少年指揮官の日常   作:トレモ勢

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独自解釈が強めの回になっておりますので、御注意をお願いいたします……。


番外編 夢は遠く

 

 

 

 心地よい微睡の中で僕は、頭上から柔らかな声が降ってくるのを聞いた。

 

「完璧超人みたいな指揮官ちゃんにも、弱点があったのね~」

 

 薄らと意識が覚醒してくる。仰向けに寝ている感覚。

 

「ふふ。お酒の匂いだけで酔っちゃうなんて」

 

 温かな弾力が首元と後頭部にあって、とてもいい香りがする。誰かに頭を撫でられている。僕の髪に触れる、誰かの指のしなやかな動き。

 

 あれ……。そういえば僕は、何をしていたのだったのか。うとうとする重たい頭で、さっきまでの記憶を掘り返してみる。

 

 確か、新しくできた明石さんのバーに、秘書艦の2人と視察に行ったはずだ。そこで、ネバダさん達に会って、彼女達の宴会騒ぎに巻き込まれたところまでは思い出せる。

 

 ほとんど乱痴気騒ぎに近い様相だったが、北方連合のKAN-SEN達も含め、皆が楽しそうに盛り上がっている姿を見て、僕も満たされたような気分になった。その心地よい喜びの余韻は、まだ胸に残っている。

 

 だが、そのあとのことになると駄目だった。何も覚えていない。まるで、その部分の記憶だけが抜け落ちたかのようだった。

 

 眠気に沈んだままの僕は、急に不安になる。

 此処は何処なのだろう。

 

 そもそも僕は、まだ存在しているのだろうか。

 

 心許ない体の感触を確かめ直すように、僕が身体を起こそうとしたときだった。

 

「……おい。ピッツバーグ。そろそろボクが代わってやろう。というか、代われ」

 

 少し離れたところから、焦れきったような、やけに不満そうな命令口調が飛んでくる。それに応じる、たっぷりとした余裕と笑みを含んだ声が続いた。

 

「怖い声を出さないでよ。指揮官ちゃんが起きちゃうでしょ」

 

 2人分の気配との声。それが、今日の秘書艦を担当してくれたピッツバーグさんと、インディアナさんのものだと気付く。

 

 僕は完全に目が覚めて、目を開くよりも先に身体を起こそうとした。それが不味かった。

 

 僕の額の辺りで、何か、とてもつもなく柔らかいものを持ち上げてしまう。それは柔らかいだけでなく、温もりと、たっぷりとした重みと弾みもあった。

 

 驚いた僕は咄嗟に頭を引いて、また仰向けに寝る格好に戻ってしまう。妙な表現になってしまうが、そこで僕は彼女の──ピッツバーグさんの乳房越しに目が合った。

 

「ぁ、あら……。フフ」少し驚いたような、でも、どこか嬉しそうなピッツバーグさんの声。「おはよう、指揮官ちゃん」

 

「え、えぇと、お、おはようございます……?」

 

 物凄い光景に圧倒されつつ、僕は今の自分の状況を理解した。そうか、僕はピッツバーグさんに膝枕をして貰っていたのか。しかも、彼女の自室のベッドで、だ。

 

 それにしても、いったいどういう経緯で……? 

 

「お前、全く覚えていないようだな」

 

 頭に浮かんだ僕の疑問を察してくれたのは、腕を組んでベッドの傍で仁王立ちになっているインディアナさんだった。

 

「酒の匂いにやられて、気を失うみたいに寝息を立てはじめたんだ。バカ騒ぎの最中にある明石のバーに、お前を置いていくワケにもいかんからな」

 

 僕を見下ろしてくるインディアナさんは、やれやれといった表情だ。その目つきも僕を責めるようで、いつまでピッツバーグの膝枕で寝ているつもりだと言わんばかりだった。

 

「それで、今日の秘書艦だったピッツバーグの部屋に、とりあえずお前を運び込んだというわけだ」

 

