少年指揮官の日常   作:トレモ勢

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雲間

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 執務室のソファに浅く座った僕は、湯飲みでお茶を一口啜る。熱過ぎず、ぬる過ぎず、また程よい渋みがあって美味しかった。肩から力を抜くように、そっと息を吐きだす。今日の仕事も大方終わっていて、時間にはかなり余裕がある。執務室の窓から空を見遣ると、遠い青空の中で、のんびりとした羊雲がぽつぽつと漂っていた。

 

 ゆったりと過ぎていく雲と同じように、今の執務室にも穏やかな時間が流れている。つい数分前までは僕も純粋にそう思っていたのだが、今はその穏やかさに若干の陰りが見え始めていた。僕は窓から視線を戻し、目の前のソファテーブルを眺めた。

 

 テーブルの上には将棋盤が置かれている。重厚感を放つ本格的なものではなく、テーブルゲームとして手軽に持ち運べるようなものだ。随分と前に、三笠さんが秘書艦の時に持ち込まれたものである。その盤上を、僕の正面のソファに腰掛けた加賀さんが、ぐっと前のめりになって睨みつけている。

 

「さて、どうしたものか……」

 

 顎に手を当てる加賀さんは険しく目を窄め、眉を絞り、熟考している。自らが纏う空気を研ぎ澄ますような真剣な面持ちだ。彼女の配下にある駒達も、心なしか背筋を伸ばしているかのように見える。加賀さんは次の一手を考えている。なかなか動かない。

 

「これはもう、不味いんじゃないか?」

 

 そんな加賀さんに遠慮がちに声を掛けたのは、彼女の隣のソファに腰掛けたエンタープライズさんだった。

 

「飛車も角も落ちているし、巻き返せるのか?」

 

 盤面の駒の並びに視線を走らせたエンタープライズさんは、どこまでも冷静に言う。すると、前のめりの姿勢からゆったりと体を起こした加賀さんは、表情の強張りを解きながら、エンタープライズさんの方へと首を曲げた。それから、「なに、気にするな」ふっと口許に笑みを浮かべる。

 

「私と指揮官となら、これぐらいのハンデがあった方が、実力が拮抗するんだ」

 

「いや、対局が始まった時はハンデなど無かっただろう……」

 

「分かっていないな。私はこの戦いの中で、敢えて飛車角を譲ったのだ」

 

「……本当か? そうは見えなかったぞ」

 

 実力者然とした口振りの加賀さんと、盤上の戦況を見比べたエンタープライズさんは、普通に負けているだけじゃないのか……? と言わんばかりに眉を寄せた。

 

 エンタープライズさんが将棋に興味を持ち始めたのは、重桜のKAN-SEN達との交流が深まって来てからだと聞いている。もともと負けず嫌いである彼女は、勝利への執着が強く、その成長も目覚ましかった。駒の動きや戦術の定石などを瞬く間に身に着け、有名な対局を繰り返し観戦し、あとは吸収した知識のアウトプットを兼ね、天城さんや三笠さん、それに、赤城さんや加賀さんの都合がつけば、ひたすら対局を重ねているとのことだった。

 

 エンタープライズさんと対局をした三笠さんが、「ああいう真っ直ぐで勝ちたがりな者の相手にするのは気持ち良いが、あやつの“勝つまでやるぞ”という姿勢は、妙な圧力を感じて恐ろしい」と、苦笑していたのが印象に残っている。

 

 実戦を重ねてきたエンタープライズさんは、すでに加賀さんとも拮抗する実力を備えているという話であり、今の加賀さんの戦況を理解できないということは無い。ただ、加賀さんも加賀さんで負けず嫌いであり、エンタープライズさんに「お前、圧されているぞ。負けているぞ」と思われるのが嫌なのだろう。

 

「傍目に分からないように手を抜くのも、私の腕の為せるワザだな」

 

 エンタープライズさんを横目に見た加賀さんは、鷹揚として言いながら次の手を指した。

 

「……では、僕はこうしますね」

 

 ここまでかなりの時間の使った加賀さんに対して、僕は即座に指し返す。

 

「あっ」

 

 思わずという感じで、加賀さんが声を洩らした。

 

「あぁ……」

 

 まぁそうなるな、という感じで、エンタープライズさんが頷きながら腕を組み、顎に触れていた。束の間、誰も喋らない時間が流れる。そのうち、ぎゅぎゅっと眉間を絞った加賀さんが、歯の隙間から深刻そうな長い息を「スゥゥゥゥ──……」と吐きだしながら、先程よりも前のめりになって将棋盤を睨みつけた。

 

 加賀さんはその姿勢のままで、片手の掌で額を覆ったり、下唇を引っ張たり、首を回しながらソファに凭れ直し、すぐにまた前のめりになるなどして、必死に打開の道を探っている様子だった。エンタープライズさんは何も言わないが、『これはもう、勝負あっただろう』という顔だ。追い詰められた加賀さんが、如何なる悪あがきを披露するのかを見届けるようにして盤面を、というか、加賀さんの様子を窺っている。

 

「待った無しと言ったのは、加賀の方だったな」

 

 僕に視線を寄越してきたエンタープライズさんが、確認するように言う。

 

「えぇ、加賀さんが仰いましたね」

 

