少年指揮官の日常 作:トレモ勢
執務室のソファに腰掛けた僕は、明石さんが用意したのだという台本を開き、眺めていた。いや、台本と言うよりも、セリフ集と言った方が正しいかもしれない。何かの劇やドラマなどで使われたセリフを集めたらしいのだが、これを読みあげる僕の声を素材として集めて、音声を合成できるソフトを作りたいとのことだった。各陣営の寮内のアナウンスであったり、各人が持つ携帯用端末のボイスアプリとしての活用を目的としているらしい。
「……これ、僕の声なんかで良いのでしょうか?」
「何を仰るのです。指揮官様の御声であるから、意味が在るのではありませんか」
僕の隣でマイクを構え、録音作業を今か今かと待ち構える様子の大鳳さんが、ぐぐっと身を乗り出してくる。今日の秘書艦である彼女の御蔭で、仕事は殆ど片付いてある。
もう秘書艦業務を終えて貰っても問題無いのだが、それを頑なに拒んだ大鳳さんは何かを思いついた顔になり、重桜寮に一度戻ってから、明石さんから幾つかの機材を借りて来ていた。彼女が手に持つマイクも明石さんが用意したものであり、鍬形に似た特殊な形状をしていた。バイノーラルマイクというものなのだろうか。
「明石の研究結果でも、指揮官様の御声には我々のストレスを大幅に軽減して、深いリラックス状態に誘うというデータが得られています!」
「そんな研究、いつの間に……」
僕が思わず呟いてしまった声を掻き消すような勢いで、物凄い熱量を秘めた大鳳さんは更に詰め寄ってきた。
「他にも! 我々の脳細胞の活性化し、血流促進させて冷え症を改善、睡眠の質を向上させ、記憶力と思考力を80%上昇させるというデータが出ていますわ!」
前かがみになった彼女は、僕の声に纏わる効果を誇らしげに語りながら握り拳を作って見せる。胸元が大きく開いた彼女の衣装の中で、柔らかな膨らみが、“たゆん! ”と揺れるのが分かった。妙な気まずさを感じて、僕はソファに腰掛けたままで体と視線を逸らす。
「ぃ、いや、そこまで行くと完全に眉唾ものでしょう……。80%も思考力が上昇したら、もはやそれは別人ですよ……」
「もう、指揮官様は、細かいことを気にし過ぎです。さぁ、まずは“あ行”から。お願いします」
僕のすぐ隣まで秘書艦用の執務椅子を寄せてきた大鳳さんは、鍬形にも似たマイクを此方に差し出しながら、無邪気な笑みを作っている。細められた彼女の紅い眼や甘ったるい声音には威圧感はないものの、この録音作業を断ったり、逃げたりすることを僕に許そうとしない妙な迫力を備えていた。
「えぇと、は、はい」
僕は気圧されつつも頷いてから、台本、というか、セリフ集に目を落とす。そこには発声練習を兼ねるためなのか、“あいうえお”表が載せられていた。僕は言われるがまま「あ。い。う。え。お……」と、大鳳さんが持つマイクに、ぎこちなく声を渡していく。だが、声のボリュームが不十分だったらしい。
「あぁん指揮官様、もう少し大きな御声でお願いしますわぁ」
媚びと催促を綯い交ぜにしたような声で言いながら、マイクを突き刺すかのようにして、大鳳さんが僕の肩を抱いてくる。僕と大鳳さんの体格差もあってか、まるで銀行強盗が子供の人質を抱え込み、銃を突きつけるような態勢になった。僕の顔のすぐ傍で、無防備な大鳳さんの衣装から、彼女の豊満な膨らみが零れそうになっているのが分かる。僕は興奮してドキドキするよりも、緊張でハラハラした。
「ゆっくりと、心を籠めて、さぁ……!」
甘い声を漏らす大鳳さんは遠慮も何も無く、グイグイと僕の頬に胸を押し付けてくる。僕を圧し潰そうとするかのようだった。
「あのっ、大鳳さん、もう少し離れて頂けると……!」
