少年指揮官の日常   作:トレモ勢

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※強めのキャラ崩壊にご注意下さいませ……


朝のひととき

 

 

 

 

 

 

 

 

 微かな雨音で目を覚ます。一瞬、此処がどこなのか分からなかった。何度か瞬きをして目を擦る。欠伸を飲み込んで軽く頭を振った。自分の態勢から、机に突っ伏して眠っていたのだと分かる。続けて、此処が母港の資料室兼書斎であること思い出す。

 

 停滞して澱んだ空気を感じながら、周りを見回した。背の高い本棚が僕を見下ろすように並び、背後に置かれた立ち作業用の机には、開いたままの分厚い本が積み上がっている。目の前にある書斎の机には、セイレーンに関する資料や書類が広がっている。腕時計を見ると、かなりの早朝だった。執務を始めるにはまだまだ時間がある。

 

 伸びをしながら窓を見る。カーテンの隙間から見える空は暗く、雨雲が詰まっているのが分かった。喉が渇く。それに空腹も覚えた。昨日の夜は、執務を終えてからシャワーを軽く浴びただけで、夕食を摂っていなかったことを思い出す。この資料を纏めてから食事をしようと思っていたが、途中で寝てしまったのだ。

 

 僕は、書斎の椅子に座ったままで自分の格好を見下ろした。書斎に向かう途中で誰かと出会うこともあるため、シャワーを浴びたあとだったが、一応は指揮官服を着ている。大きく皺も寄っていないし、このまま仕事に出ても問題無いだろうと思いつつ、僕は襟を引いて、自分の匂いを嗅いでみる。……汗臭いだろうか。

 

 いや、と首を振ってから、僕はもう一度、襟や裾の匂いを嗅いでみる。クリーニングした指揮官服の人工的な洗剤の匂いと、昨日の夜に僕が使ったボディソープの匂いはするが、汗臭くはない筈だ。そう思うのだが、寝起きの所為で嗅覚が正常に動いていない気もする。もう一度シャワーを浴びて、上着だけは変えて来ようと思った時だった。書斎の扉がノックされ、僕は軽く肩を跳ねさせてしまう。眠気が吹き飛んだ。

 

「御機嫌麗しゅうございます」

 

「誇らしき御主人様」

 

 ベルファストさんと、シリアスさんだった。一瞬してから、今日の秘書艦が彼女達であったことを思い出す。二人は姿勢よく僕にお辞儀をしてくれるのだが、僕は慌てて二人に挨拶を返しつつ、腕時計をもう一度確認する。僕の様子を見ていたベルファストさんが、微笑みを湛えたままで一つ頷いてみせた。

 

「昨晩の御主人様が、夜遅くに此方で仕事に戻られた御様子でしたので」

 

「恐らく夕食も摂っておられないのではないかと思い、早めの朝食を御用意できるよう準備しましたので、それをお伝えに参りました」

 

 ベルファストさんの後に、シリアスさんが続く。そこで、僕の頭に疑問が浮かんだ。昨日の夜は結局、誰にも出会わなかった筈だ。僕が数秒だけ視線を彷徨わせるのを見たベルファストさんが、眼の中に炯々とした光を薄く灯しながら「御主人様のことを熟知するのも、我々の務めです」と微笑みを深めてみせた。

 

「お気遣いばかりさせてしまって、申し訳ありません」

 

 僕は恐縮しながら頭を下げて、もう一度腕時計を確認する。

 

「あ、あの、執務を始めるのも朝食を摂るにしても、まだ時間がありますので……。お二人も、もう少しゆっくりしてから、執務室にいらして下さい」

 

「お優しいお言葉を頂き、有難う御座います。……では、執務を開始するまでの時間で、書斎の掃除をさせて頂きます」

 

 ベルファストさんは僕の言葉を一旦は受け止めてから、綺麗に畳んで手渡してくれるかのような暖かい声を返してくれた。確かに、書斎は片付いているとは言い難い状態だ。ただ、散らかし放題にしたままで眠りこけてしまったのは僕であるから、このままでは、まだ執務を始める前の早朝から余計な仕事を彼女にさせることになってしまう。