 控えめに苦笑を浮かべた僕が答えると、加賀さんが「ふぅぅぅ──……」と、疲れたような溜息を吐き出した。その後、また黙り込む。盤面を睨んだままでボリボリと頭を掻いた加賀さんは、ハッとした顔になり、次の手を指した。これでどうだ!? といった、力の籠った眼差しで僕を見た加賀さんは、唇の端に笑みを乗せている。

 

 加賀さんにとっては会心の一手だったようだ。息を吐いた加賀さんは、ふんぞり返るようにしてソファに凭れた。これから反転逆撃を開始するぞという意気込みが溢れていたが、僕は再び、即座に指し返す。黙ったままの加賀さんが、起きた現象を確認するような慎重な顔つきになって、また前のめりになった。加賀さんは険しい眼つきになったままで、唇を窄めている。

 

「……加賀、ひょっとこみたいになってるぞ」

 

「ちょっと黙っていろ。ここが勝負の分かれ目だ」

 

「もう勝負は付いているだろう……」

 

「いいや、まだだ……!」

 

 力強く言い放った加賀さんは、盤上に手を伸ばしたが、どの駒を手に取るか迷った。そしてそこで、盤面ではなく僕の顔を見た。真剣な眼だった。加賀さんは僕の眼を、と言うか、表情を窺いながら、これか? いや、こっちか? という様子で駒を順番に触っていく。僕は啜ろうとしていたお茶を危うく吹き出しかけた。

 

「おい、トランプのババ抜きじゃないんだぞ」

 

 眉を顰めたエンタープライズさんが、流石にそれはどうなんだと言った感じで、加賀さんを横目で見た。

 

「そうですよ……。僕の顔じゃなくて、盤面を見て下さいよ」

 

 僕も言うと、加賀さんはいつものクールな笑みを浮かべた。

 

「ふっ、表情を探られて困るということは、まだ挽回の手が在るということだな」

 

 その自分本位の捉え方は何なのだと思うが、往生際の悪い加賀さんは、諦めることなく次の手を指し返してくる。だが、それも僕の想定の範囲内だった。

 

 すぐに僕も指し返そうとしたところで、「……と、見せかけて」などと言いながら、加賀さんが指した駒を引っ込めた。もはや自由自在、縦横無尽である。

 

「おい。良いのかそれは」

 

 エンタープライズさんが異議を申し立てる。だが、「今のはフェイントだ」などと言って、加賀さんは涼しい顔でそれを退けようとした。その態度は、リング上のレフェリーに対して、ダウンでは無くスリップだと主張するかのようだった。

 

「やりたい放題だな……」

 

 呆れとも感心とも言えない声を出したエンタープライズさんが、「良いのか?」と僕を見た。このまま続行するのかという問いかけは、まさに公平公正なレフェリーのようだった。

 

「えぇ、大丈夫ですよ。続けましょう」

 

 僕はエンタープライズさんに頷いてから、手に持っていた駒をもとの位置に戻す。すると加賀さんは、今度は駒を手に持ったままで僕の表情を観察しながら、先ほどのように、「ここか? いや、ここだな?」というふうに、駒を置ける場所を探り始めた。これはもう将棋ではないのではないかと思いながらも、僕は思わず笑ってしまった。

 

「ふん、……ようやく笑ったな」

 

 そこで、僕の表情を追っていた加賀さんが鼻を鳴らし、優しげに眼を細めた。飄々としたものとは違う、穏やかで、安堵が滲むような笑みだった。気付けば、エンタープライズさんも、加賀さんと似たような表情になって僕を見ている。二人してどうしたのだと思い、ソファに座ったままの僕は背筋を伸ばしてしまう。

 

「ここ数日、駆逐艦の者達から、お前に元気が無いと聞いていてな。また一人で何やら抱え込んでいるのではと思って、心配していたんだ」

 

 なぁ? と、同意を求めるようにして、加賀さんは隣に腰掛けているエンタープライズさんに視線を向けた。その視線を受け止めたエンタープライズさんは僕に向き直ってから、軽く肩を竦めるような仕種をして見せる。

 

「指揮官は、自分のことを殆ど何も言わないからな。あの明るいブレマートンも、少々嘆いていたぞ。指揮官が頼ってくれないと」

 

「酔っぱらった大鳳の奴も、似たようなことボヤいていたな」と、加賀さんが肩揺らすと、エンタープライズさんも吊られていた。その優しい笑みのまま、再び僕を見たエンタープライズさんは、何かを確認するかのように、ゆっくりと小刻みに僕に頷いてみせた。

 

「ただ、そういう部分で、私達が指揮官への信頼を損なうこともないし、指揮官が何に悩んでいるのかを無理に訊きだそうなんて思っていない。そこは安心してくれ」

 

「“なぜ私達に打ち明けてくれないのだ”などと、お前を責めるつもりもない。……まぁ、任務についての海域や敵情報を伏せられたりしたら堪らんがな」

 

「いや……、指揮官として、そんなことは絶対にしませんよ」

 

 僕は居住まいを正し、加賀さんを見据える。

 

「なら良いんだ。お前の苦悩は、お前のものだ」

 

 寛ぐようにソファへと座り直した加賀さんは、その尻尾をゆらゆらと揺らしながら、僕を見据えた。何気ないふうを装いながらも、それが真剣な話であることは、加賀さんの眼を見れば分かる。

 

