少年指揮官の日常   作:トレモ勢

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番外編 悲しみが裏打つもの

 

 

 ユニオン陣営のKAN-SEN達で行った演習。その報告書を執務室へと届ける途中、エセックスは指揮官と出会った。

 

 廊下を1人で歩く指揮官は重そうな資料の束を抱えていたので、エセックスが手を貸したのだ。書斎に資料を取りに向かい、執務室に戻る途中だったらしい。

 

「タイミングよくエセックスさんを使うような形になってしまって、すみません」

 

 眉を下げた指揮官は、エセックスを見上げて気弱な笑みを浮かべて見せる。全く子供らしくない、すでに何度か人生をこなしてきたかのような、落ち着き払った微笑だ。

 

 ただ、それでいて可憐だった。可愛らしい。エセックスを信頼しきっている証の、その無防備さ。胸がキュンキュンと締め上げられる感覚に、顔が僅かに熱くなる。

 

「いえいえ……ッ! この程度、お気になさらず!」

 

 鼓動の高鳴りは甘く、声が上擦る。意図せず訪れた指揮官との2人きりの時間を、ゆっくりと味わいたい。

 

「本格的な天候の崩れは、今日からみたいですね」

 

 エセックスは無難な話題を切り出しつつ、歩く速度を少し緩めた。指揮官の歩く速度に合わせる以上に、歩幅を縮める。

 

「えぇ。出撃されていた方や委託組の皆さんも、荒れた天候と海域を避けて帰還することができましたし」

 

 これも、エンタープライズさんの幸運にあやかったということでしょうか。そう冗談めかして言い足した指揮官は、微笑みを深めつつ、廊下の窓から外を見遣った。

 

 出撃組にはエンタープライズが編入されていたことを思い出しつつ、エセックスも指揮官の目線を追う。

 

「あの豪運には、尋常ではないものがありますから」

 

 窓の外には母港の敷地が見え、その先からは海と空が広がっている。

 

 灰色の雲がぎっしりと詰まった空と、暗灰色に沈んだ海が、水平線で結び合っていた。低い遠雷も微かに聞こえてくる。悪天候を明白に兆した光景だ。

 

「しかし、この天候を見越した作戦立案は指揮官のものでしょう。KAN-SENである私達が感謝すべきは運ではなく、指揮官の尽力に対してです」

 

 この母港に所属する各陣営、及びKAN-SEN達が円滑に任務を進められるのも、指揮官の御蔭である。そのことをエセックスは強調したつもりだった。

 

 この母港の軍事能力と基地機能は、KAN-SEN達の存在に支えられている部分が大半である。だが、それを取り纏める指揮官の存在は、日々の実務的にも、KAN-SEN達の心情的にも必要不可欠だった。

 

 だが、この少年指揮官は、自身の影響力に無頓着だ。

 

 それが、KANSEN達への敬意と礼節を貫こうとする彼自身の信念からくるものなのか、或いは、彼自身の自尊心の欠乏に由来するのかは判然としない。

 

 もしくは、指揮官という立場自体が、指揮官の心の在りようを規定しているのか。いずれにせよ、この少年は自分のことを低く見積もり過ぎるきらいがある。

 

 今だってそうだ。

 

 書斎から資料をとってくるなどという、雑事とも雑用とも呼べない些事こそ、本来なら秘書艦に任せるべきではとエセックスは思う。

 

 だが、それは決して口にしない。

 

 エセックスも何度か秘書艦を担当したから分かるのだが、この指揮官は、雑務や雑用を秘書艦に投げるのを嫌うのだ。頑なに自分で処理しようする。

 

 それが秘書艦に対する遠慮や気遣いからくるものなのは明らかであったし、それを指摘すれば、余計に指揮官の態度は凝り固まるだろうというのがKAN-SEN皆の意見だった。

 

 故に、各陣営のKAN-SEN達の態度は、“指揮官の気遣いを有難く受け取る”ということで一致している。これは陣営間での厳密な取り決めでもあった。

 

 この指揮官は怠惰とは無縁で、一方的に尽くされることを良しとしない。

 

 秘書艦となったKAN-SEN達が悦びのテンションに任せて下手に出しゃばり、何でもかんでも仕事をやってしまうのは最大のタブーである。

 

 大量の仕事を任せてしまっているということで、指揮官が申し訳なさを覚えるのは明白だからだ。

 