「あん。そんなにもぞもぞと動かれては、くすぐったいですわぁ」
情けなく狼狽えた僕の声をマイクで拾いながら、大鳳さんは楽しそうに肩を揺らす。それに合わせて、頬に密着している彼女の豊かな胸も弾んだ。ふわふわとして柔らかいと言うよりも、ずっしりとした存在感に溢れた感触だった。押し返すわけにもいかないし、気まずくて仕方がない。
「……大鳳。私はいつまでこうしていれば良いんだ?」
僕が参っていると、向かいのソファからドスの効いた低い声が飛んでくる。
今日の、もう一人の秘書艦であるエンタープライズさんだ。半目で此方を、と言うか、大鳳さんを睨むような目つきの彼女は、両耳、首筋、側頭部、後頭部を覆うような機材を装着し、背中を伸ばしてソファに座っている。彼女が身に着けた装置は、非常に高い集音機能を備えた機器らしく、“明石特製”の文字が彫り込まれていた。
刻まれた明石さんの銘を見て、僕はふと、数日前のことを思い出す。『第72回 指揮官の好感度解析・ケッコン作戦会議について』というメッセージを受けとった朝のことだ。あの日は確か、執務を始める前、雨の早朝だった。
メッセージを受け取った後、すぐにエンタープライズさんから着信が在った。とりあえず通話を繋ぐと、裏返りまくった彼女の声が飛び出して来た。
『しっ、指揮官!! 今のメッセージは、もうひっ、開いたか!!?』
「いえ、まだ何も操作はしていませんけども……」
僕が答えると端末の向こうで『ぁ……、焦ったぁ……』という、小声ながらも心の籠り過ぎたエンタープライズさんの呟きと、特大サイズで安堵の溜息を吐き出すのが聞こえた。余りにも盛大な彼女の溜息は、壊れた掃除機みたいだった。
「あの、このメッセージは、僕も開ければ良いんですか?」
『ちょ……ッ!! 待ってくれ!! 違うんだ!! それは、あの……、誤送信と言うか、とにかく、すぐに消して欲しいんだ!! あの、あれだ……、えぇと……、そう! まだ、誰にも相談していなかったんだがな! 今、私の自室で、ポルターガイスト現象が頻繁に起きていてな!! それで、そのメッセージも勝手に送られてしまったと言うか……! こう自動的に……、ぉ、オートマチックにだな!! 私は何もしていないのに、文章がひとりでに作成されて、私の端末から複数人に送信された様子なんだ!!』
いつも冷静沈着である筈のエンタープライズさんだが、あの時に見せた狼狽ぶりは、話を聞いている僕を逆に落ち着かせるほどだった。
「そ、そうだったんですか……? ユニオン寮でのポルターガイスト現象なんて、初耳です」
『いやぁ~、これはもう参ったな!!?』
端末の向こうに居るエンタープライズさんの声からは、無理矢理に今の状況を笑い飛ばそうとする必死さが伝わってくる。口振りは軽いのに、物凄く懸命な雰囲気だ。エンタープライズさんの声の背後からは、誰かが走り込んでくる騒がしい足音と、それに続いて、『エンタープライズ! 貴女、なんて迂闊なことを……!!』と、責めるような赤城さんの声が伸びてくる。端末の向こうの状況は見えないが、どうも大きなトラブルの気配がある。
「でも、起きていることがそれだけ詳細に分かっているのなら、対策は今日中にできそうですね。準備が整い次第、僕も秘書艦の二人と一緒に、ユニオン寮の方に伺います」
『えぇっ!!?』
「えっ?」
『あっ、いや……ッ、大丈夫だっ!』
短く答えた彼女は端末の向こうで、すぅ~~……と呼吸をしていた。そこから、唾を飲み込むような少しの間があってから、エンタープライズさんは声の調子を整えて喋り出した。
