少年指揮官の日常 作:トレモ勢
「指揮官、テニス上手いんだねー……」
タオルを差し出してくれたブレマートンさんが、驚いた表情を浮かべたままで感嘆の声を漏らす。
「い、いえ、そんなことは……、ボルチモアさんに負けてしまいましたし」
テニスコートから少し離れた場所で、僕はタオルを受け取る。僕たちの頭上に広がる空は晴れ渡り、抜けるように高かった。今日は湿度も低く、適度に涼しい風もあって、身体を動かすには最適な天候だ。コートの方へと首を曲げると、ボルチモアさんが、僕に代わったクーパーさんと試合を始めようとしていた。
今日の秘書艦であるボルチモアさんが、「指揮官、少し体を動かさないか?」と誘ってくれたのは、昼食を済ませてからだった。昼休憩に体を軽く動かすと、午後からの仕事が捗ると言う話は僕も聞いたことがあった。「まぁ、今日は天気も良いし。いい気分転換になるかもね」と、同じく今日の秘書艦であるブレマートンさんも、ボルチモアさんに対して特に反対もしなかった。
「えぇ。では、業務に支障がでない範囲で、僕もお付き合いさせて貰います」
仕事の出来る彼女達のおかげで時間に余裕も在ったので、僕はその提案を了解した。僕が自室に一旦戻って、市販の運動着に着替えている間に、ボルチモアさんは非番であったバッチさんやクーパーさんにも声を掛けていたようだ。
残念ながらバッチさんには先約があったようで、「次は絶対に参加するから、また誘って! 約束よ!!」と、僕の携帯用端末に連絡があった。クーパーさんの方も仲の良いKAN-SENの誰かと約束が在ったらしいが、その時間までは余裕があるということで参加してくれたのだ。
母港に拵えられた広々とした運動スペースは本格的で、僕たちの他にも何人かが思い思いに体を動かし、汗を流している。或いは、ボルチモアさんとクーパーさんの試合に興味を惹かれ、観戦をしようという人影もテニスコートの周囲に集まりつつあった。
汗を拭きながら、テニスコートの内側で行われる試合に目を向ける。テニスボールが跳ねる音が響き、ボルチモアさんとクーパーさんが左右に素早く動き、鋭く体重を移動させていた。審判はおらず、対戦する二人の頭の中で点数を把握している様子だ。
二人の試合は、勝ち負けを意識して緊迫に満ちている、というよりは、真剣な空気ながらも伸び伸びとしていて、互いを高め合うための特訓の趣がある。KAN-SENである彼女達が移動するスピードと、打ち返されて飛び交うテニスボールの迫力は凄まじく、二人の鋭い呼吸、集中力を漲らせた息遣いなどは、少し離れた場所にいる僕にも十分に伝わってくる程だった。
「いやぁ……、あのボルチモアと互角以上に打ち合ってたんだから、勝ったとか負けたとか関係なく、かなり凄いと思うんだけどなぁ」
僕の隣で、腰に手を当てたブレマートンさんが苦笑交じりに嘆息した。テニスウェアに着替えた彼女は、コートに着いてからの準備運動を終えてすぐに、ボルチモアさんと試合を行っていた。結果は、ボルチモアさんの快勝だった。ブレマートンさんがテニスを苦手としているというよりも、単純にボルチモアさんが強かったのだ。
「プロの選手でも、ボルチモアが相手だと滅多打ちにされちゃうんじゃないかな……」
「ボルチモアさん、体力も集中力も凄いですよね。ブレマートンさんの後に僕の相手をして、更にクーパーさんと試合をしてるんですから」
「いっつも誰かの助っ人になって忙しく走り回ってるから、色々と鍛えられてるのかも」
冗談めかして言うブレマートンさんは、肩を竦めて人懐っこい笑みを見せた。
「指揮官もテニス上手かったけどさ、誰かに教えて貰ったの?」
「えぇ。少し前ですけど、フォームなどの基本的な部分などは、バッチさんに教えて貰いました」