 そうなれば、指揮官の生真面目さと善意によってこそ、今の『秘書艦』という制度自体が消滅する危険性がある。それは、この母港のKAN-SEN全員が絶対に避けたいことだった。

 

「……大荒れになった海を航行して貰うような事態は、避けられるに越したことはありません。こういうときには、各陣営の皆さんにも休息を取って貰うべきでしょう」

 

 やはり、まったく少年らしくない微笑を湛えたままで、指揮官はエセックスに頷く。

 

「KAN-SENの皆さんに対して僕ができる貢献は、日々の細かな調整ぐらいですから」

 

「……そういった気遣いの有難みを理解していないKAN-SENは、この母港にはいませんよ」

 

 エセックスは毅然と応じつつも、「ご自身を卑下なさることはありません」とは言えなかった。その言葉を、指揮官は素直に受け取らないという暗い確信があったからだ。

 

 その反動なのかもしれない。

 

 小さく唇を噛んだエセックスは、その確信の奥にあるものに触れてみたくなった。つまりは指揮官の、この少年が真に抱いている個人的な感覚や感情に対する、何らかの手触りが欲しくなったのだ。

 

 今の自分の感情の昂ぶりが、突発的なものであることは自覚している。だが、心情的な勢いというのは大事だ。切っ掛けと弾みがあれば、勇気というものは発揮される。

 

「……あの、指揮官」

 

 こっそりと深呼吸をしたエセックスは、窓の外を眺めつつ話の向きを変える。

 

「これは私の、非常に個人的な関心と興味からお尋ねさせて貰いたいのですが」

 

 仕事の話を続けているうちは、この少年は決して“指揮官”の立場から出てこないだろうし、彼から発せられる言葉もまた、指揮官という立場を纏ってしまう。

 

 ならば、この少年個人に向けた問いが必要だと思った。

 

「指揮官は、どのようなときに幸福を感じますか?」

 

 言ってからすぐに、エセックスは内心で後悔しそうになった。

 

 幸福などと大袈裟な言葉を使うべきではなかったか。指揮官が僅かに目を見開き、エセックスを見上げてくる。思わぬ衝撃を受けたように、彼も温和な表情を取り落としていた。

 

 だが、今は言葉を前に進めるべきだと思った。少しだけ肩を竦めてから、エセックスは口許に笑みを残したままで指揮官を見詰め返す。

 

「指揮官は私たち以上に忙しい日々を送られていますが、その御身体の健康のためには、精神的な余裕や充実も不可欠ですから」

 

 質問が気軽なものであると表明するつもりで、この設問の意図をもっともらしく説明した。

 

「指揮官が心を休める時間を、ちゃんと確保しているのか気になったのです」

 

 唐突に踏み込んだ質問をしてしまったことを取り繕うため、エセックスは僅かに早口になってしまう。だが、それらの言葉の半分以上はエセックスの本心でもあった。

 

「僕が、幸福を感じるとき……」

 

 エセックスの眼差しを受け止めていた指揮官は、ゆっくりと何度か頷いたあとで、また窓の外に眼を向けた。落ち着いた態度は、既に回答を持っている風でもある。

 

 だが、エセックスに応じる前に、改めて自分の内側にある感覚や感情の手触りを、確かめ直そうとしているのかもしれない。彼は穏やかな表情を取り戻し、黙り込んだ、

 

 無言になった指揮官の隣で、エセックスも何も語らず、彼が口を開くのを待つ。少しのあいだ、沈黙を持ち寄って二人で廊下を歩いた。

 

 だが、この静寂こそは、この少年が“指揮官”という立場から、僅かながらでも踏み出そうとしている証のように感じられた。

 

 つまりは指揮官が、指揮官という立場からではなく、この少年自身の言葉として、エセックスの問いに応じようとしてくれているのだと思った。

 

 彼は、エセックスに伝えるための言葉を、自分のなかで選び直している。慎重に。そのことを純粋に嬉しく思う。エセックスは目線だけを動かし、チラリと指揮官の横顔を窺う。

 

 窓の向こう、重く沈んで垂れこめてくるような曇り空を見遣りながら、少年は眩しげに目を細めていた。曇天の向こうにではなく、記憶のなかにこそ、眩しいものを見出しているように。

 

「……僕の幸福とは、KAN-SENの皆さんと過ごす日々そのものです。ですから、この母港で僕が幸福を覚えたときは無数にあります。この瞬間だって、僕は幸福ですよ」

 