『そのメッセージは開かず、すぐに削除して欲しい。ポルターガイスト現象が、指揮官の端末に感染するかもしれないからな。うん。すぐに消してくれれば大丈夫だ。お姉ちゃんとの約束だぞ。うん。指揮官も忙しいだろうしな。うん。こっちはこっちで、何とか対策する。任せてくれ。うん、大丈夫。本当に大丈夫だから。メッセージだけ、すぐに消してくれれば、うん、大丈夫だ』
僕を全力で説得するかのように連呼される「大丈夫」は、まるでエンタープライズさんが自分自身に言い聞かせているようでもあり、僕に新しい不安を与えてくる。……本当に大丈夫なんだろうか。取り合えず、通話を繋いだままでメッセージを消去し、それを伝えると、端末の向こうでエンタープライズさんがへたり込むような気配が伝わって来た。
『あ、ありがとう……、指揮官。騒がせてすまなかった。あとは、此方でなんとかする』
随分と消耗した様子のエンタープライズさんとの通話を切ると、再び執務室に静けさが訪れた。携帯用端末を胸ポケットに仕舞いながら、窓の外へと目を向ける。ポルターガイスト現象か……。もしもユニオンの皆だけで解決できないのであれば、明石さんなどに相談してみるのがいいかもしれない。
あの後、すぐに明石さんに連絡を取ったのだが繋がらず、代わりに、血相を変えた天城さんが執務室に走り込んできて、「ここは私達にお任せください」と、問題解決に取り掛かることを申し出てくれた。ただ、その言葉の丁寧さの裏には、“どうか余計な詮索などなさいませんように”と言う、強い威嚇が込められているようでもあった。天城さんに殆ど気圧されるような形で僕は頷き、「あぁ、はい。では、お願いしますね」と答えたのを覚えている。
あれから、ユニオン寮でのポルターガイスト現象は確認されていない様子だった。こっそりと明石さんにあの時のことを訊ねてみると、「もう解決したにゃ」と、肩を竦めるようにして答えてくれた。詳細は省かれたが、この問題を蒸し返すのはNGであるらしい。
「あのメッセージについては他言無用にゃ。特に、駆逐艦とかには……、にゃ」と、明石さんは何気ないふうを装いつつも、これだけは守るようにと言った真剣さを声の裏に滲ませていた。まぁ、天城さんを始めとした重桜の実力者に加え、そこにユニオンやロイヤル、鉄血陣営の強者が揃い、ゴース〇バスターズよろしく除霊活動を行ったなら、並みの怨霊や悪霊など、たちどころに霧散してしまうことだろう。
実際のところ、この母港の平和が保たれているのは、各陣営のパワーバランスが拮抗しているから、と言うよりも、それを維持するための厳重な取り決めだ。今日のように、異なる陣営の二人が秘書艦業務を担当するのも珍しいことではない。誰が秘書艦をするのかという点についても、指揮官である僕は殆ど関知していない。彼女達が作り上げた独自のルールにより、日々の秘書艦が決定されている。業務の引継ぎなども含め、あらゆる実務を極めてスムーズに行う彼女達の仕事ぶりには助けられてばかりである。
基地としての機能を備えた母港に於いて、指揮官という立場に居る僕が重量な役割を演じる時は往々にしてあるが、日々の平穏さを頑丈にし、それを着実に積み重ねていく堅実さは、彼女達がいなくては成り立たない。
僕が彼女達への感謝を改めて実感しているうちに、大鳳さんは思案気な表情を浮かべてからエンタープライズさんに向き直り、緩い息を吐いた。
「そうですねぇ。まずは、“あいうえお順”で、指揮官様の御声を集めてからと思いましたが……」
