1
駅前ロータリーは焼けきるような八月の暑さに包まれていた。
このところ、スーツ姿のサラリーマンはめっきりと数を減らし、つかの間の休みを謳歌する人々が薄手の服装でロータリーにあふれ返っている。
そんな光景を朝永は歩きながら漫然と見つめていた。彼にはこの日も学習塾講師としての仕事が待ち構えている。休みがないのは受験生だけではない。そしてその仕事場へ行くためには、人の行き交うこのターミナル駅を利用しなくてはならなかった。
朝永の自宅は駅の裏手にあった。自宅から改札口に辿りつくまでそう遠い距離ではない。しかし雑踏の中をかき分けて歩くだけで、真夏の日差しは容赦なく彼を照り付け、全身から汗が絶え間なく噴き出す。
人の活き活きとした表情を目にするたびに朝永は思う。彼らは自分と違う世界を生きているにちがいないと。休みを謳歌する彼らへの嫉妬がそう思わせるのかもしれない。しかしもっと奥深くの、なにか根本的な部分で、彼らが自分と違う人種のように見えてならなかった。
今、世間を騒がせている連続殺人犯もきっと同じ思いを抱いているに違いない。
やがて駅の改札口へ辿り着いた。
駅は巨大なビルの一階部分にあった。敷地の一部をくりぬくようにして線路を通し、ひっきりなしに電車が往来する、少し特殊な構造となっている。
駅の階段からプラットホームに上がる。二階部分に相当するホームはいつも混雑していた。朝永と同じように電車を待つ客が、行儀よく列を成していた。
朝永は列の後ろに付いて、いつものように周囲の様子を観察する。隣同士で談笑を交わす二人組の学生、新聞を器用に折り曲げてしかめ面で読みふける中年の男、しきりに駅の発着時刻を気にする旅行用のトランクを持った若い女。
ふと、列の先頭で携帯電話に目を落としている若い男の姿が目に入った。
彼はホーム端のほんの数十センチ手前に立ち、小さな画面の中に夢中になっている。
そしてその身体の背後は無防備だ。
……いつからだろうか、発作のような衝動に駆られるようになったのは。
それは無邪気な子供の悪戯と本質的には同じだろう。
だが、無防備な人間をホームの下に突き落とす事は限りなく残酷な悪戯にちがいなかった。
『……間もなく、一番線に電車が参ります。白線の内側でお待ちください……』
ほどなくしてアナウンスがホームに響き渡った。乗客の視線が一斉に列車の方向へ流れる。
朝永は何気なく、その真逆に目をやった。
それはほんの気まぐれからだった。
結果、いつもと異なる動作を取り入れたことで、誰も見ないであろう人のいないスペースに目を向ける事となる。
視線の先、ホームの端にぽつんと立つ少女の姿を見た。
まるで人を嫌うかのような場所に、こちらから背を向けて力なく立っていた。朝永とは反対側の、S山方面の電車を待ちながら、本を読んでいるようだった。黒く長い髪に、これまた漆黒に包まれた服装が同調する。華奢なシルエットを浮かび上がらせていた。
不意にけたたましい警笛が耳を貫いた。
少女が顔を上げて振り向いた。その端正な顔立ちが朝永の目に映る。
一瞬だけ、目が合った気がした。
風が勢い良く舞った。
朝永の目の前を無骨なデザインの車両が勢いよく到来し、徐々にスピードを落としていく。
ブレーキの音が響き、何事もなくドアが開く。
朝永はその場に立ち止まっていたかった。しかし電車に乗り込もうとする人の流れに押されて止まってはいられない。その結果、彼は運悪く車両の中央に押し込まれる。このままでは少女の姿が見えない。人の姿に隠れて窓の外すら見えない位置でもがき、崩れた体勢を立て直そうとする。しかし無情にも扉は閉まり、あっという間に発車してしまった。
景色は後ろに流れ、ようやく朝永が姿勢を整えた時には、既に電車は駅を離れていた。
だが最後に見た光景だけは目に焼き付いていた。
それからしばらく経った頃、水口ナナミという少女の死体が山の中で発見された。
世間では何者かによる殺人事件が立て続けに発生していた。その矢先に新たな犠牲者である。発見現場はS山、つまりあの日、黒の少女が電車を待っていた行き先にある山だった。
朝永は一瞬、心のどこかで不安に駆られた。もしや彼女が被害に遭ったのでは……。
しかしその不安は杞憂に終わる。テレビに映し出された被害者の顔写真が全くの別人だったからだ。もっとも、何となくあの少女も事件に絡んでいるようにも思えた。
それ以降、事件の報道に対する興味は失われた。代わりに朝永の頭を占めていたのは、あの幽玄な雰囲気をまとった少女の姿。
忘れられない光景だった。
