少年指揮官の日常 作:トレモ勢
「あたしは腕力担当って感じで、駿河みたいに頭がいいって感じじゃないけどさぁ~」
チェスのルールブックを片手に開いた尾張さんは、腰掛けた執務室のソファから身を乗り出して、嬉しそうに目を輝かせる。
「今の盤面、指揮官が有利だっていうのは分かってきたかも~!」
「……そう。それは良かったわね」
ウキウキとした様子の尾張さんに対し、物騒な程に低い声で応じたのはペーターさんだ。
鉄血の軍服をカッチリと着込み、隙も油断もない鋭い雰囲気を纏っている彼女は、口許に手をあてて表情を曇らせていた。
「……スゥゥゥ……。私の計画は完璧だった筈なのに……」
眉間を絞って熟考するその表情も、冷然とした美貌に冴えている。だが、盤面の不利を挽回する手立ては見えないのか。ペーターさんは片方の目を苦しげに窄める。
「でも、まだよ。私はまだ負けていないわ。勝てる手は残されている筈……」
「いやぁ、でも、……ちょっとムズいんじゃない? こっから捲るのって。あたしでも雰囲気で分かるもん」
尾張さんが素朴な言い方をして、ペーターさんが目つきを険しくした。
「いいえ。そんなことは無いわ。見ていなさい。私の計画は、こういう事態も織り込み済みよ」
「えぇ、ほんとぉ~?」
「当たり前でしょう」
尾張さんとペーターさんは遠慮なく、そして仲良さげに言い合う。
今日の秘書艦であるこの2人の仕事ぶりは、やはり他のKAN-SENの皆と同じく、非常に優秀だった。御蔭で仕事も手早く片付き、こうやって長閑な午後を過ごせている。
「えぇ。勝負は最後の瞬間まで、分からないものです」
尾張さんとペーターさんを眺めながら僕も頷き、尾張さんに淹れて貰ったお茶を飲んだ。
僅かに渋みのある落ち着いた香りが執務室に淡く広がっていて、その穏やかな空気と時間が、窓から差し込む陽光に温められている。
そして、「この時間を有意義に使いたいわ」、と──。不敵な笑みを浮かべたペーターさんがチェスをしようと言い出したのが、半時間ほど前のことだ。
僕とペーターさんは対面して執務室のソファセットに腰掛け、テーブルに置いたチェス盤を挟んでいる。
チェスのルールをあまり知らない尾張さんは僕の隣に座り、ルールブックを片手に観戦しつつ、盤上の戦況にふむふむと頷いたりしていた。
このチェス勝負の戦績としては、2―0で僕が勝っているところだ。
「やっぱり指揮官って、こういうの強いんだね~」
尾張さんが感心したように言いながら、にんまり笑って僕の顔を覗き込んできた。そのついでのように、お尻を僕の方にぐいっと寄せて来る。
「駿河も言ってたよ~。指揮官と将棋をやったら、絶対に勝てないって」
肩が触れるぐらいまで近くに身体を寄せてきた尾張さんは、僕に対して、他でもない僕自身のことを自慢するように言ってくれる。
その自然体な笑みと軽やかな声音からも、尾張さんが僕に媚びを売っているのではないと分かった。ただ純粋に、僕のことを認めてくれているというか、褒めようとしてくれているだろう。
その衒いのない親しみの表現には、彼女の持つ独特な大人っぽさと真っすぐさがある。
あまりにも素直に褒められると何となく気恥ずかしかったが、それ以上に落ち着かなかった。
ぐっと前屈みになった尾張さんの豊かな乳房が“たぷたぷ”と柔らかく動きながら、KAN-SEN装束から“ぷるるん”と零れ落ちそうになっていたからだ。
「こういう勝負に、絶対なんてことは無いですよ。そのときどきで、僕が勝ちを拾っていただけです」
僕は笑みを維持して応じながら、尾張さんから視線を逃がした。
だが、「えぇ~?」と不満そうに唇を尖らせた尾張さんは、「アンタさぁ~」とダル絡みするような緩い空気を纏いつつ、僕に凭れ掛かってくる。
「そうやって謙虚なのは良いけどぉ~、油断も隙も無い感じがして、ちょっと可愛くないって~」
僕に対して気を許してくれているのか、信頼してくれているのか。或いは、僕のことを男性として見ていないのだろうが、尾張さんは無防備に身体を預けてくる。