僕の肩に顎を乗せるような姿勢になった大鳳さんは、僕が持っているセリフ集のページに手を伸ばしてページを捲った。セリフ集の後半では、発声練習的な言葉の羅列が無くなり、長めの台詞が幾つも用意されていた。中には、『今日もお疲れ様です』といった事務的なものから、『頑張れ、お姉ちゃん』、『お姉ちゃん大好き』、『よく頑張ったね、お姉ちゃん。えらいえらい』など、“これいる? ”と、首を傾げてしまうものもある。
ただ、セリフ集を最後までめくってみると、監修者のところには、赤城、加賀、土佐、天城、三笠、といった、重桜でも指折りの実力者の名前が連なっていた。彼女たちが制作に携わっているセリフ集なのであるから、これらのセリフが選ばれているのにも、何か深い理由があるのだろう。
「このままでは、エンタープライズさんが退屈してしまいますものね。……先に、シチュエーションボイスの録音を行いましょうか」
台詞ページを見下ろす僕の困惑を他所に、大鳳さんは甘ったるくも落ち着いた声で言う。すると、眉間に皺を刻んだエンタープライズさんの不機嫌そうな顔に、電球が取り換えられたかのようにパッと明るい笑顔が灯った。
「むっ、そうか。それじゃ、し、指揮官。私の準備は出来ているから、いつでも始めてくれて大丈夫だ」
俄かにソワソワとし始めたエンタープライズさんは、ソファに座った姿勢をさらに正した。そして僕に二回ほど頷いて見せてから、明石さんが用意したという分厚いゴーグルを被った。VRと言うのか、立体映像を出力する装置らしい。準備を整えたエンタープライズさんは、まるでボクシングのスパーリング直前のように呼吸を整え始めた。精神統一を図るかのような慎重なリズムで、息を吸って、吐いている。
……これから彼女は、何か激しい運動でもするんだろうか? 戸惑っていると、「では指揮官様、此方へお願いします」と大鳳さんに促され、エンタープライズさんの背後に移動することになった。その間も、大鳳さんは僕を背後から抱きすくめるような態勢のままだ。
「まずは、此方の台詞を、エンタープライズさんの右耳の後ろあたりから、……そう、そのあたりでお願いします」
僕は大鳳さんの言葉に従いながら、ちょっと物々しい機器を装着したエンタープライズさんの右耳に顔を近づける。喉の調子を整えるため、一つ小さく咳をしてから、彼女の右耳部分に装着されてあるマイクに声を届ける。マイクの上部には小さなモニターが在り、そこには『VR・ASMRモード起動中』と表示されていた。
「あの、聞こえますか……?」
尋ねるようにして僕が言うと、エンタープライズさんが「ひぃっ」と裏返った声を出して、ビクッと肩を震わせた。僕までビクッとしてしまう。その様子を見ていた大鳳さんが、「ちゃんと聞こえているみたいですねぇ」と、クスクスと可笑しそうに笑みを零した。エンタープライズさんは浅い息をしながら、下唇をきゅっと噛んでいる。
「あの、音が大きくて耳が痛かったり、具合が悪いといったことは無いですか?」
僕は声の量を押さえながら再び尋ねる。僕が何かを喋るたびに、エンタープライズさんの肩がピクピクと震えているのが分かった。
「あぁ、いや! そんな事は全くない。むしろ、心地が良過ぎて、どうにかなりそうだ」
「えぇ……、そ、それはそれで大丈夫ですか?」
エンタープライズさんの堂々とした口振りには僕の方が不安になってしまうものの、大鳳さんは特に気にしたふうでもなかった。
「では、このあたりの台詞から参りましょう」
そして再び、僕の肩に顎を乗せるように体を密着させる姿勢になってから、僕が手に持ったセリフ集のページに指を添わせた。「ちょっとだけ刺激的かもしれませんが、心の準備は大丈夫ですか~?」などと、エンタープライズさんの背後から囁くように声を掛ける大鳳さんはノリノリだ。