 そして、その何か重要で正直な話を、場の空気が出来るだけ重たくなってしまわないよう、この将棋の間の遣り取りに紛らわせてしまおうとする気遣いも十分に伝わって来ていた。

 

「心配する私達にお前が気を遣って、何かを話さねばならないと思う必要もない。……お前が話したくなったら、話したい者に打ち明けてくれればいい」

 

 落ち着いた余裕のある声で言ってくれた加賀さんは、そこで僕から視線を外して、腕を組み、また前のめりになって将棋盤を見下ろす。言いたいことはこれで終わりだと言うふうだった。そんな加賀さんを横目で一瞥したエンタープライズさんも、小さく顎を引いた。

 

「……重要な話なら、それを明かすのも、聴いて受け止めるのも、互いにタイミングと余裕が必要だろうからな」

 

「ありがとうございます。それに、すみません。気を遣って頂いて……」

 

 僕が頭を下げると、加賀さんが鼻を軽く鳴らした。

 

「謝る必要はない。そういう話をしたところだろう?」

 

 言いながら、加賀さんは将棋の駒を手に、軽やかに次の手を指した。その乾いた音は、この話はここまでというふうに、はっきりとした輪郭を伴って、執務室に余韻を残した。エンタープライズさんも何も言わず、穏やかな表情のままで盤面に視線を戻した。彼女達の思い遣りに満ちた言葉に対して、胸の芯が詰まる。

 

 彼女達に甘えようとする心のぐらつきを戒めるように、かつてのオブザーバーの言葉が脳裏を過っていく。何もかもを見透かしたような彼女の琥珀色の眼差しが、僕の内側で今も息衝いている。

 

 僕は、喉元にせり上がって来ている言葉を必死に飲み込んだ。加賀さんとエンタープライズさんが作ってくれた、この暖かい沈黙を守りたかった。

 

 僕の苦悩は、僕のものである。加賀さんのその言葉は、既に僕の心と並走を始め、僕を鼓舞してくれていた。日常の時間へと立ち返る力をくれる。もう、余計なことは言うべきではないと思えた。僕はただ、加賀さんの指した手に、黙って指し返す。

 

「待って」

 

 加賀さんが素の声を出した。

 

「えっ」

 

 はっとして僕も顔を上げると、向かい合って座っている加賀さんが、僕を非難するような表情になっていた。「“待って”とは何だ? “待った”じゃないのか?」と、エンタープライズさんも不審そうに眉を顰めて加賀さんを見ている。それから、改めて盤面に目をやり、「……これはもう、ほぼ詰みだな」と小さく苦笑する気配があった。

 

 加賀さんの方は苦い表情で、盤面と僕を見比べてから、「スゥゥゥゥ……」と、辛そうに細く息を吐いた。

 

「お前……、話の流れ的に、こう、手心と言うかお前……、ここはお前……、もうちょっと対局を長引かせて、加賀お姉ちゃんとのコミュニケーションを楽しもうというか……、そういう可愛さを見せるところだろうお前……」

 

 俯き加減になった加賀さんは、空気を読めていない僕を責めるような口振りになって、理不尽なことをブツブツと零している。

 

「いや、手加減も待ったも無しの真剣勝負だって言ったの、加賀さんじゃないですか……」

 

「そこはお前……、私やエンタープライズに分からないよう、上手いこと手加減するのがお前の腕の見せどころだろう?」

 

「まるで僕が悪いような言い草はやめてくださいよ……」

 

 僕が加賀さんに抗議したところで、「よし。指揮官。次は私とやろう」と、エンタープライズさんが熱意を見せた。実力が伯仲する加賀さんが破れたのを見て、闘志に火が付いたのかもしれない。

 

 僕を見据えてくる彼女の瞳には、既にメラメラとしたものが揺らめいていて、一局終えるまでは一歩も動かないような頑固さまで窺える。

 

 エンタープライズさんを視線だけで見た加賀さんは僅かに表情を歪め、「これは面倒くさいスイッチが入っているぞ」と、僕に警戒を促すような視線を寄越してから、エンタープライズさんに場を譲った。僕は苦笑しつつその視線を受け取りながら、エンタープライズさんに一つ頭を下げる。

 

「えぇ、お願いします」

 

 

 その後。

 

 対局が進むにつれて、エンタープライズさんの表情は強張って行った。僕の隣に腰を下ろしていた加賀さんが、楽しそうなニヤニヤ笑いを深めていく。

 

「ぐ、……なんだ、天城や三笠と対局している時と、全く違う感覚だ……!」

 

 先程の加賀さんと同じく、ソファに腰掛けたエンタープライズさんは盤上を睨みながら前のめりになっている。

 

 口許に拳を作った彼女は、作戦資料を読み込んでいるときのような真剣そのものの様子で、駒達の並びを眺め、そこから己が執るべき手を一心に探ろうとしている様子である。盤面に集中するエンタープライズさんは、長く、細く息を吐きだしながら、駒に触れ、すっと動かした。

 

 一方の加賀さんは、エンタープライズさんの苦戦ぶりに機嫌を良くし、「これは良い勝負だな」などと楽しそうに言う。眼だけを動かして、エンタープライズさんがジロリと加賀さんを睨んだ。

 

「まだ気持ちでは負けていないぞ、私は」

 