 指揮官は、そう語りつつ立ち止まる。隣を歩いていたエセックスが、彼を追い抜く形になって振り返った。窓の外を眺めつづける彼の表情は、優しく凪いでいる。恐ろしい程に。

 

 エセックスは鳥肌が立って、唾を飲み込んだ。

 

 曇天と灰色の海を見遣る指揮官の眼差しは、時間をかけて何らかの覚悟を終えた者のそれだったからだ。

 

 窓の景色に向けて、指揮官は微笑みを浮かべている。だが、普段の彼がKAN-SEN達に向けるものとは温度やニュアンスが微妙に違う。何もかもを受け容れて、己自身を差し出すかのような笑み。

 

 深い瞑想により心に静寂を宿した者は、その心によって風景や世界を包むのだと、エセックスは聞いたことがある。今の指揮官の様子は、まさにそれだった。

 

 立ち竦んだエセックスは愕然とする。

 

 自分が発した問いかけは、彼が纏う“指揮官”という立場と仮面を、確かに剥がすことができたのかもしれない。だが、その奥にある、この少年自身の心に、こんな深い静謐が宿っていたのかと。

 

「これは僕個人の、一人称的な経験と実感なのですが」

 

 少年は、曇り空と灰色の海を、その眼差しで抱き留めながら言葉を続ける。彼自身の言葉を。エセックスに応じるべく、誠実に、一つ一つ積み上げようとしている。

 

 その恬淡とした少年の佇まいを前に、エセックスは本気の怯みを覚えた。喉が震えて、声が出ない。頬の強張りで、愛想笑いも作れない。

 

 この少年の心との距離を、僅かでも近づけるつもりで持ち込んだ話題が、むしろ逆に、この少年の心の深遠さ──KAN-SEN達が胸に秘めた信頼や親密が、彼に届いていたとしても、決して結び合うことのない絶望的な距離を──迂闊にも暴いてしまうような気配があったからだ。

 

 指揮官が語るこの前置きが、どのような結論に辿り着くのか分からない。怖いと思った。一刻も早く、この話題から立ち去るべきだと思った。

 

 だがこの少年が、自分の言葉でエセックスに応じようとしているのに、それを阻む言葉を、エセックスは持っていなかった。ただ、打ちのめされるのを待つように立ち尽くす。

 

 少年はエセックスの方を、まだ見ようとしない。海と空を眺めている。この世界を、あるいは、もっと巨大なものを既に受け容れているような眼差しで。

 

「でも、僕がこの瞬間の幸福を、本当の意味で実感するのは──」

 

「遅いぞ。何をやっていたのだ」

 

 金縛りに遭ったように身動きが取れないエセックスの背後から、凛然とした声が飛んできた。ハッとして振り返ってから、驚愕と同時に唖然としてしまう。

 

「我々は執務の最中のはず。指揮官たるもの、もっと早く戻ってきて欲しいものだが」

 

 やたら露出の激しいバニーガールが、険しい表情で仁王立ちしていたからだ。

 

 右目の眼帯。長い銀髪。峻厳な目つき。冷然とした美貌。それらの要素を軍人らしい毅然さによって纏った、鉄血陣営のKAN-SEN。

 

 ルメイ・フリッツ。今日の秘書艦のうち一人は、彼女だったはずだ。だが、どういう理由でバニーガール姿なのか。

 

「すみません。ルメイさん。資料を探すのに手間取ってしまって。様子を見にきてくれたんですね」

 

 窓の外に向けていた目を戻した指揮官が、申し訳なさそうに眉を下げていた。その眼差しからは、先程のまでの静けさは既に消えている。

 

 “指揮官らしい”温かさが戻っている。

 

「時間は貴重なリソースだ。慎重に扱うのは、指揮官として基本中の基本だぞ」

 

 バニーの恰好で偉そうなことを言うルメイは、さっきから立ち尽くしているエセックスの姿を認めて、「んん? どうした?」と訝しげな顔になる。

 

 いや、お前こそどうした。そう喉元まで出かけたエセックスだったが、寸でのところで言葉を飲み込む。代わりに、軽く頭を下げつつ、今までの経緯を簡単に説明した。

 

「ふむ、そうか。指揮官が抱えた資料を、代わりに持ってやったと。……なるほど。ご苦労だった」

 

 ルメイは何度か頷き、くるりと背を向けた。ふわふわとしたウサギの丸い尻尾が、彼女のお尻の腕で揺れている。

 