対するエンタープライズさんも、「あぁ、望むところだ」と凛とした勇ましい声で応答している。僕は二人の様子を観察してみるが、今の録音状況に置いてけぼりを喰らいつつあるのは僕だけだ。ただ、このまま困惑しているだけでは、彼女達がつくってくれた今の時間が無駄になってしまうとも思えたし、何より、僕にできることがあるのなら協力したい気持ちも本心だった。
僕は息を一度吸ってからセリフ集に視線を落とし、読み上げる。
「“お姉ちゃんは、もう降参しちゃうんですか? ”」
ゆっくりと僕が言うと、ソファに座って背筋を伸ばしていたエンタープライズさんが、ビクビクっと体を大きく震わせた、そして、ふぅぅぅ~……!! と、念願の強敵と相まみえたかのように、臨場感たっぷりの呼吸を始めた。ついでに、膝の上で握り固められた拳が震えている。そんなエンタープライズさんの様子を見ていた大鳳さんが、愉快気に「んふっ」と鼻から息を吐きすのが分かった。
このまま続けて大丈夫なのかと訊ねるつもりで大鳳さんを振り返ると、彼女が殆ど笑っているのが気になった。
「さぁさぁ、どんどん参りましょう。次は左耳の後ろから、そして次は、右耳のすぐ近くから……、そう、もっと臨場感をだしていきましょう」
大鳳さんは楽しげに声を弾ませ、セリフ集のページの上を指でなぞり、僕の肩をより強く抱いてくる。彼女の笑みの気配を含む吐息が、僕の耳の後ろを擽っていった。僕は首を少し竦めつつ、大鳳さんの指示通りに動き、次のセリフを読み上げていく。
「“あれあれ? お姉ちゃんは大人なのに、もう降参しちゃうんですか? ”」
僕が言うと、エンタープライズさんが歯軋りを始めた。呼吸に宿る迫真さが増して、彼女が膝の上に置いた拳がぶるぶると震えている。緊張を堪えきれなくなった様子の大鳳さんは忍び笑いを始めつつも、次に読み上げるべきセリフを指差してくれる。
「“さっきまでの威勢は何処に行ったんですか? ”」
僕はその台詞へと言葉を繋げる。
「“ほら、もう脚なんてガクガクしちゃってますよ”」
僕は、これは一体どういう状況を想定した台詞なのかが気になった。文脈からしてエンタープライズさんは、ゴーグル内に展開された映像を介して誰かと、何らかの戦いを繰り広げているのは分かる。そして、劣勢に立たされているらしい。脚が震えている、ということは、大きなダメージを受けているのかもしれない。そこまで想像してから僕はセリフ集から視線を上げ、エンタープライズさんの様子を窺う。
「くそ……ッ! くそぉ……!!」
汗ばんだエンタープライズさんは歯を食い縛り、ソファの上で体を強張らせ、悔しげで切なげな、しかし、どこか嬉しそうな低い声を漏らしつつ、本当にガクガクと脚を震わせていた。
「ま、負けない……! 負けんぞ……ッ!!」
ふっ……! ふっ……! と荒い息を吐きながら時折、体を強く波打たせている。彼女の頬は燃えるように紅潮していて、恍惚と屈辱を全身で味わい、楽しんでいるかのようでもあった。一方で、むにむにと唇を震わせる大鳳さんは、「あらあら。もう負けそう」などと楽しげに洩らしつつ、忍び笑いを必死に堪えるような半笑いだ。とりあえずと言った感じで、僕は台詞を続ける。
「“腰も浮いてきていますし、やっぱり負けちゃうんですか? ”」
「ぐっ、ぐぅぅ……!! 」
「“もう認めたらどうです? そんなに体を震わせて”」
「ぅ、あぁ……っ!!」
エンタープライズさんの声が高くなる。ゴーグルの中に広がる映像を介して、彼女が誰と戦っているのかは分からないが、彼女の敗北の気配が色濃く伝わってきた。いや、そもそも何をどうやって戦っているのかすらも、具体的な事は何もわからない。だが、彼女の苦しそうと言うか必死な姿を見ていて、僕はハッとする。そう言えば、先ほど開いたセリフ集のページには、応援の言葉が並んでいたなと思い出した。それを探す。すぐに見つけた。僕はエンタープライズさんを元気づけ、応援したい一心でセリフを読んだ。