叶うならもう一度会ってみたい。そして……。
月日が流れ、九月。
それは空の澄みわたる日のことだった。
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2
雲ひとつない良く晴れた十一月の月曜日だった。
いつものように放課後が訪れて、薄情な生徒たちは檻から解き放たれた囚人のように教室を離れていく。五分ほど経った頃、教室には日直の当番となった森野夜と、「先生から頼まれごとがある」と友人に騙った僕だけが残った。
「帰らないの?」森野は言った。
「たまには羽を休めようと思って」
そう、と森野はそっけなく返す。特に興味もない様子だった。僕は窓際の席で夕日の沈みゆくグラウンドを眺めていた。この日は部活動がなかった。
時折、僕は意味のない行動に駆りたてられることがあった。
それはある種の休息というものだ。日常の中でごく普通のクラスメイトを演じることをやめて、一人でいたい時がある。
ふいに森野は教室の窓を開けた。深まる秋の風がなだれ込み、十一月が半ばを過ぎたことを僕に実感させる。
「少し失礼するわ」
そう言うと森野は両手にチョークの粉が付いた黒板消しを携えた。開けた窓の外に向かって叩き落とそうとしているのだろう。だが力の足りない叩かれ方をしたチョークの粉は、吹きすさぶ風に舞って森野の喉を咳き込ませた。彼女は不器用だった。
僕は無視して席を立った。
「ちょっと待って」涙目交じりに森野が言った。「あなたに、渡したいものがあるの、思い出した」
「無理して喋らなくてもいいよ」
森野は自分の鞄から本を取り出した。
「あなたが前から探していた本を見つけたの」喉の調子を取り戻したようだった。
「これをどこで?」
「駅前にある本屋よ。場所はあなたも知ってるでしょ? 在庫セールのワゴンにあったわ」
それはスナッフフィルムの存在に関する本だった。
スナッフフィルム、とはつまり殺人ビデオのことだ。そして、娯楽用途で殺人の様子を撮影した映像作品が今ネットのどこかに存在するという。表で流通することは決してないだろうが、僕はいつかその映像を見てみたいと思っていた。
そのことを森野に話したのは八月の半ばだった。連続殺人事件が巷を賑わす中、駅前のマクドナルドで水口ナナミに成りきった森野と会った時のことだ。それを彼女は気まぐれに覚えていたのだろう。
「君は、殺人ビデオに興味ある?」
「面白いと思うわ」
森野は淡々と言った。
「どうして?」
「だって、人間が死にゆく過程を繰り返しビデオで視聴できるからよ。なかでも私が特に見たいと思うのは、そうね……死ぬ瞬間の、人間の表情かしら」
同意、と僕は答えた。
僕たちはこういう猟奇的な話を好んでしていた。持って生まれた性質がそうさせるのだろう。したがって、僕も森野も、普通の人たちと違う世界に生きている自覚はあった。
「……ああ、そうだ森野」
しばらく本を見つめて、僕は切り出した。
「ちょうど犯罪心理学の展示会チケットが二枚余っててね。一枚は僕が使うつもりだけど、もう一枚よければどう?」
新聞の講読特典についてきた無料チケットだった。妹がチケットショップに売ろうと企んでいたのを、僕が勝手に持ってきたものだ。
「珍しいわね」森野は首を傾げた。
「この本のお礼代わりだ。不要なら返してくれて構わない」
渡したチケットを森野はじっと見つめる。小声で何かを口にしているようだった。
「会場は……電車で行くしかないわね……」
どうやら彼女の興味を満たすものだったらしい。以前僕たちが死体を探しに向かったS山と反対方面の電車に乗ればいいと伝えた。
「少し面倒ね。でも電車は嫌いではないわ」
「どうして?」
「凶悪な犬が乗らないからよ」
森野はそう答えた。逃げ場のない電車で盲導犬と出くわした時どうなるか僕は想像した。
この世には殺す人間と殺される人間が存在する。
社会に溶け込みながら、心の奥底で決して人と交わらないテリトリーを持つ異常者。そんな怪物のような彼らは、時として気まぐれに一線を踏み越えて世間を震撼させてきた。
僕もまた彼らと同じカテゴリーにある人種だった。それでいて僕は、これまで何人もの異常者たちを見てきた。
彼らと対峙するうちに気づいたことがある。それは彼らの瞳に、常人とは違う狂気を宿していることだ。むき出しの狂気を放つ者もいれば、うまく隠して日常の中に生きる者もいる。しかし自覚のあるなしに関わらず、彼らが常に獲物を探していることに変わりはない。
今もなお、名も知らぬ彼らは社会のどこかに潜んでいる。