「指揮官ちゃんの自室よりも、私の部屋の方が近いでしょ?」

 

 ほくほくとして妙に満足そうな表情のピッツバーグさんも、僕の頭を撫でながら見下ろしてくる。

 

「そ、れ、に……。せっかく気持ちよさそうに眠ってる指揮官ちゃんを起こしちゃうのも、何だか可哀そうだったから。こうして私のベッドで寝かせてあげたのよ」

 

「そ、そうだったんですね。お気遣い、ありがとうございます」

 

 ピッツバーグさんに膝枕されたままの僕は顎を引いて、頭をさげるポーズをする。それから、彼女の乳房を避けるように身を捩って、ベッドの縁に身体を起こした。

 

「あら……、もういいの……?」

 

 目を潤ませたピッツバーグさんが残念そうに言いながら、お尻を寄せてくる。今にも僕に抱き着いてきそうな雰囲気でもあるが、それでいて飄々とした風情もある。

 

「え、えぇ。もう、十分休ませていただきましたから」

 

 落ちついた色っぽさを発散し続けるピッツバーグさんに応じながらも、僕は目の奥に軽い痛みを感じていた。まだ眠気が抜けない。ぼうっとする。

 

 お酒の匂いというか、酒気にやられて本当に酔ってしまったのだろうか。瞼と頭が重いのに、身体は不思議と軽い。こんなことは初めてだった。

 

 ふんと鼻を鳴らしたインディアナさんは「まずはこれを飲め」と、僕にミネラルウォーターのペットボトルを差し出してくれる。

 

「あぁ、ありがとうございます。いただきますね」

 

「……お前、最近はずっと徹夜続きだったんじゃないか?」

 

 腕を組んだまま腰を曲げたインディアナさんが、ペットボトルに口を付けている僕の顔をジロリと覗き込んできた。

 

「目の下にクマができているし、肌も少し荒れているぞ。今日の執務中、私達への返答にも不自然な間が何度もあった。慢性的な寝不足によるマイクロスリープだろう?」

 

 涼やかな淡い灰青色をした彼女の瞳は、僕を真正面から捉え続けている。その真摯さに圧されて、僕は頬を指で掻いて視線を逸らしてしまう。

 

「自分では、仕事に支障は出していないつもりだったのですが……」

 

「ふん。あぁ、そうだとも。お前の采配に、ボクが安心して命を預ける程度には優秀だ。だが、その文句のつけようのない指揮以外では、ボロが出ているということだな」

 

 この会話を説教じみたものにはしたくないのか、インディアナさんはそこで軽く咳払いをして、一冊の雑誌を背後から取り出した。彼女が羽織っている軍用コートに仕舞っていたのだろう。

 

「これは……、筋トレ雑誌ですか?」

 

 僕が受け取った雑誌の表面には、筋骨隆々の男性の肉体が、無骨なダンベルと共に映っていた。

 

「どういう文脈でこの雑誌を取り出したの……?」

 

 ベッドに腰掛けていたままのピッツバーグさんが怪訝な顔になって、僕の手の中にある雑誌とインディアナさんを何度か見比べる。怪しいものを警戒する目つきだった。

 

「とにかく、睡眠不足は健康の天敵だ」

 

 インディアナさんの方はと言えば、半目になっているピッツバーグさんからのジトっとした視線には気付きもせず、ちょっと早口になって何度も頷いている。

 

「それに、筋肉にも悪影響でしかない。しっかり寝なければ、成長ホルモンの恩恵も受けることもできないぞ」

 

「つまりは、まずは僕自身の体調を整えるようにと、そういうことですか?」

 

「ま、まぁ、そうなるな。うむ。身体は何よりも重要な資本だ。そして体力は、気力と思考を支える土台だ。疎かにすれば全てが崩れる」

 

 うんうんと頷くインディアナさんの口調にも熱が入っている。体を鍛えることで心身の強さを保つというのは、軍属の身であるならば当然の義務だという口振りだ。

 