 

「あぁ、いえ! 僕が片付けておきますよ!」

 

 僕は焦った声で言うものの、「お任せください」とシリアスさんに力強く頷かれて、言葉が続かない。彼女は既に、作業台に積まれた分厚い本を何冊も手に抱えていた。

 

 以前のシリアスさんは、SPとしては申し分ないものの、メイド業務や事務については得意ではなかった。しかし、他のメイド隊の仲間からの指導と特訓、それに、一生懸命な彼女の努力が実り、今ではメイド長であるベルファストさんと並んでも遜色ない仕事ぶりを見せている。シェフィールドさんが言うには、たまに大きなポカをやらかすのだそうだが、そんな気配は全くない。

 

 彼女達の凛然とした美貌と、無駄の無い仕事ぶりが、この書斎に吹き溜まっていた澱んだ空気を浄化していくかのようだった。テキパキと動く彼女達の姿を見ていると、これ以上の遠慮の姿勢を見せるのも、無理に手を止めて貰うのも申し訳なかった。

 

「……では、すみません。お願いします」

 

 僕は彼女達に一度頭を下げてから、書斎の机の上を片付ける。手を動かしながら、以前に、「此方の厚意に大人しく甘えてくれる方が、私達にとっては嬉しいものですよ」と、シェフィールドさんが僕に言葉をかけてくれたのを思い出す。自分が恵まれている立場であることを改めて自覚すると同時に、昨晩、僕の携帯用端末に届いたシェフィールドさんからのメッセージが脳裏を過った。

 

『明日の秘書艦である、ベルファストとシリアスには少々お気を付けください。特にベルファストは、以前の秘書艦業務から間が開いており、御主人様と接する機会も少なかったので、破裂寸前の風船のようになっています。何らかの切っ掛けがあれば、容易く暴走するでしょう』

 

 僕はこの内容から、どのような忠告を汲み取ればいいのか判断できなかった。「お二人の体調が悪い、ということでしょうか?」とメッセージを返して訊いてみると、すぐに返答が在った。

 

『いえ。彼女達の体調は、これ以上ない程に絶好調です。その心配は要りません。ただ、二人が御主人様を想う感情が、行き場を無くしている期間が長かったですから。グツグツと過熱した彼女達の御奉仕欲が、危険な領域に突入しているという感じですね。とはいえ、彼女達もメイド隊の一員です。余程のことが無い限りは、御主人様の貞操の危機といった事態にまでは、発展しないでしょう』

 

 文面からもシェフィールドさんの冷静な表情が見えてくるのだが、やはり僕はメッセージの内容を上手く読み取れない。御奉仕欲なる単語は、ロイヤル陣営で扱われる専門用語か何かなのだろうか。この文脈の中で語られる、僕の貞操の危機というのも理解が難しい。ただ、シェフィールドさんの言う通り、書斎の片付けをしてくれているベルファストさん、シリアスさんの二人の体調が悪そうであるとか、疲れが溜まって無理をしているという様子ではなさそうである。

 

 僕は一先ずの安心と共に、机の上の書類をファイルに纏め、広げていた資料文献としての本を揃えて持つ。書斎にしては広い空間を持つこの部屋は、もともと資料室であり、大量の文献を備えるための本棚は大型で背の高いものが揃えられている。大人でも本棚の上部にまではギリギリ手が届くか届かないかといった具合なので、僕はといえば当然、脚立が無ければ本を元の場所に戻すこともできない。

 

 脚立を視線だけで探した時だった。分厚い本を抱えたシリアスさんが脚立にのぼり、本棚の上部に手を伸ばしているのが目に入った。それからすぐ、脚立の上で背伸びしたシリアスさんの態勢がフラ付いた。彼女はたまに大きなポカをやらかします。シェフィールドさんの声が頭の隅で聞こえる。ベルファストさんは少し離れた位置で本棚に向き合っているため、シリアスさんのピンチに気づいていない。

 