「来るといい。コーヒーを淹れよう」

 

「えっ、ぃ、いいんですか?」

 

「うむ。礼をせねばならん」

 

 抱えている資料をこの場で指揮官に返すことも妙だと思い、エセックスは有難く好意に甘えることにした。だが、ルメイに続く形で執務室に入ると、また唖然としてしまった。

 

 執務室の天井ではミラーボールが回り、どぎついピンク色の光が部屋中に反射していて、いかがわしい雰囲気が濃密に立ち込めていた。アロマキャンドルの匂いだろうか。甘ったるい香りも充満している。

 

「うわぁ……。なんて言うか、うわぁ……」

 

 朝から今まで、こんな部屋で執務をしていたのかと感嘆と驚愕と呆れが混ざった吐息が漏れてしまう。エセックスの動揺は言葉にならない。

 

「おや、客人とは……」

 

 執務室にある、秘書艦用の重厚な机。そこに腰掛けているのは、もう一人の秘書艦。

 

 武蔵だ。

 

 豊満かつ引き締まった肢体を、やはり露出の激しいバニースーツで包んでいた。さらには、溢れんばかりの彼女の乳房が谷間を作ると、ハート形に見える紋様まで描いている。明らかに、指揮官の悩殺を目的とした装いだった。

 

 同性であるエセックスですら、生唾を飲み込む妖艶さである。

 

「指揮官の手伝いをしてくれたとのことだ。彼女にも、今からコーヒーを淹れようと思ってな」

 

 カップを用意しながらルメイが応じて、武蔵が嫣然と笑みを向けてくる。

 

「そう。妾達の代わりに、頑固な指揮官を支えてくれたというわけね」

 

 彼女の柔らかな声音に含みが無いのは、指揮官のことを四六時中庇護していたい、庇護されていて欲しいという彼女の願いの表れなのかもしれない。

 

 武蔵は特に、指揮官を甘やかしたがるというか、母性的な親密さで指揮官に接しようとするKAN-SENであることは有名だった。距離感の近さが独特なのだ。

 

「そんな大袈裟な。ただ資料を持ってきただけですよ。……というか、どうしてお二人はバニー姿なんですか?」

 

 エセックスは手にしていた資料と報告書を指揮官の机に置きつつ、促されてソファに座りながら、頭に浮かんだ疑問を素直に口にした。

 

「あぁ。それは」と執務机に腰を下ろしながら、指揮官が答えてくれた。

 

 以前、鉄血が出した模擬店での成果に納得のいかなかったルメイが、次回出店に向けた修行、も兼ねて、バニー姿での秘書艦業務を、ロイヤル風の言い回しで“御奉仕”したいと言い出したのが始まりだったようだ。

 

 もう一人の秘書艦である武蔵の方は、ルメイがバニー姿ならば妾もと、そういう流れだったらしい。今の執務室の惨状(?)は、明石が貸し出したミラーボールを含む各種オプションの効果ようである。

 

「普段とは雰囲気が違うので、気分転換にはなりますよ」

 

 ただ、このピンク色に満ちたエロティックな空間でも、指揮官には全く動揺したところがない。普通の男なら、その無防備で煽情的なルメイと武蔵のバニー姿をじろじろと眺め、鼻の下を伸ばすところだろう。

 

 だが指揮官は相変わらず、さきほどのまでの恬淡とした態度を堅持している。

 

 恐らくは、武蔵やルメイが朝からバニー姿で執務室にやってきたときも、それから今まで様々なお色気攻撃を仕掛けられても、指揮官は心を動かされた様子を微塵も見せなかったのでないか思う。

 

 それがやはり面白くないのか。

 

 さっきから武蔵とルメイは目を見交わしていて、どうにかして指揮官をドキマギさせることはできないかと思案している気配がある。

 

 指揮官を悩殺しようなどというのは、無駄な努力ではないか。そうエセックスは思わないでもない。だが、彼女達と過ごす時間自体が、指揮官にとっては幸福なのだという回答は、さきほど得たばかりだった。

 

 距離──。

 

 その言葉がエセックスの脳裏を掠めたとき、ふっとコーヒーの香りがした。

 

「そうか……。先日は、ユニオンでの大型演習があったな」

 

 執務机に置いた報告書を見遣ったルメイが、エセックスの前にカップを置いてくれる。

 

「貴女も休息を必要していることだろう。ゆっくりしていくといい」

 