「え、えぇ。生活を改めるためにも、この雑誌は大切に読ませて貰います」

 

 僕も鍛錬のために、重桜寮の道場を使わせて貰っている。竹刀や木刀を用いた実践訓練であり、愛宕さんや高雄さん、土佐さん達を相手にした模擬戦だ。

 

 それに加えて、基本的なウェイトトレーニングで身体を作り直すというのも、大切な僕の仕事のように思えた。自分の為というよりは、この母港の基地機能のためにも。

 

 他者に役立つ己であり続けるためには、戦闘技術や戦略的思考よりも、まずは健在であることの方が優先されるのは間違いないように思える。改善も努力も、それを積み重ねた進歩も、まずは存在しないことには始まらない。

 

「……インディアナさんの言う通り、身体は大事ですよね」

 

 手の中にあるトレーニングマガジンを見下ろしながら、僕は頷く。

 

「あぁ。そのトレーニングマガジンには、有益な情報が満載だ。自室に戻ったら、じっくり、丹念に、余すことなく、隅々まで目を通しておくといい」

 

 何もそこまでと言いたくなるほどの目力を籠めて、僕の目の前で前屈みになったインディアナさんが念を押してくる。その笑顔の力強さが眩しい。

 

「いいか? とにかく、全てのページを見るんだぞ? 最初から最後まで全部だ。分かったな?」

 

 全てのページ、という部分を強調して推しまくってくるインディアナさん。対して、「ふ~ん……」と何かを察したような、ピッツバーグさんの流し目。「その雑誌、少し見せてくれる?」

 

 滑らかに動いたピッツバーグさんの腕が、僕の手の中から雑誌をするりと抜き取ってしまった。

 

「あ」

 

 流石の戦闘センスというか、完全に意表を衝くタイミングというか間の取り方で、僕は間抜けな声を漏らすだけで、全く反応できていなかった。

 

「ちょ……っ!?!?」

 

 何故か大いに焦った様子のインディアナさんが身体を伸び上がらせ、本気の驚愕を見せている。

 

「雑誌らしいというか何と言うか、そこまで目新しい情報があるわけじゃなさそうだけど」

 

 パラパラと雑誌をめくっていくピッツバーグさんの顔つきには、不審物を改めるような険しさがある。雑誌を読んでいるというふうでは全くない。

 

「お、おいっ! かっ、返……っ!」

 

 顔を引き攣らせたインディアナさんが、両腕をわちゃわちゃさせながらピッツバーグさんに詰め寄る。だがピッツバーグさんは身軽な猫のように、ベッドから音も無く立ち上がり、ひょいひょいと伸びて来る腕を躱していく。

 

 こういうドタバタに険悪さがなく、平和で長閑な日常感があるのは、ユニオンの仲の良いKAN-SEN同士だからだろう。変なタイミングで僕はほっこりしてしまう。

 

 その最中だった。雑誌を捲っていたピッツバーグさんの手が不意に止まり、その両目が細められるのが分かった。まるで雑誌のページの間に、何かを見つけたような目つきだった。

 

 だがそれも一瞬のことで、彼女はすぐに柔和な微笑みに戻ってから、あっさりとインディアナさんの手に雑誌を返した。

 

「……なるほどね~。まぁ、内容的には、トレーニングの基本を過不足なく纏めてるって感じね」

 

 肩を竦めたピッツバーグさんがベッドに座り直して、また僕にお尻を寄せてくる。というか、しな垂れかかってくる勢いだった。

 

「入門書にしては、悪くないんじゃないかしら」

 

「そういう内容のものを、インディアナさんが僕の為に選んでくれたんですよ」

 

 そうですよね? と確認するつもりで、僕はインディアナさんに目を向けてみる。

 

「む、無論そうだ! 当たり前だろう!」

 