 1秒後。シリアスさんの体が後ろに傾く。それを見た僕の身体は、勝手に動いていた。手にしていた数冊の本を机に放りながら、僕はすっと重心を落として床を蹴る。倒れてくるシリアスさんの頭を右腕で守るようにして、滑り込みながら横抱きをする姿勢で受け止める。ギリギリ間に合った、というほどでは無かったので、右腕と右脚をクッションにする要領で、そっと衝撃を殺して彼女の身体を支えることが出来たし、彼女の手から零れた数冊の本も左手でキャッチすることが出来た。

 

 シリアスさんを受け止めた時に、僕の指揮官服のボタンが一つ飛んでしまったが、そんなことは些末なことだ。それら一連の動作は殆ど無音のまま一瞬で終わり、本が落ちる際にページが風を受ける音と、ボタンが床を転がる音だけが書斎に木霊した。僕の腕の中に居るシリアスさんに怪我はない様子で、ほっとする。

 

「誇らしき御主人様、あ、あの……」

 

 ふるふると唇を震わせるシリアスさんは、自分の胸の前でぎゅっと両手を握り、何度も瞬きしている。何が起きたのかは理解していて、脚立から落ちて尻餅をついたり、床に倒れ込む痛みに備えてはいたものの、今の状況は予想していなかった、という反応だ。ベルファストさんが僕とシリアスさんの様子に気付き、ぎょっとして体を硬直させているのが分かった。

 

 窓の外から、微かな雨音が響いている。その束の間の静寂のあと、混乱か判断ミスか、澄んだルビーにも似た赤い眼で僕を見つめるシリアスさんは、僕の首に両腕を回しかけて、「いや、違う違う!」といった風に首を振った。そしてすぐに立ち上がり、ガバっと僕に頭を下げる。

 

「シリアスは、また粗相を……!」

 

 ぶんぶんと何度も僕に頭を下げるシリアスさんの勢いは凄まじく、まるで剣の素振りでもしているかのような迫力があった。

 

「二人に怪我が無くて、何よりです」

 

 微妙に羨ましそうな表情をシリアスさんに向けつつ、ベルファストさんが低い声で言う。飛んで行った指揮官服のボタンを拾ってきてくれた彼女は、僕の顔を見ていなかった。もう少し下だ。僕の指揮官服のボタンが外れた個所に向けられている。それに気づいたシリアスさんは、更に恐縮しきって僕に頭を下げてくれている。

 

「申し訳ありません! 御主人様の御召し物に傷をつけた、この卑しいメイドに、どうか罰をお与え下さい……!」

 

「い、いえ、そんな!」

 

 もう謝らないで下さいと、僕も恐縮して謝罪を述べる口振りになってしまう。

 

「そもそも、書斎の片付けをして貰わねばならない状況を作ったのは僕です。こんなことで怪我をさせてしまっては、エリザベスさんに申し訳が立ちません。シリアスさんに謝って頂くようなことは、何もありませんよ」

 

「この程度のことでは、シリアスは傷一つつきません! それよりも、御身に何かあっては……!」

 

「僕だって体を鍛えていますから、大丈夫ですよ。あ、あの、それより、僕……、汗臭くなかったですか?」

 

 昨日は此処で眠りこけていたので……。そう言葉をつぎ足しながら、僕はシリアスさんに頭を下げ、自分の指揮官服の袖を襟に鼻を付ける。

 

「受け止めた際、シリアスさんに不快な想いをさせてしまっていたら、やっぱりそれも申し訳ないと思いますし……」

 

 僕が言うと、「ほう」などと重く鋭い声を出したベルファストさんの眼が、ギラリと光った気がした。そう思った次の瞬間には、彼女は僕のすぐ近くまで歩み寄って来ていた。いや、歩み寄ると言っても、暗殺者がターゲットとの距離を詰める時に使うような、一切の気配を感じさせない独特な歩法と気配の消し方、そして、絶対に反応できないタイミングだった。足音も全くしなかった。優秀なSPである筈のシリアスさんも驚きを見せている。

 