 エンタープライズさんが抵抗の意思を漲らせた低い声で言うと、加賀さんはフンと鼻を鳴らしてから首を伸ばし、「気持ち以外の全部が劣勢のようだが、それは大丈夫なのか?」と、ざっと盤面に視線を走らせた。戦況を揶揄するように言う加賀さんにも、エンタープライズさんは揺るがない。

 

「好きなように言うと良い。愛と正義は、必ず勝つ」

 

「まるで僕が悪者みたいな言い方ですね……」

 

 僕のツッコみは届かなかったのか、エンタープライズさんは気持ちを切り替えるようにして短く息を吐き、盤面に視線を戻した。次に指す僕の手を見定めようとしている。僕は迷わず、すぐに指し返す。

 

「ぉっ……」

 

 エンタープライズさんが、喉にモノが閊えたような、くぐもった声を洩らした。僕が指した手と、その周囲に配置されている駒と状況を見たエンタープライズさんは、眼を窄めて呻き、右の掌で顔を摩るようにしながら更に前のめりになった。

 

 その様子を見ていた加賀さんが「くくく」と、愉快そうに忍び笑いを漏らす。盤面を睨んでいたエンタープライズさんは、またジロリと加賀さんを視線だけで睨んだあと、僕を見た。

 

「もしかして指揮官は、とんでもなく強いのか……?」

 

「いえ、どうなんでしょう。特別、強いという訳ではないと思います」

 

 僕は曖昧な笑みを浮かべて、「勝負は時の運とも言いますし」と言葉を継ぎ足す。すると加賀さんが唇の端を持ち上げ、「よく言う」と、やはり愉快そうな声を出した。そして、遠慮も何もなく、がっしりと僕と肩を組んでくる。

 

「殆ど誰も寄せ付けない強さだぞ、コイツは」

 

 嬉しそうに語り出す加賀さんの胸元が、姿勢や体格的に僕の顔のすぐ近くに在るので、居心地の悪さと言ったらなかった。

 

「……どうして加賀が偉そうなんだ?」

 

 エンタープライズさんが憮然とした半目になって、僕と密着する加賀さんを睨んだ。

 

「将棋を教えたのは私だからな。つまり、指揮官は私が育てたようなものだ」

 

 懐かしい思い出を大切に味わうような顔になった加賀さんは、「なぁ?」と、僕に同意を求めてきた。何を無茶苦茶なことを言い出すのだと抗議したかったが、確かに将棋を教えてくれたのは加賀さんだったので、「えぇ、まぁ……」と曖昧に答える。加賀さんが「うむ」などと、偉そうに頷いた。

 

「そういうワケで指揮官は、この加賀お姉ちゃんが大好きということだな?」

 

 意味不明で強引な論理展開を見せる加賀さんは、僕ではなくエンタープライズさんを見ながら、穏やかな表情を浮かべていた。ソファに座りなおした彼女は、「何を言っているんだお前は」と即座に一蹴してから、加賀さんの重要なミスを告発するように指を向けた。

 

「指揮官は“妹キャラ”が好きだと言う情報を私は得ている。“お姉ちゃんキャラ”である加賀に、出番は無いぞ」

 

「えぇ……」 

 

 僕は困惑する。また妙な噂が出回っているのか。疲れたような気分になりかける僕の正面で、エンタープライズさんは自身の優位性を主張するかのように背筋を伸ばし、胸を張った。

 

「そして私には姉が居る。つまりは、“妹キャラ”だ。そう。“妹キャラ”だ」

 

 加賀さんに引けを取らないくらいに無茶苦茶なことを言い出したエンタープライズさんは、自身が妹という属性を持つことを強く推しつつ、僕に鋭い眼差しと笑顔を向けてきた。

 

「指揮官、私は妹キャラだぞ?」

 

 推すなぁ……、などと気圧され気味な感想を僕が抱いていると、そこで加賀さんが全く動揺することなく肩を竦め、「私だって妹キャラだぞ?」などと言い出したので、僕は将棋どころではなくなりつつあった。眉をハの字にしたエンタープライズさんも「は?」という顔をしている。

 

「良く考えてみろ。私には赤城姉さまが居るし、さらに、その赤城姉さまが、姉さまと慕う天城さんも居るんだ。誰がどう見ても、妹キャラ重桜代表だろう?」

 

 平然とした顔で言う加賀さんは、僕の肩を抱く手に力を籠めた。それから、僕の顔を覗き込んできて、「なぁ、兄さま?」などと、ちょっと高い声を出した。

 

「いや、待って下さいよ。さっきまで、自分のことをお姉ちゃんだ何だのと言ってたじゃないですか……」

 

 ほとんど呆れ気味になった僕は、寄ってくる加賀さんの顔から逃れるようにして言う。

 

「ユニコーンがお前のことを“お兄ちゃん”と呼んでいるのが、実はちょっと羨ましくてな。私も呼んでみたいと思っていたんだ」

 

 加賀さんは本心を悟らせない薄い笑みを浮かべていて、この場を混ぜ返して楽しんでいる様子である。先程までの、少し陰りのある話題の名残を、攪拌しようとしてくれているのかもしれない。ただ、それに付き合わされたエンタープライズさんの方は、「ぐぬぬ……!」と言った感じで、僕と加賀さんを見比べている。

 