 怒ったような顔になったインディアナさんは、ピッツバーグさんから取り返した雑誌をパラパラとやってから、そこに何かの無事を確認したようにホッと息を吐き出した。肩まで落とした、やけに深々とした吐息だった。

 

 その様子を艶っぽい横目で眺めていたピッツバーグさんが、愉快な悪戯でも思い付いたみたいに、茶目っ気たっぷりな微笑を浮かべる。

 

「ねぇ、指揮官ちゃん」

 

 ベッド傍にある淡い照明に照らされた彼女の横顔は、大人びた色気を濃密に帯びていた。

 

「指揮官ちゃんは、どんな形の愛を告白されたい?」

 

 その唐突な話題の開始に、何か心当たりでもあるのか。インディアナさんが顔を引き攣らせて、過剰なほどに肩をギクリと跳ね上げた。

 

「どんな形、というのは……?」

 

 僕は、ピッツバーグさんの問いかけの意味を上手く受け止められなかった。そんな僕を見詰めながら、彼女は唇の端を舐めて湿らせてみせる。

 

「あぁ、ちょっと訊き方が悪かったわね。難しい話じゃないわ。指揮官ちゃんは、どんな愛のカタチなら受け入れてくれるのかしらと思って」

 

 潤んだような、だが鋭さのある眼差しが、僕を捉え続けている。

 

「鉄血の子たちから聞いたのよ。前に指揮官ちゃんがカフェに視察に行ったとき、私達のことを愛していると言ってくれたんでしょう? なら、私達が指揮官ちゃんを愛し返せば、ちゃんと想いが通じるはずじゃない?」

 

 ふわふわと優しくて穏やかなのに、だが、ほんの少しの冷たさを感じさせる笑みを湛えたピッツバーグさんが、身体を曲げて僕の顔を覗き込んでくる。

 

 表情を凍り付かせたまま赤面したインディアナさんが、息を飲む気配があった。僕も一瞬、面食らう。だって、ピッツバーグさんと口づけをする寸前のような顔の近さだったからだ。

 

「でも、私達各々が抱えている愛情には形があるでしょう? これに関しては個性と言い換えてもいいし、綺麗に言い繕えば願いとも言えるし……、露骨な表現をすれば、欲望とも言えるわね」

 

 今の彼女は、普段のようにエッチな言葉遊びで僕を揶揄おうとしているのではない。僕の内側から何かを探り出し、引き出そうとしている風だった。

 

「例えば……。常識も良識も、理性も体裁もドロドロにしちゃうような、身体と地位が砂になるような……、そう、何もかもを刹那の悦びに投げ捨てるような、官能的な愛はどう?」

 

 ピッツバーグさんの熱っぽい声が語る、この愛のカタチこそが、彼女自身が抱いている僕への愛情なのだとは思えなかった。

 

 僕の目の前にある彼女の瞳は凪いでいて、冷静過ぎる。観察する眼差しだった。僕が動揺したり、言葉や声を揺らしたり、何かの期待を仄めかせば、それら全てを見逃さず、余さずに捕まえようとするかのように。

 

「そう、ですね……」

 

 僕の反応を待ち受ける彼女の真剣さに、僕も真摯に応じるつもりで首を振る。

 

 どんな愛を求めるか。結局ところそれは、どのような幸福に着地するか、という問いではないか。

 

「熱烈な肌の触れあいを求められることは、幸福の一つであり、愛情の証だと思います」

 

 揺れがない声で答えた僕だったが、先に視線を逸らしてしまう。

 

「……曖昧な答え方ね~。優柔不断のお手本みたい」

 

 ピッツバーグさんは笑みのままだが、その声音と瞳には微かな棘があった。僕の返事にではなく、寧ろ、僕の反応が薄いこと自体が不満だったのかもしれない。

 

 ただ、この話題を持ち出したピッツバーグさん自身だが、この場の空気を深刻なものにはしたくないのだろう。「でも……」と彼女はすぐに口調を柔らかくした。

 

