」
手の中の湯飲みは熱くはなく、ほんのりと暖かい程度だった。ほっといい香りがする。先程、赤城さんが淹れてくれたものとは、また少し違うようだった。
「……赤城さんが、何か悩みごとを抱えて居られる、という訳ではないんですね?」
確認するように僕が訊くと、加賀さんは「あぁ、さっきの話か」と喉を鳴らした。
「まぁ、何でもするという文脈から見れば、指揮官は、姉さまから何か相談事を持ちかけられると思ったんだろうが。早合点だったな」
言いながら、加賀さんは僕の頭をワシワシと撫でてくる。
「……指揮官は、姉さまを心配してくれていたのだな。礼を言う」
「いえ、でも、僕の早とちりで良かったです。立場上、赤城さんも気苦労が絶えないでしょうし」
僕は言いながら、安堵と一緒に心の中で頷く。うん。勘違いで良かった。少なくとも、赤城さんが苦悩に縛られ、それに耐えきれずに僕のような未熟者を頼らねばならないような事態になるよりは、ずっと良い筈だ。そう考えた僕の心の内を、加賀さんは見透かしたのかもしれない。
「……私達は、お前を信頼しているよ。同じくらい、心配もな。秘書艦の今日だから言うが、お前も体に気を付けるんだぞ。働き過ぎは体に毒だ」
心の籠った声でそう言ってくれた加賀さんは、僕の頭をさらにワシワシと撫で始めた。髪の毛がぐしゃぐしゃになるが、別に気にならなかった。
「はい。僕も気を付けますね。心配していただいて、有難う御座います。加賀お姉ちゃん」
そう言ってから、手にした湯飲みに口を付けようとしたら、僕の頭を撫でていた加賀さんの手がピタリと止まった。それどころか、床に散らばった書類や資料を拾い集めていた赤城さんとエンタープライズさんまで黙り込み、ガバっと僕の方へと振り返った。
執務室が水を打ったように静まり返る。窓から吹き込んでくる風の音だけが微かに響く。時間が止まったかのようだった。あ、あれ? みんな、どうしたんだろうと思うと同時に、「……あっ!」と声を上げてしまった。
「す、すみません! 僕は、失礼なことを……」
恐る恐る隣に居る加賀さんを見上げると、驚いたように目を丸くしたまま僕を見つめ、目を瞬かせていた。加賀さんの狐耳だけが、ぴこぴこと動いている。その2秒後、驚いた表情のままの加賀さんの頬に朱が差したかと思うと、ニヤニヤとした意地悪な笑みを浮かべながら、尻尾をゆらゆらと機嫌良さそうに振り始めた。
「ほほう、『加賀お姉ちゃん』とな?」
僕を見下ろす加賀さんは、ニヤニヤ笑いを深めながら僕のすぐ隣にしゃがみ、肩を抱いてくる。僕の顔のすぐ近くに、加賀さんの胸元がある。とても高級な石鹸にも似た、清潔で甘い香りを感じた。赤城さんと同じようで、少し違う香りだった。僕は視線をそっぽへ逸らす。
「あの、それは、す、すみません、僕の不注意で……」
「なぜ謝る? 謝ることなどないぞ」
嬉しそうに言う加賀さんは、ボリュームのある尾で僕の身体を探るように包み込んで くる。僕を包囲する加賀さんの香りがより濃くなる。
「くく、そうか。指揮官は、私のことを『お姉ちゃん』のように思っていたのだな? それが、気の緩んだ拍子にポロっと零れてしまったワケだ。くふふふふふ……、可愛いヤツめ」
気恥ずかしくて弱った僕の顔を覗き込んできた加賀さんは、無防備に頬を緩め、さらにグリグリワシワシと僕の頭を撫でてくる。こんなにも楽しそうな加賀さんを僕は見たことが無かった。
「からかわないで下さいよ」
僕が恨めしく言うと、「からかっている訳ではない。本心で言っているんだ」と、加賀さんは余計に機嫌を良くし、「寂しい時や困った時は、いつでも『加賀お姉ちゃん』を頼ると良いぞ」と、優しい言葉を繋いでくれた。
「し、し、指揮官様!!」
その直後、僕の背後から悲鳴にも似た叫びが上がる。加賀さんが苦笑を漏らすのが分かった。加賀さんは僕の身体を包んでいた尻尾をゆるゆると解いてくれたので振り返ると、何故か半泣きの赤城さんが凄い速さで駆け寄ってきて、僕の両肩をガッシリと掴んだ。
「この赤城のことも、『赤城お姉ちゃん』と、そう呼んで頂いて構いませんよ……!!」
「いや、あの……」