「……そう言えば兄さま、ビスマルクやキングジョージが秘書艦の時、チェスでコテンパンにしたらしいじゃないか?」

 

 ごく自然に兄さまと呼んでくる加賀さんに、もう僕が何を言おうが無意味では無いかと思えてきて、もうツッコむこともしなかった。「そうなのか?」と、意外そうな顔をしたエンタープライズさんが顎に手を触れ、何かを思い返すように視線を斜め下へと流した。

 

「確かに、最近になって鉄血やロイヤルのKAN-SEN達が、食堂やサロンでチェスをやっている姿はよく見るが……。そうか。あれは皆、打倒指揮官に燃えていたのか」

 

「えぇ……」

 

 僕は困惑と同時に慌てる。別に疚しいことなど何もしていないのに、なぜか弁解しなければという気分になった。

 

「コテンパンだなんて……。あれこそ、運良く勝ちを拾えた勝負ばかりでしたよ」

 

「傍目に分からないように手を抜いたんだろう?」

 

 加賀さんが喉を鳴らすようにして、意地悪く笑った。

 

「もう言い掛かりですよ、それは」

 

 僕が横目で加賀さんを見上げたところで、エンタープライズさんが次の手を指していた。彼女は盤面を見詰めながら、「なるほど……、では次は、チェスでも指揮官に挑むとするか……」などと、零した小声に情熱を滾らせている。彼女を呟きを拾うようにして、僕は駒を指し返した。

 

「あっ」

 

 僕の動かした駒と状況を見て、短く声を洩らしたエンタープライズさんが天井を仰いだ。その様子を見ていた加賀さんが、また軽く笑った時だ。僕の携帯用端末に通信が入った。メッセージだ。対局中であるエンタープライズさんは、拳を額にあてるような姿勢になってから「あぁ、確認してくれて構わない」と頷いてくれた。盤面の戦況に、ちょっと意気消沈した声だった。

 

「正義は勝つ。これは真理だな」

 

 盤面を覗き込んだ加賀さんが、感慨深そうに言う。エンタープライズさんが何かを言い返そうとして、息を吐きだすのが分かった。二人の遣り取りを横目に見ながら、僕は携帯用端末を懐から取り出して、届いたメッセージを確認した。「……誰からだ?」 加賀さんが視線を落としてくる。

 

「三笠さんからです。次のお花見について、今夜にでも少し相談したいことがあると」

 

「気が早いな」

 

 加賀さんは笑ったが、すぐに思い直したように表情を落ち着けて、「……いや、花期は人を待たないと言うしな。迎える準備ぐらいなら、今からしておいた方がいいかもしれん」と、僕の端末を遠い眼になって見詰めた。「前のお花見の時は、比叡さんがてんてこ舞いだったらしいですから」端末に指を滑らせてメッセージをスクロールしながら、僕も頷く

 

「お花見を楽しみにしている方も多いですし、規模も大きい催しですからね。今のうちに、ある程度の細かいことも決めておきたいのだと思います」

 

 酒肴や場所の準備などは、すぐに出来るものと出来ないものもある。担当する者の負担を軽減するためには、事前の取り決めと用意は必要だろう。エンタープライズさんも記憶の中に目を向けるような顔になって、顎に手を触れる。

 

「重桜寮……、いや、重桜領内の並木は、見頃になると圧巻だからな。ユニオンの者達も、花見を楽しみにしている者ばかりだよ」

 

「ロイヤルや鉄血の方たちも、お花見の日は大騒ぎでしたね」

 

 エンタープライズさんの追想に付きそうように言うと、加賀さんが若干、顔を歪めた。

 

「酒好きの奴らは手に負えん状態だったからな。……特にオイゲン」

 

「あぁ……、確かにそうでしたね」

 

 僕は苦笑と共に頷く。

 

 お花見の日は、それぞれの陣営のKAN-SEN達が、各々に気に入っている酒を持ち合ったりする。物凄く機嫌の良さそうな顔をしたオイゲンさんはといえば、持ち寄られた数々のお酒の間を、自由自在に言ったり来たりしていた。

 

 その様子は鉄血陣営やロイヤル陣営で開かれるパーティーでも同じで、黒いドレスを纏ったオイゲンさんが華やいだ会場を練り歩き、数々の種類のお酒を次から次へと飲んでいく姿は印象に残っている。まるで美しい黒アゲハ蝶が、花から花へと蜜を求め、優雅に羽を揺らすかのようだった。

 

 ただ、アルコールで蕩け始めた彼女の笑顔は厄介な酔っ払いのそれに過ぎず、「もう指揮官たら、こんなに酔わせてどうするつもり~?」などと、勝手に出来上がっておきながら、何か問題が起こったら僕の所為にしようという気楽さを全開にして近づいて来られると、ちょっと恐ろしかったのも印象に残っている。

 

 とにかくお酒の席になると、超スピードで簡単に出来上がってしまう笑い上戸のオイゲンさんだが、そんな彼女の相手を前のお花見の時に務めたのが、加賀さんだった。

 

「オイゲンが楽しそうに呑むのは見ていても賑やかでいいが、あれで絡み酒だからな」

 

 エンタープライズさんが苦笑した。

 

「だからタチが悪いんだ。前の花見の時もそうだが、途中からは私とオイゲンのサシ呑みのようになっていたからな」

 

