携帯の着信音を耳にしたのはその時だった。
慣れ親しんだメロディがどこからか聞こえる……朝永は我に返り、辺りを見回した。するとベンチの端の席に何かがあった。すぐに自分の携帯電話だと気づいた。
先ほどベンチに座った時には何もなかったのを確認したはずだ。とすると森野が置いたとは考えにくい。ならば一体誰が。
妙な胸騒ぎがあった。
朝永は意を決して画面を開いた。発信元は非通知、しかしその相手に心当たりはあった。
着信ボタンを押して耳に手を当て、電話の声を待った。
『もしもし』
「……やはり、お前の仕業だったか」
『ああ、ちゃんと手元に届いたようですね。確認ができてよかった』
紛れもなくあの少年の声だった。背筋が汗ばむ。しかし、先ほどまでの失望が静かな怒りに変わりゆくのを感じた。
「どこか近くにいるのだろう? 隠れてないで出てこい」
『いえ、僕はあなたと顔を合わせない方がいいのです』
「私をからかっているのか?」
『もう一度言います。僕はあなたと顔を合わせるべきではないのです。なぜだか、わかりますか?』
この場に相手がいたらぶちのめしたかった。
だが朝永は思い出した。彼は犯行の瞬間を目撃しているにちがいない。自分のことが森野を突き飛ばそうとした異常者に見えただろう。
内心舌打ちをする。まずはどうにかこれを弁明しなくてはならない。
この場を切り抜けるため朝永の脳はかつてないほど回転速度を上げていた。
『……いつも不思議に思うのです。なぜ森野はこうもおかしな人に目を付けられるのかと』
切り出したのは少年の方だった。
「何の話だ?」
『実を言うと、森野には変質者に好かれる少し変わった体質があるのです。そして何度も危ない目にあっている。殺人事件の犯人に狙われたこともありました。そして僕は以前から、彼女の身に起こりうる死に方を想像してきました。たとえば、誰かにつきまとわれ、駅のホームで突き落とされる可能性も視野に入れていた。そこに予想通りの挙動をみせる変装した人間が現れたら、誰だってマークする』
朝永の心の奥に何かが引っかかる。
携帯を持つ朝永の手にじんわりと汗がにじむ。この少年から不気味なものを感じた。
だが、今少年との電話を切れば、彼はすぐにでも通報するだろう。すでに身元はばれているのだ。話を聞いた警察の手が自身に及ぶ未来が頭に浮かぶ。そうなればおしまいだ。
「なにか私の事を誤解をしているようだな」
『誤解とは?』
「言っておくがあれは故意ではない。森野に声をかけようとしたとき立ち眩みがしたのだ。それで足がもつれて、あやうく彼女を巻き添えにしそうになっただけにすぎない」
見苦しさは自覚していた。それでもしらを切るしかなかった。
『それならそれで結構です』
「いや、お前はそう思っていない。だからこんな形で電話をよこしてきたんだ」
『ならばあなたと電話をせず通報するでしょう』
何を当たり前のことをきいているのかと言わんばかりの少年の指摘だった。朝永にみじめな思いがこみ上げる。
そもそもこの少年は友人を介して拾った携帯を届けようとしただけなのだ。つまり、余計な行動に出てぼろを出したのは紛れもなく自分の方だ。おそらくその時に、電話をかけていた森野から話を聞いて、この少年は疑いを持ったのかもしれない。
そう考えたとき、ふと朝永の脳裏に疑問が浮かび上がった。
「ひとつ教えてくれ」朝永はたずねた。「お前は森野に電話した時いったいどこにいたんだ? 約束では森野に携帯を預け、私に返却することになっていたはず。ならばお前は本来この駅にいないはずだ」
相手は音もなく聞いている。嫌な予感があった。
「だが携帯を置いたのはお前だろう。つまり、お前はこの駅のどこかにいて、森野の後をつける私の挙動を不審に思い、あの電話のタイミングでとっさに森野に指示したのだ。いや、そうでないと森野は避けられなかったはず。そして私が気を失っていた間に森野の元に駆け寄って、彼女から渡された携帯をベンチに置いた。違うか?」