 優しい言い方をしてくれるルメイが、鉄血でも慕われているのは間違いなかった。……ただ、どぎついピンク色に浸された執務室では落ち着かないし、安らごうとするのは難しい。

 

「えぇ。あ、ありがとうございます」

 

 エセックスは礼を述べつつも苦笑になってしまうが、ルメイの方も、それも無理のないことだと言わんばかりに鼻を鳴らして執務室を見回してみせた。そして肩を竦める。

 

「……休息を必要としているのは、貴方だけでなく、指揮官も同じはずなのだがな。我らの“おもてなし”を、頑なに受けようとせんのだ」

 

 ルメイは聞こえよがしに愚痴ってみせる。だが、それは嫌味ではなく抗議だった。そこに武蔵が追従して、大袈裟な苦労顔を作ってみせる。

 

「斯様な装いの妾に奉仕を望めば、それに応じる準備もしてあるというのに」

 

 唇を尖らせた拗ねる口調には、指揮官に甘えてきて欲しいという願望と共に、自らも指揮官に甘えるような親密さを滲ませている。

 

「しかし、ホトトギスは鳴くことが性……。鳴かぬなら待てばよいだけのこと。汝の仕事ぶりには感心するけれど、その背伸びも過ぎれば身体に毒よ?」

 

 優しく言い諭す口調は、やはり母性的な包容力に満ちている。距離感が近いというよりも、その声音と態度で指揮官を抱きすくめるかのようだった。

 

「KAN-SENの皆さんに対する背伸びぐらいは、僕にもさせて下さい」

 

 執務机で書類の束を広げている指揮官は、熱の籠った武蔵からの眼差しと言葉を受け止めても、涼しい苦笑を浮かべるだけだ。

 

「せめて指揮官らしく振舞うのは、僕のような若輩者が果たすべき努力でしょう」

 

「……その姿勢は重要よ。でも、疲れを感じるならば、妾には正直に申せばよい。汝の代わりに、所務を上手く取繕ってあげるわ」

 

 過保護を通り越したことを言い出す武蔵に、「いや、それは流石に……」とエセックスも横から口を出してしまう。指揮官しか扱えない書類だってあるのだから、それは不味いだろう。

 腕を組んだルメイも眉を怒らせていた。

 

「そのような自堕落は、我ら軍人にとっては恥ずべきことだ」

 

 厳しい表情と口調だが、その恰好が露出過多のバニー姿なので全く締まっていない。

 

「あら……。つい先程までは貴女も、指揮官への御奉仕は細部にこだわらねばならんと張り切っていたではないの」

 

「それとこれとは話は別だ。我は指揮官を骨抜きにしたいのであって、腑抜けにしたいわけではない」

 

 武蔵とルメイの言い合いは、まるで子供の教育方針で両親が揉めるかのようだ。エセックスはこの場の空気に置いてけぼり感を拭えず、淹れて貰ったコーヒーを啜るしかない。……うわ、おいし。

 

 目の前の光景から現実逃避気味に小さな感動を味わうエセックスを尻目に、「まぁまぁ」と苦笑を深めた指揮官が、武蔵とルメイを宥めるべく、両の掌で見えない何かを抑えるようなポーズを取った。

 

「僕は皆さんの厚意を有難く思っていますし、それに甘えきってしまうつもりもありませんから」

 

 無難な物言いだったが、その無難さは実直な指揮官らしい。事実、今までの指揮官の態度はその言葉通りだった。恐らくは、これからも変わらないだろう。

 

 ……いや。変えられない、と言った方が正しいのかもしれない。

 

 眉根を寄せたルメイは、何かを言いたげに唇を動かした。だが指揮官が浮かべる、あの全く子供らしくない微笑みを前にして、結局何も言えなかった。

 

 やや苦しげに眉間を絞った武蔵も同じく、何も言えなかった。だが彼女がルメイと違ったのは、秘書艦用の執務机から立ち上がり、そっと指揮官に歩み寄ったことだった。

 

「愛しい汝よ」

 

 濡れたような眼差しになった武蔵は、座ったままの指揮官を横合いから抱きすくめる。

 

 いきなりのことに、ルメイもエセックスも反応できなかった。武蔵の腕のなかに収まってしまった指揮官も驚いたように目を見開き、何度か瞬きをしている。

 

「そうやって表情から温度を消すことで、何か……、心にあるものを消そうとしているのかしら?」

 