その弾みで、たっぷりとした彼女の乳房までもが、ゆっさゆっさと本格的に零れ落ちそうだった。
「あの、ちょっと、尾張さん……!」
ぎょっとした僕はおおいに焦りながら、尾張さんの肩を掴んで押し返す。
赤城さんや大鳳さん、武蔵さんや信濃さんにしてもそうだが、彼女達の豊満で魅惑的な肉体を包むにしては、やや面積が小さ過ぎるのではないか。
「……改めて思うけれど、重桜のKAN-SEN装束は、随分と露出度が高いわよね」
そんな僕の目線の動きを見逃さなかったペーターさんが、むすりとした顔になって僕を睨んでから、自分が着込んでいる鉄血KAN-SENの装束を見下ろした。
「私も東煌衣装に着替えて……、いえ、ハインリヒから正月衣装を借りてくる方がいいかしら……」
ボソボソとした声で言い足しながらも、ペーターさんは難しい顔になってチェスの駒を動かす。
そこで尾張さんが、「あっ」と声を上げて、手にしていたルールブックと盤面を見比べた。僕も頷き、そっとチェスの駒を動かす。
「一応、これでチェックメイトでしょうか」
「ぁ……」
ハッとした顔になったペーターさんは、数秒ほどチェス盤を見詰めた。それから、絞り出すように「ふぅぅ~……」と細い息を吐き出しながら右手で顔を抑える。
「……鉄血の中でも、私はかなりの上位の筈なのに……」
打ちのめされたかのような掠れ声を出すペーターさんに、「戦績はこれで、3-0だね~」と尾張さんが軽快な苦笑を浮かべて見せる。
顔を上げたペーターさんは恨めしそうに尾張さんを見上げたが、結局何も言わず、また「んふぅぅ~……」と重たい溜息を吐き出してそっぽを向いてしまう。
そんなペーターさんの様子を楽しげに眺めていた尾張さんだったが、不意に感慨深そうな、何処か遠くを見るような目になった。
「……でも、ペーターさんも変ったよねぇ。まぁ、これは鉄血に限らず、重桜の皆にも言えることだけど」
そこで、ふふっと優しい笑みを溢した尾張さんは、今の目の前にいるペーターさんと、過去のペーターさんを照合するような間を一瞬置いた。
「出会って最初の頃のペーターさんって、分刻みで時間を管理しなきゃ気が済まないって感じだったのに。今じゃこうして、指揮官とチェスで勝負して、それを楽しんでいるだもん」
懐かしむような口振りにはやはり、衒いの無い友愛がある。誰に対しても真っ直ぐなこの純粋さは、間違いなく尾張さんの美点だった。
「以前のペーターさんだったらさぁ、仮にチェスに誘ったところで、“そんなもの時間の無駄よ”って斬り捨てられてそう」
「確かに、それは僕も思いますね」
尾張さんに頷きながら、僕はペーターさんを見遣った。
「僕の寝室の時計が、2分遅れていることを指摘してくれたこともありますし」
規律を重んじる鉄血KAN-SEN達の中でも、ペーターさんはとりわけ、“時間”というものを特別視しているふうだった。まるで、時間そのものと対決するかのように。
手を付けるべき物事に対し、厳格な程に緻密な計画を立てて臨む彼女はいつも、過ごす時間は有意義でなければならないと態度で示し続けていた。
そのストイックな職務態度と作戦遂行時の苛烈さによって、ビスマルクさんやグラーフさん、オイゲンさんなどとはまた違った種類の、彼女独特の張り詰めた空気を纏っていたのを思い出す。
だがそれも、KAN-SENとしての彼女の魂が背負ったもの──建造されなかった計画艦。その数奇な運命──を思えば当然の姿勢だったのだろうとも思う。
血の通う肉体を持ち、現実を生きるようになった彼女にとって、“存在”という言葉がどれほど重く響くのかは、僕には察することもできない。だがあの頃に比べて、彼女が変わったと感じることは確かだった。
「……ふん」
鼻を軽く鳴らしたペーターさんは、僕と尾張さんの視線を受け止めつつ腕を組み、ソファに深く凭れる。俯きがちになった彼女の目は、ゆっくりとした瞬きの中で記憶を辿っているのだと察せられた。
「私の振舞いに多少の変化があったとしても、本質的には何も変わっていないはずよ。無意味で無意義なことには、以前も今も、決して時間を割きはしないわ」