 思い出して胸が焼けてきたのか。顔を歪めた加賀さんは、僕と肩を組んでいない方の手で喉元や胃のあたりを摩っていた。だが、満更でも無さそうにも見えるのは、やはり二人の関係が良好であるからだろうと思えた。

 

 そこで、再び電子音が響いた。今度は、僕の端末ではなく加賀さんの懐からだった。「おっと、すまない」と、端末を取り出して確認した加賀さんは、緩く息を吐きだして、僕と組んでいた肩を解いて立ち上がった。

 

「秘書艦業務中で悪いが、天城さんからだ。大した用では無いだろうが、少し顔を出してくる」

 

 加賀さんにも呼び出しがかかるという事は、重桜寮で何らかの取り決めが為されているのだろうと推察できた。やはり加賀さんのように陣営内での重要人物となると、こういう時には顔を出すよう求められるのも無理はない。

 

 秘書艦である者が、所属している陣営で重要な立場にある場合、こういったことも茶飯事である。そして、秘書艦を二人置こうと取り決めがなされた理由の一つでもあった。三笠さんからも僕にメッセージが来たところを見るに、やはりお花見に関する会合か。

 

「此方の仕事は殆ど片付いているので、お気になさらないで下さい。加賀さんが出席する会合か何かであれば、重要な話にも触れるかもしれません」

 

「そこまで深刻な話なら私などではなく、まずお前に連絡が行くさ。だから、そう気を張るな。もっと気楽にしていろ」

 

 ソファから立ち上がった加賀さんは、ぐしゃぐしゃと僕の頭を乱暴に撫でて、執務室を後にしようと扉に向かう。そしてエンタープライズさんの隣を通り過ぎる際、「これで指揮官と二人きりだな。頑張れよレベル20」と、励ますような声を掛けて肩を軽く叩いていた。

 

 瞬間的に眼の端を吊り上げたエンタープライズさんは何か言いたげな顔になって加賀さんを見上げたが、すぐにムスッとした顔になって将棋の盤面に視線を落とした。「くっくっく」と喉を低く鳴らした加賀さんは、機嫌良さそうに尻尾を揺らしながら執務室を後にした。

 

 

 

 

 

 残された僕とエンタープライズさんの間に、束の間の沈黙が通り過ぎてから、彼女は将棋盤を改めてざっと眺めた。そして軽く笑みを浮かべて、頭を下げる。

 

「……これは、私の負けだな」

 

 エンタープライズさんにそう言われるまで、僕は対局中であったことを半ば忘れ掛けていた。僕も対局を終えたということで頭を下げる。負けず嫌いの彼女であるから、もう一勝負となるだろうと予想していたが、そうはならなかった。潔く負けを認めたエンタープライズさんは、テキパキと駒を片付けてからソファから立ち上がった。そして、僕の隣へと移って来る。

 

 その距離の詰め方には、加賀さんのように何気なく身を寄せてくる自然さは無かった。むしろ、やぁやぁ我こそはと、戦いを始める前に名乗り出てくるような勇ましさを感じた。一体どうしたのだろうと僕が身構えていると、エンタープライズさんは強張った笑みを浮かべる。

 

「指揮官。疲れていないか?」

 

「えっ」

 

「その疲れを、今日は私が癒そう」

 

 その会話の不自然さや唐突さについて僕が言及する間もなく、ソファに座るエンタープライズさんは、自分の太腿をポンポンと叩いた。僕はエンタープライズさんの真意を測れず、彼女の太腿を2秒ほど見詰めてしまった。魅力的な、長くて綺麗な脚である。そこで僕はハッとした。失礼な視線を向けてはいけないと思ったからだ。

 

 慌てて顔を上げると、エンタープライズさんが微笑んでいた。手には耳かき棒を持っている。いつの間に。耳かき棒は梵天のついたシンプルなものだ。だが、唐突に出現した耳かき棒の存在感は、まるで暗殺者が忍ばせていたナイフを取り出したかのような不穏さに満ちている。

 

「……それ、どうしたんですか?」

 

 僕が尋ねると、エンタープライズさんは「あぁ、これか?」と、手の中の耳かき棒を軽く揺らして、頷いた。

 

「こんなこともあろうかと、いつも持ち歩いているんだ」

 

 冗談でしょうと言い掛けて、慌てて「そ、そうなんですね」と答えた。

 

「さぁ、指揮官」

 

 緊張した笑みのエンタープライズさんは、再び自分の太腿をポンポンと叩いた。膝枕をしてくれるという意味なのだろう。

 

「耳かきをするから、ここに寝てくれないか」

 

「だ、大丈夫ですよ、僕はそんなに疲れていませんから」

 

「いいから」

 

「で、でも……」

 

「いいから」

 

 僕の遠慮が、全く伝わらない。平穏だった執務室の空気が、僅かに翳ったように感じられたのは気の所為だろうか。耳かきをしなければ気が済まないと言った様子のエンタープライズさんは、じりじりとお尻を移動させ、僕に肩を寄せてくる。

 

 僕の疲れを癒そうとしてくれる気持ちは有難いのだが、今日の執務の補佐をして貰いながら、更に耳かきまで秘書艦にさせている指揮官というのは、客観的に見ればあまり良いものでは無いように思えた。そこで、僕の頭にある閃きが浮かんだ。

 