「ほほぅ、なるほど。秘密の特訓をしてたわけだ」
「特訓と言うほどのものではありませんけどね」
「ぅえ~。頑張らずに上手くなれるなんて、ちょっとズルくない?」
わざとらしく苦い表情を作ったブレマートンさんは下唇を突き出して、恨めしそうな眼差しを僕に向けてきた。僕は緩く首を振って、苦笑を返す。
「僕の素質ではなくて、バッチさんの教え方が上手だったんですよ」
「そうかなぁ? 何かを吸収して、すぐに実践に応用できるのって凄い才能だよ」
励ますように言ってくれるブレマートンさんは、「そういえばさ」と僕の顔を悪戯っぽく覗き込んできた。
「指揮官てさ、一人の時ってどんなカンジなの?」
かなり漠然とした質問だ。解釈の余地が在り過ぎる。
「どんなって、……普通ですよ」
曖昧で当たり障りのない答えを返す。
「ふぅん……。いやぁ実は、前にボルチモアと話をしたことがあるんだけどさ」
猫みたいな口になったブレマートンさんは人差し指を伸ばし、くるくると回した。
「いつも真面目な指揮官だけど、一人の時は意外とドジっ子だったりして~、って話で、盛り上がっちゃってさ」
「そんな失礼な」
屈託のないブレマートンさんの笑顔につられるようにして、僕も笑った。
「あはは、ごめんごめん」
ブレマートンさんは僕に言いながら、手にしたタオルで汗を拭う。そして、テニス用の敷地を囲うように張られたフェンスに凭れ掛かり、蹲踞に似た姿勢でしゃがみ込んだ。その姿勢の所為か、汗ばんだ彼女の健康的な太腿が大胆に強調され、引き締まった肌色のお腹が、テニスウェアの隙間からチラリと覗いた。
「それにしても、今日は暑いね~」
無防備な彼女は、傍に置いてあったスポーツバッグを引っ張りよせ、中からスポーツドリンクを取り出した。青いボトルだった。それをゴクゴクと飲み始める。顔を上げた彼女が喉を鳴らすと、テニスウェアを力強く持ち上げる彼女の豊かな胸も、一緒になってぽよぽよと弾むようだった。勿論それは錯覚に違いないのだが、ブレマートンさんが無防備にしゃがみ込んでいる姿は、途轍もなく煽情的に見えた。
どうにも気まずくて、僕は視線と意識をテニスコートへと逃がす。
コートでは、ボルチモアさんとクーパーさんの試合が続いている。明確に点数が表示されていないため、その試合展開までは分からないが、ボルチモアさんが優勢に見えた。苦手な運動種目を探す方が難しいと豪語する彼女の表情には、まだまだ余裕がある。対して、クーパーさんの顔には緊張感が漂い、息が乱れはじめている。
テニスボールを追うボルチモアさんの動きには、本当に無駄が無い。澱みも無いし、流麗で、隙も無い。僕は、ボルチモアさんのフォームを観察した。ラケットを手に、彼女の動きを真似てみる。手に持ったラケットの振り方や、移動するときの自分の重心に意識を向けて、ゆっくりと体を動かす。
「指揮官それ、フォームの確認? ボルチモアに寄せるの?」
フェンスに凭れたままのブレマートンさんが、僕の方を見ながら興味深そうな声で言う。
「えぇ。まぁ体格的には、差がありますけど」
ボルチモアさんのように背が高いわけでもない僕は、ちょっと肩身が狭い思いで自分のフォームを確認しながら、視線だけを彼女に返した。すると、ブレマートンさんが、「そういうことなら、アタシの出番だね~」と、何故か得意げな笑みに猫みたいな口をつくって、「むふふん♪」と鼻先を上げるようにした。
「アタシ、こう見えてボルチモアからフォームの基礎とか教えて貰ったからさ~。指揮官にも伝授してしんぜよう」
たわわな胸を張りながら師匠顔をしてみせるブレマートンさんは、凭れ掛かっていたフェンスから立ち上がった。そして、ラケットを手に足を踏み出そうとした時に、事件は起こった。先程、彼女がスポーツドリンクを取り出すために引っ張りよせたスポーツバッグ、その肩紐部分が、彼女の足元部分にあったのだ。