『“頑張れ、お姉ちゃん! ”』
「なっ!? きゅ、急に優しく……!!?」
僕が言うと、エンタープライズの声がひっくり返り、上擦った。効果があったのだろうと思い、僕は更にセリフを繋げた。
『“よく頑張ったね、お姉ちゃん。えらいえらい”』
「くそぉ……! 変化球責めだとぉ……! ひ、卑怯なっ……!!」
僕の肩に抱くような姿勢の大鳳さんが口を手で押さえ、全身を小刻みに震わせているのが分かった。笑っているのだろうか? 僕は訝しく思い横目で彼女の様子を窺おうとすると、大鳳さんは唇を波打たせながら真顔を装い、すっとセリフ集の一つに指を差した。これを読めということなのだろう。彼女はもう片方の手でマイクを構え、僕が声を出すのを待つ構えを取った。録音作業を続ける姿勢を見せる大鳳さんに従い、僕は視線だけで頷いてから、セリフを続ける。
『“お姉ちゃんは、もう十分頑張ったよ。よしよし。いい子いい子”』
このセリフを読み上げながら、そもそもこれは、リラックス効果やストレス軽減効果を求めるため、僕の声を録音しようという作業だったのだと思い出す。このセリフは緊張を解し、心の強張りを和らげるためのものなのだろうと、なんとなく分かる。僕は出来るだけ感情を籠めた。
『“もう負けても良いですよ。ほら。僕の他には、誰も見てませんから”』
「ひぎぃっ……!! も、もう……ッ!!」
その間にも、エンタープライズさんと何者かの戦いは、クライマックスに差し掛かろうとしている様子だ。低く呻いた彼女は、白い喉を反らせて舌を突き出し、ハッハッと息を切らした。そして次の瞬間には、脚をピンと張って体を仰け反らせ、歯を食い縛った。そのまま数秒の硬直の後、彼女は深く息を吐きだしながら、ソファに体を投げ出すかのようにして体を弛緩させた。そのまま断続的にピクンピクンと体を震わせる彼女は、恍惚とした熱っぽい吐息を漏らしている。
「はぁ……ッ、はぁ……ッ!」
胸と息を弾ませて頬を上気させているエンタープライズさんは、そのままソファに沈んでいくかのような脱力具合だった。激しい運動は血流を促進させる効果があり、健康にも良い影響があるという話は聞いたことはある。だが、今のエンタープライズさんの消耗っぷりは尋常ではなく、流石に心配になる。僕が声を掛けるよりも先に、僕の肩を抱いたままで半笑いになった大鳳さんが、面白がるような口調で言う。
「……どうでしたぁ? 今回は勝てましたか?」
大鳳さんに尋ねられたエンタープライズさんは一つ深呼吸をしてから、ゴーグルを外した。いつもよりも若干、とろんとした眼をした彼女は僕を見ると、すぐに目を逸らし、「あぁ、バッチリだ」などと要領の得ないコメントを大鳳さんへと返し、すぐに「最後が気持ちよかった」と、小学生みたいなストレートな感想を付け加えた。
一体、何がバッチリで何が気持ち良かったのか。ゴーグルの中で展開されていた映像を含めて僕には想像できないのだが、「そうですかぁ。それはそれは、お疲れさまです」と、朗らかなに対応する大鳳さんを見るに、悪い影響を及ぼすものではないのだろう。ちょっとだけ安心する。
「し、しかし、あれだな。流石は明石と言うか、この装置は、ちょっと凄過ぎるな」
汗ばんだ額を手の甲で軽く拭ったエンタープライズさんは、呼吸を整えながら頭から装置を外しながら、ご満悦な様子で言う。
「どのような映像が見えたのですか?」
僕は素朴な疑問をぶつけてみる。