 武蔵の問いかけは、母が子に向けるような慈しみに満ちている。

 

 誰にも間に割り込めない様な、端然とした愛情。それは、この場にいるエセックスとルメイを黙らせた。いや、黙らせるだけでなく、その問いを共有させた。

 

「汝が抱える恐れも、不安も、猜疑も……。全てを妾に預ければよいというのに……。もっと妾を頼りにすればよいというのに……」

 

 武蔵だけが、この場で誰にも縛られていない。

 

「汝の笑みは、いつも遠い」

 

 強く、己の心情を吐露していく。

 

「この母港で過ごした時のなかで、汝は妾たちに優しく誠実であった。……でも、そう努めれば努めるほど、まことの優しさや誠実さからは遠ざかるものよ」

 

 絞り出すような武蔵の声に、ルメイもエセックスも打たれていた。指揮官を同じく想うがゆえに。

 

「正直に申そう。妾は、汝との別れが恐ろしい。別離そのものよりも……。妾が、汝の何を知っていたのかすら覚束ず、何を失ったのかすら分からなくなることが、恐ろしい……」

 

 それは、戦艦武蔵が指揮官に訴える、本物の悲痛だった。

 

「失ったものが虚像ならば、取り戻すこともできない。……だからこうして、妾は汝のことを探し求めているのよ」

 

 その抱擁に籠められた切実な意味を告げた武蔵は、震える唇から細い吐息を漏らした。

 

「目の前のあるものを、探し出そうとする滑稽さを……。せめて汝が笑ってくれれば、まだ救いがあるというのに」

 

 自分の内側から溢れそうになるものを、必死に堪えているふうでもあった。

 

「……今の僕が何を言っても、嘘のように聞こえてしまうかもしれませんが」

 

 武蔵の胸のなかに抱かれた指揮官は、やはり静かな表情で彼女を見詰めている。無表情よりも心を読めない、少年の微笑。だが、その声音には芯があった。

 

「僕は武蔵さんと……KAN-SENの皆さんと出会えて、幸福ですよ。嘘も偽りもなく」

 

 静かに言い切った指揮官は、武蔵の腕の中から、ルメイと、それからエセックスにも頷いてみせる。これだけは信じて欲しいというふうに。

 

 瞳を揺らしたルメイが、ぐっと息を詰まらせるのが分かった。それは、指揮官から向けられた言葉に対する悦びからだろうか。

 

 一方でエセックスは、肩口に走った戦慄に寒気を覚えていた。

 

 母性の尊さとは、それを注がれる存在が、いずれ立ち去ることを前提として成り立つ。以前、どこかで聞いたことがあったそんな言葉が、今のエセックスの鼓動の影で響いている。

 

 先程の、廊下での遣り取りが再現されつつある。指揮官の眼差しが、穏やかさと共に、分厚い静謐さを帯びつつある。曇天と、灰色の海を見据えていた、あの静寂──。

 

「でも、この幸福を骨身に刻むようにして感じるのは……、独りになったときです」

 

 武蔵の顔は見えない。だが、指揮官を抱きすくめる彼女の肩が震えた。

 

「僕は夜に、独りでいる時にこそ、みなさんのことを掛けがえのない存在だと深く感じるのです。……それは、別離の悲しみを先取りしているのかもしれませんが」

 

 その告白は、先程のエセックスへの問いかけへの回答であり、同時に、今の武蔵に寄り添うための言葉なのだと思った。

 

「でも、この悲しみこそが、僕がKAN-SENの皆さんに抱く愛情の証にはならないでしょうか?」

 

 指揮官はやはり、武蔵だけでなく、ルメイにも、エセックスにも眼差しを注いでくる。“指揮官”としての眼差しではない、一人の少年の、素朴な力強さを宿した眼差しを。

 

「僕は武蔵さんに、何かを預けきることはできません。でも僕は、武蔵さんと同じ悲痛と愛情を抱いているのだと、そう信じて貰いたいと思います」

 

 指揮官は、抱きしめてくる武蔵の両肩に触れる。抱き締め返すことはない。その、互いの存在を隔てるような、目に見えない心の距離──。だが、その体温に触れ合いのなかには、彼女達を結ぶ何かが合って欲しいとエセックスは願った。

 

「僕は、皆さんと一緒に居たいです」

 

 指揮官は、自分の心の在りようを表明するように言う。

 