「御主人様」

 

 微笑みを浮かべるベルファストさんは、先ほど拾い上げた指揮官服のボタンを左手に持ち、右手をそっと僕に差し出してくる。

 

「指揮官服の修繕は、このベルファストにお任せ下さい」

 

 僕を見下ろすベルファストさんの声音は穏やかなものだったが、屈服を迫るかのような妙な凄みを備えていて、「い、いえ、これくらいは自分で直しますよ」と、断りの言葉を紡ぐのに勇気が必要な程だった。「それに、汗臭いです」自身の遠慮を正当化するように、僕は再び、指揮官服の臭いを気にする仕種を見せつつ、数歩下がる。

 

 その瞬間、ベルファストさんは口許の微笑みを全く崩さないまま、「そうでしょうか」と片方の眼を、すぅ……と物騒に窄めた。相手の急所と隙を見つけた肉食獣さながらの眼差しに、僕はさらに後退りかけるが、出来なかった。既に一歩目を踏み出していたベルファストさんが、次の二歩目で間合いを完全に盗んできた。僕との距離を0にした彼女は、此方を見下ろしながら唇の端をチロリと舐めて湿らせる。

 

「確かめさせて頂いても?」

 

 その問いかけは、優雅に勝利宣言を述べるかのようだった。

 興奮した時の愛宕さんにも似た、急激な雰囲気の変化である。

 

「た、確かめるというのは……」

 

 当惑した僕が、ベルファストさんの浮かべる笑みの種類が変わっていることに気付いた時には、彼女は僕の前で身を屈めていた。彼女の腕が、僕を抱きすくめるように動く。とても良い香りがした。香水だろうか。

 

 そんな暢気な疑問が僕の頭に過る頃には、ベルファストさんの白い頬が、僕の頬のすぐ隣に在った。僕が身を捩る動きなどを許さないように、彼女の両手が、僕の両手首に掴んでいる。僕の胸には、たっぷりとした重量のある柔らかな何かが押し付けられ、むにゅむにゅと形を変えているのが分かった。更にその感触の奥から、ベルファストさんの拍動が此方にも伝わってきて、強張った僕の鼓動と混ざり合う。

 

「汗臭くなどありませんが……、ん……、もう少し、詳しく調べてみないと……」

 

 いつも気品に溢れ、上品な美しさに満ちたベルファストさんが僕の首筋や胸元に顔を突っ込むような状態になり、人懐っこい大型犬さながらに、ふんふんと鼻を鳴らしているのは酷く煽情的で倒錯的だった。ただそれ以上に、自分の体臭をこんなにも熱烈に探られていることに顔が熱くなる。

 

 何か妙なスイッチが入り切ったベルファストさんの肩越しに、シリアスさんと目が合う。彼女の赤い眼はぐるぐると回っており、その顔を真っ赤にしながら両手で口元を抑え、「あわわわわ……ッ!!?」となっていた。多分、僕も似たような顔をしていることだろうと考える冷静さは、ギリギリ残っていた。

 

「あ、あのっ、もう、そろそろ放していただけると……っ」

 

 僕は解放を望む意思表示をするが、ベルファストさんは灼熱の吐息を僕の耳元で洩らしながら、「いえ、あと7時間の延長を……」などと、謎のシステムと非常識な権利を主張するだけで、この情熱的過ぎる抱擁を解いてくれる気配が一向に無い。7時間もこんな事をしていては、午前の仕事を完全に飛ばしてしまう。

 

「ま、不味いですよっ!」

 

 身動きを押さえ込まれた僕が抵抗代わりに言うと、ベルファストさんは、自らの熱い吐息に声を溶かすように呟く。

 

「では、9時間コースの方を……」

 

「何で時間が延びる必要があるんですかっ!?」

 

 僕が叫ぶようにツッコむが、ベルファストさんには全く届かない。

 

 それどころか、ベルファストの呼吸が荒くなり、僕へのボディタッチが更にエスカレートしていく。母港でのベルファストさんの評価は『完璧なメイド』であり、それを疑う人は居ない。僕もその通りだと思う。僕の身体の動きを巧みに抑え、抵抗しようとする力を全て受け流してしまう彼女の近接格闘技術は、本当に完璧だった。