「ぅわわっ!?」
バッグの肩紐に足を取られたブレマートンさんの身体が、前のめりに多く傾く。彼女が腕を回すようにしてバランスを取ろうとしたが、すでに体は倒れ始めていた。近くにいた僕は、すぐに支えようと地面を蹴った。間に合わない。
自分の脚を、ブレマートンさんと地面の間に滑り込ませるのがやっとだ。背の高い彼女を支えきれずに、僕も後ろに倒れてしまった。ただ、後頭部を打つようなことは無かったし、中途半端ではあったが受け身も取ることができた。大きな痛みも怪我も無いのは、自分でも分かった。
だが、その分、僕の身体に圧し掛かってくるブレマートンさんの感触が際立った。ドキリというよりも、ビクリとしてしまう。倒れた衝撃と同時に、うわぁ柔らかいという感想が頭に浮かんだ程だ。僕の胸のあたりに、彼女の顔がある。制汗スプレーや、デオドランドスプレーのものだろうか。もぎたての桃の香りのような、爽やかで甘い香りがした。
「ご、ごめん指揮官! 大丈夫!?」
物凄く焦った様子で、ブレマートンさんが顔を上げる。その拍子に、たぷたぷと柔らかい感触が、僕のお腹の下の方に密着しながら、大胆に揺れ動くのが分かった。たっぷりとした重量と暴力的な肉感には狼狽するしかなく、自分の顔が引き攣るのが分かった。そんな僕を心配そうに見詰めてくる彼女に、「えぇ。僕は大丈夫ですよ」と答えかけて、心臓が止まるかと思った。
押し倒された状態の僕がブレマートンさんの顔を見る角度だと、彼女の胸の谷間が丸見えだからだ。瑞々しく汗ばんだ彼女の胸元に陽射しが照り、健康的で透明な煌めきを反射させている。テニスウェアの中で美しく揺れ動く大きな膨らみは、チョモランマやエベレストなどといった雄大な単語が脳裏を過るほどの、問答無用の凄い迫力だった。
余りの絶景に僕の方が悲鳴を上げそうになりながら、慌てて斜め左上方向へと視線を向ける。下手をすると、汗に濡れた彼女の胸元どころか、その深い谷間の向こう側に、彼女のお腹まで見えそうな強烈なアングルなのだ。これでもしも彼女が下着をつけていなかったら、僕の目は潰れていただろう。
「怪我とかしてない!?」
黙り込んでいる僕が、痛みに耐えているとでも思ったのだろう。心配そうな顔をしたブレマートンさんが、慌てて立ち上がろうとしたが、それも不味かった。倒れる時には、彼女はスポーツドリンク用のボトルを手に持っていたのだ。
地面に手を付き、身体を起こそうとした彼女の掌の下で、そのボトルが外向きに転がる。持ち上がった筈の彼女の身体が、ずるっと傾いた。「ひゃあ!?」そして再び、僕の身体に遠慮なく落ちてくる。青空の爽やかな空気など容易く吹き飛ばしてしまう、火力とも威力ともいえない何かを秘めた衝撃と密着感が、僕の下腹部を貫いていった。
「ごっ、ごめっ……、ごめんなさい!」
ちょっと泣きそうな声で言うブレマートンさんの胸が、僕の太腿の付け根あたりで弾む。変な声が出そうになる。“どたぷーん!! (怒)”という擬音が聞こえてきそうだった。僕の下腹部と脚の間で、豊満に揺れ動く彼女の胸の感触から、必死に意識を逸らす。呼吸が上手くできないし、下手に身動きも取れない。視界の下隅で、彼女のテニスウェアがめくれ上がっているのが分かった。スカートの方もだ。黒い三角形みたいなものが見えた気がしたが、アレは下着なのだろうか。
もうここまでくると、それがどうしたのだという気分になる。
「ぃ、いえ、大丈夫ですから」