 それは、この場にいる武蔵やルメイ、エセックスに向けられたというよりも、この世界そのものに向けられているように感じた。

 

 再び、指揮官がルメイとエセックスを見た。その眼差しからは、あの静謐さが消えている。温もりのある、少年の眼差しに戻っていた。

 

「汝……」

 

 武蔵が、微かに洟を啜るように、細く息を吸った。それから顔を上げて、抱きすくめていた指揮官を見詰める。彼女の目には、諦念にも似た、だが潤みのある優しい光が灯っていた。

 

「そこは、“僕は武蔵さんと一緒に居たいです”と、可愛らしく決意を表明するところよ?」

 

 指揮官の微笑みを分けて貰うように口許を緩めた武蔵は、微かに涙を兆した声音を、せめて冗談めかしてみせた。指揮官の答えに、一応は納得したのだろう。

 

「えぇ。もちろん、僕は武蔵さんとも一緒に──」

 

「違うわ。そういう意味ではないの」

 

「あももももも……っ!?」

 

 むっとした顔になった武蔵が、指揮官の両頬を摘まんでむにむにと引っ張る。わちゃわちゃと指揮官が両手を動かすが、くすくすと笑みを溢す武蔵は、手を動かすのをやめようとしない。

 

「ふふ……。本当に汝は、可愛らしいわね」

 

「お、おいっ! やめないか!」

 

 ようやく日常らしさが戻ってきたところで、慌てたようにルメイが声を上げる。「次は私の番だぞ!」ついでに、意味不明な権利を当たり前のように主張し始めた。

 

 堂々とした態度のルメイからは、エンタープライズや赤城と同類にテンションとノリが発散されつつある。彼女は意気揚々と武蔵の後ろに並ぼうとするので、エセックスも当惑しつつ「じゃあ、私も……」みたいな感じで並びそうになった。

 

「いや、並ばないでくださいよっ!?」

 

 指揮官が悲鳴を上げたところで、武蔵も指揮官の頬から手を離した。

 

「ふふふ。汝の頬のぷにぷに感、堪能したわ」

 

 潤んだ瞳のままで、武蔵は笑みを湛えている。この場の雰囲気が和らいだことに、深く安堵し、また指揮官やルメイに感謝しているふうでもあった。

 

「でも、指揮官も悪いと思いますよ」

 

 この穏やかな空気を頑丈なものにしたくて、エセックスも冗談を重ねる。

 

「指揮官は可愛らしいですけど、こう、頼れる男性っぽさがあってもいいというか」

 

「うぅむ……。確かに。貴殿にはもう少し、パパ味あってもいいかもしれん」

 

 難しい顔になったルメイが腕を組んで、あまりにも露骨な言い方をする。エセックスは思わず、彼女を凝視してしまう。……やはり彼女も、エンタープライズや赤城と同類なのかもしれない。

 

「……パパ味?」

 

 指揮官の方も、今までみたことがないような怪訝な表情を浮かべている。武蔵が可笑しそうに小さく笑う。

 

「可愛らしい汝には少々、父性が足りていないということよ」

 

「な、なるほど……?」

 

 指揮官が難しい顔になって考えこむ。

 

「でも、父性と言われても……何も思い付かないというか……」

 

 何でもソツなくこなしてしまう指揮官にとっては、珍しい表情と態度だった。それが何だか可笑しくて、エセックスも小さく笑ってしまう。

 

「じゃあ試しに、何か、頼れる男性っぽいことを仰ってみて下さい」

 

「えっ」

 

「それで、私達が判断しますから」

 

 エセックスはできるだけ明るい声で無茶振りしながら、武蔵とルメイと目を見交わした。武蔵が微笑んでいる。一方でルメイが真剣な顔つきになった。

 

「指揮官よ」

 

 バニー姿のままで教官然とした口調になったルメイは、指揮官に歩み寄って見下ろした。

 

「どんなことでも、慣れが重要だ。そのためには、訓練と実践を重ねる必要がある。……分かるな?」

 

「えぇ、まぁ、それは……」

 

 当惑しつつ頷く指揮官に、「よし、やってみろ」とルメイは偉そうに頷く。指揮官の方は、唐突に訪れたワケの分からない抜き打ちに試験に挑むような顔つきで、数秒ほど黙りこんだ。

 

 それから、何かを思い付いたように何度か頷き、顔を上げて武蔵に向き直った。

 

「……っ」

 