すると、エンタープライズさんは「えっ」と、一瞬の動揺を見せてから、「えぇと、そうだな」と、説明する言葉を頭の中で探すように視線を彷徨わせた。相変わらず僕の肩を組んだまま黙っている大鳳さんの息遣いには、笑みを逃がすような小さな膨らみがあり、エンタープライズさんの反応を面白がって観察している風情である。そのうち、エンタープライズさんが、これ以上はない程の真面目な表情をつくり、僕に向き直った。
「そうだな。……このVRに現れたのは、私の宿敵と言えばいいのかもしれない」
過剰なまでに厳かさを伴った彼女の言葉に、僕は姿勢を正してしまう。急激に醸し出された彼女の真剣な雰囲気は、僕の問いかけをはぐらかすような勢いがあった。それに、奇妙な達成感に満ちた彼女の表情にも気圧されて、僕も「あぁ、なるほど……」などと、ワケが分かるような分からないような相槌を返すのがやっとだった。何となく、濃い闇の中に足を踏み入れたような気がした。僕が心細さを感じはじめたところで、大鳳さんが一つ息を吐きだした。
「なかなかにクオリティの高いボイスサンプルが集まりましたが、まだまだ、足りませんねぇ」
大鳳さんはマイクに繋がれた端末を操作しながら、僕とエンタープライズさんを見比べる。そして、妖艶な笑みを過らせてからワザとらしく肩を落として、しょんぼりして見せた。
「また違うシチュエーションボイスを録音したいのですが、エンタープライズさんもお疲れのようですし……」
消沈した大鳳さんの態度の背後には、エンタープライズさんに対して引き続いての録音作業の協力を催促する意図が透けて見える。僕でも分かった。ただ、つい今まで仮想現実の中で激闘を繰り広げていたエンタープライズさんは、その疲労感の所為か、大鳳さんがチラチラと見せる意図には気づいていない様子だった。「いや、私はまだイケるぞ」と頼もしい声で言う。
「原子力空母だからな。次こそは負けん」
エンタープライズさんは、キリっとした凛々しい表情を作った。それは、どんな過酷な海域からでも必ず勝利を持ち帰ってくる、普段の彼女の顔だった。ただ、澄んでいる筈の彼女の声音の奥からは、暗く澱んだ微熱の気配が漂ってくる。「分からせてやる」と、口の中で重く呟くように言ったエンタープライズさんの瞳にも、僅かな濁りと期待、それに妙な必死さも窺えた。
「まぁ、頼もしい!」
大鳳さんは両手を合わせて感激を表すポーズを大袈裟に作り、録音作業を再開させるべくマイクを携えた。エンタープライズさんも、荘厳な儀式を続行するために衣装を整えるような、粛々とした様子で再び集音装置を頭に装着しなおしていた。
「えぇと、少し休憩を挟みませんか? 急ぎの仕事も終わっていますし、もう少しペースを落としても……」
僕は少し焦って二人に声を掛ける。今の彼女達からは、どこまでも突き進んでいこうとする妙な熱気を帯び始めているのを感じたからだ。一度ストップを掛けておくべきだと思った。だが、僕が喋るのを遮るように、大鳳さんが再び肩を抱いてきた。そして、マイクを持っていない方の手の指で僕の唇にそっと触れてくる。セリフ集を手にしたままの僕は突っ立ったまま黙り込み、大鳳さんを見詰めてしまう。
「指揮官さまも、もう少し、お付き合いくださいね?」
妖しく潤んだ声で囁く大鳳さんは、僕の視線を促すように、エンタープライズさんを一瞥した。彼女は僕を見ていない。ゴーグルを装着しようとしているのだから、当然と言えば当然だ。僕がエンタープライズさんから大鳳さんへと視線を戻そうとしたが、出来なかった。耳元に息を吹きかけられたからだ。湿った温度を乗せた吐息が、僕の耳を撫でていく。思わず背筋が伸びた。