何とかそう答えるが、とにかく顔が熱い。僕は歯を食い縛る思いで空を見上げる。テニスボールの跳ねる音を吸い込む空は、相変わらず高く澄んだままだ。漫然として頭上に広がる空は、今の僕の大変な状況を微笑ましく見守っているというよりも、ノーコメントを決め込んだすげない態度に見える。雲の無い能天気な青さを、こんなに恨めしく思ったのは初めてだった。
「い、いやぁ~、こういうハプニングも、偶にはあるものだよねぇ」
立ち上がったブレマートンさんは、さっきまでの状況を笑い飛ばそうとして失敗したかのように、「たははは……」と言った感じで笑いながら、僕の手を引いて体を起こしてくれた。「ぁ、ありがとうございます」と、僕は礼を述べるものの、ブレマートンさんの方をすぐに見ることが出来なかった。
その気まずさの中で、テニスコートの方が静まり返っていることに気付く。顔を上げて視線を向けると、さっきまで試合をしていたボルチモアさんとクーパーさんが試合を中断していた。彼女達は「何やってんだアイツら……」と言わんばかりの、眉根を寄せた不審そうな、それでいて険しい顔をして此方を凝視している。二人の様子に気付いたブレマートンさんが焦った様子で、テニスコートの二人に両手を振った。
「なっ、何でもないから! さっきのは、ちょっとしたハプニングだから!」
腕をぶんぶんと大きく振るブレマートンさんは、自分の無罪を主張するかのような口ぶりだった。彼女が腕をふるたびに、彼女の豊かな胸がテニスウェアの中で、“ばるんばるん! ”と力強く揺れているのが分かった。主張が強すぎる。テニスコートの二人が顔を見合わせ、此方に向かって歩いて来た。
「ちょっ!? 大丈夫だから!! 本当に何にも無いから!!」
二人が此方に歩み寄ってくるのを押し返そうとするかのように、ブレマートンさんが更に焦った声を出す。その必死さが功を奏したのか。此方に足を踏み出していたボルチモアさんとクーパーさんは再び顔を見合わせ、釈然としない表情で此方を一瞥したあと、とりあえずと言った感じで試合に戻った。テニスボールが弾む軽快な音が、再び戻ってくる。
俯き加減になったブレマートンさんが、ほっとしたように息を吐く。
「さっきは指揮官のこと、意外とドジっ子だったりして~、なんて言っちゃったけどさ。アタシの方がドジっ子だった……、ていうね」 自分の笑えない冗談を、俯きがちに反省するかのように言う。
消耗した気力と頭を休めていた僕は、殆ど無意識と言うか反射的に「そうですね……」などと応答してしまった。ちょっと驚いた顔をしたブレマートンさんが、じっと僕のことを見詰めてきていることに気付いてから、自分の失言に思い及んだ。思わず、「あっ」と声を漏らして顔を上げてしまう。意地悪そうな笑みを浮かべたブレマートンさんと目が合った。
「指揮官ひどーい! そこはさぁ、“そんなこと無いですよ”って言って、優しく慰めてくれるところじゃないの?」
腰に手を当てたブレマートンさんは、僕を見下ろしながら威勢よく言う。さっきの自分の失態を無かったことにしてしまう勢いだ。それでいて、軽口の応酬に誘うような口ぶりでもある。
「いや、でも……」
僕はちょっと身を引きながらも、反論の姿勢を見せる。普段なら謝罪の言葉を口にするところだが、今の彼女は明らかに、僕が何かを言い返してくることを期待している雰囲気だった。実際、ブレマートンさんは嬉しそうに「えぇ~、何なに~?」なんて、うきうきした様子で言ってくる。
「指揮官はさ~、アタシのこと、ドジっ子だって言いたいの?」
僕はどう答えるか迷いつつも、敢えて、ちょっと長めの間を置いた。
「………………そんなこと無いですよ」
「あれぇ!? だいぶ含みのあるカンジなんだけど~!?」
ブレマートンさんは言いながら、可笑しそうに笑った。僕との言い合いを楽しむようでもある。
「まぁ、冗談はこの辺にしとくとしてさ。指揮官も、偶にはそういう軽いカンジで良いと思うな。ずっと真面目だと肩がこっちゃうよ」