 僅かに目を見開いた武蔵が、頬を仄かに染めて身体を引いている。見詰めてくる指揮官の眼差しと顔つきが、その立場に相応しい凛々しさを帯びていたからだろう。

 

 傍で見ていたエセックスも、ドキッとした。ルメイは「うぉっ……!」などと変な声を漏らしていた。

 

 武蔵を見上げていた指揮官だが、そこでまた何かに気付いたように頷き、傍にあった執務椅子を引き寄せ、その座面に立った。これで小柄な指揮官が、武蔵と同じぐらいの目線になる。

 

「武蔵……」

 

 指揮官が、いつもよりも幾分か低い、引き締まった声を発した。いい声だった。

 

「いつも私のために心を砕いてくれている君には、本当に感謝している」

 

 それが演技だと分かっていても、茶化したり揶揄うことのできない魅力と重みが、間違いなくあった。紡がれる言葉自体が、彼の本心からのものだからだろう。

 

「これからも私は、キミと一緒にいたい」

 

 心の深みから放たれた言葉とは、聞く者の心の、同じ深さまで届くのだろう。指揮官に見詰められている武蔵は、驚いた表情のまま、見る見るうちに顔を真っ赤にしていった。

 

 そのうち、指揮官の眼差しに耐え切れなくなった武蔵は、ふるるっ、と唇を震わせて俯き、か弱い声で「は、はぃ……」とだけ応じた。まるで初心な少女が、思わぬ恋の成就に翻弄されるかのような風情だった。

 

 その様子を間近くで直視していたエセックスの脳は、もう焼き切れる寸前だった。あらゆる情緒が意識の中で渋滞を起こし、どんな顔をしていればいいのか分からない。呼吸困難になりそぉ~……。

 

「おい……ッ! 指揮官……!」

 

 苦悶の表情で奥歯を噛みしめるエセックスの隣で、今まで黙り込んでいたルメイが、声を裏返しながら叫んだ。そして、ものすごい勢いで挙手をした。

 

「私も……ッ! 私も頑張ってるぞ……ッ! 毎日、いっぱい頑張ってるんだぞ……ッ!」

 

 ほとんど半泣きみたいな顔になったルメイが、女児のような語彙で自分の頑張りを訴えつつ、ずんずんと指揮官に詰め寄っていく。

 

 執務椅子の上に立つ指揮官は、まだ一応の“パパモード”だが、その眼差しには若干の当惑が見える。無理もない。

 

 バニー姿のクールビューティ軍人が、女児退行しながら近づいてくるのだ。普通は対応に困るだろう。だが、今の指揮官は、やはり“パパモード”。対処も完璧だった。

 

「あぁ。ルメイも。いつもありがとう。感謝しているよ」

 

 執務椅子の上に立った指揮官は、優しくルメイを見詰めつつ演技の声音を続けている。

 

「ん……ッ!」

 

 そこで目を潤ませたルメイが、指揮官に向かって、ずいっと頭をさげる。頭突きでもするのかと思ったが、どうやら違う。あれは、“頭を撫でろ”というメッセージだ。

 

「ん……ッ! んん……ッ!!」

 

 妙な鳴き声を発しながら、ルメイは下げた頭を、ずいっ、ずいっと指揮官に近付けていく。さすがに指揮官も、あのポーズの意図に気付いたらしい。

 

「あぁ。よしよし。いいこだ。ルメイ」

 

 “パパモード”の指揮官は、深みのある低い声で言いながら、ルメイの頭を撫でた。優しい手つきで、艶のある銀髪をすくように。

 

 頭を下げたルメイが、びくびくと身体を痙攣させ始めた。「んぉおおおお……!」と小声で呻いているのが聞こえる。表情は見えないが、多分、大変なことになっていそうだ。

 

 ……そんなに気持ちいいのだろうか。「じゃあ、私も……」とルメイの後ろの並びそうになりつつ、エセックスは思う。

 

 この賑やかな一幕も、エセックスが孤りなった時間にこそ、掛け替えのないものになるのだろうか。指揮官との別れの時にこそ──いや、もう出会うことができなくなったときの悲痛にこそ、この日々の本当の意味を知るのだろうか。

 

 連鎖的に心に浮かぶ、取り留めのない問答。それをエセックスは打ち切る。涙を堪えるように俯いたままの武蔵が、今は笑顔であることが救いのように感じた。

 

 












今回も最後まで読んで下さり、ありがとうございました!
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