「あぁ。では、僕がエンタープライズさんに耳かきをさせて貰いますよ」

 

「し、指揮官が?」

 

 彼女は奇襲を受けたような顔になった。

 

「えぇ。今日の執務が早く終えたのも、加賀さんやエンタープライズさんの御蔭ですし。疲れを癒すというのは寧ろ、僕の役目ですよ」

 

 僕は言いながら、お尻の位置を寄せて来ていたエンタープライズさんの手から、耳かきをそっと受け取ってから、先ほどの彼女がしたように、「どうぞ」と自分の太腿をポンポンと叩いた。エンタープライズさんが黙り込み、僕の太腿を凝視してから、視線だけで僕の顔を窺ってくる。

 

「……い、いいのか?」

 

 唾を飲み込んだ彼女の表情は、作戦を確認する時の顔だった。

 

「良いも何も」

 

 僕が肩を竦めるようにして答えると、動揺を静めるように深呼吸をしたエンタープライズさんが、「……そ、そうか」と緊張した様子で頷いた。

 

「じゃあ、先にシャワーを浴びて来る」

 

「えっ」

 

「えっ」

 

「いや、シャワーなんて別に良いですよ」

 

「そうか。なら、先に指揮官が先にシャワーを」

 

「えぇ……」

 

 真面目な顔をしたままで妙な困惑を見せるエンタープライズさんは、いったい何をテンパっているのか。

 

 僕も当惑していると、「そ、そうだな。これは耳かきだからな……」と小声を洩らし、冷静さを取り戻したのであろうエンタープライズさんが再び深呼吸し、唾を飲み込んで、ゆっくりと僕の太腿へと頭を預けてくる。

 

「……では、出撃すゆ」

 

 噛み噛みで言うエンタープライズさんは、横目で僕を一度見上げてから、眼を閉じた。

 

「いや、出撃はしないでくださいね」

 

 取り合えずツッコんでから「失礼します」と断り、エンタープライズさんの、形の良い綺麗な耳にそっと触れる。ぴくんと彼女の身体が一瞬だけ強張るのが分かった。僕は彼女の肌を傷つけないよう、それに、耳の奥深くまで耳かき棒を入れ過ぎないよう気を付けながら、ゆっくりと動かした。耳掃除というよりも、マッサージに近いだろうか。

 

 エンタープライズさんが身体を波打たせながら、あっ、はっ、あっ、うっ、あっ、あっ、と艶やかに掠れた高い声を上げ始めた。膝枕から見下ろす横顔も紅潮しているように見えるし、普段は凛然とした眼差しも今は蕩けて揺れている。微かに汗ばんだ彼女が、流し目を送るように僕を見上げてきた。その切なげに湿った熱い吐息も、僕の太腿に零れてくるようだった。

 

「あの……、い、痛いですか? やっぱり止めましょうか?」

 

 ちょっと普通じゃない様子の彼女に、僕は一度手を止めて尋ねた。エンタープライズさんは呼吸を整えるような、ゆっくりとした瞬きを何度かした。それから、膝枕されたままで唇を舐めて湿らせながら僕を見上げ、小さく頷いた。

 

「あ、あぁ。どうにかりそうだが、だっ、大丈夫だ」

 

「……それは大丈夫なんですか?」

 

 僕が手を止めていると、少し頬を染めたエンタープライズさんが横目でチラチラと僕を窺い、続きをせがむように、もじもじ、もぞもぞと体を揺らした。

 

「ぃ、いいから……。その、続きを」

 

「わ、分かりました。でも、痛かったりしたら、すぐに言ってくださいね?」

 

 僕は言いながら、先ほどよりも更に力加減に気を付けて耳かき棒を動かす。すぐにエンタープライズさんが艶のある息を細く吐き出して、身体を弛緩させていくのが分かった。時折、ピクンピクンと肩が跳ねているが、横顔から窺える彼女の表情に、苦痛らしきもが浮かんでいないので安心する。

 

 暫く続けた後で、僕は耳かき棒を持ち替え、梵天の部分で彼女の耳の表面を優しく撫でた。フワフワとした感触が心地良かったのか。エンタープライズさんが上擦った声を漏らし、ソファに身体を横たえたままで背筋を上した。白い喉を反らせる彼女の横顔が、艶っぽく陶然としていて、本当に大丈夫なのか再び心配になった時だった。

 

「指揮官様!! 加賀から訊きましたわ!!」

 

 執務室の扉がノックも無く、乱暴に開かれた。血相を変えた赤城さんが執務室に飛び込んでくる。

 

「エンタープライズと二人きりで、御無事でしたかぁぁあああああん!?」

 

 赤城さんは執務室に踏み入ったところで、僕とエンタープライズさんの姿をソファの上に見つけ、声をひっくり返していた。目玉が飛び出しそうな勢いだった。「なっ!? なっ……!?」と激しい狼狽を見せつつも、赤城さんはすぐに険しい表情で僕たちを眺めて、「い、いいなっ!」などと、子供のような素直な感想を勢いよく口にした。

 

「赤城。ここは執務室だぞ。そうやって大きな声を張り上げるのは感心しないな」

 

 僕に膝枕されたままのエンタープライズさんが、かなり余裕のある声で言う。寝ころんでいるのに妙な貫禄を漂わせる彼女の存在に圧倒されつつも、「何かありましたか?」と、僕は赤城さんに向き直る。