声のトーンを優しく落としたブレマートンさんが、お姉さん然とした柔らかな笑みを浮かべていた。僕は言葉に詰まり、曖昧に頷いて視線を逸らした。
彼女の本心からの気遣いの言葉に、僕はどのように返せばいいのかを迷っているうちに、テニスコートの方から歓声が聞こえてくる。ボルチモアさんとクーパーさんの試合が白熱し、ギャラリー達も盛り上がっているようだ。その興奮と熱気を満載させた空気は、少し離れた場所からテニスコートを眺める僕とブレマートンさんを、二人きりにさせていた。
「そ、そう言えばアタシって、さっき何をしようとしてたんだっけ?」
沈黙が深まってくる前に、ブレマートンさんが不意に眉間に皺を作って、顎を触った。ハプニングに見舞われて、その前後での自分の目的を見失っている様子だ。
「えぇと多分、ボルチモアさんのフォームを、僕に教えてくれようとして……」
そこで、さっきのハプニングが起こったのだ。
「あぁっ、そうだよ! 思い出した!」
ぱっと顔を明るくしたブレマートンさんは指を鳴らし、「えっと、ちょっと待ってね!」と断ってから、スポーツバッグに駆け寄った。またコケるのではないかと若干、冷や冷やしながら彼女の行動を見守る。何をするのだろうと思ったら、バッグからピンク色のデオドランドスプレーを取り出して、首元や胸元などに念入りにシューシューとやり始めた。
それから、着ているテニスウェアや自身の身体をクンクンとやって、「よし」と頷く。スプレーの噴射をふんだんに浴びた彼女は、再び丹念に汗も拭いてから、こっちに駆け寄って来る。汗を拭くのとスプレーをする順番は逆ではないのかとツッコミそうになりながらも僕は、やはり途中で彼女がまたコケるのではないかと警戒し、ハラハラとした気分だった。
「お・ま・た・せ。ボルチモアの試合が盛り上がってるうちに、アタシたちも特訓、始めよっか」
敬礼っぽいポーズを取って胸を弾ませたブレマートンさんは、僕にフォームを教えてくれると言うが、ラケットを持っていない。手ぶらである。そのことを指摘するよりも先に、彼女が「はい、じゃあ一回、ラケットを構えてみて」と、先ほどの師匠顔をつくって見せた。
「えっ」
「ほら、はやくはやく」
「こ、こうですか?」
楽しげな彼女にせっつかれた僕は困惑する間もなく、取り合えずといった感じでラケットを構えた。腕を組んだブレマートンさんは、「うむうむ」などと満足そうに頷いてから、するするっと僕の背後に回りこんだ。
「それで、手と足の位置、運び方なんだけど……」
言いながら彼女は、僕の背後から長い腕を回してきた。背中に、柔らか過ぎるブレマートンさんの体温が密着してくる。桃の甘い匂いが強くなり、その官能的な香りが纏わりついてくる。思わぬ不意打ちに背筋が伸びそうになった。
彼女がスプレーを念入りに噴射していた理由が分かった。一難去ってまた一難なんて言葉が頭を過り、身体が硬直する。彼女の唇が僕の右耳のすぐ後ろに在るのは、耳朶をくすぐってくる呼吸の気配で分かった。彼女のしなやかな手が、僕の腕の上を優しく滑る。そのまま、ラケットを持つ僕の手首を握った。ひんやりとした掌だった。
「ボルチモアの腕の振り方はね、こんなカンジで……」
囁く声が耳元で聞こえる。その甘いくすぐったさが、僕の緊張感を煽った。ブレマートンさんが僕の手首を握ったままで、僕の腕を動かす。親切で丁寧な指導に違いないのだが、むにむにと背中で形を変える柔らかな感触の所為で、全く集中できない。フォームがどうとか、脚の運び方がどうとか、そういうことを意識する余裕が全然ない。
「そうそう、良い感じだよ」
一体、何が良いのかと思う。
為されるがままの僕の耳の中で、ブレマートンさんの優しい声が実在的に響く。