 

 ベルファストさんは重心をずらしながら、僕の正面から右へ、それに背後へと移動しながら、僕の匂いを丹念に確かめていく。無論、その間も彼女の身体が強く密着している。柔らかく形を変える重みが、僕の身体の接点で潰れ、擦れ、もにゅもにゅと揺れる。彼女の熱く切なげな吐息と共に、生々しい感触が付きまとう。それを引き剥がせない僕は、翻弄されっぱなしだ。

 

「あ、あのっ、シリアスさん!」

 

 僕は、首筋を這い回るベルファストさんの吐息を感じつつ、シリアスさんに助けを求める。シリアスさんの様子は先ほどから少々変わり、「はわわわわ……」と言った感じで顔を両手で覆いながらも、その指の隙間から此方を凝視している状態だった。

 

 それでも、メイド隊の中でも屈指の戦闘力を誇る彼女は、僕の縋るような視線に気づいてくれた。我に返ったように表情を引き締めたシリアスさんは、むんっ! と言った感じで両手を体の横で握る。私にお任せくださいと言わんばかりの彼女の眼差しには、力強さが溢れていた。あぁ、これで安心だと思った。シリアスさんなら、ベルファストさんを止めてくれる。

 

「では、シリアスも9時間コースを所望します!」

 

 僕は我が耳を疑った。シリアスさんは我に返ったのではなく、我を失いつつあるのではないか。あんな真剣な顔で、一体何を言いだすのだろう。彼女の声に冗談が全く見受けられないのも怖かった。

 

 ロイヤル陣営の間では、僕の知らない特別な言い回しや、合言葉や暗号的な言葉の組み合わせがあるのだろうか。僕は目の前が暗くなる思いだったが、今の状況に打ちのめされている場合ではなかった。ベルファストさんが背後から僕の動きを掌握している状態であるため、「ボディがガラ空きです!」と、正面からシリアスさんが突撃してくる。

 

「ちょ、ちょっと待っ……!」

 

 僕はシリアスさんに制止の声を掛けたが、その言葉の途中で、僕はシリアスさんにムギュっと強く抱きすくめられた。シリアスさんの胸の膨らみが、僕の顔に押し付けられる。というか、深く挟み込まれるような勢いだった。僕の喉の奥で、むぁ──! という変な悲鳴が逆流する。息が上手くできない。

 

 そう思った次の瞬間には、僕を抱きすくめたままのシリアスさんが、屈むような動きを見せた。それに合わせて、僕の顔面を圧迫していた、ふわふわとした柔軟な重みが下に動いていく。もにゅもにゅと形を変えながら、僕の喉首、胸、鳩尾のあたりへと押し付けられて移動していく。

 

「ぁ、あの、シリアスさんっ……!」

 

 そのタイミングで僕は大きく息を吸う。重く連なる大きな波から必死に顔を出し、何とか呼吸をするような感覚だった。目の前の2センチほど先で、シリアスさんと目が合う。彼女の可憐で整った顔が、すぐ鼻の先に在る。呼吸が混ざり、縺れ合うほどの距離だ。身体を引いて上半身を逸らしそうになるが、背後のベルファストさんに動きを封じ込められているため、それも出来ない。

 

 赤い彼女の眼が、熱を帯びて潤むような光を湛えていた。いや、色っぽく潤みながらも、やはりグルグルと回っている。混乱というか、若干の錯乱状態に陥っている様子だった。不味いと思った時には、シリアスさんは恐るべき行動を開始した。

 

「誇らしき御主人様……。上着を脱いで頂かないと、汗の匂いがよく分かりません」

 

 目を回しながら険しい顔を作るシリアスさんは、僕のベルトをカチャカチャとやり始めたのだ。僕は我が目も疑った。

 

「それは上着じゃないですよ!?」

 