「裏を返せば、その煮え切れなさも思慮深さの証拠でもあるのでしょうし……。指揮官ちゃんがKAN-SEN達に向ける博愛は、分厚い冷静さで覆われてるのね」

 

 私が思っているよりも、ずっと。

 

 ピッツバーグさんが小声でそう付け足して肩を竦めたところで、今まで硬直していたインディアナさんが、ハッと我に返ったように素早く動いた。

 

「ぉ、おいっ! いくら何でも近過ぎるぞっ!」慌てた口調のインディアナさんが、僕とピッツバーグさんの間に両手を突っ込んでくる。「もっと離れろ!」

 

「ちょ、ちょっと……、そんなに押さないで。私の自室で暴力は反対よ」

 

「これは暴力ではない。正義の執行だ」

 

 抗議の声を上げるピッツバーグさんを無理矢理どかせたインディアナさんは、力強く言い放つ。そして、僕の隣にどっかりと腰を下ろしてきた。ベッドが軋んで僕の身体が弾む。

 

 ちょうど、僕とピッツバーグさんの間に割り込むような形だった。

 

「さて、不健全な話は此処までだ。もっと健全な話題に移ろう。例えば……、そう! 筋トレとプロテインについて、ボクと語ろうじゃないか」

 

 トレーニング雑誌を片手に爽やかな口調のインディアナさんだが、ピッツバーグさんに負けず劣らずの勢いでぐいぐいとお尻を寄せてくる。

 

 しかも、体格の良い彼女は肩まで組んでくるため、小柄な僕は彼女の腕の中に完全に埋まってしまう。体温がダイレクトに伝わってくる物凄い密着感だし、僕の耳と頬の横で彼女の乳房が潰れる感触がある。

 

「あ、あのっ……! インディアナさん……!」

 

 僕は身体を逃がそうとするが、ガッシリと肩を組んでくる彼女の腕はビクともしない。

 

「おお、なんだ指揮官。なかなかいい筋肉の付き方をしているじゃないかっ」

 

 嬉しそうな顔になったインディアナさんは、組んでいる方の腕を動かして、僕の胸板や脇腹背中や腕などを、さわさわさわっ……、と触ってくる。僕の身体の輪郭や肉付きを素早く確かめるふうだった。

 

「ひゃあっ!?」

 

 いやらしい手つきではなかったが、その遠慮の無さがくすぐったくて、僕は変な声を漏らしてしまう。その直後だった。

 

「……私と指揮官ちゃんの距離がどうこう言っていた貴女の方が、よっぽど距離が近いじゃないの」

 

 やたら低い声がした。見れば、じっとりした半目になったピッツバーグさんが、ベッドに腰掛けた脚を組み、抗議の横目でインディアナさんを見据えていた。

 

「そんなことはない」

 

 即座に反論したインディアナさんの表情には、悪びれたところが一切ない。

 

「それに、筋トレとプロテインの話は奥が深いからな。朝まで語り明かすには、これぐらいの距離感で適正なんだ」

 

 そんな意味不明な理論を堂々と言い放つ様子は、「分からないのか?」とでも言わんばかりだ。当然だが僕も分からないし、付き合い切る自信が無かった。

 

「睡眠不足を解消しろという話はどこに行ったのよ……」と、ピッツバーグさんが酸っぱそうな顔になる。「筋トレとプロテインが健康維持に有効なのは分かるけど、その話題で徹夜していたら本末転倒じゃないの」

 

「……それもそうだな」インディアナさんが一理あるという頷きを見せる。

 

「そうよ。だから、貴女も指揮官ちゃんから離れなさい」

 

「嫌だ」

 

「そんな子供みたいな……」

 

 頑ななインディアナさんの物言いに、肩を組まれたままの僕も思わず横から言ってしまう。

 

「あら。そうやって指揮官ちゃんを独り占めするつもりね。私の自室の、しかも、ベッドの上で」

 