自身の言葉に確信を持っているからだろう。静かに言い切るペーターさんの眼差しは鋭くも澄んでいたが、不敵な笑みをも含んでいた。
「こうしてチェスに興じるのも、母港の仲間たちとのコミュニケーションの一環と捉えれば、実に有意義なものよ。KAN-SEN同士の潤滑で緊密な関係は、卿が構築した作戦と計画においても有益である筈でしょう?」
「えぇ、それは勿論。各陣営の良好な繋がりは、何よりも大切です」
僕が素直に頷くと、にひひっと悪戯っぽく尾張さんが笑った。
「でもでもぉ、そういう真面目な理由の他にも、ペーターさんが指揮官にチェス勝負を挑んだのには、理由があるんじゃない?」
茶目っ気たっぷりに言いながら、尾張さんは両手の人差し指をペーターさんに向ける。
一瞬、ペーターさんが「ぅ……」と僅かに身体を引いた。だが、すぐに取り澄ましたような冷静な表情になり、冷然とした目つきで尾張さんを見詰め返す。
「何のことかしら?」
……態度は毅然としているものの、ペーターさんの声が若干裏がっていたので、彼女がすっとぼけようとしているのは何となく僕も分かった。
「とぼけちゃってぇ。今は鉄血寮で、新しい取り決めが出来たんでしょ? 実はハインリヒちゃんから聞いたんだ~」
ギクリとした顔になったペーターさんが口を開くよりも先に、得意気になった尾張さんは、ふふんと軽く笑って豊かな胸を張ってみせる。
「チェスで指揮官に勝てたら、秘書艦を優先的にさせても貰えるんだって」
「あぁ、そういうことでしたか」
僕は納得する。
指揮官であるのは僕だが、その補佐を務めてくれる執務秘書艦については、演習や出撃任務に支障が出ないよう、各陣営が選出してくれるようになっている。
実務と実戦を担う彼女達の都合を優先できるという意味でも、今の形に落ち着いてからは、各陣営からの不満は出ていない。
ただ其々の陣営内では、秘書艦に就く回数に関わる独自のローカルルールのようなものが存在するらしく、秘書艦が1人のときもあれば、2人のときもある。多い時などは、ベルファストさん率いるメイド隊が勢揃いすることも。
尾張さんがハインリヒさんから聞いたという話も、そのローカルルールの一環なのだろう。
「それは、だって……」
微かに頬を赤らめたペーターさんは、ちょっと恨めしそうに尾張さんを見てから、下唇を尖らせた。そして、僕の機嫌を窺うような上目遣いをチラリと向けてくる。
こういう表情も、以前の彼女ならば決してすることは無かっただろうと思う。
「私にとって卿と過ごす時間こそが、何よりも有意義なんだもの……。それを勝ち取るための計画も、その実践も、私にとっては意味に満ちているわ」
赤い顔を俯きがちにして、ペーターさんはKAN-SEN装束の膝の辺りを、ぎゅぎゅぎゅっと握っている。そして、そのペーターさんの反応が予想外だったのか。
「あ、あれっ!? なんか、思ってたよりガチって言うか、しっとりとしたレスポンス!?」
さっきまで楽しそうにしていた尾張さんまでもが顔を赤くして、慌てたように僕とペーターさんを高速で見比べはじめる。
尾張さんがどんな反応をペーターさんに期待していたのかは分からない。だが、ペーターさんが僕と過ごす時間を有意義だと感じてくれているのは嬉しかった。
そこで僕は、ホッとしつつも合点がいった。
以前、ペーターさんとは2人で読書会をしたことがある。読み終えた本の感想や意見を交換し合う、あの静かで落ち着いた時間を、彼女がとても気に入ってくれたふうだった筈だ。
あのときも確か、彼女が秘書艦であったときのはずだ。なるほど。秘書艦任務の回数を増やすことで、ペーターさんは、ああいった機会を再び設けたいのだろう。
「僕にとっても、ペーターさんと一緒に過ごす時間はとても有意義だと思っていますよ。秘書艦でなくとも、いつでも声を掛けて下さい。仕事の合間を縫うような形では無く、またゆっくりと2人で読書会をしましょう」
僕がゆっくりと頷いて言うと、ペーターさんは驚いたような顔になった。その直後には右拳を天に突きあげるガッツポーズで勢いよく立ち上がったかと思えば、すぐ咳払いをしながらソファに座りなおした。