「いやぁやっぱり、アタシの教え方が良いのかなぁ~」
彼女はご満悦な様子だが、僕の意識は朦朧としている。背中の方で、彼女の体温がふわふわと弾む。ダメだ。意識を背中に向けちゃいけない。いや、背中と言うか、肉体から意識を逸らさないといけない。僕は身体の感覚をブレマートンさんに明け渡して、呼吸に集中する。息を吸って、吐く。一体、これは何なのかという思いになる。
「指揮官、凄い集中してるね。教え甲斐があるよ~」
嬉しそうなブレマートンさんには申し訳ないが、今の僕は、自分の呼吸に全神経を注いでいる。瞑目し、背中に密着する魅惑的な彼女の感触から、全力で意識を引き剥がす。自分の内側にある意思の力を搔き集め、精神力を全て使い切る思いだった。何が何なのか分からなくなってくる。そこで僕は気づいた。これはテニスの指導じゃない。瞑想だ。
以前、土佐さんや天城さんに教わったことがある。瞑想は、心に浮かんでくる思考に逸れた意識を、再び呼吸に戻すときに、集中力や注意力が鍛えられるのだと。呼吸瞑想や歩行瞑想といったものがあるが、これは、そう、ブレマートン瞑想とでも呼ぶべき何かだ。彼女の豊満な肉体の感触から、呼吸に意識を戻すのだ。いや。戻すのだ、じゃない。無理だ。あまりにも難易度が高過ぎる。出来っこない。
僕が挫けそうになった時だ。
「……ねぇ指揮官。何か悩みごととか在ったら、遠慮なく相談してね?」
声を潜ませた彼女の吐息が、僕の耳元で燻ぶった。
「指揮官は、皆に平等に優しくしてくれるけどさ。誰にも本心を許さないっていうか、心に踏み込ませないところがあるからさ。……ちょっと心配なんだ。前にボルチモアと話をしてたのも、そういう話なんだけどね」
聞き分けの無い子供に、教え諭すような口調だった。
「一対一じゃないと出来ない話とか、こっそりとしか出来ない話とか、気軽にできない話とか、何でもいいんだけどさ。一人で抱え込んじゃ、ダメだよ」
「お気遣い、ありがとうございます。でも僕は、もう十分過ぎるほど助けて貰っていますよ」
「ふぅん……。その割には、いっつも遅くまで書斎に籠ってるみたいじゃん? セイレーンに関する何かを調べてるの? 何かアタシにも手伝えることない?」
ブレマートンさんの声の質が変わった。僕の役に立つ為に、意欲や熱意をこめ、身を乗り出してくるかのようだった。僕の手首を掴む彼女の手が、力が籠められて微かに震えている。僕の背に密着している彼女の胸からも、緊張を抱えて早足になった鼓動を感じた。
「こう見えてアタシってば、結構みんなの相談にのってるから。指揮官も遠慮しないで」
その言葉には、仲間想いのブレマートンさんの持つ優しさが隅々まで通い、とても親身で真剣なものであることが分かった。それと同時に、聞き流すことを僕に許さない、切実な響きを含んでもいた。
「いえ……、あれは、僕の個人的な考えで夜更かしをしているだけなので……。わざわざ手伝って貰うのも申し訳ないですよ」
咄嗟に答えたが、僕はちゃんと笑顔を作れている自信が無かった。テニスのフォームを教えて貰う姿勢のままで良かったと思う。僕の首のすぐ後ろで、俯き加減になったブレマートンさんが下唇を噛む気配があった。一つ呼吸を置くような間があって、「……そっかー」と彼女は呟いた。
僕の言葉を、拒絶と受け取ったのかもしれない。ぽとりと地面に落ちるような彼女の呟き声は僅かに掠れていて、落胆と悲哀が滲んでいるように感じられた。僕から、彼女の表情は見えない。数秒の沈黙の間を、テニスコートからの歓声が白々しく埋めていく。ブレマートンさんの手が、僕の手首から離れる。
「いやー、やっぱり、アタシの出番なんて無いか~」