 僕は本気で焦った声を出すが、シリアスさんの方も、何もそこまでと言いたくなるほどの真剣な表情であり、手を止める気配が全くなかった。さらにこの事態に便乗してきたベルファストさんが、僕の背後から上着のボタンを外してくる。彼女達の豊満で官能的な体温に圧し潰され、完全に着せ替え人形と化しつつある僕の脳裏に、少し前にテレビで見た映像が過った。

 

 強靭な強さを誇る2匹のライオンに、喉首と背骨をガッチリと噛まれ、押さえ込まれている子供のガゼルだ。あの姿が、今の状態の僕と重なる。映像の中で、絶体絶命のガゼルは抵抗を止め、自分の運命を粛々と受け入れている様子だった。僕も、そうすべきなのかもしれない。そんな風に思った時だった。

 

「嫌な予感がして来てみれば……」

 

 書斎の扉が開いた。

 

「朝から騒がしいですね。何をやっているのです」

 

 雪を纏った透明な風が滑り込んでくるかのように、この書斎に踏み入って来たのはシェフィールドさんだった。ちょっと不機嫌そうな半目の彼女は、シリアスさんとベルファストさんを順に睨んでから、腰に手を当てた。彼女の迫力のある睥睨に、流石の二人も動きを止めている。

 

「こ、これは……!」

 

 ようやく我に返ったという様子のベルファストさんが、珍しく狼狽を見せ、ばっと僕から離れた。いつもの冷静沈着な彼女が戻って来たのが分かる。シリアスさんも落ち着きを取り戻したらしく、「わ、私は一体何を……」という感じで一瞬だけ視線を泳がせてから、僕を見上げてきた。そして僕のベルトを外そうとしている自分の状態に気づき、「はぅっ!?」と、裏返った声を出し、石像のように凍り付いた。

 

 僕は彼女達を刺激しないように気を付けながら、二人から少しの距離を取り、ベルトを締め直した。まだ仕事が始まってもいないのに、ひどく疲れているのが分かった。

 

 

 

 

 

 

 

「あの二人は優秀ですが、御主人様のことになると途端にポンコツになるので困ったものです」

 

 騒ぎのあと、書斎から執務室に移った僕はソファに深く腰掛けて、シェフィールドさんが用意してくれた紅茶を啜っていた。ほっと息を吐きだす。暖かいストレートティーが、じんわりと体に沁み込んでくる。緊張が緩んだ所為か、それとも、ベルファストさんとシリアスさんに揉みくちゃにされて消耗した所為か。さっきまで吹き飛んでいた筈の眠気が、妙な疲れと共に蘇りつつあった。彼女達の温もりやエッチな感触を思い出し、一人で興奮するような余裕は微塵もない。

 

「あの二人には朝食の用意を任せてあります。もう暫く、お待ちください」

 

 今の執務室には、メイド業務の準備を進めるシェフィールドさんと、暢気に紅茶を振舞って貰っている僕の二人だけだ。憔悴しきった顔で紅茶を御馳走になっているのは少々居心地が悪かったが、「御主人様は、ごゆっくりなさっていてください」と彼女に強く言われてしまい、仕事の準備を進められずにいる。

 

 じっとしていると、瞼の重さが耐えられないものになってきた。微かに響いてくる雨音が心地よい。出そうになる欠伸を飲み込み、眠気を払うように指で瞼を押さえた時だった。

 

「……今日からは、ちゃんとベッドでお休みを取ってくださいね」

 

 隣から、淡々とした声が降ってくる。横目で見ると、僕のすぐ傍に控えるようにして、シェフィールドさんが立っていた。下目遣いで此方を見下ろす彼女は、替えの指揮官服の上着を、皺が寄らないように丁寧な手つきで持ってくれている。これに着替えろということだろう。

 

「シリアスを受け止めた際、腰などを痛めませんでしたか?」

 

 書斎での騒ぎがどのような経緯で起きたのかを、ベルファストさんやシリアスさんから既に聞き出している彼女は、僕の肩や首筋、額、腕などに、怪我が無いかを確かめるように視線を巡らせたあと、軽く息を吐きだした。