 

 赤城さんが執務室にやってきたということは、僕に何らかの話があるということであるから、エンタープライズさんに耳かきをしながら話を聴くわけにもいかない。加賀さんが参加しているという重桜の会合には、赤城さんも参加している筈ではないかと思った。加賀さんから何かを訊いて執務室に来てくれたようだが、僕に直接報告すべき何かが在ったのだろうか。

 

 赤城さんの話を聴く姿勢をとるため、僕はエンタープライズさんの耳から耳かき棒を離したのだが、エンタープライズさんは起き上がろうとする気配を見せない。それどころか、またもぞもぞと身体を動かして、僕に膝枕されるのに最適なポジションを探っている。赤城さんの方はと言えば、「むぐぐ……!」といった感じで、悔しそうな顔で僕たちを凝視している。

 

「指揮官様の御膝に、エンタープライズの涎が……!」

 

「なっ!? 適当な事を言うな! 私は涎など零していない!」

 

 エンタープライズさんは僕に膝枕をされたままで、さっと口許を触って、一応確認していた。

 

「別にそれくらいは気にしませんよ」

 

 苦笑しつつ僕が答えると、エンタープライズさんは「ほらな?」という顔つきを赤城さんに向けてから、むふんと鼻息を漏らした。それから、ぐるっと身体を回転させたエンタープライズさんは、僕のお腹に顔をくっつけるような姿勢になり、ぎゅっと僕の指揮官服の裾あたりを指で掴んできた。

 

「し、指揮官、その……、反対の耳も、ぉ、お願いしても良いだろうか?」

 

 僕を横目で見上げるエンタープライズさんが、頬を染め、ちょっと恥ずかしそうな声で言う。

 

「おい……っ!」

 

 それを見ていた赤城さんが、ドスの効きまくった声を出した。かなりおっかない声だった。僕は咄嗟に「まぁまぁ」と宥める様に言うと、赤城さんは一つ息を吐いてから「……取り乱して、申し訳ありません」と、すっと頭を下げってくれた。そして、静々と僕たちの居る応接スペースへと歩み寄ってくる。

 

 赤城さんは、僕たちの居るソファの、その近くにソファに腰掛けた。急に静かになってどうしたのか、という不審がる表情になったエンタープライズさんが、身体を起こして赤城さんの方を窺っていた。すると、赤城さんが懐からすっと何かを取り出した。僕はぎょっとしてしまう。

 

「指揮官様、エンタープライズの耳かきには、此方をお使いください」

 

 赤城さんが恭しく僕に差し出してくれたのは、彫刻刀だった。

 

「ちょっと待て!」

 

 顔色を失ったエンタープライズさんも、流石に立ち上がった。

 

「私の耳を何だと思っているんだ!?」

 

 エンタープライズさんは自分の耳を守るように、両手を耳に当てている。

 

「そもそも何でそんなものを持ち歩いているんだ……?」

 

 僕も同じことを思った。警戒を漲らせた声で言うエンタープライズさんは、薄い笑みを浮かべる赤城さんと、差し出された彫刻刀を交互に見ている。赤城さんはエンタープライズさんの方は見ずに、僕に向き直って穏やかに頷いて見せた。

 

「こんなことをも在ろうかと、いつも持ち歩いていますの」

 

「冗談だろう……」

 

 僕も同じことを思った。掠れた声で何とかそう言ったエンタープライズさんは、一歩後ずさる。そこで、赤城さんが手にしていた彫刻刀が、炎となって揺らめき、ふっと消えた。まるで手品のようだったが、式神を操る力の応用なのだろう。その間に、赤城さんはするするっと僕の座っているソファに近づき、寝転がって来た。僕はあっという間に、今度は赤城さんを膝枕する状態になる。

 

「指揮官様……、この赤城にも、どうか御寵愛を」

 

 縋るように潤む眼差しを赤城さんから向けられてドキリとしてしまう。僕が反応に困っていると、肩をいからせたエンタープライズさんが、「おい、赤城!」と抗議の声を上げた。そしてそこから、普段のような彼女たちの言い合いが始まる。ああ言えばこう言う状態で、遠慮ない言葉の応酬が繰り広げられていく。この光景は、僕の大切な日常の一部に違いなかった。

 

 不意に、オブザーバーの言葉が頭の中で甦ってくる。だが、エンタープライズさんと赤城さんの騒がしい遣り取りが、僕の心の中に忍び寄ってきた感情を濯いでくれる。僕もいつか、彼女達のような誤解を恐れない間柄になりたかった。傍から分からぬよう、手を抜くのだという加賀さんの言葉を思い出す。それは恐らく、抱えた感情にも同じことが言えるのではないか。

 

 僕は、エンタープライズさんや赤城さんに対して抱く、幼稚で淡い憧憬と、心からの深い尊敬と、途方もない暗い諦観を綯い交ぜにした想いを、そっと胸の中に圧しこみ、何とか苦笑を浮かべる。軋む胸から、溜息にも似た吐息が漏れてきた。それを誤魔化すようして窓を見遣ると、彼方に見える空は青々と澄みながらも、散り散りになった雲が陽を隠すように漂っている。執務室に差し込む光が薄く翳っていく向こう側で、空も雲も、僕たちに関心を見せない無表情を浮かべていた。

 

 

 


















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