 そこでピッツバーグさんは、ちょっとだけ目を細めた。だが、僕を見据えていたときのような、微かな棘のある眼差しとは違う。相手を冗談に誘う微笑だった。

 

 普段の妖艶さとは違う、悪意のない無邪気さを目許に溜めて、彼女は唇に指をあてた。そして、詩歌でも吟じるような美しい声を発した。

 

「日の光は大地を抱きしめ、月の光は海にキスする……」

 

 一瞬で完全な真顔になったインディアナさんが目を見開き、手に持っていたトレーニング雑誌とピッツバーグさんの顔とを物凄い勢いで見比べはじめる。

 

 僕は何事かと訝しむが、ピッツバーグさんは涼しい顔で言葉を紡いでいく。

 

「君がボ……私に口づけなかったら、自然の美しい仕事は意味が──」

 

「おい、あのっ! ちょっと、ごっ、ごめんなさいっ! やめてやめて……」

 

 僕の肩を組んでいた腕を大慌てで解いたインディアナさんは、「あわわわ……」みたいな半泣きになって、ピッツバーグさんに縋りつく寸前のように両手を彷徨わせる。

 

「あら、どうしたの?」

 

 対して、余裕たっぷりのピッツバーグさんは「何かあったの?」という感じで、なぜか心細い顔になっているインディアナさんをチラリと見て、それから僕に目を向けてくる。楽しげで、妖しい眼差しを。

 

「さっきの話題を蒸し返したいわけじゃないけれど、こういう素敵な愛情の表現だったら、どう?」ピッツバーグさんの囁くような、意味深な声。誰かを応援するかのように。「指揮官ちゃんなら、受け容れてくれるでしょう?」

 

 半泣きだったインディアナさんが、驚いたように何度か瞬きをして、その言葉の真意を測るようにピッツバーグさんを3秒ほど見詰めた。それからすぐに、僕の方にガバっと振り返ってくる。

 

「そうなのかっ!?」

 

 不思議と熱の籠った2人の視線を真正面から受け止める僕は、無意識に背筋を伸ばしてしまう。

 

「えぇと、そう……、ですね。愛情を伝える言葉としては、僕も強く共感できるものがあります」

 

 ピッツバーグさんが吟じた歌のようなものを頭の中で反芻する。

 

「自然の美しさを語るということは、この世界が自分の為だけでなく、親愛な他者の為にも世界が合って欲しいと望んでいるようなニュアンスを感じました」

 

「ふふ……。ただ恰好をつけてみただけかもしれないわよ?」

 

 ピッツバーグさんが小さく笑みを溢す。ちょっと怒ったような目つきになったインディアナさんが何かを言いたげにムニムニと唇を動かしたが、最終的には何も言わず、ぎゅっと唇を引き結んでそっぽを向いた。

 

「僕にとっては、そういうふうに感じられたんです」

 

 つまりは個人的な感想だが、この話題に付き合うのなら、自分の感じたことを大事にすべきだろう。

 

「指揮官ちゃんの博愛精神に、響くものがあったということね」

 

 ベッドの上で脚を組み、そこに頬杖をついた優雅な姿勢で、ピッツバーグさんは僕を見詰めてくる。その声に籠る、微かな冷やかさ。僕は頷き、なぜか熱っぽい目で僕を見下ろしてくるインディアナさんにも、微笑で応じた。

 

「“理性ある者は、互いの為に生まれた”──。これは、ある賢帝と呼ばれた人物の言葉らしいですが、指揮官という立場にある僕にとっては、明確に生きる意味になりました」

 

 敢えて分類するならば、僕の大事にひと達は、人間ではない。

 

 だが、理性と誠実さを持ち、人間にしかできない心の動きを持っている。彼女達のことを、人間ではないと悪意を持って言い募るような人が現れたなら、僕にとっては憎悪の対象だった。

 