「ふふふ……エンタープライズさんが仮想現実に入り込んでいる今、この瞬間こそ間違いなく、指揮官様を見詰めているのは、この大鳳ただ一人……。この数分だけ、どうか指揮官様を一人占めさせて下さい」
僕の右肩に顎を乗せる大鳳さんは、言いながら悪戯っぽく小さく笑う。だが、その声音は哀願にも似た切実な響きを含んでいて、僕と大鳳さんの二人だけを、この執務室に流れる時間から切り離すようにして薄く響いた。僕は黙り込んでしまう。
「いつも指揮官様の周りには、誰かが居ます。秘書艦でなくとも、報告を持ってくる者や、ただ指揮官様の御顔が見たくて執務室に足を運んでくる者も……。指揮官様が一人でいる時など、本当に限られていますわ」
滔々と語る大鳳さんの声は、エンタープライズさんには届かないよう小さく抑えられ、微かに震え、早口だった。ゆっくりと時間をかけて語りたい言葉を、ぎゅっとこの場で押し固めているかのようだ。
「指揮官様が御一人で過ごす時間を無遠慮に奪うのは、大鳳も望むことではありません。あんまり鬱陶しく纏わりついて、指揮官様に嫌われてしまいたくありませんもの。指揮官様が、指揮官様の為だけに過ごす時間は、大鳳にとっても大切な時間です」
意図的に柔らかさを演出しようとする大鳳さんの口調は、自身の語る内容に深刻さを持たせないためなのかもしれない。
「指揮官様は無益な摩擦を望まれません。それは皆が理解しています。この穏やかな時間を愛する優しい指揮官様のことを、皆が慕っています。だから大鳳も、指揮官様が愛情を注ぐこの母港の日常を愛していますわ。……でも今だけは、その愛の枠を一度外し、指揮官様だけを見詰めていたいのです」
大鳳さんは言い終わると、僕の返事など待たずに抱きしめてくる。ぎゅうぎゅうと力の籠められた抱擁には遠慮がない。その控えめな乱暴さは、駄々をこねた子供が感情を鎮めるために、ぬいぐるみに抱き着く姿を連想させる。僕は、彼女の言う“愛”が、兄弟愛や家族愛に類するものだと解釈するより他ないのだが、大鳳さんが僕と過ごす時間を特に大切に思ってくれているということは理解できた。
僕が大鳳さんを抱きしめ返すことはせず、曖昧な微笑みを返した時だった。
「さぁ。次はどんな刺激的な冒険が、私を待っているんだ?」
ゆったりとソファに腰掛けたエンタープライズさんが、ゴーグルの向こうの景色を見渡すように首を動かした。凛々しいのに、どこか暢気でワクワクしている様子の彼女の声に、僕と大鳳さんは引き摺られるようにして笑ってしまった。同時に、僕と彼女との間にあった妙な緊張感や深刻な空気も霧散し、穏やかな空気が広がる。ほぅと息を吐いた大鳳さんが、僕を抱きしめていた腕を解き、僕の顔を覗き込んできた。
「……また、独り占めさせて下さいね」
冗談めかして言いながら、大鳳さんは一度ウィンクをして見せてから、気持ちを切り替えるようにエンタープライズさんに向き直った。
「はいはーい。えぇと、次のシチュエーションは……、“囚われの女戦士を尋問する、ナマイキな少年軍師”という設定みたいです。……これは、モナークさんのリクエストですねぇ」
「ほう。面白いじゃないか」
ゴーグルの向こうを睨んでいる様子のエンタープライズさんは、ソファに凭れ直しながら力強く言う。その様は、戦闘機のコックピットに乗り込み、敵陣に突っ込むエースパイロットの風格すら滲ませていた。
……まぁ、10分も持たないでしょうねぇ。大鳳さんが僕と顔を見合わせつつ、小声で言うのが聞こえた。その大鳳さんの読み通りなのかどうかは分からないが、エンタープライズさんが甘い悲鳴を上げたのは、録音作業を再開してから5分ほどしてからだった。