『違います。そもそも僕は彼女に何も話していない』
「……なに?」
予想外の答えに戸惑った。
『ですから、森野は何も知らないのです。あなたのことも、今日この場であなたに会い、携帯を返すという約束も。あれは僕の嘘です』
携帯電話を持つ手が震える。冷えた朝の空気が汗ばんだ全身の体温を急速に下げていくようだった。
「だが彼女は指定通りこの場に来ただろう」
『ええ、それだけは僕が指示しました。"八時半に電車が来るタイミングで電話をかける"とだけ事前に伝えておいたのです。それだけです。あなたが狙いやすいような位置に森野が来たのも僕がわざと指示しただけです』
違和感はあった。そもそも森野は、預かった携帯を、やって来た朝永に返すはずだった。
しかしあの時朝永を見た森野にそんな気配はなかった。
『それに、言ったでしょう。森野には異常者をおびき寄せる体質があると。以前から彼女をストーキングしていたあなたがそうでないとは限らない』
いま、ようやく合点がいった。
携帯を紛失したのも、その後電話をかけてきた少年が森野の名を口にしたのも、全てはあの少年の仕組んだ罠だった。はじめから誘導されていた。あの少年は自分の本当の企みを知り、罠にはめるつもりでいたのだ。
この少年はいつ察知した?
十一月、携帯電話を手に入れた時から?
十月、森野を尾行し続けていた時から?
九月、森野を特定する前から?
八月、森野をあの駅のホームで見かけた時から?
雨音の小さく響くホームの中で、なぜだ、という疑念が朝永の脳裏に浮かぶ。
「私をどうするつもりだ」
『何も』無機質な音声を耳にした。
「そんなはずないだろう」
『本当のことです。僕はあいにく正義というものに興味はない。電話をかけたのも、ほんの少しだけあなたと会話をしてみたかったからです。ただ、一つだけ約束をしていただきたい』
「約束?」
『簡単なことです。今後いっさい森野を狙うのをやめていただきたい。あなたが願望を満たそうと誰を狙おうがどうでもいい。しかし彼女を狙われると少々困るのです。その代わり僕も決してあなたに干渉することはありません。この取引をしていただければ、お互い無関係の他人になる。あなたはこれからも自由だ』
あの少女から離れろ、という警告にほかならなかった。
「……もし断ればどうする」
あえてその問いをかけた。
『それでもあなたは承諾することになる』
「森野を守るために?」
『これはあなたのためを思ってのことです。それ以外の選択肢はない』
この瞬間、朝永の脳裏に一つの考えが浮かび上がった。
少年の口封じをしなければならない。
彼は邪魔な存在だ。表向きは約束を守ったふりをしながら密かに彼を探し出し、すきをみて抹殺する。口約束に従う道理はないのだ。
「どのみち生殺与奪の権を握られているのは私の方だ。きみを信用するしかないだろうな」
よく考えれてみれば、これは警察に通報するというただの脅しだ。
屈した瞬間から、弱みを握ったこの少年に一生おびえて過ごすことになる。そんな不自由を甘受しなければならない。
夢を絶たれるわけにはいかない。ひるんではならない。朝永の心に再び意欲が湧き上がるのを感じた。
「わかった……誓おうじゃないか。私は二度と彼女に近づかないと」
混濁した思考が一つの明確な答えに辿りつく。迷いはない。そして容赦はしない。
『……ところで朝永さん。先ほど携帯を置いたときにもう一つベンチの下に置いたものがあります。よければ確かめてもらえますか?』
見ると、ベンチに座る朝永の靴の裏に、紙袋のようなものが横たわっていた。
中身を確認した。瞬く間に朝永の全身が凍り付いた。
「な……何故これを!」
『それですか? 携帯電話とともに拾ったものです』