 

「えぇ。上着のボタンが取れただけで済みました」

 

「では……、そちらの指揮官服は私が直しておきます。此方をどうぞ」

 

「わざわざすみません……。ありがとうございます」

 

 僕は上着を脱いで、彼女が用意してくれていたものを手に取り、着替える。そのまま、僕が来ていた上着をシェフィールドさんに手渡しそうになる。余りにも自然な流れだったので、自分の上着が汗臭いかもしれないなどという懸念を殆ど忘れていた。

 

「やっぱり汗臭いですから、僕が自分で直しておきますよ」

 

「えっ」

 

 彼女に手渡しそうになった上着を慌てて自分で抱え直す。すると、上着を受け取ろうとしていたシェフィールドさんは、一瞬だけ悲しそうな顔になったが、すぐに眉間に皺を寄せる半目とにあって、此方をジトっと睨んでくる。僕を氷結させるかのような眼差しだった。

 

「御主人様」

 

 迫力のある声で言われ、僕は思わず背筋が伸びる。

 

「は、はい」

 

「そうやって細かい仕事を幾つも抱え込むから、御自身の時間を圧迫するのです。御自身を痛めつけるかのように仕事に没頭するのは勝手ですが、部下に振り分ける業務を選別するのも、御主人の仕事の内ではありませんか?」

 

「そ、そうかもしれません。でも、上着のボタンが取れたのも、元を辿れば僕が……」

 

「秘書艦業務の時間外に、書斎の片付けを申し出たのはベルファストとシリアスの方だと聞いています。ならば、責任の所在が全て御主人様にあるとは思えませんが」

 

 僕の言葉を両断するように言うシェフィールドさんは、つべこべ言わずに上着を渡せとでも言うふうに手を出してくる。僕は彼女の迫力に飲まれ、「では、お、お願いします」と、おずおずと上着を手渡した。

 

「……はい。お任せください」

 

 僕の上着を手に取る瞬間、シェフィールドさんがきゅっと下唇を噛み、動揺を押さえ込むために呼吸を強張らせる気配があった。それから、その動揺の気配そのものを誤魔化すかのように、僕の上着を丁寧に畳んでから、ぎゅっと両手に抱えるようして持った。ほぅ……と息を漏らす彼女は、僕の方を見ようとしない。若干、顔が赤いように見える。

 

「……お預かりした此方の上着は一度、ロイヤル寮の自室に持って行っておきます」

 

 そう告げたシェフィールドさんは、既に執務室の扉に向けて歩き出していた。

 

「えっ、いや、わざわざ悪いですよ。シェフィールドさんがメイド業務を終えるまで、どこか適当なところに置いて貰っても……」

 

「早朝の今のうちにロイヤル寮まで持ち込まないと、妨害や邪魔が入りそうですので」

 

「えっ」

 

「……いえ、何でもありません。掃除の邪魔になりますし、埃を被らせるわけにもいきませんから」

 

 此方に背を向けたまま、珍しく声を上ずらせた彼女は、ぎゅぎゅぎゅーっと僕の上着を抱きしめているように見えた。ついでに言えば、首筋や耳朶も、少し赤くなっている気がするし、肩も微かに震えている。シェフィールドさんこそ体調が悪いのではないかと思ったが、それを訊くよりも先に、「すぐに戻ります」と言い残した彼女は、執務室をあとにしてしまった。

 

 一人残された執務室で、僕は一つ深呼吸をする。今日は朝から濃密だったなと、鈍い頭で思った時だった。軽いで電子音が響き、窓の外から届いてくる微かな雨音と混ざる。携帯用端末にメッセージが届いたのだ。エンタープライズさんからだった。端末の画面に指を滑らせ、メッセージを確認する。題名の頭には宛名として、赤城さんの名前がある。誤送信だろうか。画面にポップアップに表示された。

 

『第72回 指揮官の好感度解析・ケッコン作戦会議について』

 

「…………んん?」

 

 僕は思わず、端末のディスプレイに顔を近づけてしまう。

 

 









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