ワザとらしい程に明るい声と共に、僕の背中に触れていた彼女の温度が離れていく。その空隙に、透明感のある桃の香りが、ふわっと広がり、すぐに風に攫われていった。僕は振り返り、ブレマートンさんに向き直る。彼女は悪戯っぽく笑ってはいたが、頬の端が引き攣り、下がった眉は寂しげだった。
指揮官としての僕は、こういう時、何を言うべきなのだろう。何を伝えればいいのだろう。考えても答えは出ない。それでも、今度は僕が何かを言う番だった。
「ブレマートンさんの出番がないとか、僕が誰にも心を開いていないとか、そういうことでは無いのです。……これは本当に、僕の個人的な問題ですから」
自分の心の内を全て晒すつもりで、僕はブレマートンさんを見上げる。
「それなら……、うん。いいんだけどさ」
笑みを強張らせた彼女は、僕の言葉を待つように俯き加減になった。また、テニスコートの方で歓声が沸く。
「……僕は、皆さんから得難いものをたくさん貰っていますよ」
こっそりと深呼吸をした僕は、盛り上がりを見せるテニスコートの方へと視線を向けた。今では各陣営の交流試合の様相を呈しはじめ、先ほどまで試合を行っていたボルチモアさんとクーパーさんは一息つきながら、ダブルスの組になろうなどと唇を動かしている。
「この母港の役割から見れば、僕は基地機能の一部でしかありません。今の平穏さを勝ち取ったのは、間違いなくKAN-SENの皆さんの活躍の御蔭です。どれだけ感謝しても、しきれないくらいですよ」
言いながら、僕は自分の爪先と足元を一瞥した。健全な賑やかさ、溌溂とした騒がしさが、熱気と共に溢れるテニスコートを、僕は少し離れた場所から眺めている。この距離感や位置関係こそが、この母港に於ける僕の立ち位置でもある。
「艦船通信の御蔭で、皆さんの良い関係が循環しているのも間違いありません。先程、僕を支えようとしてくれたブレマートンさんの優しさの中には、見返りも感謝も求めない真剣な誠実さを感じました。それはきっと、重要なことで苦しむ誰かに手を差し伸べる、正しい精神なのだと思います」
「大袈裟だよ、そんなの」
ブレマートンさんは笑顔を作ってはいたが、拗ねたような口調だった。
「いえ、大袈裟などではない筈です。その尊さはブレマートンさんの美しさであり、きっと誰にも引き剥がせないものだと思います」
僕は自分の言葉の芯を握り締める思いで、静かに言い切る。今度は、僕が諭すような口調になる番だった。
「誰の苦悩であっても否定しないブレマートンさんを、この母港に居る誰もが必要としています。出番が無いなんて、在り得ませんよ。悩み相談だって、同じことをしたのでは、きっと誰もブレマートンさんに敵いません」
慎重に言葉を選ぶと言うよりも、僕の眼から見える景色を信じるままに紡いだ言葉だった。僕の身勝手な語り草を黙って聞いていたブレマートンさんは、少し驚いたような顔で何度か瞬きをしたあと、斜め向きの俯き加減になって、上目遣いのように僕を見る。
「……指揮官はホント、真面目な話ばっかりするよね~」
「オイゲンさんにも、似たようなことを言われました」
「やっぱり。モテないぞ~、そんなんじゃ」
冗談めかして彼女は言いながら、髪の毛をいじいじと触りつつも控えめな笑みを作った。それから、僕の言葉を胸の奥に仕舞い込むように、胸元で左手をぎゅっと握る。
「まぁ、それが指揮官の良いところでもあるんだろうけど。……さっきも言ったけどさ、指揮官も、いつでもアタシの悩み相談室に来てよ」
柔らかな表情になった彼女の瞳の、繊細で澄んだ輝きが増したような気がした。僕は曖昧に頷いたが、それを予想していたに違いない。すっと体を近づけて来た彼女は、両腕で僕をぎゅっと抱きすくめてきた。テニスウェアと、その中にある豊満な膨らみの中に沈み込んでいくような感触だった。