「とぼけるな! これはお前の仕業だろう、どうやって手に入れた!」
『さあ? 僕は拾っただけなので、誰がどこで入手したかなんて僕の知るところではありません。でもそうですね……誰かが不要になったから捨てたのだと思います。でもその証拠は見つからないでしょう。もしかしたら匿名で警察に届けられるところだったのかもしれませんね』
得体のしれない恐怖をひしひしと感じる。
紙袋の中にあったのは現像された森野の盗撮写真全てと印刷された朝永の日記全ページだった。コピーしたと思わしきディスクまで入っている。ディスクは透明なプラスチックケースに入っていた。
犯人は間違いなくこの少年だ。だがどうやって手に入れたのだ。盗んだのか、遠隔操作でパソコンをハッキングしたのか。
しかし、より深刻なのは、朝永は何も手だしできないことだった。
もし警察に届けたら疑われるのは朝永の方だ。少年が盗んだ証拠を立証することはおそらく不可能だ。それどころか分が悪いのは自分だ。日記に姉の殺害をも記しているのだ。それをこの少年がリークすれば、迷宮入り事件の犯人を暴き出したと社会から称賛されるだろう。
少年の狡猾さに吐き気がした。
過去の記憶も、未来への意欲も、己の魂すら根本から鷲掴みにされているのだ。
「い……いったい、どういうつもりだ?」
『これは僕なりの親切なのです。僕にはもう不要なのであなたに全てお返ししようと思いました。安心してください。ほかにコピーなどしていないので……』
そういわれて誰が信じるだろうか。
『どうしました?』
「嘘だ」
『嘘、とは?』
「私のデータを抜き取ったのだろう! ならば今もそれを持っているはず! いつでも私を警察へつき出せるようバックアップをとるはずだ!」
電話の向こうで少年は呆れたようなため息をついた。
『僕にはもう興味がないのです。あなたの好みや過去などどうでもいい……だから、いらないものをあなたに返したというだけです。強いて言うならそれは約束の担保だと思ってください』
この少年はいったい何者なのだ。わけがわからない。自分が殺人犯であるとさえ知りながら、その決定的証拠を自ら手放すなど。頭が混乱してくる。
「そうまでして私に約束を守れと?」
『ええ』
「それは、森野を助けるためなのか?」
『ええ、彼女を失うのは勿体ない。なぜなら森野におびき寄せられる異常者を僕が観察できなくなってしまうから』
「お前はそのために自分の友達を危険に晒したのか」
『殺されるならそれも彼女の運命というだけです』
凍り付くような怖気がした。もうたくさんだった。この少年の底知れぬ悪意に。
どこまでも狡猾で、悪辣。そこには人間の持つ良心など欠片も存在しない。なにかどす黒い闇が人間の形を模しているとしか思えなかった。
関わってはならない。本能がそう告げる。夢は絶たれたのだ。
『まもなく、二番線の電車が参ります。白線の内側にてお待ちください』
少年との電話を切った。
憔悴した表情で辺りを見渡す。いつの間にか次の電車を待つ人で駅のホームがあふれかえっていた。帰ろう、と朝永はベンチから立ち上がり、一階の改札口につながる階段に向かう。
だれかが階段を上ってくるのが見えた。
朝永の視線の先にいたのは、ひとりの少年だった。
ふいに目が合った。
少年の瞳は無機質な闇に満ちていた。
その時朝永は理解した。
おそらく本当に彼は警察に暴露するつもりなどないのだ。こちらの考えなど見抜いている。その上で、少しでもこちらが約束を破る動きをみせたとき、それを口実に殺害を目論んでいるのだ。
『ご乗車ありがとうございます。間もなくドアが閉まります。ご注意ください……』
立ち尽くす朝永の横を通り過ぎた少年は、森野夜と同じ方面の電車に乗った。
警笛ののち、扉が閉まり、発車する。そうして再び、ホームに朝永だけが取り残された。