「え、なに今の……」と尾張さんが目を丸くしている前で、ペーターさん怜悧な美貌に艶美な微笑みを浮かべている。
「卿がそこまで言うのであれば、今日の夜にでもさっそく……」チロリと唇の端を舐めたぺーターさんの言葉を、そこで尾張さんが遮った。
「あー! ダメダメ! 今日の指揮官には先約があるんだから!」
「ぅわぷっ!?」
言いながら尾張さんが、僕のことを抱き寄せてきたのだ。当たり前だが凄い力だった。抵抗する間も無かった。
気付いた時には、僕の顔の右半分が尾張さんの乳房の間に埋まっているような状態だった。右頬に直接感じる尾張さんの肌の温もり、たっぷりとした乳房の柔らかさ、それらの強烈な密着感は、もう殆ど暴力的な感触だった。
「ちょ、ちょっと……ッ!」
焦った僕は尾張さんの体温から離れようとするが、尾張さんが手を放してくれない。そんな僕を見て、ペーターさんが目を怒らせていた。
「先約ですって……?」
「そ! 今日の夜は、指揮官にあたしの手料理を食べて貰うんだから!」
「そうなの……?」
むすりとペーターさんが訊いてくる。
「え、えぇ。今日の夜は確かに、尾張さんと約束させて貰っています」
約束を忘れていないし、それを反故にするつもりもないことを伝えるつもりで、僕は尾張さんの腕の中で頷いてみせる。……あまり深く頷くと、彼女の胸に顔を埋めるような事態になるので、できるだけ小刻みに。
「そう……、なら、今日のところは諦めるしかないわね」
物凄く残念そうに溢したペーターさんが、しゅんとなる。
「いや、そんな落ち込まなくてもいいぢゃん……。っていうか、ペーターさんも一緒にどう?」
僕を抱き寄せていた尾張さんが手を解いて、その両の掌をパンと合わせた。
「ほら! あたし達で仕事は大方終わらせちゃったし、今日は指揮官とあたしと一緒に、夜までゆっくりまったり過ごさない? ね? 指揮官も、それでも良いっしょ?」
すっきりとした美人顔に人懐っこい笑みを湛えた尾張さんは、僕とペーターさんを楽しそうに見比べる。彼女のおおらかな優しさは、執務室の空気をふっと温め直すようだった。
「えぇ。それは勿論」
僕は、尾張さんの笑顔を分けて貰うようにして頷いた。尾張さんは嬉しそうに頷くと、またペーターさんに向き直る。
「というわけでっ! 今日は晩ゴハンも一緒に食べようよ、ぺーターさん! あたしの手料理、マヂで楽しみしといてよ! 絶対、“有意義な時間”にしてみせるからさっ!」
快活に言い切る尾張さんの言葉には、ペーターさんに向けられた、何らかの複雑な感情が籠っているのを僕は感じた。友情や仲間意識とは少し違う親密感。それはもしかしたら、ある種の同情なのかもしれない。
ペーターさんと同じく、尾張さんも抱えている運命──建造されなかった計画艦。その数奇な運命──を思えば、彼女達の間に、何らかの特別な愛着が存在していても不思議ではない。
寧ろ、同じ運命を背負った者同士が現実として存在する以上、共感できる他者を強く求めるのは自然なことなのだろうと思う。
僕は、尾張さんの言葉を受け取ったペーターさんを見守った。
「……有意義であるかどうかは、“今の私”には関係が無いわ」
彼女はそっと微笑み、尾張さんに頷き返す。自身の変化を好ましく受け止め、その変化を与えてくれた環境や他者への感謝を想うように、ペーターさんは一度瞑目し、僕にも頷いてくれた。
「あなた達と共に通過する時間は、私にとっては意味に満ちているもの」
ぺーターさんはそこでソファから立ち上がり、僕の左隣へと歩み寄ってくる。
そして、ボフッと腰を下ろした彼女は、深呼吸のように大きく息を吐き出し、そっと僕の左肩へと身体を寄せてきた。無防備なまま、僕へと身体を預けるように。
「……卿の体温を感じる私は、今、此処にいる。私は誰かに必要とされ、名を呼び交し合う何者かとして存在している」