「ぁ、あのっ!?」
官能的な感触の中で、殆ど溺れかけている僕を見下ろしたブレマートンさんは、ペロッと唇を舐めてから茶目っ気たっぷりにウィンクをして見せた。
「辛いときは、アタシの胸の中で泣いても良いんだからね?」
快活な彼女に良く似合う、明るい笑顔だった。さっきまでは恨めしくて仕方なかった青い空も、ブレマートンさんの笑顔とコントラストを作ると、陳腐かもしれないが、曇りの無い彼女の優しさに、その澄んだ青さが呼応しているのではないかと思った。冗談めかした彼女の口振りにも丸みがあり、僕の胸の内にそっと触れてくるかのような心地よさが在った。
「ブレマートンさんも、辛いときは、無理をなさらないでくださいね」
その温もりに甘え、重心を預けてしまいそうになるのを、僕は堪える。
「うん」
弾むような声で短く答えた彼女は、僕を抱擁から解放して、ぐぐっと一つ大きく伸びをした。その動きに合わせ、彼女の胸が“たぷん! ”と揺れるのが分かった。本当に視線を落ち着ける場所が無い。僕はテニスコートの方へと視線を逃がすと、携帯用端末を手にしたボルチモアさんが此方に手を振っていることに気付いた。ほぼ同時にフェンスの近くに置いてあったスポーツバッグから電子音が響いてくる。
「あっ、ボルチモアからだ」
バッグから携帯用端末を取り出したブレマートンさんは、その画面を見てからスピーカー通話を繋ぎ、テニスコートの方で手を振るボルチモアさんを眺めた。端末からの通話内容を聞いていると、これからダブルスのトーナメントを行うということで、僕とブレマートンさんにも参加して欲しいというものだった。
「声を掛けて貰ったのは嬉しいのですが、そろそろ時間ですね……」
僕は腕時計を確認してから、申し訳ない気分で言う。
「僕は先に執務室に戻っていますので、ブレマートンさんはボルチモアさん達と一緒に、試合を楽しんで来てください」
残してきてある仕事を思い出してみると、僕一人でも片付けることが出来る量であった筈だ。僕はブレマートンさんに頭を下げて、この場を去ろうとしたら、「ちょぉっと、待ったぁ!」と威勢のいい声をと共に、ぐいっと手を引かれた。
「一人で執務室に帰るなんて、そんな寂しいのは無し。残ってる仕事の量なんて知れてるじゃん。今日の秘書艦はアタシだったんだから、それくらいは把握してるんだからね」
ちょっと怒ったような口調のブレマートンさんに気圧され、身を引いた僕はたじろいでしまう。だが、体重を後ろにかけ切ってしまうよりも先に、彼女が僕の腕を強引に引っ張っていく。
「アタシもボルチモアも今日は徹夜で付き合うからさ。今は、一緒に楽しもうよ」
それは、殆ど懇願に近い言い方だった。僕は何も言えなくなる。視線を逃がすようにテニスコートの方を見ると、ボルチモアさんを含め、集まったギャラリー達が此方を見て大きく手招きをしてくれていた。はやくはやく! と言った感じだ。
「ほらほら! 皆、指揮官を待ってるよ!」
「……分かりました。僕もお邪魔させて貰います」
「そうこなくっちゃ!」
楽しそうに指を鳴らしたブレマートンさんは、テニスコートに向けて走る速度を上げようとして、「ぉよよっ!?」またコケそうになってよろめいた。だが、今度は僕がブレマートンさんの手を掴み、引っ張り上げるようにして体を支えたので、地面に倒れ込まずに済んだ。ただ、テニスウェアが翻り、パンツが見えそうだった。急激に居心地が悪くなる。
「……やっぱり、ドジっ子だって思ったでしょ?」
微妙な表情になったブレマートンさんが、僕を振り返った。僕は何とか笑顔を作る。
「えぇと……、はい」
「えぇ!? すごい素直じゃん!?」
大袈裟にブレマートンさんが仰け反ると、また彼女の胸が“ぶるん”と揺れた。