「えぇもう、是非、私のことは『赤城お姉ちゃん』と呼んでください! 加賀のことを『加賀お姉ちゃん』と呼ぶのであれば、この赤城のことも、『赤城お姉ちゃん』と呼んで頂かなれば、摂理に反すると言うものです! さぁ!! さぁ!!」
まさに鬼気迫ると言った様子の赤城さんの笑顔には、途轍もない焦燥が滲みだしており、ちょっと怖かった。
さらに怖かったのは、そんな赤城さんのすぐ隣に、音もなく距離を詰めて来たエンタープライズさんが、涼しげな笑みを湛えて佇んでいたからだ。僕は軽くのけぞってしまう。瞬きをした次の瞬間に姿を現したかのようであり、全く気付かなかった。彼女の二つ名であるグレイゴーストという言葉が頭を過る。
「指揮官」
何処か空虚な声で言うエンタープライズさんの顔には、執務室に差し込む光の加減の所為か、物凄く影があるように見えた。彼女の纏う不穏さが濃度を増し、執務室の空気を重く沈ませるようだった。
「『エンタープライズお姉ちゃん』というのは、少々長くて言い難いだろう? ここはシンプルに、『お姉ちゃん』か『姉さん』が良いと思うんだが、どうだろうか?」
能面にも似た笑顔のエンタープライズさんは、赤城さんに肩を掴まれたままの僕を見下ろしながら言う。その口振りは、思い付いた素晴らしいアイデアを惜しみなく披露するかのような爽やかさに満ちているのに、エンタープライズさんの顔の上半分が一切動いていないせいで酷く不気味だった。
「えぇと、その……、ど、どうだろうと言われましても……」
僕が弱り切った声を出すと、赤城さんが僕の方から手を放して立ち上がり、迷惑そうな表情を作ってから、わざとらしい大きなため息をつきつつ、エンタープライズさんに向き直った。
「エンタープライズ。今は私が指揮官様と、とても大事な話をしているのだから、そういうタワけた話は後にして貰えないかしら? ほら、貴女が訳の分からないこと言い出すから、指揮官様もお困りになっているでしょう?」
「指揮官を困らせている『赤城お姉ちゃん』にだけは言われたくないぞ」
「何ですって……?」
さっきまで固い握手を交わしていた二人が、もう取っ組み合いを演じそうな程に険悪なムードを作り出していることに僕は参ってしまう。
ただ、僕はふと思う。ここぞという戦況の時には阿吽の呼吸で見事な連携を見せ、不思議な力を発揮するこの二人にとっては、こういう言い合いはレクリエーションみたいなものかもしれない。
ただ、このまま執務室で遠慮の無い言葉の応酬を続けられても困ってしまうので、何とかこの場を収めたいのだが、白熱しだした二人の言い合いは勢いを増すばかりだ。
「此処は、平和で良いな」
僕のすぐ後ろでこの場の成り行きを見守っていた加賀さんが、皮肉なのか本心なのか判断に迷うような低い声で言う。
肩越しに加賀さんを振り返って見上げると、彼女は遠くを眺める眼差しで、エンタープライズさんと赤城さんを眺めていた。緩く息を吐いた加賀さんは、自身の記憶を辿りながら、過去と、今の執務室の光景とを重ねているようだった。
「平和であるのは、皆さんのおかげですよ」
「それもあるが、指揮官が居るからだ」
「まさか」
「そうやってすぐに自分を卑下するのは、他人本意なお前の悪い癖だ」
加賀さんに優しい声で言われ、僕は俯く。
「……気を付けます」
「お前はもう少し我儘になっても良い。卑屈な子供は可愛くないぞ」
「では……、一つお願いをしても?」
「あぁ。言ってみろ」
「あのお二人の仲裁に入って頂けませんか?」
「む」
加賀さんは意表を突かれたような声を出してから、言い合いを続ける赤城さんとエンタープライズさんの方を見て、すぐに渋そうな顔を作った。
「そういうのは勘弁してくれ」
「お願いします、『加賀お姉ちゃん』」
僕が言うと加賀さんは「……可愛くないヤツめ」と苦り切った表情を浮かべていたが、一つ溜息を吐き出し、やれやれといった様子で、赤城さんとエンタープライズさんの方へと足を向けた。
「指揮官……」
「はい、何ですか?」
「此処は、平和でいいな」
先程とは真逆の意図を含ませた加賀さんの、その心底イヤそうな顔を見て僕は、「えぇ。僕もそう思います」と答えつつ、少し笑ってしまった。