 僕は、目の前にいるピッツバーグさんとインディアナさんと交互に目を合わせて、自分の心の内側から押し出すようにして言葉を吐き出す。

 

「僕達は、互いの為に生きている……。この回答は、何の為に、誰の為に生きているのかという種類の、あらゆる設問に対する理性的な態度だと思います」

 

「あぁ、なるほど。その思想が、指揮官の博愛精神の正体というわけか」

 

 溜息を飲み込むような間を置いて、インディアナさんは自分の両手を見下ろしながら苦笑する。

 

「互いの為に生まれた、か……。うん。確かに、生きる意味を考える上では、悪くない答えだ」

 

 その隣で、俯きがちになったピッツバーグさんが、何かを飲みこんだように、しかし同時に、何かを諦める寸前のように何度か頷いていた。

 

「指揮官ちゃんの博愛は尊いけれど、その博愛を打ち切ることも、指揮官ちゃんには大事だと思うわ」

 

「それは、どういう……」

 

「強くある姿を見せるだけが、愛情じゃないということよ。愛しているひとに、ちゃんと“助けて”と言えることが、本当の強さじゃないかしら?」

 

 優しくも寂しげなピッツバーグさんの視線と言葉が、僕の心を射貫くのを感じた。前に、ウルリッヒさんに応えた言葉が、僕自身の耳の中で木霊する。

 

 僕は一瞬、自分がどんな表情を浮かべているのか分からなくなる。言葉が出てこない。だが、無言になった僕の沈黙を引き受けるように、インディアナさんが優しく肩を抱いてくれた。

 

「維持を張れるのは、心に筋肉がついている証拠だ」

 

 気負いのないインディアナさんの言葉が、今はやけに染みた。

 

「……僕は、皆さんに支えて貰っていますよ。もう、恩返ししきれないぐらい」

 

 この本心からの言葉を、僕は何度口にしただろう。ちゃんと誠実さを伴って、彼女達に聞こえるだろうか。そんな今更の不安を、インディアナさんが笑い飛ばしてくれた。

 

「“一片の情が世界を親密にする”、という言葉もあるからな。ボクは、指揮官の考えは立派だと思うぞ」

 

「あら……、それ、シェイクスピアの一節でしょう?」

 

「……なんだその顔は?」

 

「いえ、似合わないなぁと思ったのよ」

 

「何だと?」

 

「だって……、さっきまで筋トレだのプロテインだのと騒いでたじゃない」

 

「身体を鍛えれば、頭や感性だって冴えるものだ!」

 

 遠慮なく言い合うピッツバーグさんとインディアナさんの2人を眺めながら、僕は、さっき視察に行った明石さんのバーを思い出していた。

 

 騒々しくも包容力に満ちた、あの賑やかな景色こそは、“一片の情が世界を親密にする”ことを体現していたように思えた。

 

 明石さんのバーで酒に酔っていたKAN-SENの皆の姿に、僕は幸福を感じていたのだ。もっと大袈裟に言うことを許されるなら、それは救済だった。

 

 その大きな感覚の中で、僕はお酒の匂いに中てられて眠り込んでしまったのだと思い出す。幸福感に沈んでいくように。

 

 積み重なった記憶の味わい方は、年を経たお酒に似ているという話を聞いたことがある。今日という日を、お酒でも飲みながら懐かしく思い返すことができれば、それはどんなに満たされた気分なのだろう。

 

 人生の折々で、幸福さを味わい直す。

 僕はもう、そんな経験をすることはないだろう。

 

 だが、せめて、彼女達と過ごす日々を、最後の最期のときまで、しっかりと自分の心に刻み付けておこうと思った。今の満たされた気分をいつでも取り出し、温めなおせるように。

 

 互いの為に生きるのが理性なら、こういう自閉も命の可能性だと僕は思う。こっそりと息を吐く。何となく、お酒を飲みたくなった。

 

 













今回も読んで下さり、ありがとうございました!
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