瞑目するぺーターさんの言い方は、その自分の言葉を、自分の体に染み込ませようとしているかのようだった。重々しさや深刻さよりも、自身の中にある深い実感を確かめ直すような、慎重な安らぎがある。
僕と尾張さんは、ペーターさんの次の言葉を待った。その慎ましい執務室の沈黙には、だが、どのような言葉が無くとも、僕達の関係をより親密する温度があった。
「この時間の証明として、私は、私を味わうことができる。……とても、贅沢なことよね」
ありがとう。声は微かだったが、僕を横目に見詰めてくるペーターさんの唇がそう動いたのは分かった。僕は笑みを返しながらも頷くことはせず、首を横に振った。
その感謝を受け取るべきは僕ではなく──。
「んんん~……、なんか難しいことはよく分かんないけど、ペーターさんがポジティブになってるってのは分かった!」
僕の右隣で嬉しそうに尾張さんだろうと思ったからだ。
「ペーターさんにも食べて貰うんだから、今日の晩ゴハンは頑張っちゃうよ~!」
「えぇ、楽しみにしているわ。きっと、一生忘れられない程に美味なのでしょうね」
「そ、そこまでエグめにハードル上げられちゃうと、ちょっとビビっちゃうなぁ……。気合いれなきゃ……」
ペーターさんからの熱い期待に対し、尾張さんは僅かに笑顔を強張らせる。だが、ペーターさんの物言いが明らかに冗談だとも分かるので、すぐに肩から力を抜くように息を吐いた。
「……とは言っても、晩ゴハンの準備をするにもまだ早いし。あたしも、この時間を味わっちゃおうかな~!」
ぐぐぐっと伸びをした尾張さんが、ペーターさんと同じように、僕の右肩へと身体を寄せてくる。いや、凭れ掛かってくる。そして、また伸びをした。
「う~ん……何もしない時間っていうのも、贅沢だよね~」
気持ちよさそうに尾張さんが言う。
「えぇ。孤独のままでは、決して理解できない甘美さだと思うわ」
ペーターさんが静かに、だが、深い頷きで同意していた。彼女達の身体を預けられている僕には、彼女達の体温が肩から伝わってくる。
「こうした日々の充足も幸福感も、結局のところは、他者との繋がりの中で見出すものなのかもしれませんね」
僕は、今の穏やかな空気に結論を出したくはなかった。だが、彼女達と同じく軍属である僕の、この母港での生活の中での実感だった。
彼女達に挟まれたままの僕は、傍から見れば両手に花だろう。だが、そういった浮ついた空気とは、今の執務室は無縁だった。
僕達が共有するこの長閑さ。その奥にあるのは、軍属である者にとっては珍しくない、魂の実在を信奉するが故の切実さだ。
「指揮官の意見に賛成って言うか。あたしも、そう思うかな~」
「……私も、意義は無いわ」
尾張さんとペーターさんが、僕の頭上越しに目を見交わし合い、微笑交じりに頷き合う。
彼達が互いを見出し、友好的な関係を築き、そして生きている時間を有意義なのだと感じられる場がこの母港なのだとすれば、それは僕にとっても喜ばしいことだった。
「でもさ~、指揮官。少なくとも今はさ~、そういう難しいことばっかり考えるのはやめとこうよ。馬鹿になった方が楽しいって」
「そ、そうですか? これは僕の、素直な感想と言うか……」
尾張さんからの思わぬ指摘に僕は当惑するが、助け舟を出すようにペーターさんが言ってくる。
「馬鹿馬鹿しいことを考えるのも、偶には有意義よ」
「えぇと……、例えば、どんなことです?」
彼女達に挟まれたままの僕は、間抜けな声で尋ねてしまう。尾張さんが力みのない声で応じてくれる。
「そうだなぁ~。例えば……。今みたいことをやってなかったら、あたし達ってどんなコトやってたのかなぁ、とか?」
尾張さんが提案した話題は、僕の心を僅かながら動揺させた。それを2人に気取られたくなくて、僕は少し意地悪に訊き返す。
「……尾張さんは、この母港での生活に何か不満でも?」
「いやいや、逆だって! 今の生活とか立場とか環境とか、あたしはすっごく気に入ってるっての! 此処には紀伊や駿河も居るし、不満なんて全然無いよ」
ちょっと慌てた言い方をする尾張さんが体を起こし、僕の顔を覗き込んできて頬を膨らませる。
