10
登校の支度を終えて階下に降りると、ちょうど犬の散歩を終えた桜と出くわした。
「行ってらっしゃい。今日は家を出るの早いね? いつもは電車に乗り遅れそうなくらいギリギリなのに」
「学校へ行く前に用事があるんだ」
それが駅の下調べであることを伏せて答えた。
「外、寒いよ兄さん」
吐息で手を温めながら靴を脱ぐ。そばにいる犬のユカは長い体毛に覆われたゴールデンレトリバーらしく平気な顔をしている。
「明日の土曜は雨が降るんだってね」
リビングから見送りに来た母が言った。
「小雨だけどいっそう冷え込むそうよ……というわけで明日もお散歩お願いねっ!」
喉を絞められた鳥のような声を出す妹をよそに僕はユカを撫でた。
行ってらっしゃい、気を付けて、とユカの目は語りかけるかのようだった。
ふと、僕は考えた。子犬ですら驚いて飛びのく森野が大型犬のユカを見たらどうなるだろう。
ショックのあまり倒れ込むかもしれない。
もし偶然倒れ込んだ場所が電車が来る寸前の線路上ならば、彼女は命の危機にさらされるだろう。そんなことを頭に巡らせながら僕は家を出た。
最寄りの駅に向かう道を歩きながら、明日のことに思いをはせる。
僕は森野のスナッフフィルムが欲しかった。
しかし手を下すのは僕ではない。朝永を利用して森野を殺害させ、撮り収めた映像を後日彼のアパートから盗み出し、部屋でじっくりと鑑賞する。それが僕の計画だった。朝永の日記を読むうちに思いついたものだ。
もちろんこの計画にはいくつものハードルが存在する。まず、僕と違い、普段電車を使わない森野をホームに立たせる必要がある。さらに朝永の『撮影』を成功に導かなくてはならない。不確定要素は多い。
しかしこのうちの一つについては既に解決している。これは全くの偶然なのだが、四日前の月曜日に僕は森野と展示会に行く約束を交わしていた。
この約束に森野が乗り気なのは幸いだった。僕はこの状況を利用して森野とあの駅のホームで待ち合わせることにした。
一方で朝永を誘導するために彼とコンタクトを取らざるをえなかった。しかし極力僕が直接会うリスクを避けたい。そこで彼の家から持ち出した携帯を使うことにした。これにより、朝永を森野と引き合わせる形を作りだした。
しかし、最後の問題がまだ残っている。撮影が成功するか否かだ。朝永もこのことを考えているであろう。
成功するには二つの条件が存在する。
・電車が時間通りに来ること
・森野が転落死しやすいポジションに立つこと
まず一つ目の条件について、駅に発着する電車について確認する。
あの駅は一つのホームを双方向の電車が分けあう。すなわち展示会場駅方面の一番線と、S山行きの二番線だ。八月に僕と森野が死体を探しに山へ行くため待ち合わせた時は二番線の電車だった。
しかし今回、森野は一番線を利用し、そこで八時半に僕が連絡を入れる手はずとなっている。何事もなければ、その時刻に電車がやって来るだろう。
では、二つ目の条件はどうクリアされるか。
駅のホームは直線形のため、カーブにより減速することはない。よって、展示会場行きの電車が最大スピードで突入するポイントに森野が立てばいい。その場所は進行方向と反対側、つまりホームのS山方面側の先端だ。
森野はきっと、混雑を嫌い、人のいないエリアに向かうだろう。
改札口への階段の奥、駅の自販機とベンチのさらに向こうにある場所。人の視線が遮られ、監視カメラの位置も届かない。朝永もこの地点を見定めているのは、彼の日記から明白だった。
あとは彼が行動を起こすか否かだ。
こちらの思惑通りに誘い出されるだろうか。彼が当日駅に現れたなら、その覚悟は揺るぎないものとみていい。つまり、森野の死は避けられない運命となる。
しかし反面、都合よく行きすぎではないかと朝永は疑うかもしれない。
朝永がどう出てくるか、よく考えた。リスクは高い。僕に何か重大な見落としがあるかもしれない。計画に狂いが生じれば、森野はただで殺され、僕も無事ではすまないだろう。かなり際どいところまで相手と接触している自覚はある。
朝永との電話で約束を取り付けた。しかし会話にわずかでも疑われる要素があれば、僕への疑念につながる。名乗りもせず、素直に警察に届けない僕を不審に思ったかもしれない。もし朝永が駅に来なければ、おしまいだった。
『まもなく、二番線の電車が発車致します。閉まる扉にご注意ください』
目的の駅に降り立つと、ホームの上は朝の通勤客であふれ返っていた。人の群れがめまぐるしく動き、流れを作っているように見えた。
僕は駅のベンチに腰掛けてその光景をじっくりと観察した。
ホームの両サイドからひっきりなしに電車が往来し、開いたドアから人があふれ出る。その奔流が改札をめがけて階段に吸い込まれていく。やがて発車の警笛が鳴り、ホームは再び静寂に包まれる。
ベンチから離れてホームの縁に立つ。ホームは看板広告に遮られているため駅の外からの視線は入らない。
線路下をのぞく。縁に立ってようやく線路が顔を出す。思ったよりも深い。森野の腰ほどはあるだろうか。一度転落したら華奢な彼女の腕で全身を持ち上げることは難しいと感じた。
『まもなく、一番線の電車が参ります。白線の内側で、お待ちください』
機械的な入線アナウンスが再度流れた。
僕はまぶたを閉じた。この場に森野が立つ光景を想像した。展示会場行きの一番線の電車を待つ姿を。
八時半になり、電車が轍の音を響かせ、駅に入る。
森野は視線をそちらに注ぐ。
この瞬間、彼女の背中は無防備だ。
僕は力を込めてその背中を押す。
バランスを崩した森野はあっという間に突き落とされ、暗く冷たい線路に倒れ込む。運転手が急ブレーキをかけるが間に合わない。急いで起き上がった森野は這い上がろうともがく。しかし非力な彼女に自分の体を持ち上げることは不可能だ。
最期の瞬間、森野の絶望的な表情を僕は無慈悲に見つめていた。
目の前を電車が通過する。吹き抜ける風が心地よい。
僕は轍にすり潰された森野の肉片を空想した。
――――――――――――――――――――
舞台は整った。
明日土曜の朝、森野夜は。