「っていうか~、指揮官のくせに察し悪くない?」
「すみません。ただ、この母港を預かる僕にとっては、大事なことなので」
僕が微苦笑を尾張さんに返したときだった。
「今の尾張の問いの枠を、もう少し広げてみると興味深いわ。この世界とは違う自分達を想うこと自体は、そこまで非現実的でも無いでしょう?」
ペーターさんも身体を少し起こして、僕と尾張さんを交互に見た。
「そもそも、キューブやセイレーンという存在を認めた時点で、この世界における“可能性”という言葉は、遥かに深刻な意味を帯びたはずよ」
「えぇ……。それは間違いないと思います。セイレーン達だけが把握している、何らかの世界の“層”とでもいうような……、そういうものの気配は、僕も感じています」
僕の脳裏には、オブザーバーの姿が浮かんだ。煌々とした月明かりのような、あの妖しい金色の瞳と、少女然とした可憐な面立ちにそぐわない、酷く婀娜っぽい笑み。彼女の声までもが、僕の脳裏に蘇りそうになったときだった。
「だーかーらー、難しいことばっかり考えるのはやめようって話をしてたトコじゃん!」
頬を膨らませたままの尾張さんが、僕とペーターさんに抗議してくる。
「あぁ。……確かに、そうでしたね。すみません」
僕も微苦笑を浮かべ直し、ペーターさんも薄く笑って「じゃあ、結論を急ぎましょう」と緩く首を振った。
「私達には可能性がある、と言いたかったのよ」
「ふぅん……」尾張さんはそこで少し考えるように視線を斜めに上げてから、ペーターさんに目を戻した。そして、にっと笑ってみせる。
「ペーターさんが以前と変わったことも、可能性の一つってこと?」
「可能性の一部と言った方がいいかもしれないわね」
「じゃあじゃあ、ペーターさんが指揮官にガチ惚れしちゃってるのも……!」
「なっ! ちょっ……! うっ、うるさい……ッ!」
怖いくらいに俊敏な動きでガバっと立ち上がったペーターさんは、ソファに腰掛けたままの僕を飛び越えて、尾張さんに襲い掛かった。
「ひゃあああっ!?」
悲鳴を上げた尾張さんに馬乗りになったペーターさんは両手を伸ばし、尾張さんの頬っぺたを指で摘まんで、ぐいぐいと引っ張り始める。
「あぁ、ごめっ、ペーターさ……! あもあもあも……ッ!!」
「私が少し丸くなったからといって、調子に乗った自分を恨みなさいッ! このっ……!」
盛り上がる2人に置いてけぼりにされた僕は、そっと彼女達から視線を逸らしつつ、距離を話してソファに座り直した。ペーターさんと尾張さんのスカートが捲れあがっていて、官能的という言葉では到底追い付かないような物凄い景色になっていたからだ。
あの様子では制止の声など届きそうもないので、僕は残っていた湯呑のお茶を飲み、胸の中にあった諦念と一緒に飲み下す。
そして、そこで気付いた。ジタバタと暴れた尾張さんの脚があたって、チェスボード上の駒が幾つも倒れていた。
見れば、僕のキングは倒れて転がっていた。ペーターさんのキングを、チェックメイトに追い詰めていた僕の駒達もだ。結果的に、ペーターさんのキングはそこに立ち続け、生き残っている。
僕は、そこに発生している偶然に、陳腐で安直な、何らかの暗示的な意味を──僕の人生がオブザーバーによって嘲弄されたとしても、その頽廃は、僕だけに留まるのだという暗示を──見出そうとしている自分に気付く。
だが、自嘲する気にはなれなかった。
寧ろ、そういった希望をまだ抱ける自分に安堵した。
僕にとっても、この日常の日々には意味が満ちている。
温かな時間を、僕は僕として、KAN-SENの皆と通過している。
これ以上に有意義な人生など、僕には想像ができない。
チェックメイト。
そう僕に囁く、オブザーバーの意地悪な声が聞こえた気がした。
読んで下さり、ありがとうございます!
本編が完結し、放置していたものを形にしたものを投稿させて頂きました。
また皆様のお暇潰しにでもなれば幸いです……(土下座)
猛暑と雨が続いておりますが、どうか皆様も体調にお気をつけ下さいませ。
最後までお付き合い下さり、ありがとうございました!